読書感想文・蔵出し⑲
熊本地震の映像を見て、遅れ馳せながら、家の中の家具の固定を始めたのですが、数日間、そちらに忙殺されている内に、ここの更新記事を用意するのを、うっかりすっかり忘れていました。 もう時間がないので、今回も、読書感想文を蔵出しします。 そちらの方は、いくらも、在庫があるんですよ。
前回書いたように、今現在は、ディクスン・カーの作品を続けて読んでいるのですが、その感想は、別シリーズにする予定なので、今回は、その合間に読んだ、他の作品の感想を出します。
≪仮面舞踏会≫
横溝正史自選集 7
出版芸術社 2007年
横溝正史 著
横溝正史さんの、後期の長編。 2段組で、370ページあります。 最初は、雑誌に、1962年から63年にかけて連載されたものの、第8回で、中断。 翌1964年には、横溝さんは、新作の発表をやめてしまったので、それっきりになっていたものを、1974年に、大幅に加筆して書き下ろし、「新版 横溝正史全集」に収録される形で刊行したのだそうです。 書き下ろし作品が、全集に直行というのは、珍しいのでは? それとも、私が知らないだけで、販売手法として、そういう事はよく行われるんでしょうか?
横溝正史大ブームのきっかけになった、市川崑版映画の≪犬神家の一族≫が、1976年ですから、この≪仮面舞踏会≫が完成したのは、それより前でして、私はてっきり、横溝さんが再び作品を書き始めたのは、大ブームが始まってからだと思っていたのですが、それ以前にも、過去の中断作品を完成させる執筆活動はしていたんですな。
そういう、作品の来歴に関する細かい事が、この本には、巻末付録として、36ページ分も載っているのですが、些か、量が多過ぎて、余計な情報のような気がせんでもなし。 作品の評価は、作品の中身だけですべきです。 この本を読もうとする、みんながみんな、ミステリー作家研究家じゃないんですから。
過去に四人の男と結婚離婚を繰り返し、現在、五人目と交際中の、有名映画女優の周辺で、過去の夫達が、立て続けに不審な死を遂げ、五人目の交際者である事業家に依頼された金田一耕助が、台風に直撃された直後の、夏の軽井沢に乗り込んで、長野県警の刑事達や、等々力警部らと共に捜査を進め、事業家の娘夫婦、女優の娘や姑、過去の夫達の関係者など、複雑に相関が入り乱れる中、一連の事件の真相を明らかにして行く話。
なんつーかそのー、基本的な骨格部分は、あまり、よく出来ているとは言えません。 たとえば、冒頭に出て来る、心中者の生き残り、田代信吉ですが、この人物と、本筋の登場人物達とは、非常に薄い関係しかないのに、その後、この男が果たす役割が、大き過ぎて、その点の不自然さは、際立っています。
あまりにも、大勢の人間を絡ませてしまったせいで、因縁が複雑化し過ぎて、読者に、「偶然が過ぎる」と感じさせてしまうんですな。 個々の人物の経歴について、えらい細かいところまで設定していますが、事件の謎にも関係なければ、読者への目晦ましに使われているわけでもない、全く不要な情報もあり、何でも、細かく書き込めばいいわけではないという、悪い見本みたいになってしまっています。
金田一の謎解きが、終わりの方で、延々と続くのも、読むのが辛いところ。 これでは、2時間サスペンスで、崖の上を舞台に犯人が自ら語る、長過ぎる因縁話と、鬱陶しさに於いて大差ありません。 解決場面に鮮やかさがないのは、日本のミステリー作品の、共通の欠点なんでしょうか。
横溝作品にしては、絵柄的にハッとさせられるような場面がないのも、残念です。 強いて言うなら、ゴルフ場の、赤い毛糸の場面が、色彩的に印象に残りますが、これだけ長い作品で、目を引くのがそこだけというのは、寂しいです。 冒険物の要素も欠けていて、金田一御一行が、車で軽井沢をあちこち移動するだけでは、ワクワクのしようもありません。
ところがねえ。 この作品でなければ味わえないような楽しさもあるのです。 取り調べの会話が、分量的に、大変多いのですが、その中に、他の作品とは比較にならないほど、冗談がたくさん盛り込まれていまして、ミステリーでありながら、結構、笑えるのです。 他の作品で、金田一がごく稀に口にする自嘲的冗談は、ほとんど滑っていますが、この作品のそれは、ちゃんと、笑えるレベルをクリアしています。 ただし、笑いの垣根が高い人には、冷笑されてしまうかも知れませんが。
極めつけは、「操(みさお)夫人」の存在です。 これは、凄いキャラだわ。 本筋の事件とは、間接的な関係しか持たない人物なのですが、ミステリー・ファンで、ミス・マープル的素人探偵を自認しており、推理というよりは妄想を逞しくして、喋る喋る。 この人を探偵役にして、ミステリーのパロディーを書いたら、滅茶苦茶、面白くなると思います。 横溝さんが、72歳で、このぶっ飛んだキャラを創造したというのが、驚異的。
≪蝶々殺人事件≫
横溝正史自選集 1 収録
出版芸術社 2006年
横溝正史 著
横溝正史さんの戦後第一作は、昭和21年(1946年)の、≪本陣殺人事件≫ですが、そちらと並行して書かれ、別の雑誌に連載されていたのが、この≪蝶々殺人事件≫です。 「横溝正史自選集 1」には、その二作が収録されています。 長さは、≪本陣≫が、2段組135ページ、≪蝶々≫が、2段組187ページ。
≪本陣殺人事件≫の方は、私が自分で文庫本を持っており、既読である上、今回改めて、読み直したわけでもないので、触れません。 未読だった、≪蝶々殺人事件≫の方だけ、感想を書きます。
新聞記者、三津木俊助は、戦後、ある出版社から、探偵小説を書くように求められ、戦時中に疎開したまま、国立に住んでいる由利麟太郎を訪ねる。 戦前、由利が解決した事件を小説にする許可を得て、三津木が選んだのが、オペラ歌手・原さくらが、「蝶々夫人」の公演の為に、自らが率いる歌劇団ごと乗り込んだはずの大阪で、コントラバス・ケースに詰め込まれた死体となって発見された事件だった。 由利を中心に、警察の捜査陣、新聞記者らが協力し、殺害現場を晦ますトリックや、原さくらと劇団関係者の因縁を明らかにして行く話。
≪本陣≫の探偵役は、ご存知、金田一耕助なのですが、並行して書かれていたにも拘らず、こちらは、由利先生です。 由利先生というのは、横溝正史さんの探偵小説で、戦前まで、探偵役を担っていた人。 三津木俊助は、その助手役です。 ≪蝶々殺人事件≫は、その由利・三津木コンビの最後の晴れ舞台として、書かれた模様。
謎解きや犯人指名をさせるだけなら、探偵役は、別に誰でもいいのであって、≪蝶々≫を、金田一物として書く事もできたはずですが、同時進行で書いていた、≪本陣≫が、金田一耕助の最初の事件という事になっていたので、≪蝶々≫で、その後の事件を書いてしまうのは都合が悪い。 そこで、由利・三津木コンビに、もう一仕事してもらったという事だと思います。
戦前の横溝作品は、探偵小説と言っても、怪奇小説的な色合いが強く、それだけだと、ちょっと読む気にならないという人も多いと思います。 由利先生は、探偵としては優れているけれど、人間的には、平均的紳士で、没個性なキャラです。 活動的な仕事を、三津木にふりわけて、役割分担させていたんですな。
戦時中、体を壊して、筆を断っていた横溝さんは、疎開していた岡山の村で、ディクスン・カーに耽溺して暮らし、戦争が終わると同時に、勇躍、「論理的な、本格トリック物を書く!」と決意し、≪本陣≫と≪蝶々≫を書き始めるのですが、論理性に拘り過ぎて、勢い余ってしまった観があり、両作とも、漫然と読むタイプの読者だと、ついていけないところがあります。 トリックの成り立つ状況が、複雑過ぎるんですな。
推理作家や、それ専門の批評家、編集者などは、目が肥えているから、どんなに複雑でも、メモを取りながらでも読みこなして、辻褄が合っている事を確認して行くのですが、普通の読者では、「そこまで、できんなあ」というのが本音でしょう。 一般読者にとって、良い探偵小説とは、トリックの意外性だけでなく、人物相関に奥行きがあり、サスペンスが盛り上がり、探偵に個性があり、事件が起こる舞台にも魅力があるという、バランスの良さではないかと思います。
≪蝶々≫で、決定的に欠けているのが、探偵の個性と、事件舞台の魅力です。 由利先生は、やはり、怪奇風味の強い作品用に創られた探偵で、論理的トリックものでは、キャラが薄過ぎて、話がギスギスしてしまうのを和らげる力がありません。 事件舞台の方も、東京・大阪間を行ったり来たりしているだけで、何の変哲もないホテルやアパートが現場では、ゾクゾクのしようがありません。 その点は、同じ、トリックやりすぎの作品でも、≪本陣≫の方が、ずっと優れています。
映像化する事を想定してみれば、≪蝶々≫の見せ場は、コントラバス・ケースの中から死体が発見される所だけで、それは、むしろ、事件の発端なのですから、その後の見せ場を用意するのに、困り果ててしまうでしょう。 謎解きも、単に、部屋に集まって、由利先生が話をするだけではねえ。 本格トリック好きの人達からは、評価が高いそうですが、一般読者向けとは言えない作品だと思います。
≪黒蜥蜴≫
角川文庫
角川書店 1973年
江戸川乱歩 著
これは、家にあった、母所有の文庫本。 製本工場に勤めていた父方の叔父から貰ったもので、初版です。 中編二作、【黒蜥蜴】と【妖蟲】が収録されています。 【黒蜥蜴】は、昭和9年(1934年)に雑誌連載。 【妖蟲】は、昭和8年(1933年)から、9年にかけて、別の雑誌に連載。 ほぼ、同時期に書き進められたものだそうです。
【黒蜥蜴】の方は、有名なダイヤを狙い、宝石商の娘の略取を企てる女盗賊と、明智小五郎が戦う話。 【妖蟲】は、美しい女性を略取して殺害し、死体を曝す、猟奇的な一味と、老探偵・三笠竜介が対決する事になります。 どちらも、知略を尽くして、騙し合い、化かし合いを繰り広げます。
二つ別々の作品なのに、なんで、二把一絡げに感想を書いているのかというと、真面目に分析する気にならないからです。 私は前々から、日本社会に於ける、江戸川乱歩さんの作品の評価は、高過ぎると思っていたのですが、この二作を読んで、ますます、その思いを強くしてしまった次第。 これは、大人の読み物ではないと思うのですよ。
映画にすれば、R指定がつくような場面が含まれていますが、だからといって、大人向けの話とは言えないわけで、話の作り方自体に、元々、子供向けに書かれた≪少年探偵団シリーズ≫と、大きな違いが見られないのです。 さまざまなトリックが使われますが、本格推理物を読み込んだ読者を唸らせるようなものは、皆無です。 はっきり言わせてもらうと、子供騙しのレベル。
また、文章が、どうにも古臭い、講談調でして、もしかしたら、発表当時の大衆向け小説では、こういうのが普通だったのかもしれませんが、戦後に生まれ育った世代には、ただただ陳腐でしかなく、物語の緊張感を殺ぐ事、甚だしいものがあります。 たとえば、≪オリエント急行殺人事件≫でも、≪ナイル殺人事件≫でも構いませんが、アガサ・クリスティー原作の映画を、サイレント仕立てにして、活動弁士に語らせたら、「なんじゃ、こりゃ?」と、眉を顰めない人はおりますまい。 どんなによく出来たミステリーでも、文体が相応しくなければ、台なしになってしまいます。 まして、よく出来ていないのですから、尚の事、ひどい。
人物造形がスカスカで、一人一人の性格が描き分けられていない点も、呆れてしまいます。 いや、呆れを通り越して、驚いてしまうと言った方が適当でしょうか。 将棋で言えば、盤面に、「歩」だけ並べて、戦っているような感じです。 明智小五郎でさえ、何を考え、何を思っているのか、さっぱり分かりません。 乱歩という人は、人間を描く事に、何の興味も感じていなかったのかも知れませんなあ。
江戸川乱歩さんの小説は、みんな、そんな感じなのに、妙に評価が高いのは、子供の頃、乱歩作品で読書習慣を身に着けた人達が、驚くくらいたくさんいて、三つ子の魂百までとばかりに、その人達が、乱歩作品を決して貶さないものだから、誉められる一方で、実際の価値以上に持ち上げられてしまっているのだと思うのです。
その気持ちは分からんではないですが、私情を挟まず、ちょっと突き放して見れば、これらの作品群が、紙芝居のネタ以上のものではない事は、すぐに分かるはず。 乱歩作品を映像化すると、みんな、紙芝居レベルになってしまうのは、原作が紙芝居レベルだからです。 紙芝居を愛している人は、気を悪くするでしょうが、ノスタルジーを抜きにして大人が見るものではない事は、認めてくれると思います。
随分、貶して来ましたが、実は、これでも、好意的に見た方でして、本来なら、子供騙しですから、「評価外」の一言で終わりにするところです。 これから読もうと思っている人は、読むなとは言いませんが、「あれ? 少年探偵団シリーズと変わらないじゃないか」と気づいた時点で、読むのをやめた方が、時間を無駄にせずに済みます。 最後まで、そんな調子ですから。
≪暁の死線≫
世界推理小説大系22 収録
東都書房 1963年
ウィリアム・アイリッシュ 著
稲葉由紀 訳
「世界推理小説大系」という全集で、カーの≪黒死荘の殺人≫を読んだ時に、同じ本に入っていたから、ついでに読んだのですが、この作者の名前は知りませんでした。 何でも、江戸川乱歩氏が、この作者の≪幻の女≫という作品を絶賛して、有名になったのだとか。 しかし、今の状態では、21世紀まで、名前が残った作家とは、言い難いですなあ。 知る人ぞ知るレベルではないかと思います。
田舎から都会に出て来て、夢破れたにも拘らず、都会の魔力に捉えられて、なかなか故郷へ戻れない若い女が、ある晩、たまたま、同郷の青年と出会い、二人一緒なら、都会から逃げ出せるかも知れないと思ったものの、青年は、金持ちの家から、大金を盗んで来た直後だった。 二人で、こっそり、金を戻しに行ったら、そこには、家の主の死体が横たわっており、故郷に戻るバスが出る朝6時までに、真犯人を見つけなければならなくなる話。
この作者、時間的リミットを設けて、それまでに事件を解決させる事で、サスペンスを盛り上げる手法を得意としていたようです。 だけど、どうして、その日の朝6時まででなければいけないのかという理由が、女の気持ちの問題だけで説明されており、些か、というより、だいぶん、弱いです。 こんな気分屋の女では、主人公として相応しくありますまい。
それでいて、殺害現場に行くと、不自然な程に積極的で、真犯人を捕まえなければならないと、青年に発破をかけるのですが、そんなに、決断力があるのなら、故郷に戻る決心くらい、簡単にできそうなものです。 一人の人物に、まるで正反対の性格を、二人分盛り込んでしまったように思えるのですが、作者が、それに気づいていないのは、主人公の造形として、致命的欠陥と言えるでしょう。
6時間弱の間に起こった事だけを書いてあるので、映像作品にしたら、おそらく、2時間もあれば、全部描ききれるはず。 1980年に、≪赤い死線≫というタイトルで、日本でドラマ化されたそうですが、その時の長さは、94分だったとの事。 ちなみに、山口百恵さんと三浦友和さんが主演。 私は、確実に見ているはずなのですが、ラスト・シーン以外、中身を全く覚えていません。
三段組で、132ページもあって、文庫にすれば、かなり厚い本になると思うのですが、たった、6時間弱の事を描いているのに、そんな文章量になってしまうのは、情景描写が、異様に細かいからです。 はっきり言って、細か過ぎて、鬱陶しいです。 こんなのを、「情景描写に秀でている」などと評価するからいけないのであって、「くどい」と、一刀両断してやった方が良かったんじゃないでしょうか。
文章の8割くらいが、情景描写なのに、セリフのところだけ読んでも、ストーリーが分かるというのは、つまり、それらの情景描写が、情報として機能していない証拠です。 こんな事をやっているから、アメリカ文学は、小馬鹿にされるのですよ。 なーんでもかんでも、細かく描写すりゃ、いーってもんじゃないんだわ。 「細かく書けば、文学として格が上がる」と、勘違いしている気配すら感じられます。
この作者にも、アメリカの作家特有の、紛らわしい創作形容が、多く見られます。 しょーもない習慣もあったもんだて。 ちょっと考えれば、分かる事ですが、創作形容も、過剰描写も、表面的な装飾に過ぎません。 小説は、中身で勝負するものなのだという事が、分かっていないんですな。 アメリカという社会全体で。
映画やドラマの原作のつもりで書いたというのなら、それなりに評価できます。 発表されたのは、1944年だそうで、戦争中に、こういう犯罪サスペンス物の小説が発表できたというのは、アメリカの凄いところですな。 その二つ以外に、誉めるところはないです。
以上、今回の感想文は、四冊、五作品です。 ≪仮面舞踏会≫と≪黒蜥蜴≫は、3月初旬、≪蝶々殺人事件≫は、3月中旬、≪妖蟲≫と≪暁の死線≫は、3月下旬に読みました。 自転車のレストアが終わって、やる事がなくなり、自然に読書に傾いたという次第。
引退してからこっち、つくづく思うのは、読書人で良かったという事です。 もし、本を読まない人間だったら、この膨大な暇を、どうやって潰せばよかったのか、想像もつきません。 引退者に必要なのは、一にも二にも、「やる事」なのですが、図書館で本を借りて来れば、返却期限までに、読んで、感想を書かねばならんので、容易に、「やる事」を作り出せるのです。
中には、買って読む人もいるらしいのですが、収入がないのに、今時の高い本を、ポンポン買っていたのでは、あれよあれよと言う間に、老後破産してしまいます。 図書館にある本なら、極力、借りて読むべきですな。 引退して、濡れ落ち葉となり、誰にも認めてもらえなくなったから、本をたくさん買って本棚に並べ、家を訪ねて来る人に、読書家である事をひけらかそうなどと考えている人は、とんだ思い違いなので、即刻、やめた方がいいです。 尊敬されるどころか、それで破産したら、大馬鹿扱いは必至!
前回書いたように、今現在は、ディクスン・カーの作品を続けて読んでいるのですが、その感想は、別シリーズにする予定なので、今回は、その合間に読んだ、他の作品の感想を出します。
≪仮面舞踏会≫
横溝正史自選集 7
出版芸術社 2007年
横溝正史 著
横溝正史さんの、後期の長編。 2段組で、370ページあります。 最初は、雑誌に、1962年から63年にかけて連載されたものの、第8回で、中断。 翌1964年には、横溝さんは、新作の発表をやめてしまったので、それっきりになっていたものを、1974年に、大幅に加筆して書き下ろし、「新版 横溝正史全集」に収録される形で刊行したのだそうです。 書き下ろし作品が、全集に直行というのは、珍しいのでは? それとも、私が知らないだけで、販売手法として、そういう事はよく行われるんでしょうか?
横溝正史大ブームのきっかけになった、市川崑版映画の≪犬神家の一族≫が、1976年ですから、この≪仮面舞踏会≫が完成したのは、それより前でして、私はてっきり、横溝さんが再び作品を書き始めたのは、大ブームが始まってからだと思っていたのですが、それ以前にも、過去の中断作品を完成させる執筆活動はしていたんですな。
そういう、作品の来歴に関する細かい事が、この本には、巻末付録として、36ページ分も載っているのですが、些か、量が多過ぎて、余計な情報のような気がせんでもなし。 作品の評価は、作品の中身だけですべきです。 この本を読もうとする、みんながみんな、ミステリー作家研究家じゃないんですから。
過去に四人の男と結婚離婚を繰り返し、現在、五人目と交際中の、有名映画女優の周辺で、過去の夫達が、立て続けに不審な死を遂げ、五人目の交際者である事業家に依頼された金田一耕助が、台風に直撃された直後の、夏の軽井沢に乗り込んで、長野県警の刑事達や、等々力警部らと共に捜査を進め、事業家の娘夫婦、女優の娘や姑、過去の夫達の関係者など、複雑に相関が入り乱れる中、一連の事件の真相を明らかにして行く話。
なんつーかそのー、基本的な骨格部分は、あまり、よく出来ているとは言えません。 たとえば、冒頭に出て来る、心中者の生き残り、田代信吉ですが、この人物と、本筋の登場人物達とは、非常に薄い関係しかないのに、その後、この男が果たす役割が、大き過ぎて、その点の不自然さは、際立っています。
あまりにも、大勢の人間を絡ませてしまったせいで、因縁が複雑化し過ぎて、読者に、「偶然が過ぎる」と感じさせてしまうんですな。 個々の人物の経歴について、えらい細かいところまで設定していますが、事件の謎にも関係なければ、読者への目晦ましに使われているわけでもない、全く不要な情報もあり、何でも、細かく書き込めばいいわけではないという、悪い見本みたいになってしまっています。
金田一の謎解きが、終わりの方で、延々と続くのも、読むのが辛いところ。 これでは、2時間サスペンスで、崖の上を舞台に犯人が自ら語る、長過ぎる因縁話と、鬱陶しさに於いて大差ありません。 解決場面に鮮やかさがないのは、日本のミステリー作品の、共通の欠点なんでしょうか。
横溝作品にしては、絵柄的にハッとさせられるような場面がないのも、残念です。 強いて言うなら、ゴルフ場の、赤い毛糸の場面が、色彩的に印象に残りますが、これだけ長い作品で、目を引くのがそこだけというのは、寂しいです。 冒険物の要素も欠けていて、金田一御一行が、車で軽井沢をあちこち移動するだけでは、ワクワクのしようもありません。
ところがねえ。 この作品でなければ味わえないような楽しさもあるのです。 取り調べの会話が、分量的に、大変多いのですが、その中に、他の作品とは比較にならないほど、冗談がたくさん盛り込まれていまして、ミステリーでありながら、結構、笑えるのです。 他の作品で、金田一がごく稀に口にする自嘲的冗談は、ほとんど滑っていますが、この作品のそれは、ちゃんと、笑えるレベルをクリアしています。 ただし、笑いの垣根が高い人には、冷笑されてしまうかも知れませんが。
極めつけは、「操(みさお)夫人」の存在です。 これは、凄いキャラだわ。 本筋の事件とは、間接的な関係しか持たない人物なのですが、ミステリー・ファンで、ミス・マープル的素人探偵を自認しており、推理というよりは妄想を逞しくして、喋る喋る。 この人を探偵役にして、ミステリーのパロディーを書いたら、滅茶苦茶、面白くなると思います。 横溝さんが、72歳で、このぶっ飛んだキャラを創造したというのが、驚異的。
≪蝶々殺人事件≫
横溝正史自選集 1 収録
出版芸術社 2006年
横溝正史 著
横溝正史さんの戦後第一作は、昭和21年(1946年)の、≪本陣殺人事件≫ですが、そちらと並行して書かれ、別の雑誌に連載されていたのが、この≪蝶々殺人事件≫です。 「横溝正史自選集 1」には、その二作が収録されています。 長さは、≪本陣≫が、2段組135ページ、≪蝶々≫が、2段組187ページ。
≪本陣殺人事件≫の方は、私が自分で文庫本を持っており、既読である上、今回改めて、読み直したわけでもないので、触れません。 未読だった、≪蝶々殺人事件≫の方だけ、感想を書きます。
新聞記者、三津木俊助は、戦後、ある出版社から、探偵小説を書くように求められ、戦時中に疎開したまま、国立に住んでいる由利麟太郎を訪ねる。 戦前、由利が解決した事件を小説にする許可を得て、三津木が選んだのが、オペラ歌手・原さくらが、「蝶々夫人」の公演の為に、自らが率いる歌劇団ごと乗り込んだはずの大阪で、コントラバス・ケースに詰め込まれた死体となって発見された事件だった。 由利を中心に、警察の捜査陣、新聞記者らが協力し、殺害現場を晦ますトリックや、原さくらと劇団関係者の因縁を明らかにして行く話。
≪本陣≫の探偵役は、ご存知、金田一耕助なのですが、並行して書かれていたにも拘らず、こちらは、由利先生です。 由利先生というのは、横溝正史さんの探偵小説で、戦前まで、探偵役を担っていた人。 三津木俊助は、その助手役です。 ≪蝶々殺人事件≫は、その由利・三津木コンビの最後の晴れ舞台として、書かれた模様。
謎解きや犯人指名をさせるだけなら、探偵役は、別に誰でもいいのであって、≪蝶々≫を、金田一物として書く事もできたはずですが、同時進行で書いていた、≪本陣≫が、金田一耕助の最初の事件という事になっていたので、≪蝶々≫で、その後の事件を書いてしまうのは都合が悪い。 そこで、由利・三津木コンビに、もう一仕事してもらったという事だと思います。
戦前の横溝作品は、探偵小説と言っても、怪奇小説的な色合いが強く、それだけだと、ちょっと読む気にならないという人も多いと思います。 由利先生は、探偵としては優れているけれど、人間的には、平均的紳士で、没個性なキャラです。 活動的な仕事を、三津木にふりわけて、役割分担させていたんですな。
戦時中、体を壊して、筆を断っていた横溝さんは、疎開していた岡山の村で、ディクスン・カーに耽溺して暮らし、戦争が終わると同時に、勇躍、「論理的な、本格トリック物を書く!」と決意し、≪本陣≫と≪蝶々≫を書き始めるのですが、論理性に拘り過ぎて、勢い余ってしまった観があり、両作とも、漫然と読むタイプの読者だと、ついていけないところがあります。 トリックの成り立つ状況が、複雑過ぎるんですな。
推理作家や、それ専門の批評家、編集者などは、目が肥えているから、どんなに複雑でも、メモを取りながらでも読みこなして、辻褄が合っている事を確認して行くのですが、普通の読者では、「そこまで、できんなあ」というのが本音でしょう。 一般読者にとって、良い探偵小説とは、トリックの意外性だけでなく、人物相関に奥行きがあり、サスペンスが盛り上がり、探偵に個性があり、事件が起こる舞台にも魅力があるという、バランスの良さではないかと思います。
≪蝶々≫で、決定的に欠けているのが、探偵の個性と、事件舞台の魅力です。 由利先生は、やはり、怪奇風味の強い作品用に創られた探偵で、論理的トリックものでは、キャラが薄過ぎて、話がギスギスしてしまうのを和らげる力がありません。 事件舞台の方も、東京・大阪間を行ったり来たりしているだけで、何の変哲もないホテルやアパートが現場では、ゾクゾクのしようがありません。 その点は、同じ、トリックやりすぎの作品でも、≪本陣≫の方が、ずっと優れています。
映像化する事を想定してみれば、≪蝶々≫の見せ場は、コントラバス・ケースの中から死体が発見される所だけで、それは、むしろ、事件の発端なのですから、その後の見せ場を用意するのに、困り果ててしまうでしょう。 謎解きも、単に、部屋に集まって、由利先生が話をするだけではねえ。 本格トリック好きの人達からは、評価が高いそうですが、一般読者向けとは言えない作品だと思います。
≪黒蜥蜴≫
角川文庫
角川書店 1973年
江戸川乱歩 著
これは、家にあった、母所有の文庫本。 製本工場に勤めていた父方の叔父から貰ったもので、初版です。 中編二作、【黒蜥蜴】と【妖蟲】が収録されています。 【黒蜥蜴】は、昭和9年(1934年)に雑誌連載。 【妖蟲】は、昭和8年(1933年)から、9年にかけて、別の雑誌に連載。 ほぼ、同時期に書き進められたものだそうです。
【黒蜥蜴】の方は、有名なダイヤを狙い、宝石商の娘の略取を企てる女盗賊と、明智小五郎が戦う話。 【妖蟲】は、美しい女性を略取して殺害し、死体を曝す、猟奇的な一味と、老探偵・三笠竜介が対決する事になります。 どちらも、知略を尽くして、騙し合い、化かし合いを繰り広げます。
二つ別々の作品なのに、なんで、二把一絡げに感想を書いているのかというと、真面目に分析する気にならないからです。 私は前々から、日本社会に於ける、江戸川乱歩さんの作品の評価は、高過ぎると思っていたのですが、この二作を読んで、ますます、その思いを強くしてしまった次第。 これは、大人の読み物ではないと思うのですよ。
映画にすれば、R指定がつくような場面が含まれていますが、だからといって、大人向けの話とは言えないわけで、話の作り方自体に、元々、子供向けに書かれた≪少年探偵団シリーズ≫と、大きな違いが見られないのです。 さまざまなトリックが使われますが、本格推理物を読み込んだ読者を唸らせるようなものは、皆無です。 はっきり言わせてもらうと、子供騙しのレベル。
また、文章が、どうにも古臭い、講談調でして、もしかしたら、発表当時の大衆向け小説では、こういうのが普通だったのかもしれませんが、戦後に生まれ育った世代には、ただただ陳腐でしかなく、物語の緊張感を殺ぐ事、甚だしいものがあります。 たとえば、≪オリエント急行殺人事件≫でも、≪ナイル殺人事件≫でも構いませんが、アガサ・クリスティー原作の映画を、サイレント仕立てにして、活動弁士に語らせたら、「なんじゃ、こりゃ?」と、眉を顰めない人はおりますまい。 どんなによく出来たミステリーでも、文体が相応しくなければ、台なしになってしまいます。 まして、よく出来ていないのですから、尚の事、ひどい。
人物造形がスカスカで、一人一人の性格が描き分けられていない点も、呆れてしまいます。 いや、呆れを通り越して、驚いてしまうと言った方が適当でしょうか。 将棋で言えば、盤面に、「歩」だけ並べて、戦っているような感じです。 明智小五郎でさえ、何を考え、何を思っているのか、さっぱり分かりません。 乱歩という人は、人間を描く事に、何の興味も感じていなかったのかも知れませんなあ。
江戸川乱歩さんの小説は、みんな、そんな感じなのに、妙に評価が高いのは、子供の頃、乱歩作品で読書習慣を身に着けた人達が、驚くくらいたくさんいて、三つ子の魂百までとばかりに、その人達が、乱歩作品を決して貶さないものだから、誉められる一方で、実際の価値以上に持ち上げられてしまっているのだと思うのです。
その気持ちは分からんではないですが、私情を挟まず、ちょっと突き放して見れば、これらの作品群が、紙芝居のネタ以上のものではない事は、すぐに分かるはず。 乱歩作品を映像化すると、みんな、紙芝居レベルになってしまうのは、原作が紙芝居レベルだからです。 紙芝居を愛している人は、気を悪くするでしょうが、ノスタルジーを抜きにして大人が見るものではない事は、認めてくれると思います。
随分、貶して来ましたが、実は、これでも、好意的に見た方でして、本来なら、子供騙しですから、「評価外」の一言で終わりにするところです。 これから読もうと思っている人は、読むなとは言いませんが、「あれ? 少年探偵団シリーズと変わらないじゃないか」と気づいた時点で、読むのをやめた方が、時間を無駄にせずに済みます。 最後まで、そんな調子ですから。
≪暁の死線≫
世界推理小説大系22 収録
東都書房 1963年
ウィリアム・アイリッシュ 著
稲葉由紀 訳
「世界推理小説大系」という全集で、カーの≪黒死荘の殺人≫を読んだ時に、同じ本に入っていたから、ついでに読んだのですが、この作者の名前は知りませんでした。 何でも、江戸川乱歩氏が、この作者の≪幻の女≫という作品を絶賛して、有名になったのだとか。 しかし、今の状態では、21世紀まで、名前が残った作家とは、言い難いですなあ。 知る人ぞ知るレベルではないかと思います。
田舎から都会に出て来て、夢破れたにも拘らず、都会の魔力に捉えられて、なかなか故郷へ戻れない若い女が、ある晩、たまたま、同郷の青年と出会い、二人一緒なら、都会から逃げ出せるかも知れないと思ったものの、青年は、金持ちの家から、大金を盗んで来た直後だった。 二人で、こっそり、金を戻しに行ったら、そこには、家の主の死体が横たわっており、故郷に戻るバスが出る朝6時までに、真犯人を見つけなければならなくなる話。
この作者、時間的リミットを設けて、それまでに事件を解決させる事で、サスペンスを盛り上げる手法を得意としていたようです。 だけど、どうして、その日の朝6時まででなければいけないのかという理由が、女の気持ちの問題だけで説明されており、些か、というより、だいぶん、弱いです。 こんな気分屋の女では、主人公として相応しくありますまい。
それでいて、殺害現場に行くと、不自然な程に積極的で、真犯人を捕まえなければならないと、青年に発破をかけるのですが、そんなに、決断力があるのなら、故郷に戻る決心くらい、簡単にできそうなものです。 一人の人物に、まるで正反対の性格を、二人分盛り込んでしまったように思えるのですが、作者が、それに気づいていないのは、主人公の造形として、致命的欠陥と言えるでしょう。
6時間弱の間に起こった事だけを書いてあるので、映像作品にしたら、おそらく、2時間もあれば、全部描ききれるはず。 1980年に、≪赤い死線≫というタイトルで、日本でドラマ化されたそうですが、その時の長さは、94分だったとの事。 ちなみに、山口百恵さんと三浦友和さんが主演。 私は、確実に見ているはずなのですが、ラスト・シーン以外、中身を全く覚えていません。
三段組で、132ページもあって、文庫にすれば、かなり厚い本になると思うのですが、たった、6時間弱の事を描いているのに、そんな文章量になってしまうのは、情景描写が、異様に細かいからです。 はっきり言って、細か過ぎて、鬱陶しいです。 こんなのを、「情景描写に秀でている」などと評価するからいけないのであって、「くどい」と、一刀両断してやった方が良かったんじゃないでしょうか。
文章の8割くらいが、情景描写なのに、セリフのところだけ読んでも、ストーリーが分かるというのは、つまり、それらの情景描写が、情報として機能していない証拠です。 こんな事をやっているから、アメリカ文学は、小馬鹿にされるのですよ。 なーんでもかんでも、細かく描写すりゃ、いーってもんじゃないんだわ。 「細かく書けば、文学として格が上がる」と、勘違いしている気配すら感じられます。
この作者にも、アメリカの作家特有の、紛らわしい創作形容が、多く見られます。 しょーもない習慣もあったもんだて。 ちょっと考えれば、分かる事ですが、創作形容も、過剰描写も、表面的な装飾に過ぎません。 小説は、中身で勝負するものなのだという事が、分かっていないんですな。 アメリカという社会全体で。
映画やドラマの原作のつもりで書いたというのなら、それなりに評価できます。 発表されたのは、1944年だそうで、戦争中に、こういう犯罪サスペンス物の小説が発表できたというのは、アメリカの凄いところですな。 その二つ以外に、誉めるところはないです。
以上、今回の感想文は、四冊、五作品です。 ≪仮面舞踏会≫と≪黒蜥蜴≫は、3月初旬、≪蝶々殺人事件≫は、3月中旬、≪妖蟲≫と≪暁の死線≫は、3月下旬に読みました。 自転車のレストアが終わって、やる事がなくなり、自然に読書に傾いたという次第。
引退してからこっち、つくづく思うのは、読書人で良かったという事です。 もし、本を読まない人間だったら、この膨大な暇を、どうやって潰せばよかったのか、想像もつきません。 引退者に必要なのは、一にも二にも、「やる事」なのですが、図書館で本を借りて来れば、返却期限までに、読んで、感想を書かねばならんので、容易に、「やる事」を作り出せるのです。
中には、買って読む人もいるらしいのですが、収入がないのに、今時の高い本を、ポンポン買っていたのでは、あれよあれよと言う間に、老後破産してしまいます。 図書館にある本なら、極力、借りて読むべきですな。 引退して、濡れ落ち葉となり、誰にも認めてもらえなくなったから、本をたくさん買って本棚に並べ、家を訪ねて来る人に、読書家である事をひけらかそうなどと考えている人は、とんだ思い違いなので、即刻、やめた方がいいです。 尊敬されるどころか、それで破産したら、大馬鹿扱いは必至!
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