2016/04/03

老い行く父

  いよいよ、父の頭の衰えが進行し、レコーダーを使えなくなってしまった様子。 テレビをモニターとして使い、レコーダーのチューナーで見るようにしていれば、レコーダーの使い方が分からなくなる事はないのですが、父は、そういう考え方ができず、その時に放送している番組を見る時には、テレビだけにして、レコーダーの電源を落としてしまうので、全体の操作がややこしくなり、頭が衰えて来たせいで、対応できなくなってしまったのだと思います。

  唯一の楽しみである、時代劇が見れないのは、気の毒なので、とりあえず、録画予約は私が行ない、再生する時にも、レコーダーへの入力切り替えまでは、私がやる事にしました。 なぜか、レコーダーから、テレビに入力を戻すのは、自分でできるようなのです。 いきなり、全てが分からなくなってしまうわけではないわけだ。


  実は、もう、明らかに、認知不全と思われる症状も出ていて、かれこれ、十日くらい前の事、夜の9時頃、父が私の部屋に血相変えてやって来て、「来い」というので、父の部屋に行ってみると、テレビの背後の、部屋の壁を指し示し、「ここに扉が開いて、人が入って来た」と言います。 もちろん、そんな所に、扉はありません。 おそらく、テレビを点けたまま、眠ってしまい、はっと目覚めたら、点けっ放しだったテレビに、扉から人が出て来る映像が映っていたのを見て、自分の部屋に人が入って来たと、思い込んだのでしょう。

  どうも、目覚めてから、5分くらいは、意識がはっきりせず、夢と現実の区別がつかない状態が続くようです。 ただ、完全に起きている時でも、その妄想が残っていて、「夜中に、ケーブル・テレビの人間が、内緒で工事に来た」というような事を口にします。 これはもう、「寝ぼけた」で片付けられる症状ではありますまい。

  「夜中にテレビが、勝手に点く」というのは、去年の11月頃から言い出した事で、最初は、レコーダーとのリンクで、そういう設定になっているのかと思ったのですが、リンクを切っても、まだ点くと言います。 その内に気づいたのは、父が、テレビを点けたまま眠ってしまっているという事です。 機械の問題ではなく、父の頭の方の問題だったんですな。

  ところが、当人は、「必ず、消してから、眠っている」と思い込んでいて、何かの拍子に目が覚めると、テレビが点いているので、「勝手に点いた」とか、「誰かが点けた」とか、「ケーブル・テレビの会社が、遠隔操作で点けている」などという、妄想が育ってしまったのだと思います。

  「違うんだよ。 点けたまま、寝ちゃってるんだよ。 だから、目が覚めた時に、点いているんだよ。 テレビが点いたから、目覚めたんじゃないんだよ。 点けっ放しだったんだよ」と、くどくど説明すれば、その場では、「そうか」と納得するのですが、そういう説明を受けたという事自体を、すぐに忘れてしまうようで、2・3日もすると、「また、点いたぞ」と、同じ事を言い出します。


  ごく最近まで、そういう問答があると、「なに言ってるんだよ! そんな事あるわけないだろ!」と、私は、きつい言い方をしていたのですが、当人は、別に、悪意で、妄想を口にしているわけではないという事に気づき、考えを改めました。 まともな頭の人間が、変な事を言っているのなら、きつい言い方で窘めるのもアリですが、「父は、もはや、まともとは言えない」と、断定せざるを得なくなったのです。

  当人は、自分が育てた妄想の中身について、真剣に心配しているのであって、私をからかうつもりなどないのです。 それならば、こちらも、怒って窘めるなどという、百害あって一利ない対応は、避けなければなりません。 怒っていると、その内、父の中で、私が、「何か言うと、すぐに怒る奴」と認識されてしまい、果ては、敵扱いされてしまう恐れもあります。


  「夜中に、テレビが点く」問題については、さんざん、対応策を考えた末に、父のテレビの設定を変えて、「おやすみタイマー」が、夜9時に働くようにしました。 一定時間後に、テレビが消える、「オフ・タイマー」と違って、設定した時刻になると、テレビが消える機能です。 この機能の存在に気づくまで、随分、時間をロスしてしまいました。

  たとえ、そういう設定にしても、今度は、「夜中にテレビが、勝手に消える」、「ケーブル・テレビの会社が、遠隔操作で消している」と言い出す可能性がありますが、これは、確率の問題でして、父の場合、夜9時の時点で、起きている日より、眠っている日の方が、ずっと多いと思われ、眠っている間に消えてしまうのなら、夜中に目覚めても、父は、「眠る前に、自分で消した」と思いますから、不安にならずに済むだろうと、踏んだわけです。

  もし、9時以降までテレビを見続けていて、「勝手に消えた」と言って来た場合でも、「それは、そういう風に、設定したからだよ」と説明すれば、簡単に済みます。 ちなみに、うちの母は、一時間ごとに、眠ったり起きたりを繰り返す、ドッグ・スリーピングな人で、夜中でも、早朝でも、テレビを見ている事がありますが、父の場合、夜中に目覚める事があっても、自分でテレビを点けて、見る事はないようです。


  ところが、その翌日、早くも、仰天する事態が出来しました。 私が、夕食後、自室で少し眠って、夜9時過ぎに起きて、一階へ下りたら、なんと、父が居間の炬燵の母の座椅子に座っていました。 父の部屋に、人が来ていて、うるさくて眠れないと言います。 もちろん、テレビの事です。 「大丈夫。 9時を過ぎたから、もうテレビは消えたよ。 そんなところじゃ、眠れないから、部屋に戻りな」と言って、上に連れて行き、テレビが消えている事を見せました。

  布団も上げてしまっていたので、また敷くように言い、その間に、テレビのおやすみタイマーを、午後9時から、8時に早めました。 この頃になって、頭が回復して来たようで、「消える時刻を早くして、見てる途中で消えちゃったら、困る」と、まともな事を言うので、「そしたら、また点ければいい」と言っておきました。 しかし、そんな話をした事も、どうせまた、すぐに忘れてしまうと思います。


  その後、十日くらい経ちますが、夜の異常な言動・行動が見られなくなりました。 テレビのおやすみタイマーを、夜9時から、8時に早めたのが効果を発揮したのでしょう。 思った通り、目覚めた時に、テレビが消えていれば、父は、何の不思議も感じないわけだ。 早く、その事に気づけば良かった。 何回も怖い思いをした事で、父の妄想が膨らんでしまったと思うと、残念至極。

  つい、二三日前には、肺炎の予防注射を打ってもらいに、近くの医院まで、自転車で出かけて行ってましたが、そういうところは、しっかりしていて、全く危なげがありません。 同じ人が、妄想を口にするというのが、不思議でならないです。



  ここまで、症状が顕著になって来ると、当人を説得して、病院に連れて行くという対策もありますが、そこで少し考えてしまうのは、「老齢による認知不全は、果たして、病気なのか?」という事です。 認知不全が進まないように、体操や計算などのレッスンを受ける事で、成果が出ているという話は知っています。 しかし、結局のところ、症状の悪化を先延ばししているだけで、いつかは必ず、要介護状態になると思うのです。 決して、治るわけではないですし、不死になるわけでもないのは、言うまでもありません。

  そして、もし、父が要介護になるなら、私に体力がある内の方がありがたいのです。 こっちまで衰えて、典型的な老老介護になってしまうのは、何としても、避けたいところです。 こういう考え方に対して、「親が早く死んでもいいのか?」と反発を感じる人もいると思いますが、私の場合、自分自身が引退していて、「老後の虚しさ」が身に沁みて分かるので、「長く生きれば、それだけ幸せに決まっている」という、単純で、考え足らずな意見には同調できません。

  これが、無理やり、寿命を縮めるというのなら、それは、もはや、殺人罪ですが、認知不全が進むのを、積極的に止めなかったとしても、何の罪にもなりますまい。 むしろ、それは、極めて、自然な事だと思うのです。 問題は、今すぐに、父が要介護になったとしても、私に対処ができるかどうかですな。 幸い、父は、筋金入りの出不精で、徘徊して行方不明になる恐れは、だいぶ低いのですが。


  これは、認知不全だけでなく、全ての疾病に当て嵌まる事ですが、昨今、よく耳にする、「健康寿命」を、いくら延ばしたところで、その後に来る要介護期間を減らせるわけではありません。 たとえば、何もしなければ、80歳から要介護状態になり、85歳で死ぬ筈だった人が、努力して健康寿命を5年延ばし、85歳から要介護状態になったとします。 元の寿命が、85歳だから、要介護状態になった途端に死ぬのかというと、そんな事はありますまい。 健康だった期間が5年分増えただけだから、やはり、5年近く、要介護期間があると思うのですよ。

  「要介護期間が短くならなくても、当人の寿命が延びるのだから、よい事ではないか」と思うでしょう? だけど、介護は、介護される人よりも、介護する人の方が大変なわけでして、介護する方が歳を取って、衰えてしまったのでは、共倒れになってしまいます。 真面目で責任感の強い介護者ほど、行く末を悲観して、無理心中に走り易く、そういう実例も、増える一方です。 長生きさせればいいってもんじゃないんですよ。

  当人に、長生きする気があって、努力して、健康寿命を延ばそうとしているなら、それを止める事はできませんが、もう、何の為に生きているのか分からなくなってしまっていて、当人にその意思がない場合、家族が無理強いして、健康寿命を延ばさせるのは、如何なものでしょう。 誰が得をするのか、さっぱり分かりません。


  父の事にしても、母の事にしても、私はこれから、介護をする事になる可能性が高いわけですが、先の事を考えると、暗澹たる気分になります。 不安で、夜、なかなか眠りに就けない事もある今日この頃。

  しかし、よく考えてみると、私の場合、仕事をしているわけではないのですから、時間的には、ゆとりがあるわけで、何とかなるような気がしないでもないです。 自分の時間が持てなくなったとしても、私にはもう、これと言って、やりたい事がありません。 読書や映画鑑賞は暇潰しに過ぎず、登山も、山が好きで登っているのではなくて、単にウエストを絞る為という、後ろ向きな理由ですし。

  人間、やる事がないと、生きている理由を見失ってしまうものですが、逆に考えると、対象が何であっても、やる事さえあれば、生きている理由になるという事になり、それは、介護であっても、同じではないかと、ここ数日の間に、思うようになりました。 「ものは考えよう」レベルの悟りに過ぎませんが、これは、今後、何かと役に立つかも知れません。