濫読筒井作品⑬
筒井康隆さんの新しい本が、いつのまにか、図書館に入っていたので、借りて来ました。 その時、見つけたのは、≪世界はゴ冗談≫の方です。 発行が、2015年の4月、図書館の購入が、5月、私が見つけたのが、2016年の3月ですから、10ヵ月も気づかなかったとは、迂闊にもほどがある。 「ファンなら、そもそも、自分で買え」と思うでしょうが、私は、文庫以外、買わない主義でして、引退してからは、尚の事、お金にゆとりがなくなり、単行本など、とてもとても・・・。
≪モナドの領域≫の方は、新聞の書評で、出た事は知っていたのですが、どうせ、しばらくは、予約が多くて、読めないだろうと思って、おっとり構えていたもの。 ≪世界はゴ冗談≫を読んだ勢いで、≪モナドの領域≫の予約状況を調べてみたら、割と早く借りられそうだったので、私も予約を入れておき、空き次第、読んだという次第。
ところで、≪世界はゴ冗談≫の方はともかく、≪モナドの領域≫に関しては、かなり、辛辣な感想文になってしまいました。 筒井作品の熱心なファンの方は、気分を害するかも知れない事を、お断りしておきます。 ただ、≪モナドの領域≫を読んで、何の疑念も抱かないまま、心酔してしまったような方は、逆に、胸糞悪くても、読んだ方がいいと思います。
≪世界はゴ冗談≫
新潮社 2015年
筒井康隆 著
≪世界はゴ冗談≫は、短編集です。 2010年から、2015年までに発表された短編小説が9作と、2014年の随筆が1作、収録されています。 若い頃から変わりなく、短編小説を書き続けてくれているのは、大変、ありがたい事です。 つくづく思うのですが、こんなに読者サービスに篤い作家は、稀です。 晩年に大ブームが来て、新作長編を書いてくれた横溝正史さんのファンと、筒井さんのファンで、幸せ比べができそうなくらい。 ちなみに、私は両方のファンですが。
筒井さんの最近の短編は、若い頃や、文壇席巻した頃のそれとは、だいぶ、趣きが異なるのですが、「年齢のせいで、衰えた」という感じがせず、「成長を続けている」とまでは言わないものの、「変化を続けている」と感じられるのは、凄いです。 恐らく、書き続けている限り、変化が停まる事がないのではないかと思います。
最も人気が高かった時期に、予め、「メタ・フィクション」や「小説とは、形式から自由な文芸」という考え方を読者に広めてあったから、読者側は、筒井さんの小説が、どんな風に変化しても、一見、「やっつけではないのか?」と疑える作品であっても、「それこそが、この作品の価値」として、受け入れざるを得ないんですな。 意図的に、そういう風に、読者を教育したのかどうか分からないのですが、恐ろしく頭のいい人だから、満更ありえない話ではないです。
それはともかく、短編集の感想文は、書く前から、気が重いっすねー。 長編なら、10段落くらい書けば、結構、細かく評した事になりますが、10作入った短編集だと、10段落書くとしても、1作に1段落しか割けない事になり、それでは、ツイッターになってしまいます。 内容紹介は、一行で片付けるとしても、1作あたり、最低でも、2段落は欲しいところ。 書く前に、そういう計算をしているのだという事を、念頭に置いて、読んで下さい。
そういや、ネット上で、他人が書いた、小説作品の感想を読んでいると、異様に長い文章にぶつかって、驚く事があります。 感想というより、評論ですわ。 そういう人って、文芸評論家を目指して、勉強した経歴でもあるんでしょうなあ。 しかし、ざっと見渡して、100行を超える評論となると、如何に中身が濃くても、全部、読む気になれません。 そんな長い評論を読む時間があったら、別の小説を読む方に回します。
短編の感想文が長くなってどうこう、という以前に、前置きが長いんだよ。 さっさと始めましょう。
【ペニスに命中】
異様に行動力の旺盛な、実質、認知不全、自称、「互換症」の老人が、街に繰り出して、行き当たりばったりで、やりたい放題やりまくる話。 やりたい放題の雰囲気が、【アノミー都市】に似ていますが、こちらは、周囲はまともで、語り手である主人公の、頭がイッてしまっている設定なので、より、過激です。
これ、すげーなー。 「fracora」のCMじゃないけど、筒井さんを全然知らない人に読ませて、「突然ですが、この小説、何歳の人が書いたと思います?」と街頭インタビューしたら、「80歳」と当てられる人は、一人もいないと思います。 いや、普通、何歳でも書けないでしょうねえ。
公民館に入り込み、講師にすりかわって、≪源氏物語≫について、自説をぶちかますところは、源氏を読んでいる人間には、爆笑物ですな。 この小説の、この件りを楽しむ為だけに、源氏物語を全帖読む価値があると言っても、過言ではない。 警察での取り調べの場面も面白いです。 たぶん、筒井さんも、自分が警察の取調べを受ける様子を想像して、いかに、刑事を煙に巻くか、案を練った事があるんでしょうなあ。 私が想像すると、必要以上に神妙になったり、逆に暴力的になってしまったりしますが、この作戦は、鮮やかだわ。
【不在】
ある大震災の後、男の赤ん坊が全く生まれなくなってしまい、歳月の経過と共に、高齢化し減って行く男達の代わりに、女があらゆる業種に従事するようになった世界で、それまでいた者がいなくなる事を共通したモチーフに、個別のエピソードが並行して語られる小説。
男が生まれなくなった世界というと、性別逆転大奥と同じアイデアですが、こちらは、「喪失」がテーマでして、誰もいない葬儀場に独り取り残されたような、寂しさ、虚しさが漂っています。 純文学では、こういう、雰囲気重視の短編は、よく見られますが、失うばかりで、全く救われないので、読んでいて楽しい小説ではないです。
大震災がきっかけになっていますし、2012年の作品なので、もしかしたら、福島第一の事故から、こういう大規模な異常の発生を発想したのかも知れません。 ただ、人が消えるエピソードは、どれも、原因の説明がないので、単に、似たようなエピソードを寄せ集めたような気がせんでもなし。
男が少なくなっているから、高齢でも、モテるわけですが、こういう状況でモテても、嬉しくはないでしょうねえ。 却って、鬱陶しいと思います。 おちおち、散歩もできやしない。
【教授の戦利品】
蛇の専門家である教授が、蛇が生理的に嫌いな連中を相手に、蛇を使って、やりたい放題やりまくる話。 これを言ってしまうと、人間の程度がバレてしまいそうですが、私は、こういう話が大好きでして・・・。 なんで、こんなに楽しいのかな? また、この小説、話の流れが、立て板に水で、素晴らしいんですわ。 ノリノリという感じ。 食べると若返るという、架空の蛇も出て来ますが、その部分がなかったとしても、十二分に面白いです。
不思議なのは、蛇について、物凄く細かく調べて、書いているわけではないという点でして、ネットがある御時世ですから、調べようと思えば、誰でも、短時間で、このくらいの知識は得られると思うのですが、では、他の人が、こういう小説を書いて、面白くなるかというと、たぶん、全然、駄目だと思うのですよ。 この匙加減は、名人芸としか言いようがありません。
こういう話こそ、≪夜にも奇妙な物語≫で映像化すべきでしょうな。 蛇嫌いのタレントを集めて。 演技を超越した迫力が出るに違いない。
【アニメ的リアリズム】
バーで泥酔した男が、車に乗って帰ろうとする、ただ、それだけの事を、男の目線で描写した話。 8ページの短さです。 私が、酒を飲まない人間で、泥酔体験がないからかも知れませんが、あまり、面白いとは感じませんでした。 しかし、もし、ここまで酔ったら、それはもう、薬物使用レベルの感覚になるんでしょうなあ。 そのまま、逝ければ、幸せというべきか。
【小説に関する夢十一夜】
≪着想の技術≫という本に、筒井さんが、夢で得た着想を書き留めていると書いてありましたが、たぶん、その中から、小説に関する夢だけを、11篇、集めたものと思われます。 小説というよりは、小話で、ほとんどに、オチがついています。 大笑いするほどではないですけど、ニヤニヤするには、充分。
私の好みでは、「幽霊に小説を書かせる話」と、「被災地で文芸復興する話」、「失恋小説を書けない話」が面白かったです。 夢の中で、ダジャレが出て来たり、オチがついていたりするのは、興味深いです。 私も、眠れば、必ずと言っていいほど、夢を見ますが、そういう気の利いた夢は、まず見ません。 アイデアを考えなければならないという圧迫がないからでしょうか。
【三字熟語の奇】
2352個の三文字熟語を並べたもの。 冒頭から、2197個は、普通の三字熟語で、別に仕掛けのようなものは施されていないようです。 残りの155個が読みどころでして、「怪岸線、愚体化、卒倒婆、度量昂」などの、差し替え言葉で埋め尽くされています。 あまりたくさん、引用すると、読む楽しみがなくなってしまうから、控えておきます。
もし、全部、差し替え言葉になっていたら、凄かったでしょうねえ。 ・・・、もしかしたら、普通の三字熟語、2197個の中にも、差し替え言葉が混じっている可能性がありますが、私ももう、歳でして、全部に目を通す気力がありません。 それにしても、これを、「文學界」に出したというのが、凄い話。
【世界はゴ冗談】
三部に分かれています。 しかし、互いの関連性は、なさそうです。 寄せ集めたんですかね? なぜ、これが表題作になっているのか、首を傾げたくなるところ。
・ 太陽黒点の増加で、磁場が狂い、鯨が大移動を始めたり、旅客機が操縦不能になったりする話。
・ 王家の跡継ぎが決まる因果関係に関する夢を、ある男が見る話。
・ 家電製品や、カーナビの機会音声が、混信を始め、えらい事になってしまう男の話。
それぞれの話を単独で読んでも、アイデアをよく練らない内に書き始めて、結局、纏まりが悪いまま、最後まで行ってしまったような感じ。 第二作は、もう一捻りすれば、面白くなりそうなのですが、その前に終わってしまいます。 第三作は、この中では、一番、纏まりがいいのですが、機械音声の混信というアイデアは、すでに、どこかの芸人に使われている気がしないでもないです。
【奔馬菌】
冒頭からシュールで、ストーリーが暴れまくっていると思ったら、いきなり、小説が書けなくなった理由を吐露した随筆のようになり、思いついた事を、片っ端から書き付けているような、メタにして滅茶苦茶な展開に驚かされるのですが、3分の1くらい行ったところで、ようやく、落ち着き、家に戻った主人公が、とある気象プロジェクトの為に、政府から送り込まれたと思われる三人の男達に連れて行かれそうになる話になります。
歳を取ってから、若い頃に書いていたような、リミットなしの外国批判や、差別意識を全開にした作品が書けなくなってしまい、その反省から、この作品を書いたようなのですが、書けば書くほど、リミットが浮かび上がってしまっています。 別に、それが欠点というわけではなく、つまり、作品全体で、「昔のような、言いたい放題の小説は、もう書けんな」と表現しているという事でしょうか。
でもねえ、世界の大きさが広かった当時ならまだしも、このグローバル化著しい現代に、≪色眼鏡の狂詩曲≫を読んで、名作だなんて持て囃しているような連中は、遠ざけておいた方がいいと思いますよ。 剣呑な小説独特のヒヤヒヤ感を、密かに楽しんでいるのではなく、「我が意を得たり」で、大喜びしているようなやつらが相手では、絶賛されても、百害あって一利ありますまい。
【メタパラの7・5人】
まず、このタイトル。 本では、縦書きなので、分かり難いのですが、たぶん、「・」は、小数点で、「7.5人」を意味しているのではないかと思います。 この人数は、登場人物の頭数だと思うのですが、実際に登場している人の数なのか、会話の中で触れられているだけの人も含むのか、作者も含むのか、読者も含むのか、数え方が分かりません。
老画家の四十九日に、本人と妻、娘二人、妹の夫、編集者が家に集まり、娘達が幼い頃に、その姿を描いて出版し、大人気を博した絵本シリーズについて、思い出話を語りあう内に、登場人物が読者に話しかけ、作者がしゃしゃり出る、メタ・パラな小説になっていく作品。
メタ・フィクションは分かりますが、パラ・フィクションというのは、「(作者による)、読者を小説の中に捉えようとするさまざまな試み」の事なのだそうです。 だけどまあ、冒頭から、8分目くらいまでは、単に、死んだ人が出て来て、生きている人間と、普通に会話をしている、幽霊物という感じです。 そこまでは、【ぐれ健が戻った】と同類と思って読んでいる人が多いのではないでしょうか。
残りの2分目で、メタ・パラになるのですが、その部分は、小説と言うより、論説のような趣きです。 そもそも、パラである前に、メタだから、何でもアリなわけですが、メタについて予備知識がない人が読むと、やはり、「なんじゃ、こりゃ?」と思うでしょうねえ。 前の8分目が、割と普通の小説っぽいから、尚の事、後ろの2分目が浮くわけです。 だけど、なにせ、メタだから、浮こうが、木に竹だろうが、一向に構わないわけで、もはや、こうなると、何でもかんでも小説にできる、魔法の杖を握っているようなものですな。
メタ・フィクションを日本に導入した筒井さんの作品だから、読者の方も、自然に受け入れられるわけですが、もし、同じような小説を、全く無名の人間が、新人賞に応募したら、確実に予備選考で落とされるでしょうねえ。 「芸術は、過程ではなく、結果だ」とは、よく言われますが、実際には、そんな事はなくて、作者の知名度や経歴が大いに物を言う世界なんですな。
【附・ウクライナ幻想】
これは、小説ではなく、随筆です。 内容的には、回想録っぽいです。 2014年の2月から始まった、「ウクライナ危機」を受けて、筒井さんが、かつて、日本の作家として、ソ連を訪問した時の思い出や、ロシアの英雄譚、【イリヤ・ムウロメツ】を書くに至った経緯、そのストーリーの概要を書き綴ったもの。
もしかしたら、ロシア政府批判や、ウクライナの新政府批判など、剣呑な主張が含まれているのではないかと、地雷原を進む気持ちで、ヒヤヒヤしながら読んだのですが、そういう事は全くなくて、ただただ、懐かしい思い出に浸りつつ、危機の行方を案ずるという、じょぼじょぼに叙情的な内容でした。 常に対象を突き放して見ている筒井さんが、こんなに叙情的な文章を書くのは、大変、珍しいです。
私は、【イリヤ・ムウロメツ】は、「ショートショートランド」に連載されていた頃に、初めて目にして、数年前に、文庫も手に入れているのですが、未だに、通して読んでいません。 筒井さんの作風と、全く違うので、何となく、入って行けないのです。 筒井さんや、【イリヤ・ムウロメツ】に挿絵を描いた手塚治虫さんは、昭和17年(1942年)に出版された漫画、【勇士イリヤ】から、大きな影響を受けたらしいのですが、どうやら、その漫画が、よほど、面白かったものと思われます。 だけど、小説になると、なかなかねえ・・・。 いや、閑人ですから、その内、読みますけどね。 単なる、読まず嫌いなのかも知れないし。
≪モナドの領域≫
新潮社 2015年
筒井康隆 著
帯のコピーは、
「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長編」
なのですが、頭のいい人というのは、戦略的に嘘をつくので、こういうのは、とりあえず、疑ってかからねばなりません。 「おそらくは最後の長編」というのは、「おそらく」で逃げ道を作ってありますし、おそらく、この作品を書いた時点では、本当に、そう考えていた可能性が高いので、まあ、問題ないとして、「わが最高傑作」というのは、嘘ですな。 ただ、これも、「自分が、そう思っているのだ。 主観の問題なのだ」という逃げ道があり、嘘の立証は困難です。
だけど、これを「最高傑作」と言ってしまうと、長編に限るとしても、≪虚航船団≫や、≪パプリカ≫の位置づけに困ってしまうと思うのですよ。 物語としては、型に嵌まったもので、メタのような仕掛けは、ほんのちょっとしか使われていません。 話がこじんまりしていると感じられるのは、本来、短編に使われる枠を用いているからだと思います。 問答部分で膨らませているんですな。 それが、哲学問答なので、哲学に全く興味がない読者には、読み通すだけで、つらいと思います。
河川敷で女の腕が、公園で脚が発見され、バラバラ殺人を念頭に刑事達が捜査を始める中、近くのベーカリーで、アルバイトの代役として雇われた美大生が作った、女の腕そっくりのパンが話題になり、人気を集める。 その美大生から、美大の教授へ、引き継ぐ形で、何者かが憑依し、彼は、「神に近いもの」と称して、人々の信仰を受け始める。 やがて、彼は、自ら起こした傷害事件の裁判を経て、「GOD」と呼ばれるようになり、テレビの特番に出演して、創造主、宇宙、人類の関係について語り、その中で彼が現れた目的が暗示され・・・、という話。
ほとんど、全部書いてしまいましたが、前述したように、ストーリーを楽しむ小説ではないので、ネタバレ云々は、問題にならないと思います。 1977年のアメリカ映画に、≪オー!ゴッド≫というのがありますが、日本のテレビでも放送したので、現在、50歳以上の人なら、見ている人が多いでしょう。 ストーリーの大枠は、大体、あれと似てます。 単に、ストーリーを楽しむだけなら、≪オー!ゴッド≫を見た方が、面白い。
実は、女のバラバラ死体も、ベーカリーも、美大生も教授も、裁判も、テレビ特番も、ただの道具立てに過ぎず、この作品の眼目は、「造物主が、全宇宙のプログラム(モナド)を作り、全宇宙で起こる全ての事は、そのプログラムに従っている」という設定に於ける宇宙の仕組みを解説する事にあります。
裁判の方では、GODが本物の造物主である事が証明され、テレビ特番の方で、人類や地球の問題を含む、宇宙の真理が語られます。 どちらも、GODが質問に答える問答形式で進行し、特番の方では、一般視聴者がついて来れるようにと、極力優しい言葉で語られるので、読者にとっても分かり易い説明になっています。
哲学を、一般人に理解できるように語るには、会話形式で進行するのが一番でして、実は、それでも、難しい事は難しいのですが、他の書き方よりは、遥かに分かり易いです。 この点、プラトンの「対話編」に倣っていると思われますが、テレビの討論番組の形を利用したのは、筒井さんらしい工夫だと思います。
その、宇宙の真理の内容ですが、テーマ、一つ一つに喰いついていると、どえりゃあ長さになってしまいますから、それはやめるとして、これから、この本を読もうという人に、いくつか、注意喚起だけして、感想に代えようと思います。 感想文としては、最初から逃げを打っているわけで、ズルいのですが、私は、そういう人間なんですよ、と開き直っておきましょう。
なんつーかそのー、私は、こういう、神仏問題や、宇宙のことわり問題については、もう、自分なりに答えを出してしまっていて、死ぬ準備に余念がないステージに入っている人間でして、今から、バックして、神の本質がどうの、宇宙の始まりがこうのと、頭がキリキリするような難しい問題に、もう一度浸かる気になれんのですわ。
いや、別にこれは、私が筒井さんより、先に進んでいるというわけではなく、筒井さんは、作家として、今まで、この種の問題に、積極的に触れて来なかったから、最後の長編で、考えを述べておこうと思ったのだと思います。 単なる読者であり、一般人に過ぎない私には、そういう義務も責任もないというだけの違い。 ちなみに、≪ジーザス・クライスト・トリックスター≫とは、テーマが全く異なるので、そちらから類推するのは、無理です。
で、注意喚起ですが、この小説に於ける、GODの扱いは、明らかに、「インテリジェント・デザイン」に従っており、科学的には、全く、根拠がありません。 「インテリジェント・デザイン」については、検索すれば、いくらも説明が読めますから、自分で調べてみてください。 それが面倒臭いという方に、一言で説明すると、「この宇宙は、造物主が創ったものである」という考え方です。
「当たり前ではないか」と思った人は、近代以降の科学が、神の否定からスタートしている事を思い出してください。 神の問題は、非常に厄介でして、その最たるものが、これだけ、科学技術の恩恵にドブ浸けされている現代でも、神の存在を信じている人が、明らかに多数派として存在しているという事です。 困った時だけ神頼みする人を含めると、圧倒的多数になります。
「当たり前ではないか」と思った人は、その多数派に属するわけだ。 それが、科学と真っ向から対立する考え方だという事に気づいていないのかも知れません。 「科学は科学で、その成果は享受するが、神は神で、別の問題」という扱い方をしているのでしょう。 ところが、両者の接合点というのがあり、「宇宙は、神によって創られた」と言ってしまうと、科学者は、色めきたって、「おいおいおい、ふざけるなよ!」という反応になるわけだ。
インテリジェント・デザインという考え方は、割と最近、アメリカで出て来たものです。 アメリカでは、昔から、「神が人間や動物を創った」という聖書の教えを信じるキリスト教関係者が、学校でダーウィンの進化論を教えている事に、抗議してきた歴史があるのですが、その宗教界からの圧力が、戦法を変えて、搦め手から攻めて来たのが、インテリジェント・デザインなのです。
「進化論も、ビッグ・バン理論も認めるが、その大元は、神が創ったものである」
「宇宙の法則を決めて、最初のスタート・ボタンを押したのは、神だ」
というわけです。 科学の成果と矛盾しないという点で、一見、科学的なように見えますが、その実、これは、「否定的証明」に過ぎません。 つまり、「宇宙を作った神が存在しなかった事は、証明できない」というだけの事です。 「肯定的証明」、つまり、「宇宙を作った神が存在した事は、証明できる」というのでなければ、科学的な根拠とは言えず、「否定的証明」の別名は、単なる、「空想」です。 ちなみに、空想を信じてしまうと、「妄想」になります。
インテリジェント・デザインを言い出した人達は、とりあえず、科学者達に、神の存在を認めさせる足がかりを作り、行く行くは、聖書の教えそのものを信じさせるつもりだったのかも知れませんが、科学者を納得させる為に、キリスト教以外の宗教の神も、造物主として認めてしまったせいで、同志であるはずのキリスト教界からも、「妥協のし過ぎ」と見られ、もちろん、科学者達からは、「そんな考え方は、一点たりとも認めるわけには行かない」と突っぱねられて、今では、宙ぶらりんな立場に置かれているようです。
でねー、その、現状いいとこなしの、インテリジェント・デザインが、この小説の、拠って立つ基盤になっているんですよ。 困ったね、こりゃ。 作中に、ダーウィンと聖書の問題が、ちらっと出て来ますから、筒井さんが、インテリジェント・デザインの問題を知らないわけがないのですが、なんだってまた、こんな危なっかしい考え方を、作品に取り入れてしまったのか。
「これは、あくまで、小説であって、その中に出て来る理論や考え方を、作者が信じている事にはならない」
というのは、承知しているのですがね。 この小説がもし、もっと軽いテーマを扱ったもので、インテリジェント・デザインを皮肉るような話であれば、別に、何とも思わないのですが、そんなところは微塵も感じなくて、作者自身が、宇宙をプログラムしたGODの存在を信じ込んでいるように、自信満々で書かれているから、こちらは、頭を抱えてしまうのです。 ほんとにいいんですか、最後の長編が、これで?
せめて、この小説が、SFである事を、もっと、はっきり書いていてくれたら、心安く読めるのですが・・・。 ほとんどの人が、SFとは思わず、哲学・宗教を真剣に語っている作品として読むと思うのです。 「多元宇宙の部分だけが、SFで、GODの存在や問答部分の内容は、作者が本気で、そう信じていて、自分の信念を小説の形で表現したのだ」と取ると思うのです。
そういえば、読んでいる途中で、ふと思ったのですが、GODの真似なら、できない事はないですな。 作中で、GODが造物主として、人々から認められた理由は、質問に対するGODの回答と、いくつかの奇跡を見せたからなのですが、回答の方は、哲学や宗教学を勉強して、矛盾がない宇宙論を頭に入れておけば、簡単にできます。
奇跡の内、言い当ての方は、ホット・リーディングで、楽勝。 予言の方も、予め、信者を獲得しておいて、示し合わせれば、さほど難しくはありません。 催眠術を使うまでもなく、柿崎翔太役や、彼を治療した医師役も、信者にやらせれば、問題なし。 サウジアラビアでのテロの犠牲者も、「GODの為なら、死んでもよい」という狂信的信者を、38人揃えれば、実現できます。 今のような御時世では、あながち、荒唐無稽な方法とも言えますまい。
さて、実際に、そういう事をやってみたとして、世間がGODを、造物主として認めてくれるかどうかとなると、かなり、怪しいですねえ。 肝心の奇跡が、トリックで説明がつくのでは、とても、信用してもらえないでしょう。 神の手下を騙って、多くの信者を集めた者はいますが、神そのものとなると、事が大きくなってしまって、ボロが出るのを隠しきれなくなると思います。 いや、そんな事は、この小説の評価とは、関係ない事ですけど。
筒井さんの最高傑作にして、おそらくは最後の長編だというのに、ああだこうだと貶しまくってしまいましたが、「些か、注意点もある」という事を頭の隅に置いた上で、この種の問題について勉強する際の参考にするのであれば、問答部分は、大変、面白いです。 私は、借りて来た本では珍しく、三回読み直しましたが、三回とも、面白かったです。
いやあ、こういう感想は、まずいなあ。 筒井さんは、高評価されると、やる気になるタイプでして、もっと書いて欲しかったら、問題があっても、誉めた方がいいのです。 だけど、インテリジェント・デザインの評判の悪さを思うと、誉められる部分が、大変、限定されてしまって、どうしても、こんな感想になってしまうのです。
では、「おりゃ、インテリジェント・デザインなんて知らねー。 GODに会いたいなー。 ちょっとでいいから、自分の未来を教えて欲しいなー」という程度の姿勢で読める読者なら、面白いかと言うと、そうでもなくて、そういう読者には、逆に、内容が難し過ぎると思います。 哲学用語が出て来た時点で、理解を諦めてしまうでしょう。 結局、この作品を、諸手を挙げて絶賛・歓迎するのは、インテリジェント・デザイン主義者だけという事になってしまうのですが・・・、ほんとに、それでいんですかねえ。
感想文は、以上です。 いっや~、長かったなあ。 本そのものを読むのにかかった時間より、感想文を書いている時間の方が、長かったんじゃなかろうか? 一円にもならず、誰にも誉められないのに、どえらい手間と時間をかけて、こんな長文、書く意義があるのかのう?と、つくづく思う次第。
私は別に、作家の方々のオマケとして生きている人間ではないわけで、もっと、自分自身の為に、残りの人生を使った方がいいのかも。 だけど、これと言って、やる事も、やりたい事もないんだよね。 で、結局、読書で時間を潰す事になり、自動的に、また、感想文を書かねばならなくなるわけだ。
≪モナドの領域≫の方は、新聞の書評で、出た事は知っていたのですが、どうせ、しばらくは、予約が多くて、読めないだろうと思って、おっとり構えていたもの。 ≪世界はゴ冗談≫を読んだ勢いで、≪モナドの領域≫の予約状況を調べてみたら、割と早く借りられそうだったので、私も予約を入れておき、空き次第、読んだという次第。
ところで、≪世界はゴ冗談≫の方はともかく、≪モナドの領域≫に関しては、かなり、辛辣な感想文になってしまいました。 筒井作品の熱心なファンの方は、気分を害するかも知れない事を、お断りしておきます。 ただ、≪モナドの領域≫を読んで、何の疑念も抱かないまま、心酔してしまったような方は、逆に、胸糞悪くても、読んだ方がいいと思います。
≪世界はゴ冗談≫
新潮社 2015年
筒井康隆 著
≪世界はゴ冗談≫は、短編集です。 2010年から、2015年までに発表された短編小説が9作と、2014年の随筆が1作、収録されています。 若い頃から変わりなく、短編小説を書き続けてくれているのは、大変、ありがたい事です。 つくづく思うのですが、こんなに読者サービスに篤い作家は、稀です。 晩年に大ブームが来て、新作長編を書いてくれた横溝正史さんのファンと、筒井さんのファンで、幸せ比べができそうなくらい。 ちなみに、私は両方のファンですが。
筒井さんの最近の短編は、若い頃や、文壇席巻した頃のそれとは、だいぶ、趣きが異なるのですが、「年齢のせいで、衰えた」という感じがせず、「成長を続けている」とまでは言わないものの、「変化を続けている」と感じられるのは、凄いです。 恐らく、書き続けている限り、変化が停まる事がないのではないかと思います。
最も人気が高かった時期に、予め、「メタ・フィクション」や「小説とは、形式から自由な文芸」という考え方を読者に広めてあったから、読者側は、筒井さんの小説が、どんな風に変化しても、一見、「やっつけではないのか?」と疑える作品であっても、「それこそが、この作品の価値」として、受け入れざるを得ないんですな。 意図的に、そういう風に、読者を教育したのかどうか分からないのですが、恐ろしく頭のいい人だから、満更ありえない話ではないです。
それはともかく、短編集の感想文は、書く前から、気が重いっすねー。 長編なら、10段落くらい書けば、結構、細かく評した事になりますが、10作入った短編集だと、10段落書くとしても、1作に1段落しか割けない事になり、それでは、ツイッターになってしまいます。 内容紹介は、一行で片付けるとしても、1作あたり、最低でも、2段落は欲しいところ。 書く前に、そういう計算をしているのだという事を、念頭に置いて、読んで下さい。
そういや、ネット上で、他人が書いた、小説作品の感想を読んでいると、異様に長い文章にぶつかって、驚く事があります。 感想というより、評論ですわ。 そういう人って、文芸評論家を目指して、勉強した経歴でもあるんでしょうなあ。 しかし、ざっと見渡して、100行を超える評論となると、如何に中身が濃くても、全部、読む気になれません。 そんな長い評論を読む時間があったら、別の小説を読む方に回します。
短編の感想文が長くなってどうこう、という以前に、前置きが長いんだよ。 さっさと始めましょう。
【ペニスに命中】
異様に行動力の旺盛な、実質、認知不全、自称、「互換症」の老人が、街に繰り出して、行き当たりばったりで、やりたい放題やりまくる話。 やりたい放題の雰囲気が、【アノミー都市】に似ていますが、こちらは、周囲はまともで、語り手である主人公の、頭がイッてしまっている設定なので、より、過激です。
これ、すげーなー。 「fracora」のCMじゃないけど、筒井さんを全然知らない人に読ませて、「突然ですが、この小説、何歳の人が書いたと思います?」と街頭インタビューしたら、「80歳」と当てられる人は、一人もいないと思います。 いや、普通、何歳でも書けないでしょうねえ。
公民館に入り込み、講師にすりかわって、≪源氏物語≫について、自説をぶちかますところは、源氏を読んでいる人間には、爆笑物ですな。 この小説の、この件りを楽しむ為だけに、源氏物語を全帖読む価値があると言っても、過言ではない。 警察での取り調べの場面も面白いです。 たぶん、筒井さんも、自分が警察の取調べを受ける様子を想像して、いかに、刑事を煙に巻くか、案を練った事があるんでしょうなあ。 私が想像すると、必要以上に神妙になったり、逆に暴力的になってしまったりしますが、この作戦は、鮮やかだわ。
【不在】
ある大震災の後、男の赤ん坊が全く生まれなくなってしまい、歳月の経過と共に、高齢化し減って行く男達の代わりに、女があらゆる業種に従事するようになった世界で、それまでいた者がいなくなる事を共通したモチーフに、個別のエピソードが並行して語られる小説。
男が生まれなくなった世界というと、性別逆転大奥と同じアイデアですが、こちらは、「喪失」がテーマでして、誰もいない葬儀場に独り取り残されたような、寂しさ、虚しさが漂っています。 純文学では、こういう、雰囲気重視の短編は、よく見られますが、失うばかりで、全く救われないので、読んでいて楽しい小説ではないです。
大震災がきっかけになっていますし、2012年の作品なので、もしかしたら、福島第一の事故から、こういう大規模な異常の発生を発想したのかも知れません。 ただ、人が消えるエピソードは、どれも、原因の説明がないので、単に、似たようなエピソードを寄せ集めたような気がせんでもなし。
男が少なくなっているから、高齢でも、モテるわけですが、こういう状況でモテても、嬉しくはないでしょうねえ。 却って、鬱陶しいと思います。 おちおち、散歩もできやしない。
【教授の戦利品】
蛇の専門家である教授が、蛇が生理的に嫌いな連中を相手に、蛇を使って、やりたい放題やりまくる話。 これを言ってしまうと、人間の程度がバレてしまいそうですが、私は、こういう話が大好きでして・・・。 なんで、こんなに楽しいのかな? また、この小説、話の流れが、立て板に水で、素晴らしいんですわ。 ノリノリという感じ。 食べると若返るという、架空の蛇も出て来ますが、その部分がなかったとしても、十二分に面白いです。
不思議なのは、蛇について、物凄く細かく調べて、書いているわけではないという点でして、ネットがある御時世ですから、調べようと思えば、誰でも、短時間で、このくらいの知識は得られると思うのですが、では、他の人が、こういう小説を書いて、面白くなるかというと、たぶん、全然、駄目だと思うのですよ。 この匙加減は、名人芸としか言いようがありません。
こういう話こそ、≪夜にも奇妙な物語≫で映像化すべきでしょうな。 蛇嫌いのタレントを集めて。 演技を超越した迫力が出るに違いない。
【アニメ的リアリズム】
バーで泥酔した男が、車に乗って帰ろうとする、ただ、それだけの事を、男の目線で描写した話。 8ページの短さです。 私が、酒を飲まない人間で、泥酔体験がないからかも知れませんが、あまり、面白いとは感じませんでした。 しかし、もし、ここまで酔ったら、それはもう、薬物使用レベルの感覚になるんでしょうなあ。 そのまま、逝ければ、幸せというべきか。
【小説に関する夢十一夜】
≪着想の技術≫という本に、筒井さんが、夢で得た着想を書き留めていると書いてありましたが、たぶん、その中から、小説に関する夢だけを、11篇、集めたものと思われます。 小説というよりは、小話で、ほとんどに、オチがついています。 大笑いするほどではないですけど、ニヤニヤするには、充分。
私の好みでは、「幽霊に小説を書かせる話」と、「被災地で文芸復興する話」、「失恋小説を書けない話」が面白かったです。 夢の中で、ダジャレが出て来たり、オチがついていたりするのは、興味深いです。 私も、眠れば、必ずと言っていいほど、夢を見ますが、そういう気の利いた夢は、まず見ません。 アイデアを考えなければならないという圧迫がないからでしょうか。
【三字熟語の奇】
2352個の三文字熟語を並べたもの。 冒頭から、2197個は、普通の三字熟語で、別に仕掛けのようなものは施されていないようです。 残りの155個が読みどころでして、「怪岸線、愚体化、卒倒婆、度量昂」などの、差し替え言葉で埋め尽くされています。 あまりたくさん、引用すると、読む楽しみがなくなってしまうから、控えておきます。
もし、全部、差し替え言葉になっていたら、凄かったでしょうねえ。 ・・・、もしかしたら、普通の三字熟語、2197個の中にも、差し替え言葉が混じっている可能性がありますが、私ももう、歳でして、全部に目を通す気力がありません。 それにしても、これを、「文學界」に出したというのが、凄い話。
【世界はゴ冗談】
三部に分かれています。 しかし、互いの関連性は、なさそうです。 寄せ集めたんですかね? なぜ、これが表題作になっているのか、首を傾げたくなるところ。
・ 太陽黒点の増加で、磁場が狂い、鯨が大移動を始めたり、旅客機が操縦不能になったりする話。
・ 王家の跡継ぎが決まる因果関係に関する夢を、ある男が見る話。
・ 家電製品や、カーナビの機会音声が、混信を始め、えらい事になってしまう男の話。
それぞれの話を単独で読んでも、アイデアをよく練らない内に書き始めて、結局、纏まりが悪いまま、最後まで行ってしまったような感じ。 第二作は、もう一捻りすれば、面白くなりそうなのですが、その前に終わってしまいます。 第三作は、この中では、一番、纏まりがいいのですが、機械音声の混信というアイデアは、すでに、どこかの芸人に使われている気がしないでもないです。
【奔馬菌】
冒頭からシュールで、ストーリーが暴れまくっていると思ったら、いきなり、小説が書けなくなった理由を吐露した随筆のようになり、思いついた事を、片っ端から書き付けているような、メタにして滅茶苦茶な展開に驚かされるのですが、3分の1くらい行ったところで、ようやく、落ち着き、家に戻った主人公が、とある気象プロジェクトの為に、政府から送り込まれたと思われる三人の男達に連れて行かれそうになる話になります。
歳を取ってから、若い頃に書いていたような、リミットなしの外国批判や、差別意識を全開にした作品が書けなくなってしまい、その反省から、この作品を書いたようなのですが、書けば書くほど、リミットが浮かび上がってしまっています。 別に、それが欠点というわけではなく、つまり、作品全体で、「昔のような、言いたい放題の小説は、もう書けんな」と表現しているという事でしょうか。
でもねえ、世界の大きさが広かった当時ならまだしも、このグローバル化著しい現代に、≪色眼鏡の狂詩曲≫を読んで、名作だなんて持て囃しているような連中は、遠ざけておいた方がいいと思いますよ。 剣呑な小説独特のヒヤヒヤ感を、密かに楽しんでいるのではなく、「我が意を得たり」で、大喜びしているようなやつらが相手では、絶賛されても、百害あって一利ありますまい。
【メタパラの7・5人】
まず、このタイトル。 本では、縦書きなので、分かり難いのですが、たぶん、「・」は、小数点で、「7.5人」を意味しているのではないかと思います。 この人数は、登場人物の頭数だと思うのですが、実際に登場している人の数なのか、会話の中で触れられているだけの人も含むのか、作者も含むのか、読者も含むのか、数え方が分かりません。
老画家の四十九日に、本人と妻、娘二人、妹の夫、編集者が家に集まり、娘達が幼い頃に、その姿を描いて出版し、大人気を博した絵本シリーズについて、思い出話を語りあう内に、登場人物が読者に話しかけ、作者がしゃしゃり出る、メタ・パラな小説になっていく作品。
メタ・フィクションは分かりますが、パラ・フィクションというのは、「(作者による)、読者を小説の中に捉えようとするさまざまな試み」の事なのだそうです。 だけどまあ、冒頭から、8分目くらいまでは、単に、死んだ人が出て来て、生きている人間と、普通に会話をしている、幽霊物という感じです。 そこまでは、【ぐれ健が戻った】と同類と思って読んでいる人が多いのではないでしょうか。
残りの2分目で、メタ・パラになるのですが、その部分は、小説と言うより、論説のような趣きです。 そもそも、パラである前に、メタだから、何でもアリなわけですが、メタについて予備知識がない人が読むと、やはり、「なんじゃ、こりゃ?」と思うでしょうねえ。 前の8分目が、割と普通の小説っぽいから、尚の事、後ろの2分目が浮くわけです。 だけど、なにせ、メタだから、浮こうが、木に竹だろうが、一向に構わないわけで、もはや、こうなると、何でもかんでも小説にできる、魔法の杖を握っているようなものですな。
メタ・フィクションを日本に導入した筒井さんの作品だから、読者の方も、自然に受け入れられるわけですが、もし、同じような小説を、全く無名の人間が、新人賞に応募したら、確実に予備選考で落とされるでしょうねえ。 「芸術は、過程ではなく、結果だ」とは、よく言われますが、実際には、そんな事はなくて、作者の知名度や経歴が大いに物を言う世界なんですな。
【附・ウクライナ幻想】
これは、小説ではなく、随筆です。 内容的には、回想録っぽいです。 2014年の2月から始まった、「ウクライナ危機」を受けて、筒井さんが、かつて、日本の作家として、ソ連を訪問した時の思い出や、ロシアの英雄譚、【イリヤ・ムウロメツ】を書くに至った経緯、そのストーリーの概要を書き綴ったもの。
もしかしたら、ロシア政府批判や、ウクライナの新政府批判など、剣呑な主張が含まれているのではないかと、地雷原を進む気持ちで、ヒヤヒヤしながら読んだのですが、そういう事は全くなくて、ただただ、懐かしい思い出に浸りつつ、危機の行方を案ずるという、じょぼじょぼに叙情的な内容でした。 常に対象を突き放して見ている筒井さんが、こんなに叙情的な文章を書くのは、大変、珍しいです。
私は、【イリヤ・ムウロメツ】は、「ショートショートランド」に連載されていた頃に、初めて目にして、数年前に、文庫も手に入れているのですが、未だに、通して読んでいません。 筒井さんの作風と、全く違うので、何となく、入って行けないのです。 筒井さんや、【イリヤ・ムウロメツ】に挿絵を描いた手塚治虫さんは、昭和17年(1942年)に出版された漫画、【勇士イリヤ】から、大きな影響を受けたらしいのですが、どうやら、その漫画が、よほど、面白かったものと思われます。 だけど、小説になると、なかなかねえ・・・。 いや、閑人ですから、その内、読みますけどね。 単なる、読まず嫌いなのかも知れないし。
≪モナドの領域≫
新潮社 2015年
筒井康隆 著
帯のコピーは、
「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長編」
なのですが、頭のいい人というのは、戦略的に嘘をつくので、こういうのは、とりあえず、疑ってかからねばなりません。 「おそらくは最後の長編」というのは、「おそらく」で逃げ道を作ってありますし、おそらく、この作品を書いた時点では、本当に、そう考えていた可能性が高いので、まあ、問題ないとして、「わが最高傑作」というのは、嘘ですな。 ただ、これも、「自分が、そう思っているのだ。 主観の問題なのだ」という逃げ道があり、嘘の立証は困難です。
だけど、これを「最高傑作」と言ってしまうと、長編に限るとしても、≪虚航船団≫や、≪パプリカ≫の位置づけに困ってしまうと思うのですよ。 物語としては、型に嵌まったもので、メタのような仕掛けは、ほんのちょっとしか使われていません。 話がこじんまりしていると感じられるのは、本来、短編に使われる枠を用いているからだと思います。 問答部分で膨らませているんですな。 それが、哲学問答なので、哲学に全く興味がない読者には、読み通すだけで、つらいと思います。
河川敷で女の腕が、公園で脚が発見され、バラバラ殺人を念頭に刑事達が捜査を始める中、近くのベーカリーで、アルバイトの代役として雇われた美大生が作った、女の腕そっくりのパンが話題になり、人気を集める。 その美大生から、美大の教授へ、引き継ぐ形で、何者かが憑依し、彼は、「神に近いもの」と称して、人々の信仰を受け始める。 やがて、彼は、自ら起こした傷害事件の裁判を経て、「GOD」と呼ばれるようになり、テレビの特番に出演して、創造主、宇宙、人類の関係について語り、その中で彼が現れた目的が暗示され・・・、という話。
ほとんど、全部書いてしまいましたが、前述したように、ストーリーを楽しむ小説ではないので、ネタバレ云々は、問題にならないと思います。 1977年のアメリカ映画に、≪オー!ゴッド≫というのがありますが、日本のテレビでも放送したので、現在、50歳以上の人なら、見ている人が多いでしょう。 ストーリーの大枠は、大体、あれと似てます。 単に、ストーリーを楽しむだけなら、≪オー!ゴッド≫を見た方が、面白い。
実は、女のバラバラ死体も、ベーカリーも、美大生も教授も、裁判も、テレビ特番も、ただの道具立てに過ぎず、この作品の眼目は、「造物主が、全宇宙のプログラム(モナド)を作り、全宇宙で起こる全ての事は、そのプログラムに従っている」という設定に於ける宇宙の仕組みを解説する事にあります。
裁判の方では、GODが本物の造物主である事が証明され、テレビ特番の方で、人類や地球の問題を含む、宇宙の真理が語られます。 どちらも、GODが質問に答える問答形式で進行し、特番の方では、一般視聴者がついて来れるようにと、極力優しい言葉で語られるので、読者にとっても分かり易い説明になっています。
哲学を、一般人に理解できるように語るには、会話形式で進行するのが一番でして、実は、それでも、難しい事は難しいのですが、他の書き方よりは、遥かに分かり易いです。 この点、プラトンの「対話編」に倣っていると思われますが、テレビの討論番組の形を利用したのは、筒井さんらしい工夫だと思います。
その、宇宙の真理の内容ですが、テーマ、一つ一つに喰いついていると、どえりゃあ長さになってしまいますから、それはやめるとして、これから、この本を読もうという人に、いくつか、注意喚起だけして、感想に代えようと思います。 感想文としては、最初から逃げを打っているわけで、ズルいのですが、私は、そういう人間なんですよ、と開き直っておきましょう。
なんつーかそのー、私は、こういう、神仏問題や、宇宙のことわり問題については、もう、自分なりに答えを出してしまっていて、死ぬ準備に余念がないステージに入っている人間でして、今から、バックして、神の本質がどうの、宇宙の始まりがこうのと、頭がキリキリするような難しい問題に、もう一度浸かる気になれんのですわ。
いや、別にこれは、私が筒井さんより、先に進んでいるというわけではなく、筒井さんは、作家として、今まで、この種の問題に、積極的に触れて来なかったから、最後の長編で、考えを述べておこうと思ったのだと思います。 単なる読者であり、一般人に過ぎない私には、そういう義務も責任もないというだけの違い。 ちなみに、≪ジーザス・クライスト・トリックスター≫とは、テーマが全く異なるので、そちらから類推するのは、無理です。
で、注意喚起ですが、この小説に於ける、GODの扱いは、明らかに、「インテリジェント・デザイン」に従っており、科学的には、全く、根拠がありません。 「インテリジェント・デザイン」については、検索すれば、いくらも説明が読めますから、自分で調べてみてください。 それが面倒臭いという方に、一言で説明すると、「この宇宙は、造物主が創ったものである」という考え方です。
「当たり前ではないか」と思った人は、近代以降の科学が、神の否定からスタートしている事を思い出してください。 神の問題は、非常に厄介でして、その最たるものが、これだけ、科学技術の恩恵にドブ浸けされている現代でも、神の存在を信じている人が、明らかに多数派として存在しているという事です。 困った時だけ神頼みする人を含めると、圧倒的多数になります。
「当たり前ではないか」と思った人は、その多数派に属するわけだ。 それが、科学と真っ向から対立する考え方だという事に気づいていないのかも知れません。 「科学は科学で、その成果は享受するが、神は神で、別の問題」という扱い方をしているのでしょう。 ところが、両者の接合点というのがあり、「宇宙は、神によって創られた」と言ってしまうと、科学者は、色めきたって、「おいおいおい、ふざけるなよ!」という反応になるわけだ。
インテリジェント・デザインという考え方は、割と最近、アメリカで出て来たものです。 アメリカでは、昔から、「神が人間や動物を創った」という聖書の教えを信じるキリスト教関係者が、学校でダーウィンの進化論を教えている事に、抗議してきた歴史があるのですが、その宗教界からの圧力が、戦法を変えて、搦め手から攻めて来たのが、インテリジェント・デザインなのです。
「進化論も、ビッグ・バン理論も認めるが、その大元は、神が創ったものである」
「宇宙の法則を決めて、最初のスタート・ボタンを押したのは、神だ」
というわけです。 科学の成果と矛盾しないという点で、一見、科学的なように見えますが、その実、これは、「否定的証明」に過ぎません。 つまり、「宇宙を作った神が存在しなかった事は、証明できない」というだけの事です。 「肯定的証明」、つまり、「宇宙を作った神が存在した事は、証明できる」というのでなければ、科学的な根拠とは言えず、「否定的証明」の別名は、単なる、「空想」です。 ちなみに、空想を信じてしまうと、「妄想」になります。
インテリジェント・デザインを言い出した人達は、とりあえず、科学者達に、神の存在を認めさせる足がかりを作り、行く行くは、聖書の教えそのものを信じさせるつもりだったのかも知れませんが、科学者を納得させる為に、キリスト教以外の宗教の神も、造物主として認めてしまったせいで、同志であるはずのキリスト教界からも、「妥協のし過ぎ」と見られ、もちろん、科学者達からは、「そんな考え方は、一点たりとも認めるわけには行かない」と突っぱねられて、今では、宙ぶらりんな立場に置かれているようです。
でねー、その、現状いいとこなしの、インテリジェント・デザインが、この小説の、拠って立つ基盤になっているんですよ。 困ったね、こりゃ。 作中に、ダーウィンと聖書の問題が、ちらっと出て来ますから、筒井さんが、インテリジェント・デザインの問題を知らないわけがないのですが、なんだってまた、こんな危なっかしい考え方を、作品に取り入れてしまったのか。
「これは、あくまで、小説であって、その中に出て来る理論や考え方を、作者が信じている事にはならない」
というのは、承知しているのですがね。 この小説がもし、もっと軽いテーマを扱ったもので、インテリジェント・デザインを皮肉るような話であれば、別に、何とも思わないのですが、そんなところは微塵も感じなくて、作者自身が、宇宙をプログラムしたGODの存在を信じ込んでいるように、自信満々で書かれているから、こちらは、頭を抱えてしまうのです。 ほんとにいいんですか、最後の長編が、これで?
せめて、この小説が、SFである事を、もっと、はっきり書いていてくれたら、心安く読めるのですが・・・。 ほとんどの人が、SFとは思わず、哲学・宗教を真剣に語っている作品として読むと思うのです。 「多元宇宙の部分だけが、SFで、GODの存在や問答部分の内容は、作者が本気で、そう信じていて、自分の信念を小説の形で表現したのだ」と取ると思うのです。
そういえば、読んでいる途中で、ふと思ったのですが、GODの真似なら、できない事はないですな。 作中で、GODが造物主として、人々から認められた理由は、質問に対するGODの回答と、いくつかの奇跡を見せたからなのですが、回答の方は、哲学や宗教学を勉強して、矛盾がない宇宙論を頭に入れておけば、簡単にできます。
奇跡の内、言い当ての方は、ホット・リーディングで、楽勝。 予言の方も、予め、信者を獲得しておいて、示し合わせれば、さほど難しくはありません。 催眠術を使うまでもなく、柿崎翔太役や、彼を治療した医師役も、信者にやらせれば、問題なし。 サウジアラビアでのテロの犠牲者も、「GODの為なら、死んでもよい」という狂信的信者を、38人揃えれば、実現できます。 今のような御時世では、あながち、荒唐無稽な方法とも言えますまい。
さて、実際に、そういう事をやってみたとして、世間がGODを、造物主として認めてくれるかどうかとなると、かなり、怪しいですねえ。 肝心の奇跡が、トリックで説明がつくのでは、とても、信用してもらえないでしょう。 神の手下を騙って、多くの信者を集めた者はいますが、神そのものとなると、事が大きくなってしまって、ボロが出るのを隠しきれなくなると思います。 いや、そんな事は、この小説の評価とは、関係ない事ですけど。
筒井さんの最高傑作にして、おそらくは最後の長編だというのに、ああだこうだと貶しまくってしまいましたが、「些か、注意点もある」という事を頭の隅に置いた上で、この種の問題について勉強する際の参考にするのであれば、問答部分は、大変、面白いです。 私は、借りて来た本では珍しく、三回読み直しましたが、三回とも、面白かったです。
いやあ、こういう感想は、まずいなあ。 筒井さんは、高評価されると、やる気になるタイプでして、もっと書いて欲しかったら、問題があっても、誉めた方がいいのです。 だけど、インテリジェント・デザインの評判の悪さを思うと、誉められる部分が、大変、限定されてしまって、どうしても、こんな感想になってしまうのです。
では、「おりゃ、インテリジェント・デザインなんて知らねー。 GODに会いたいなー。 ちょっとでいいから、自分の未来を教えて欲しいなー」という程度の姿勢で読める読者なら、面白いかと言うと、そうでもなくて、そういう読者には、逆に、内容が難し過ぎると思います。 哲学用語が出て来た時点で、理解を諦めてしまうでしょう。 結局、この作品を、諸手を挙げて絶賛・歓迎するのは、インテリジェント・デザイン主義者だけという事になってしまうのですが・・・、ほんとに、それでいんですかねえ。
感想文は、以上です。 いっや~、長かったなあ。 本そのものを読むのにかかった時間より、感想文を書いている時間の方が、長かったんじゃなかろうか? 一円にもならず、誰にも誉められないのに、どえらい手間と時間をかけて、こんな長文、書く意義があるのかのう?と、つくづく思う次第。
私は別に、作家の方々のオマケとして生きている人間ではないわけで、もっと、自分自身の為に、残りの人生を使った方がいいのかも。 だけど、これと言って、やる事も、やりたい事もないんだよね。 で、結局、読書で時間を潰す事になり、自動的に、また、感想文を書かねばならなくなるわけだ。
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