2015/06/28

読書感想文・蔵出し⑬

  相変わらず、書く事がありません。 「引退者として、どんな生活をしているか」程度の話題なら、書けない事はないですが、映画鑑賞、読書、それらの感想書き、自転車で運動、ポタリングくらいしかやっておらず、同じような話ばかりになってしまうのは、避けたいところ。

  幸い、腰痛は完治して、今現在、体に悪いところはなく、腹が出過ぎないように、食べるのを控え、運動に励まなければならない事以外、不自由はありません。 家の中でする体操やストレッチなどは、外に出てやる運動に比べれば、運動量が遥かに少なくて、雨が降ると、腹がきつくなるのが、如実に分かります。 家の中で、スクワットを20回もやると、「頑張ったなあ」という気になりますが、自転車を漕ぐのに比べたら、大腿筋の活動量は、微々たるものです。 スクワットは、3分もやれば、へとへとになるのに、なぜ、自転車は、何十分漕いでも疲れないのか、不思議と言えば、不思議。

  まあ、そんな話は、さておくとして、読書感想文を蔵出ししましょう。 ディケンズの≪大いなる遺産≫が貸し出し中だったせいで、代わりに借りたのが、≪赤と黒≫でした。 なぜ、スタンダールに行ったかというと、≪大いなる遺産≫があるはずだった、岩波文庫の棚の、すぐ近くにあったからです。 テキトーな理由もあったもんだ。



≪赤と黒≫

岩波文庫 ≪赤と黒 上・下≫
岩波書店 1958年(初版発行)
スタンダール 著
桑原武夫・生島遼一 訳

  有名な作品です。 フランスの近代小説の、代表作として挙げる人も多いのでは。 「スタンダール」というのは、ペンネームで、苗字でも、名前でもないようです。 本名は、「アンリ・ベール」で、1783年に生まれ、1842年に没。 若い頃は、ナポレオン軍に参加していたそうですが、その失脚後、軍を離れ、文学者に転向。 ≪赤と黒≫は、最初の長編小説で、1830年に発表されたとの事。 日本は、江戸時代ですが、その頃に、これだけの心理小説が書かれたというのが、驚きです。

  地方の町で、製材業者の末息子として生まれた美青年が、町長の家に家庭教師として雇われ、夫人と不倫関係になった後、その地方の中心都市であるブザンソンの神学校に入って、持ち前の才知を発揮し、頭角を現すものの、師匠と共に追放される形で、パリに出て行き、今度は、有力貴族の家に秘書として住み込んで、その家の娘と、恋の駆け引きを繰り広げる話。

  舞台になる場所で、四部に分ける事ができます。 まずは、主人公が生まれ育った、架空の町で、ほとんどの場面が、町長の屋敷と別荘で進行します。 次は、ブザンソンで、神学校の中と、そして、国王が訪れた時には、街なかや聖堂が舞台になります。 その次が、パリの侯爵の屋敷で、このパートが、全体の中では、一番長いと思われます。 最後に、また、元の町に戻りますが、ネタバレになってしまうので、これ以上は書けません。

  主人公が恋の相手にするのは、町長夫人と、侯爵の娘で、前者は、10歳年上、後者は、ちょっとだけ、歳下です。 他に、パリの方で、恋の駆け引きに利用する夫人が一人出て来ますが、そちらの方は、大したボリュームではありません。 モテモテの美青年を中心にした恋愛小説ではあるものの、そこはやはり、近代文学でして、≪源氏物語≫のように、取っ換え引っ換え、次から次へ手を出すというわけではなく、町長夫人と、侯爵令嬢の二人が出て来るのは、全く性格が違う二人の女を対比させて、主人公が、最終的にどちらを愛するかを、テーマにしているからです。

  うちには、母の本で、角川文庫版の上巻だけがあり、私は、20年以上前に、それを読んだのですが、それっきりになっていました。 今回、図書館で、岩波文庫の棚を見たら、割と新しい本が、上下巻揃っていたので、借りて来たというわけです。 上巻から読み直しましたが、ごく一部を除いて、ほとんど忘れていて、自分の記憶力に対する自信が、大いにグラつきました。

  ちなみに、覚えていたのは、主人公が、夜陰に乗じて、町長夫人の腕を愛撫する場面と、ブザンソンで聖堂の飾りつけを手伝う場面だけ。 それ以外は、ストーリーまで、綺麗さっぱり忘れていました。 他に、覚えていたのに、なかった文というのがあるのですが、それは、翻訳者の違いなのか、翻訳の元にした版の違いなのか、分かりません。

  ほとんど忘れていながら、こんな事を書くのも、なんですが、前半だけ読んだ時の感想は、「恋愛小説だけど、相当には、面白い」というものでした。 私は、恋愛物は、あまり好きではないのですが、読んで分からないというほど、朴念仁でもないのです。 一応、≪源氏物語≫や、≪紅楼夢≫も、読んでいますし。

  今回、初めて読んだ後半は、パリの侯爵邸での生活から始まり、令嬢との恋の鞘当てが、延々と続いて、少々、飽きが来ます。 ところが、令嬢が難攻不落なので、一度は諦めかけた主人公が、ロンドンで知り合ったロシア貴族から、恋愛指導を受け、貰った恋文のサンプルを丸写しにして、別の夫人にせっせと送り、令嬢の嫉妬心を掻き立てさせる件りになると、その作戦の、あまりの馬鹿馬鹿しさに、大笑いし、急激に、ストーリーへの興味が甦って来るのです。 馬鹿馬鹿しいと言っても、別に、変な設定というわけではなくて、つまりその、恋愛という行為自体が、上っ面の手練手管で向きを変えられるような、軽薄な性質を持っているんですな。

  主人公は、最終的には、「愛」を知るわけですが、その最後の境遇に至る前までは、恋愛を、自尊心の満足の為だけに遂行しています。 それは、誰に対しても、同じです。 この話では、身分の違いから来る、主人公の劣等意識が、もう一つのテーマになっており、主人公は、自尊心の為に、出世を目指し、自尊心の為に、恋愛に引き込まれ、自尊心の為に、様々な窮地に陥ります。 身分が平民であるという以外は、外見も才能も、他人に劣るところが、一点もなかったが故に、こういう人格になってしまったのでしょう。

  この小説、漫然と読んでいると、主人公の目的が分かり難いです。 恋愛を出世の道具と考えているなら、まだ分かり易いんですが、むしろ、出世する上で、障碍になるような相手にばかり近づいていて、どういうつもりなのか、分からなくなってしまうのです。 これはつまり、主人公が、確乎たる意志の元に、長期的目標を持って生きているのではなく、その時々の感情に流されてしまう、弱い人間なのだという事を表しているんでしょうな。

  ちなみに、≪赤と黒≫の「赤」は、主人公が、共和主義者である事を表し、「黒」は、僧侶である事を表しているのだそうです。 しかし、一方で、主人公は、ナポレオンの熱心な崇拝者でして、共和主義者と言われても、ちょっと、釈然としない感じもします。 この時代のフランスでは、王党派以外は、みんな、共和主義者だったんですかね?



≪パルムの僧院≫

岩波文庫 ≪パルムの僧院 上・下≫
岩波書店 1952年(初版発行)
スタンダール 著
生島遼一 訳

  スタンダールの長編小説で、≪赤と黒≫の次に有名ですが、代表作と言うと、≪赤と黒≫の方が紹介されますから、知らない人も多いと思います。 発表は、1839年で、≪赤と黒≫から、9年しか経っていません。 スタンダールの著作は、前期には、伝記や旅行記が多く、作家人生の後半になって、小説を書き始めたので、小説だけ拾うと、後ろの方に、固まっているんですな。

  イタリア貴族の次男として生まれた美青年が、ナポレオンに心酔し、帝政の復活後、わざわざ、フランスまで出かけて行って、ナポレオン軍にくっついて、「ワーテルローの戦い」を経験するが、その間に、彼を嫌っている兄の策謀で、スパイ容疑がかけられて、実家に帰れなくなってしまい、彼に好意を寄せていた叔母の助けで、彼女が住んでいるパルム公国に身を寄せるものの、生来の身持ちの悪さから、女絡みの殺人事件を起こしたり、パルム宮廷の権力闘争に巻き込まれて、城砦刑務所の高い塔に幽閉されたり、さんざんな目に遭いつつも、刑務所長である将軍の娘への想いに目覚めてからは、その恋を全うしようとする話。

  こういう書き方をすると、誤解を招くかな? はっきり言って、この主人公、尊敬に値するような人格ではありません。 一言で言うと、「色惚け」。 逮捕されるまでは、「一度も恋をした事がない」と言いながら、女遊びに現を抜かし、正に、身を持ち崩すとしか言いようがない、放蕩ぶりを見せます。 神学校に通い、叔母のコネで、パルムの副司教にまでなりますが、およそ、信仰心など、かけらも見当たらず、信者を集めて説教するのも、女に近づくのが目的とあっては、呆れる外はありません。

  この青年の人格について、もう一言足すなら、「軽薄」。 ナポレオンに憧れて、やしやし、戦争に出かけていくのですが、そもそも、彼はイタリア人なのですから、フランス軍に近づいたからと言って、入隊させてもらえるわけがなく、兵隊の真似事をするだけ。 それ以前に、軍籍がなければ、戦争に参加できないという事すら知らなかった模様。 この子供丸出しな行為が、後々、降りかかってくる苦難の原因になるのですが、当人は、そうとは思っておらず、全てを兄のせいにしているのだから、勝手なものです。

  叔母や、その愛人である、パルム公国首相の伯爵、それに、元使用人達などが、彼を逮捕させない為に、必死で努力しているのに、当人は、どこ吹く風で、女の尻を追いかけて、わざわざ、危ない場所へ乗り込んでいきます。 綿密な計画を立ててもらい、間一髪のところで逃げ出した刑務所に、自分から戻って行ったりもするのですが、ここまで来ると、少々、オツムが足りないとしか思えません。

  先に、≪赤と黒≫を読んでいる人の場合、同じく、美青年で、神学生である事から、両作品の主人公を、似たようなキャラだと見做してしまうと思うのですが、注意して読めば、こちらの主人公が、頭の良い人間としては描かれていない事が分かるはず。 その点で、≪赤と黒≫の主人公とは、全く違っているのです。 考えてみれば、身分も違うのであって、こちらは、「たまたま、顔が良かった、貴族の馬鹿息子」だと思えば、すんなり、納得できます。 現代人の読者ならば、≪赤と黒≫の主人公には共感できても、こちらは、活劇の主人公としてしか見れないと思います。

  主人公のキャラが感心しないだけなら、まだいいんですが、小説全体も、お世辞にも、出来がいいとは言えません。 口述筆記で書いたらしいのですが、そのせいか、物語の流れと、描写の分量の配分が悪く、ほんの数分の事に、何ページもかけたり、何日も経っているのに、一文で済ませてしまったり、気まぐれと言うか、全体の構成に配慮していないと言うか、稚拙に感じられる所が、大変、多い。 特に、ラストは、パタパタ、片付けている感じで、「ああ、この人、これ以上、続けるのに、飽きたんだな」と思わせます。

  主人公が、我が子を誘拐するエピソードは、描こうと思えば、もう一冊本ができるくらいの内容が考えられると思うのですが、そんな気力がなかったのか、ものの、5ページほどで、片付けてしまっています。 「一応、考えたから、アイデアだけでも書いておこう」と思ったんでしょうかね? だけど、読者としては、そんな、中途半端なサービスをされても、本来書かれるべき文章量で書いてないのだから、ありがたがるどころの話ではなく、むしろ、フラストレーションが溜まります。

  この物語のラスト、どうすれば良くなったかと考えるに、主人公に、しつこく接近されて、聖母への誓いとの間で板挟みになったクレリアが自殺し、失意のどん底に落ちた主人公を支えようと、叔母が駆けつけて来るものの、まず、叔母に捨てられたモスカ伯爵が、抜け殻のようになって事故死し、続いて、主人公も病み衰えて世を去り、最後に、残された叔母が、パルム大公から、再度、求婚されて、人生を悲観し、懐かしいコモ湖畔で、入水自殺して終わり、というのはどうでしょう? 元のラストより、遥かに、マシだと思いますけど。

  同じ作者だからと言って、≪赤と黒≫のような、繊細かつ濃厚な心理描写を期待していると、とんだ肩透かしを喰らいますから、要注意。 心理描写がないではないですが、あちこち、ダマになって、点在しているだけです。 地の文のほとんどは、ちょっと軽薄な歴史家が書いた、俗受けを狙った、歴史読本みたいな文章で、宮廷政治の内幕や、社交界の様子が、くどくどと書き連ねられています。 ワーテルローの戦いと、城砦刑務所の塔から脱獄する前後だけ、面白いのですが、それは、その部分が、活劇調になっているからでしょう。


  なんでも、この作品、バルザックが激賞しているそうで、その影響を受けて、「文豪バルザックが誉めているんだから、傑作なんだ」という誉め方をしている評者が多いのですが・・・、ふふふ、まあまあ、待ちなさいな。 バルザックの意見なんぞ、一切、気にする必要はないです。 批評は、自分の感性にのみ、忠実であれば宜しい。 さあ、あの、≪赤と黒≫と比べて、どっちが面白いと思います? 私は、比較にならんと思いますよ。 こりゃ、「スカ」と言ってしまっても、言い過ぎにはならないと思います。



  以上、二作品です。 前回より、更に少ないですが、スタンダールと組んで出せるような本の感想が見当たらないので、致し方ありません。 ≪赤と黒≫は、2月25日から、3月8日までかかり、≪パルムの僧院≫は、3月8日から、3月22日までかかりました。 それぞれ、感想は、読んだ後すぐに書いています。 もう、だいぶ、月日が経ってしまいましたなあ。


  ところで、まず、いないとは思うものの、小・中学生で、このブログを読んでいる人がいたら、学校で読書感想文を書かされていると思いますが、私のような書き方を、そのまま流用しちゃ、駄目ですよ。 読む本が指定されている場合は、作者・作品の紹介や、あらすじは、必要ありません。 それどころか、あらすじを書いたりすると、教師から、「これは、感想文ではなく、あらすじだ」などと、低次元なツッコミを入れられます。 ものぐさな教師は、あらすじが書かれていると見ただけで、その先を読むのをやめるくらいですから。

  読む本が指定されていない場合は、むしろ、作者・作品の情報や、あらすじを書いた方がいいです。 教師が、その本を読んでいない場合、自然に、そういう情報を知りたがるからです。 ただし、どちらも、長くなり過ぎないように。 私が、あらすじを紹介する時、一文の中に無理やり押し込んでいるのは、長くなるのを避ける為です。 長くなり過ぎるよりは、短過ぎて、大雑把な事しか伝わらない方が、マシ。 所詮、あらすじで、その作品の全てが分かるわけではないですから、大体、どんな話か伝われば、それで、充分なのです。

  感想の本体は、その本を読んで感じた事なら、どんな下らない事でも宜しい。 読み難い本だったら、自分が、その本を読むのに、どれだけの時間と労力を費やしたか、その割に、得られた事が、いかに少なかったかという恨み節を、延々と書き連ねるだけでも、成立します。 感想文というのは、作者に負けてしまうと、非常に書き難くなるので、常に、上から目線で、「読んでやったぞ」という姿勢で臨むのがコツです。 どうせ、学校で書く感想文なんて、作者の目に触れる事はないから、一切遠慮せずに、思うさま扱き下ろしたれ。

  逆に、べた誉めするというのも、いい手です。 アイデアの独創性を誉める。 テーマの高尚さを誉める。 モチーフの特徴的な点を誉める。 ストーリー構成の巧みさを誉める。 主人公の性格が際立っている事を誉める。 善玉悪玉がいる話なら、善玉の人間性を絶賛し、悪玉の悪辣ぶりに感嘆する。 読み易ければ、「万人に受け入れられる」と言って誉め、読み難ければ、「奥深い」と言って誉める。 何から何まで、全て、誉める。 句読点の入れ方まで誉める。 イラストも誉める。 本の装丁も誉める。 紙の質感も誉める。 作者やイラストレーターはもちろん、編集者に対しても、敬意と愛情を抱いてる事を、吐露する。 そこまでやれば、教師も圧倒されて、「いい本に出会えて、良かったですね」としか言えまいて。

  学校での読書感想文というのは、「読解能力をつけさせる」というより、もっと基礎的なレベルで、「読書の習慣をつけさせ、あわよくば、文章も書けるようにさせよう」というのが目的なので、感想の内容自体は、どーでもいいんです。 本の内容と、まるで関係ない事でも、他人が2・3枚で済ませているところを、5枚・10枚と書き倒して、提出すれば、まず、文句は言われないでしょう。 むしろ、いろいろな事を考えていると思われて、一目置かれるはずです。

  重視すべきなのは、感想文自体の面白さですな。 文章というのは、畢竟、「読んでもらって、ナンボ」でして、読書感想文だからと言って、読み手の楽しみに配慮する必要がないという事はありません。 誉めるにせよ、貶すにせよ、元の本を読みたくなるような感想文がベストですが、それは、かなりの冊数を読みこなさないと難しいので、せめて、感想文だけでも、読んで面白くなるような文章にしなければなりません。 基準は、自分の感覚で充分です。 つまり、自分で、自分が書いた感想文を読み返して、面白いと思えたら、それで、合格。 読み返すのが嫌になるくらい、つまらなかったら、書き直した方がいいです。