2015/04/05

読書感想文・蔵出し⑪

  北海道応援の期間中に読んだ本の、感想の続きです。 今回、出す本は、全て、苫小牧図書館で借りたもの。 ただし、最後の、≪スキャナー・ダークリー≫だけは、本館ではなく、「住吉コミュニティー・センター」で借りました。 苫小牧の図書館は、本館以外に、各地区のコミュニティー・センター内に、分館があって、私が住んでいた会社の寮に、一番近いのが、そこだったのです。

  元々、複数の自治体だったのが、合併して、それぞれの自治体が持っていた図書館が、そのまま残った場合、統合されたデータ・ベース上で、蔵書がダブる事がありますが、苫小牧の場合は、そうではなく、元が一ヵ所だった図書館から、蔵書を分散させたようで、本館にはないけれど、分館にはあるという場合があり、予め調べて行ったのに、本館になくて、借りられない本というのがありました。

  ディケンズを読もうと思って、応援に行く前に、≪二都物語≫を調べたところ、データ・ベース上にはあったのですが、実際に図書館に行くと、見当たらないのです。 図書館の端末で、データを検索し直したら、「他館で貸出できます」という表示。 どこの分館なのか、わざわざ、調べてもらうのも面倒だったので、そこで諦めてしまいました。

  こんな話を前文で書くのは、場違いかな? とにかく、始めます。 読んだのは、一年以上前ですが、感想は、今書いているわけで、先週と今週は、結構、負担が大きい日々になりました。 こんな事なら、時事ニュースのネタでも書いた方が、楽だったかも知れない。



≪ボヴァリー夫人≫

フローベール全集 1
筑摩書房 1965年
ギュスターヴ・フローベール 著
伊吹武彦 訳

  だから、「ヴ」を使うなというのに! 書籍情報だから、そのまま書かねば意味がないのですが、まるで、私が、「ヴ」の表記を認めたように見えてしまい、くどいと承知していながら、こんなツッコミを、そのつど、繰り返さなければならないではありませんか。 「ボバリー」で、充分です。 大体、「Bovary」なんて、日本語人に発音できるのは、「bo」だけでんがな。 「bovary」・・・、「bo」の次に、「va」? なんて、発音し難いんだ。 唇が、もつれてしまいますがな。

  「いつか、フランス語を習う人が、綴りを覚えやすいように・・・」、そんな心配までしてくれなくても、宜しい。 どうせ、耳や口で区別できない綴りなんて、覚えられやしませんよ。 フランス語を習う時には、結局、単語を一つ一つ、覚え直す事になるのですから、同じ事です。 フランス語を、読み書き聞き話しするのに、単語の綴りを、いちいち、カタカナから変換しているようじゃ、話になりませんぜ。

  そもそも、なぜ、「V」にばかり拘るのか、それが分からん。 そんなにカタカナで書き分けがしたいというなら、「R」と、「L」だって、書き分けるべきでしょうが。 「R」を「ル゛」と書き、「L」を「ル゜」と書いたら如何か? 馬鹿臭い! 「V」を「ヴ」と書いて、悦に入っている人というのは、そういう低次元な事をやっているのです。 他にも、いくらでもあるぞ。 「TH」は、「ス゜」とでも、書くんかい? ハ行音の内、「フ」と「ホ」の実際の発音は、「F」に近い音ですが、「ハ・ヒ・フ・へ・フォ」に変えるんかい?

  子音だけではない。 原音の区別をするというのなら、母音だって、書き分けなければなりませんが、日本語は母音が少ない上に、ひらがな・カタカナともに、子音と母音が、規則性なしにくっついた音節文字だから、母音を増やそうとすれば、文字を新造するしかないです。 50音が、100音に、いや、そこまでやるなら、子音文字も新造した方がいいですから、200音くらいになるんじゃないでしょうか。 ひらがなとカタカナで、400文字。 冗談じゃない、とても、覚えられませんよ。


  それはさておき、≪ボヴァリー夫人≫は、フローベールの、実質的処女作です。 長編ですが、二段組みで、307ページだから、そんなに長いわけではありません。 遅読の人でも、一週間くらい見ておけば、読み終えられると思います。 雑誌に発表されたのは、1856年で、バルザックの≪従姉ベット≫の10年後。 ちなみに、バルザックは、1850年には、他界しています。 つまり、フローベールは、バルザックとは、活躍時期が重なっていないわけだ

  地味な性格の医者のところへ、後妻に入った若い女が、社交界の華やかさを垣間見た事から、平凡な日常に耐えられなくなり、言い寄って来た男達と、密かに浮気に走る一方、高価な品を買い入れる事に熱中して、とても返せないほどの借金を背負い込み、追い詰められて行く話。

  フローベールは、この作品以前にも、小説を書いていたのですが、友人に読んで聞かせたら、ロマン主義的な叙情性を酷評されてしまい、その友人のアドバイスに従って、現実に起こった事件を題材にして、徹底した写実主義で、この≪ボヴァリー夫人≫を書いたところ、それが、後の世に残る作品になったのだそうです。 なるほど、人の忠告は、素直に聞いておくものですな。

  もっとも、この友人、この作品が掲載された雑誌の経営者だったのですが、作品の内容が、あまりにも、宗教的倫理観から逸脱したものだったせいで、当局に目をつけられる事に恐れをなし、ヤバそうな場面の削除を要求して、作者と険悪な関係になってしまったのだとか。 なるほど、人に忠告する時には、その結果に対する責任が降りかかって来る事もあるんですな。

  この小説は、面白いです。 「近代小説」と一口に纏めてしまっていますが、実際には、結構、古い殻を引きずっている作品が多い中で、この作品は、「物語」から、完全に脱皮して、「小説」への変態を終えています。 もちろん、ストーリーはあるわけですが、ストーリー展開の妙や、超人・変人キャラの魅力で読ませようなどという気は、全くなくて、主人公の心理を追う事で、人間性を描き出そうとしている点が、新しい。

  同じ、心理小説でも、≪赤と黒≫と違うのは、主人公に華がない事ですが、それが、欠点ではなく、華がない普通の人間を取り上げているが故に、話が、より、リアルになっているのです。 それまでの小説では、主人公と言えば、特別、優れているか、特別、劣っているか、特別、善人か、特別、悪人か、そういう、極端さが必要だったわけですが、この小説の主人公は、どこにでもいそうな、普通の女性なのです。

  この作品が、問題作として、強烈な批判を浴びたのは、倫理観云々より、「普通の人間でも、主人公になりうる。 それどころか、普通の人間の方が、特別な人間よりも、人間性を浮き彫りにするのに、適している」と証明してしまったせいで、旧来の人物造形に従っていた他の作家達に、拒絶反応を起こされたのではないかと思います。

  単に、浮気するだけだったら、こんなに新しい感じがしなかったと思うのですが、この主人公、それだけでなく、今風に言うところの、「買い物依存症」に罹っており、それがまた、現代、現実に、いくらでも見られる例なものだから、ますます、リアルに感じられて、いとをかし。 こういう人、いますよ、うじゃうじゃと。 ブランド品やら、家電やら、使う使わないに関係なく、常に、何か買い続けていなければ、生き甲斐を感じられない人。 物を買えば、幸福に近づけると思っているんですな。

  傍から見ると、普通の人なのに、本人は、自分の存在を、特別なものだと考えていて、上流社会と縁がない夫には、軽蔑しか抱いていない。 平凡な生活から自分を救い出してくれる、裕福な美男の登場を待ち焦がれるだけでは飽き足らず、金の力で、夢の生活に近づこうと、夫の収入以上の浪費を続けて、借金だらけになり、自分ばかりか、家族まで破滅させてしまう妻。 どう考えても、今、そこら中で起こっている話でしょう?

  陰鬱な破局へ向かう話ですから、読んでいて、楽しいという事はないんですが、「楽しい」と、「面白い」は、また、別物でして、時代を超越したテーマ、モチーフ、キャラ造形が味わえる所が、実に面白いのです。 ほんとに、150年も前の小説かいな? これ、登場人物の名前や、地名を変え、風俗習慣を現代日本のそれに置き換えた上で、≪ボヴァリー夫人≫を読んだ事がない人に、読ませてみたら、面白いと思いますよ。 まーず、古典だとは気づきますまい。 「普遍小説」とでも、言うべきか。

  逆に言うと、夢をぶち壊している話でして、女性読者は、「これでは、身も蓋もない・・・」と、嫌悪感を覚えるかも知れません。 主人公と同じような事をしている人なら、尚の事。 男性は、なるべく若い内、できれば、結婚する前に、読んでおいた方がいいと思います。 結婚相手が、主人公と同類である可能性は、かなり高いので、女性がどんな生活を求めているか、参考にする為です。 参考にした途端に、結婚する気がなくなるかもしれませんけど。



≪シャベール大佐≫

河出文庫
河出書房新社 1995年
オノレ・ド・バルザック 著
大矢 タカヤス 訳

  表題は、【シャベール大佐】ですが、もう一編、【アデュー】も、収録されています。 どちらも、短めの中編。 「長めの短編」とは、ちょっと言えない長さです。 1994年に、フランスで、≪シャベール大佐の帰還≫という映画が作られ、日本では、翌年、公開されているので、たぶん、この本は、その時に、メディア・ミックス企画で出版されたのではないかと思います。 【シャベール大佐】だけでは、薄っぺらいから、【アデュー】を付けたのでしょう。

【シャベール大佐】
  最初の版は、1832年に雑誌に発表との事。 ≪従姉ベット≫に比べると、20年以上前ですな。 バルザック、33歳の時の作品。 ただし、その後、何度か加筆され、題名も、変わっているそうです。 【シャベール大佐】というのは、小説群、≪人間喜劇≫の中に収録された時の、最終的な題名。

  孤児として育ち、長じて、ナポレオン軍の大佐にまでなった後、プロイセンとの戦いで戦死したと思われていた男が、ナポレオンの失脚後、まるで別人の外見になってパリへ戻って来るが、男の遺産を相続し、すでに他の貴族と再婚して、子供まで設けていた妻が、男を、かつての夫だと認めようとしなかったため、代訴人に頼んで、本人証明の手続きと示談交渉を進めてもらうものの、その過程で、妻の本心を知って、自分がすでに、人生の主役でなくなった事を悟る話。

  面白いです。 大佐の外見が変わっただけでなく、世の中も変わってしまい、昔の知り合いがいなくて、自分が何者なのかを証明するのに、大変な苦労をするという設定が、現代にも通じる普遍性を持っています。 親の事情で、戸籍がなくて、困っている人とか、今でもいますよねえ。 財産の権利が絡んでいて、元妻としては、たとえ、本当の夫であったとしても、帰って来て欲しくないわけで、そこのところが、また、面白い。 バルザックという人は、こういう、いかにも、物語的な話を作るのが、巧かったんですな。

  妻と話し、一度は分かり合えて、うまく纏まりそうになった後、偶然、妻の本心を知って、全て、ご破算になってしまうのですが、その場面が、クライマックスになっています。 純文学的と言えば言えますが、ちょっと、ありきたりでしょうか。 三文芝居風とも、言えば言えて、微妙なところです。

  常に、主人公の幸福を望む読者としては、財産だけでも取り返して欲しいと願いながら読み進めるのですが、彼は、いかにも、叩き上げの軍人らしく、金よりも、元妻の愛の方を重視しており、それは、元妻の立場としては、応じられないので、ハッピー・エンドには、なりようがありません。 ラストでは、かなりの年月が飛んで、主人公の老後の姿が描かれますが、そこまで行くと、「あとは死ぬだけだから、財産なんか、あっても意味ないか・・・」と、主人公ともども、そういう末路に納得してしまいます。


【アデュー】
  1830年に、雑誌発表。 バルザック、31歳の時の作品。 【シャベール大佐】より、更に前ですな。 この作品も、最初は、違う題名だったのが、最終的に、【アデュー】が、決定名になった経緯がある模様。 バルザック自身が、小説群構想に振り回されているから、分類の都合で、題名も、ころころ変わるわけだ。 今で言うと、複数のブログを運営していた人が、ある時、統合を思い立ち、記事タイトルや、文体の統一に乗り出したものの、あまりの大仕事に、キリキリ舞いしてしまうのに、似ています。 そんなの、ほっといて、新しい記事を書いた方が、時間を有効に使えるのに。

  かつて、ナポレオン軍で参謀をしていた男が、フランスの田舎で猟をしていた時、ロシア遠征からの敗走中に起こった、「ベレジナの戦い」で、生き別れになった女性を見つけるが、彼女は、逃げて来る間に受けた辛苦で、心を病み、誰が誰かも分からず、言葉も、「アデュー(さようなら)」以外、喋れなくなっており、何とか治してやらなければと思った男が、別れた時と、そっくり同じ状況を作って、正気と記憶を取り戻させようとする話。

  「ベレジナの戦い」というのは、ロシア遠征の後半で起こった、激戦、というか、一方的な攻撃です。 逃げるナポレオン軍が、現ベラルーシを流れる、ベレジナ川に仮設橋を架けて、渡ろうとするのですが、河岸を埋め尽くした人や馬を、一本の橋では渡しきれずにいる内に、ロシア軍が総攻撃をかけて来て、膨大な数の死者を出したという戦い。 河岸は、地獄絵図と化したようです。

  で、この小説ですが、一番の読ませ所は、「ベレジナの戦い」の場面であるものの、なにせ、バルザックには、戦場経験がなく、となれば、眉に唾をつけて読まなければなりません。 何かで読んだか、誰かに聞いた知識を元に、想像を膨らませて書いたわけですな。 だけど、そこは、やはり、バルザックでして、読んでいる方にも戦場経験がない場合、まず、見抜けないと思います。 私も分かりません。 もし、これが長編で、戦場場面が幾つも並ぶのなら、月並みな展開や描写が出て来たかもしれませんが、この作品の場合、一箇所だけなので、目立たないのでしょう。

  女性が、唯一喋る言葉、「アデュー」は、ベレジナでの別れ時に、彼女が口にしたものなのですが、ショック療法の為に、その時と同じ状況を作るというアイデアは、1830年にすでに、存在していたんですね。 1976年のイギリス映画、≪怪盗軍団≫に、同じアイデアが使われています。 【アデュー】を参考にしたんでしょうか。

  この小説も、ハッピー・エンドではないです。 そのお陰で、悲劇の余韻が残ります。 話の流れが、起伏いっぱいで、物語っぽい割には、ラストで虚しい気持ちになるのは、独特の取り合わせですな。 もしや、バルザックは、ハッピー・エンドの話を書いていないんですかね? 三作品しか読んでいないのでは、サンプルが少な過ぎますけど。

  私の場合、先に、トルストイの、≪戦争と平和≫を読んでいるので、フランス側から見た、ロシア遠征の話には、抵抗感を覚えました。 悲劇として書いてあれば、尚の事。 悲劇の種を作るのが嫌なら、攻めて行かなければ良かったんですな。 至極、簡単な道理です。 たぶん、ロシア人が、これを読んだら、「なーにを、勝手な話を作ってやがる」と、呆れる事でしょう。



≪三銃士 下巻≫

角川文庫
角川書店 1962年(初版発行)
アレクサンドル・デュマ 著
竹村猛 訳

  もう、20年近く前に、古本屋で、≪上巻≫を見つけて、確か、90円で買って帰り、しばらく放置した後、読んだのですが、面白いとは思ったものの、「同じ角川文庫で、同じカバーの下巻は、見つける事ができないだろう」という理由で、そのままになっていたのを、苫小牧図書館の、文庫コーナーで、たまたま、見つけて、借りてきたもの。

  ≪三銃士≫に関しては、映画やら、アニメやら、人形劇やらで、お馴染なので、あらすじを書く必要はありますまい。 ところがだ。 それ以前の問題として、私は、この本のあらすじを書けないのです。 なぜなら、実に不思議な事に、大変、奇妙な事に、この本の内容を、全く覚えていないからです。 話としては、映像作品で見ているから、知っているんですが、小説の方の場面を、一つも思い出せないのです。 こんな事って、あるんですねえ。 確かに、読んだはずなんですがねえ。

  なまじ、ストーリーを知ってしまっていたから、脳が、「改めて、記憶する必要なし」と判断して、受け付けなかったんでしょうか。 それにしては、これより、何年も前に読んだ、≪上巻≫の方は、いくつもの場面が記憶に残っているのですよ。 どうなっとんのじゃ、これは? 狐に抓まれたような気分です。



≪仮面の男≫

竹書房文庫
竹書房 1998年
アレクサンドル・デュマ 著
鈴木敏弘 訳

  ≪三銃士 下巻≫と、同じ時に借りた本。 なぜか、大デュマの作品が読みたくなったのですが、長編はきついと思って、文庫本ばかり探していたら、≪三銃士 下巻≫の近くに、これがあったから、ついでに借りたという程度の動機でした。 ≪三銃士≫と同じく、いわゆる、≪ダルタニヤン物語≫の後ろの方の作品で、これ単独でも、何度か、映画化されています。

  ところが、読み始めて、すぐに、強烈な違和感に襲われました。 所々で、あまりにも、話が飛び過ぎるのです。 大デュマが、こんな書き方をするはずかないので、読むのを中止し、全体を見渡してみたら、どうやら、全訳ではなく、抄訳らしいと分かりました。 それならそうと、先に書いておいてくれれば、良かったんですがねえ。

  表紙が写真になっているのですが、レオナルド・ディカプリオさんが写っているところを見ると、1998年の映画に合わせて、メディア・ミックス企画で出版された本らしいと推測されました。 で、大体のストーリーが分かる程度に、掻い摘んで訳されているのです。 こういうのは、読まない方が無難。 後で、全訳を読む時に、先入観が邪魔になるからです。 というわけで、50ページくらいで、やめてしまいました。



≪スキャナー・ダークリー≫

ハヤカワ文庫 SF
ハヤカワ書房 2005年
フィリップ・K・ディック 著
朝倉久志 訳

  フィリップ・K・ディックというのは、アメリカのSF作家で、映画、≪ブレード・ランナー≫、≪トータル・リコール≫などの、原作を書いた人です。 映画化された作品が最も多いSF作家ですが、アメリカSF界の代表と言うには、ちと、異色過ぎ。 さりとて、異色作家というには、ちと、正統派的実力があり過ぎる人。 1928年生まれで、1982年に他界しています。 ≪スキャナー・ダークリー≫は、1977年の発表なので、もう、晩年ですな。 享年、54歳と早世ですが、その死因は、この作品と、大きな関係があります。

  様々な種類の麻薬や覚醒剤が氾濫している近未来のアメリカで、警察の麻薬取締官が、囮捜査の為に、自ら、薬浸けになりながら、密売人や中毒患者と交際して暮らしていたが、ある事情で、自分の家に、監視装置を設置して、自分自身を監視しなければならなくなり、麻薬で頭がイカれてしまっている事もあって、自分が何者なのか、分からなくなって行く話。

  ・・・と、一応、梗概を書きましたが、ストーリーなんて、あってないようなものです。 麻薬中毒患者の生態を、ただ、ダラダラと書き連ねてあるだけ。 近未来という設定になっており、監視装置、「スキャナー」や、捜査官が着る、「スクランブル・スーツ」といった、道具も出て来ますが、それだけでは、SFとは、とても言えません。 そもそも、ただのドラッグ中毒の話を、無理やり、SFに仕立てる為に、そんな小細工を施してあるだけなのですから。

  なんで、こんな奇妙な作品が書かれたかというと、作者自身が、一時期、重度の覚醒剤中毒に罹って、死にかけた事もあったくらいで、その時のドラッグ仲間が、半分は死に、半分は不治の精神病や臓器障害を起こしたそうなのですが、彼らの追悼の為に、彼らの生き様を記録しておきたかったというのが、理由だそうです。 だけど、それならそれで、無理にSFにする必要はなかったんじゃないかと思います。 見たまま、感じたままを、体験記として書いてやれば、その方が追悼に相応しかったんじゃないでしょうか。

  また、SFファン達が、この作品を、「後期の傑作のひとつ」と見做しているらしいのですが、マジかよ、常識を疑います。 作者自身が、執筆の動機を、はっきり書いているのに、まだ、これを、SFと取ろうとする、その神経が分からん。 彼らファンにとって、作者は神様、作品は神の言葉なのであって、「神が、SF仕立てにしたのだから、これは、SF以外の何ものでもない」とでも考えているのでしょう。 だけどねえ、それはそれで、別の病気ですぜ。

  作者が、まだ、まともだった頃に書かれた、≪ユービック≫と、ちょっと、イメージが重なる部分もあるのですが、SFとしての完成度となると、≪ユービック≫が100としたら、≪スキャナー・ダークリー≫は、オオマケして、3くらいで、比較になりません。 話になりません。 そもそも、作品自体が、話になっていない。 「いや、上っ面のストーリーを読んだだけでは分からない、もっと深い真意があるのだ」と、思いたい気持ちは分りますが、薬中患者の実力を過大評価するのは、それはそれで、別の病気ですぜ。


  別に、体験記だろうが、似非SFだろうが、面白ければ、文句はないんですが、何せ、作者自身の頭が、一度イカれた後の、回復途上にあったらしく、長編のストーリーを組む程の緊張に耐えられなかったのでしょう。 何が言いたいのか、話の結構がズタボロでして、しかも、治る見込みのない薬中患者ばかり出て来るものだから、読んでいて、気分が暗くならない方が不思議。 どーにもこーにも、いいところを見つけられません。 「よく、こんなの、最後まで読んだなあ」と、自分を誉めてあげたいくらいです。



  以上、5冊、6作品です。 と言っても、≪三銃士 下巻≫と、≪仮面の男≫は、感想になっていませんけど。 後半、文庫本が増えたのは、会社に持って行っていたからです。 通勤バスの、帰りの便数が少なくて、仕事が終わった後、1時間くらい待つ日が、ザラだったんですが、時間が勿体ないので、バス停の近くにあった、無人の社員食堂に入りこんで、本を読んでいたのです。 懐かしいような・・・、思い出すと、寒くなって来るような・・・。

  なにせ、12月・1月の北海道ですから、外は、氷点下15℃とか、20℃とか、そんな気温。 日陰の所なんて、降った雪が、一冬中融けないんですよ。 それでも、他の街に比べたら、遥かに雪が少なかったんですけど。 歩くのが怖くてねえ。 特に、ブラック・アイス・バーンは、要注意。 徒歩よりも、車に乗っている方が滑らないという、奇妙な逆転現象も経験しました。 ホーム・センターで、靴に着ける、スパイク付きの滑り止めが売っていましたが、千円くらいしたので、買いませんでした。

  最後に、苫小牧図書館の本館に行ったのが、12月21日(土)で、そこで、≪三銃士 下巻≫と、≪仮面の男≫を返し、翌、22日(日)に、「住吉コミュニティー・センター」で、≪スキャナー・ダークリー≫を借りました。 「住吉」にあった文庫本は、小さな棚一つ分くらいの数でしたが、その中に、ハインラインの、≪夏への扉≫も含まれていました。 その本は、ずっと後になって、退職した後に、沼津の図書館で借りて読む事になります。

  ≪スキャナー・ダークリー≫の返却期限は、翌年の1月11日で、年を跨ぐのを承知で借りました。 途中まで読んで、12月26日に、帰省し、年末年始を家で過ごしてから、1月5日に、再び、苫小牧に向かい、寮に入ると、出て行った時と、部屋の様子が全く変わっておらず、≪スキャナー・ダークリー≫も、そのまま置いてあって、シュールな気分を味わったというのは、前に、≪荷造りの年≫という記事で書きましたな。

  読み終わったのが、返却期限ギリギリの、1月11日(土)の朝で、当時の日記には、

「これの、どこが傑作なのか、分からない。 後期の傑作という事は、他の後期作品は、これより尚、ひどいという事なのか?」

  と、書いてあります。 当時の方が、感想が、より辛辣ですな。 で、その日の内に、「住吉コミュニティー・センター」へ、返しに行きました。 それで、北海道応援での読書作戦は、全て終了したわけです。 ≪スキャナー・ダークリー≫は、寮の部屋で年越しさせただけに、表紙の絵が、印象に残っています。 実は今、沼津の図書館で借りて来た本が、手元にあるのですが、この同じ表紙絵を、北海道でも見ていたんですなあ。 感無量。

  そういえば、北海道応援での、本の表紙絵というと、「BOOK・NET・ONE 苫小牧泉町」という店で買った、ケイブンシャ文庫の、≪さよならジュピター 上巻≫が、記憶に残っています。 この表紙絵が、いいんですよ。 「木星」、「宇宙服のヘルメット部分」、「人工衛星」、「女性の目から額」が、コラージュしてあるんですが、写真を使ったと思われる、女性の目が、実に良い。 ≪さよならジュピター≫は、ケイブンシャ文庫の他に、徳間文庫、ハルキ文庫でも出ていて、それぞれ、上下巻、全部で6冊ありますが、この絵が、ダントツです。 作者は、谷口茂さん。

  言葉で言っても伝わらないから、写真を出しましょうか。 別に、内容を貶しているわけではないから、著作権で文句を言われる事もないでしょう。

  ほら、いいでしょう? ≪さよならジュピター≫だけでなく、小松左京さんの全文庫本の中でも、表紙絵として、一番、優れていると思います。 私は、この本を、寮の部屋にあった机の引き出しに入れておいて、時折、開けては、うっとり眺めて暮らしていました。 冬の北海道で、宇宙のロマンに、どっぷり浸っていたわけですな。 懐かしい記憶です。 どんどん、時間が経ってしまうなあ。