2017/03/19

遺物との戦い ②

  去年(2016年)の11月から、父の遺品の片付けを始め、「父の部屋」、「その押入れ」、「押入れの奥の納戸」、「父が仕事場にしていたプレハブ離屋」、「物置」と、ひーこら言いながら片付けて、今は、父関係の物は、ほとんど、処分が終わっています。 11月20日にアップした、≪遺物との戦い≫という記事では、日記から移植した文章だけで、片付けのきつさを伝えたのですが、今は、写真も揃っているので、それを解説する形で、紹介します。

  父の遺品だけでなく、母の物や私の物も混じると思いますが、とにかく、この期間に、捨てた物は、全部、出します。 いかに、大変だったかを、アピールする為に。




≪ファン・ヒーターとストーブ≫

  父の部屋の納戸から引っ張り出した、石油ファン・ヒーターと、石油ストーブです。 右端のダンボール箱は、石油ストーブの元箱。

  ファン・ヒーターは、1994年のダイニチ工業製。 ストーブは、1996年のコロナ製。 奇妙な事に、ファン・ヒーターを買った後に、ストーブを買ったんですな。 しかし、ファン・ヒーターの方が、後々まで使っていました。 父の最後の冬は、エアコンの暖房で過ごしたので、2015年の春までは、ファン・ヒーターを使っていたわけだ。

  終わりの方の数年は、不完全燃焼しているとしか思えない、猛烈な臭さを発していました。 父の部屋のドアが開いていると、二階の廊下まで、そのにおいで一杯になり、「よく、密閉した部屋の中で、生きていられるな」と思ったものです。

  去年の4月に、ステレオを出す為に、納戸に入った時、ファン・ヒーターも捨てようと思ったら、なんと、灯油が残っていて、ビックリ。 他に移す所がないので、その時は、諦めました。

  8月に父が死んで、いよいよ、ファン・ヒーターを処分しなければならなくなり、10月に見てみたら、灯油が空になっていて、これまた、ビックリ。 納戸の奥で、自然に揮発するとは思えないので、4月から8月の間に父が抜いたのだと思いますが、自分が歩くのも侭ならない健康状態で、どうやって抜いたのか、見当もつきません。

  これらは、資源ゴミの、金属扱いで、持って行ってくれます。 危険物なので、無事に処分できて、ホッとしました。



≪父の知恵蔵≫

  父が、自分で購入していた、「朝日現代用語 知恵蔵」。 「現代用語の基礎知識」の類似品で、朝日新聞社が出版していたもの。 1992年、1998年、2000年、2002年、2006年の5冊が出て来ました。 父は、そんなに知識欲旺盛な人ではなく、一般教養と言えるようなものも持っていなかったので、知恵蔵がこんなに出て来たのは、些か、意外でした。

  中の記事から写したと思われる、ノートの書き込みも残っていて、気になった事は、調べていたようです。 ただし、それを家族に話すような事はありませんでした。

  最後の2006年版は、机の本棚に並べてありましたが、2006年から、他界した、2016年まで、残りの10年は、もう、新刊を買う気にならなかったわけですな。 父は、2003年頃に、仕事をやめ、引退しているのですが、以降、世の中に対する興味が衰えたのでしょう。 私も引退してから、急速にそうなったので、それは、よく分かります。

  去年の4月に、ステレオを出す為に、納戸に潜った時、中にあった知恵蔵の旧版をどうするか訊いたら、「とっておく」という返事でした。 とっておいても、もう読むような事はないと思ったんですが、本人の希望なので、従いました。 何を大事にしているかは、人それぞれですな。 さすがに、死後もとっておくわけにはいかないので、処分しました。 資源ゴミの紙類です。 



≪パナソニック・21型アナログ衛星ブラウン管テレビ TH-21FB2≫

  父の液晶テレビを、居間で使う事になり、玉突き式に押し出されて、旧居間に置いてあったテレビを、処分する事になりました。 これは、パナソニックの、21型テレビです。 元は母が買って、母の部屋に置かれていたもの。 「99製 7-12月期」のシールが貼られています。

  母の部屋で使われたのは、14年間。 2013年6月に、母の部屋のテレビを液晶に換え、このテレビは、旧居間に移して、3年ちょっと、そこにありました。 地デジ・BSチューナーと接続してありましたが、 父が、夏場、昼寝する時に見るだけでした。 最後に点けられたのは、今年の6月末に、父が最初の入院から退院して来て、とりあえず、旧居間に横になる事になった時でした。

  モニターとしてなら、問題なく映るのですが、もはや、誰も見ないので、処分が妥当。 リサイクル料金、3000円ちょいを払い、リサイクル・センターへ持って行きました。

  下の写真は、リモコンです。 変色もしていますが、それ以前の問題として、古いデザインですなあ。 99年頃って、こんなだったっけか? いや、テレビ本体のデザインは、普通ですから、このリモコンだけ、特別、古臭いのでしょう。



≪三菱電機 29型ブラウン管テレビ 29T-D105≫

  居間から旧居間へ引越しさせた、我が家で最後のブラウン管テレビです。 三菱の29型。 2006年8月3日に、ノジマで、購入。 これの前にも、三菱のテレビを使っていたのですが、そちらが映らなくなってしまい、似たようなのを買い直したのです。 地アナ・チューナー・オンリーで、地デジ化以降は、HDDレコーダーに繋いで、モニターとして使って来ました。

  外寸は、21型と大差ないのですが、ブラウン管が大きいだけあって、遥かに重く、一人では運べませんでした。 これも、もう、見ないので、リサイクル・センターへ運ばなければなりませんが、車に積むのも、えらい苦労しそうです。



≪シャープ アクオス 32型液晶テレビ LC-32SC1≫

≪写真上≫
  父の遺品、シャープの32型液晶テレビ、アクオスです。 2011年2月6日に、購入。 父の車で、父と一緒に、ノジマに行き、5万6千円で買って、車に積んで帰って来ました。 あまり、映りがよくなかったのですが、その前年に買った、父のHDDレコーダーもシャープ製だったので、相性を考えて、これにしたのです。

  一昨年の秋頃から、父が、「夜中にテレビが点く」と訴えて、私が、さんざん振り回されたのが、このテレビです。 実際には、父が認知不全になって、テレビを点けたまま眠ってしまっている事に気づかなかっただけで、テレビの方は、何の故障もしていなかったのですが。

  おやすみタイマーを夜8時に設定してから、そういった訴えはなくなりましたが、父は最後の最期まで、自分がテレビを点けたまま眠っていた事を認めようとしませんでした。

≪写真下≫
  居間へ引っ越した後の様子。 さすが液晶だけあって、この大きさでも、私一人で、ひょいと持ち上げて、二階から下ろせました。 父の部屋で見ていた時には、映りが悪かったのに、居間に移したら、割と綺麗に見えるようになりました。 居間は、日の光が画面に当たらないからでしょうか。 ブラウン管に比べて、番組表の文字が読み易くなったのも、大きな恩恵でした。

  テレビ台は、ブラウン管テレビ用のもの。 だけど、どうせ、レコーダーを収納するのに、奥行きが必要だから、最新のテレビ台も、大きさは、大差ないんじゃないでしょうか。 ちなみに、父のレコーダーは、行き場を失って、今は、父の部屋の押入れにしまってあります。 居間のレコーダーが壊れたら、使うつもり。



≪父のラジカセとラジオ≫

  父の部屋や、父が仕事場にしていたプレハブ離屋から出て来た、ラジカセ2台と、ラジオ1台。 父は、仕事中や、盆栽の手入れ中、ラジオを聴く習慣がありました。 ラジオで知った知識・情報を、よく家族に話していました。

  カセットの方は、ほとんど使っていなかったと思います。 もしかしたら、ステレオ・ラジカセは、元は兄の物だったかもしれませんが、よく覚えていません。

  もう使わない、というより、埃だらけで、腐っている状態だったので、迷わず、捨てる事にしました。 ちなみに、ブランド、型番、メーカー名を、左の大きい方から順番に書きますと、以下のようになります。

ナショナル RS-4100 松下電器産業株式会社
サンヨー MR-G308 三洋電機株式会社
ナショナル パナソニック RF-577 松下電器産業株式会社



≪机周りの小物≫

  11月に入ってから、本格的に、父の遺品の片付けに取りかかりました。 これが、参った参った・・・。 人の物を片付けるのが、どれだけ、きついか、思い知りました。 また、父が、特別、物を捨てられない人だったんですわ。 しかも、人生のほとんどを、同じ家で暮らして来たから、累積が半端ではなかったのです。 12月末の今現在も進行中ですが、まだまだ、落ち着く所が見えません。

≪写真上≫
  まずは、父の部屋から。 これらは、机の上や、引き出しから出て来たもの。 電卓は、機械設計の仕事で使っていたので、全て関数電卓です。 プレハブにあった分も合わせると、本体が3台、取説は、8台分くらいあったのでは? 本体は、使える状態のが、一台もありませんでした。 晩年の父には、電卓で計算するようなものがなかったのです。

  電気髭剃り機は、何台かあって、中には、買って間もない物もあったのですが、私も、予備がいくつもあるので、もう使う事はないと判断し、父の物は、全て捨てました。

  アウトドア用の腕時計は、2001年の春に、私があげたものですが、同じ時に手に入れた私の物は、まだ動いているのに、父の物は、かなり前に停まってしまったようでした。 電池を換えれば動きますが、同じ物を二つも要りません。 捨てました。

≪写真中≫
  こちらに写っている二つの腕時計は、父が買ったもので、一つは、電波時計でした。 しかし、とっくに電池が切れたらしく、停まっていました。 しているところを見た記憶がないから、よそ行きにしていたのかも知れません。 父の腕時計は、最期にしていたものと、その先代のを、形見にする事にして、保存してあります。 父は、風呂に入る時以外は、腕時計を常にしている人でした。

  未使用の歯ブラシが、何本も出て来ました。 買い置きしておいて、どこにしまったか忘れ、また、買って来てしまうというパターンを繰り返していたのだと思います。 未使用ですが、こういう衛生関係の品は、何となく、使い難いので、やはり、捨てました。

  野茂投手のうちわは、入手した年代が覗われますな。 もう一つは、沼津夏祭りのうちわで、もっと古そうです。 ベッドの頭板や壁に、うちわ入れをつけて、そこに挿していました。

  大田胃散の缶は、二つ出て来て、釘とかネジとか、小さな金属を入れて、捨てるのに使いました。

≪写真下≫
  上にある四角いのは、寿司屋で貰った、湯のみの空き箱。 それをペン立て代わりにしていました。 ペンは、ボール・ペンや、シャープ・ペン、サイン・ペンなど。 使っていたのは、2・3本だと思います。 同窓会の記念品なんかが多かったです。 こういうのは、父だけでなく、誰の遺品でも、同じようなものが出てくるでしょうなあ。



≪衣類・その他≫

≪写真上≫
  ここに写っているのは、父の部屋の押入れの奥の納戸にあった、衣装ケースから出した、薄い毛布や衣類ですな。 納戸に入っていた物は、兄の物の方が多いです。 どうせ、兄本人も、何があったかなど覚えているわけがないので、全部捨てました。

  父は、鞄類をたくさん持っていて、全部で、10個くらいありました。 それでいて、晩年に使っていたのは、ひどくヒビ割れた、革の鞄ばかりでしたけど。 使える物もありましたが、私が、鞄をほとんど使わないタイプなので、出番はないと思い、みんな、捨てました。

≪写真中≫
  この衣類箪笥の中身は、父が普段着ていた服や、パジャマ、下着などが入っていて、それらは、燃やすゴミに出せたので、もう、10月の内から、どんどん処分し始めて、この時には、上の小引き出しの一つを除き、空になっていました。

  箪笥の上に載っているのが、ソファ風座椅子。 大変、重いのですが、父は毎朝、これを、ベッドの上に運んで、昼間、テレビを見、寝る前に、また、箪笥の上に戻すという作業を繰り返していました。 これも、後に解体して捨てました。

  大型懐中電灯は、私の部屋に持って来て、緊急用にしてあります。 私が、父の部屋から回収して使っているのは、この懐中電灯と、LED目覚まし時計だけです。

  テレビ台ですが、この時点で、すでに、テレビは、居間に移してありますな。 HDDレコーダーは、まだ入っていますが、この後、取り出して、新聞紙で包み、父の部屋の押入れに入れました。 テレビ台は、解体して、埋め立てごみへ。 この種のテレビ台は、頑丈なように見えて、元々、組み立て式なので、割と簡単に壊せます。


≪写真下≫
  押入れの左上段には、父の普段着がかけてありました。 ぎっしり。 この写真の時には、私が着れそうなシャツを取った後なので、少しすいています。 私が着れない物は、みんな捨てました。 ネクタイも、30本くらいありましたが、私が、全くしない人間なので、やはり、全て捨てました。

  衣類は、個人のイメージと最も近しいものですが、虫がついたり、シミが出来たり、カビたりするので、形見には不向きです。 長期間、とっておけないのです。 それを着ている、故人の写真の方が、価値があります。




  あー、もー、うんざりだ。 というわけで、今回はこの辺で、勘弁してください。