2017/02/12

カー連読 ⑩

  写真を使ったシリーズが、一段落しましたが、これと言って書きたい事もないので、中断していた、ジョン・ディクスン・カーの作品の、感想文を出します。

  今回、出す本は、みな、相互貸借で、静岡県内各地の図書館から取り寄せて貰ったものなのですが、これが、申請してから、到着するまでに、早くて一週間、遅いと三週間くらいかかる。 その間、本がないときついから、繋ぎに、沼津図書館にある本を何冊か読んでいまして、それらに関しては、いずれ、読書感想文蔵出しで、紹介します。

  繋ぎに他の本を読んでいるという事は、もはや、「連読」とは言えないわけですが、今更、シリーズ・タイトルを変えるのも、混乱の元ですから、このままで、行きます。




≪四つの兇器≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1958年初版 1993年3版
ジョン・ディクスン・カー 著
村崎敏郎 訳

  これも、相互貸借で取り寄せてもらった本ですが、≪震えない男≫が、浜松三ケ日図書館の蔵書だったのに対し、こちらは、浜松市立図書館のシールが貼ってあります。 浜松は、市町村合併で、市域が驚くくらい広くなったので、図書館も幾つあるか分かりません。 いずれにせよ、遠い旅をして来た本である事に変わりはないです。

  発表は、1937年。 カー初期作品で、探偵役を務めた、アンリ・バンコランが登場する、最後の作品です。 バンコラン物は、1932年までに、4作書かれ、その後、フェル博士と、H.Mに、バトンを渡して、すでに、過去の探偵役になっていたのですが、5年後になって、新作が書かれたというわけです。 思うに、カーは、バンコランを充分に使い切らない内に、手放してしまったのを悔いていて、「最後の事件」を与えて、有終の美を飾らせたかったのではないでしょうか。


  パリに住む、富裕なイギリス人青年が、結婚を前に、以前関係があったフランス人娼婦に呼び出され、別荘へ行ってみると、彼女は殺されていて、現場には、尖端だけとがったナイフ、カミソリ、ピストル、劇薬の四種類の凶器の他、解釈のしようがない状況が多く残されていた。 以前から、娼婦の正体に気づいて、別荘を見張っていた、引退後のバンコランが、イギリス人青年が雇った弁護士らと共に、複雑に絡み合った事件の謎を解いて行く話。

  正直、バンコランが出ているという以外は、駄作としか言いようがありません。 大変、複雑な事件なんですが、複雑過ぎて、話を飲み込むのに、読書エネルギーを消耗してしまい、肝心の面白さを、まるで感じないのです。 前半から中盤にかけては、舞台や人物に動きが乏しく、セリフの羅列にうんざりします。 賭博クラブでのクライマックスは、本筋と関係が薄過ぎ。 知る人ぞ知るゲームのルール解説なんて、読めたもんじゃありません。 ラストはラストで、謎解きが長過ぎ。 2時間サスペンスか?

  初期のバンコラン物とは、だいぶ、趣きが異なり、バンコランは、惜しげもなく、ベラベラ喋りますが、これはこれで、キャラが一定していないと謗られても、返す言葉がありますまい。 バンコランのモデルは、間違いなく、デュパンだと思うのですが、デュパンが登場する作品が少な過ぎて、カーが、デュパンのキャラを把握しきれておらず、それが、バンコランにも影響して、こんな、よく分からない人格になってしまったのだと思います。

  複雑にすれば面白くなるわけではないという、悪い見本のようなストーリーにも、辟易します。 ラストは、探偵による謎解きと言うより、作者が探偵の口を借りて、苦しい言い訳を並べ、必死に辻褄合わせをしているかのようで、読みづらいにも程があります。 どんでん返しっぽいところもありますが、だから、駄~目だって、推理小説で、どんでん返しは。 白けちゃうから。



≪孔雀の羽根≫

創元推理文庫
東京創元社 1980年初版 1988年5版
カーター・ディクスン 著
厚木淳 訳

  相互貸借で、取り寄せを頼んだら、3週間後に届きました。 「掛川市立 大須賀図書館」の蔵書。 図書館を指定して頼むわけではないので、どこから来るのか分かりません。 いろんな所に、図書館があるものですなあ。 平成の市町村合併の結果、一つの市でも、図書館が複数ある場合があり、大須賀というのも、以前は確か、大須賀町だったと思います。 掛川の海の方。

  発表は、1937年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、6作目。 これの次、翌年に、傑作、≪ユダの窓≫が発表されるわけですが、例によって、発表年が近いからと言って、内容に類似性は感じられません。 ちなみに、この作品の前は、≪パンチとジュディ≫ですが、そちらとも、趣向がまるで違います。


  「何月何日に、ある空き家に、十客のティー・カップが現れる」という予告状が送られた後、そこで殺人事件が起こったのが、二年前の事。 再び、似たような予告状が送られて来るが、今度は、警察が厳重に監視する中、またもや、殺人が起こる。 至近距離から射殺されているにも拘らず、犯人が部屋にいた形跡がない、不可能犯罪である。 孔雀の模様がある、ティー・カップや肩掛けが、秘密結社の存在を匂わせ、警察の捜査が混乱するのを尻目に、H.Mが、満を持して、謎を解く話。

  凝っているといえば、大変、凝っていて、この凝り方だけでも、力作と言えるのですが、では、名作や傑作と言えるかと言うと、「冗談も休み休み言え」と思うほど、それらからは遠いです。 事件そのものには、複雑な背景があり、よく考えられていますし、不可能犯罪のトリックも、まずまず、独創的だと思うのですが、このつまらなさは、何が原因なんでしょう?

  たぶん、書き方、というか、語り方が悪いんでしょうなあ。 動きが感じられるのは、空き家の張り込みがある冒頭部だけで、あとは、室内での、取り調べの会話ばかりが、ダラダラと続き、げんなしてしまいます。 カー作品には、こういうパターンのものが、結構あるのですが、もし映像化するとなると、関係者が一部屋に集まって、喋っているだけという、退屈な場面ばかりになると思います。

  H.Mシリーズではあるものの、まだ初期の内なので、H.Mのコミカルな場面は入っていません。 マスターズ警部が、容疑者に痴漢の濡れ衣を着せられる場面が、それに近いですが、書かれた当時はともかく、痴漢の冤罪事件が多い現代では、笑い所として受け入れてもらえないでしょう。 時代は変わるわけだ。

  トリックは、独創的と書きましたが、現実に、それができるのかとなると、話は別でして、よほど、運動能力に自信がある人間であっても、計画殺人の重要部分に、こういう、うまくいくかどうか大いに怪しい要素を入れないのでははないかと思います。 そこで失敗したとしても、何もかも駄目になるわけではありませんが、もし、思わぬ所に、凶器が落ちてしまった場合、犯人がどんなトリックを使ったかについて、警察に大きなヒントを与えてしまうと思うのです。

  こんな書き方をすると、何の事を言っているのか分からず、イライラすると思いますが、それは、読んでみれば分かります。 だけど、薦めるほど、面白くないので、困ってしまうのです。 後半に、もう少し、見せ場があればねえ。 秘密結社の謎が解けて行くにつれ、冒頭に漂っていた、謎めいたゾクゾク感が退潮してしまうのが、惜しいです。



≪疑惑の影≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行
ジョン・ディクスン・カー 著
斎藤数衛 訳

  相互貸借で、富士宮市立図書館から取り寄せてもらった本。 82年の初版本にしては、状態が良く、大勢に借りられた形跡はありませんでした。 カー作品は、後期になると、推理物のレベルが落ちて来るので、最盛期の代表作と比べると、注目度が落ちるのは、致し方ないところ。

  発表は、1949年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、18作目。 後期ですなあ。 まだ、後期作品の全てを読んだわけではないですが、何となく、戦前・戦中作品と、戦後作品とでは、毛色が違うように感じられます。 質も落ちますが、作者自身が、もう、推理小説に飽きているような気配が感じられるのです。


  腕利きの弁護士が、雇い主の夫人を毒殺した若い女を、クロと感じながらも弁護して、無罪を勝ち取るが、判決の出た日に、その夫人の姪の夫が、同じ毒物で殺される。 夫人の姪に惚れた弁護士は、先の裁判での自分の主張が、彼女に不利な証拠となってしまう事に頭を悩ませつつも、彼女を助けようと尽力する。 一方、悪魔崇拝の集団が、連続毒殺事件を起こしている事を調べていたフェル博士が、この二つの事件にも関わって来て、弁護士を援けながら、謎を解いて行く話。

  バラバラです。 一つの話になっていません。 不可能犯罪のトリックが仕組まれている、二つの毒殺事件を軸にしているのですが、怪奇風味を盛り上げる為だけに、悪魔崇拝などという月並みな背景を持ち出した上に、メインの事件と何の関係もない、格闘アクション場面を見せ場にするという、水と油で木に竹を接ぐような真似をしたせいで、何が言いたいのか、さっぱり焦点を結ばない、キメラ・ストーリーになってしまっています。

  格闘アクション場面は、カーの歴史ミステリーである、≪恐怖は同じ≫や、≪火よ燃えろ!≫の見せ場と、全く同じ趣向でして、その部分だけ読めば、手に汗握る面白さを感じるのですが、本格推理物に嵌め込むとなると、蛇足としか思えません。 また、中心人物である弁護士のキャラが、その二作の主人公のキャラと、瓜三つ。 推理小説というより、武侠小説の主人公に相応しい。

  トリックは、時間差を利用したもので、カー作品では、類似のトリックが、よく使われます。 二つの事件の犯人が錯綜している点は、この作品独特かも知れませんが、ちょっと、偶然が過ぎるような気がせんでもなし。 確かに、こうと入り組めば、謎めいた事件になりますが、現実に起こ得るかどうかは、大いに怪しいです。

  フェル博士は、謎解きだけを受け持っており、それは、前期作品でも変わらないのですが、この作品では、実質的主人公が他にいるせいで、えらく、影が薄くなっています。 そういや、カー作品を読み始めた頃は、フェル博士とH.Mを、区別していなかったのですが、今はもう、全然違うキャラである事が分かっています。 フェル博士は、キャラの特異性に於いて、H.Mに、全く敵いません。 ただの謎解きマシーンに過ぎず、キャラが付与されていないといってもいいです。



≪眠れるスフィンクス≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1983年発行
ジョン・ディクスン・カー 著
大庭忠男 訳

  これも、相互貸借で、富士宮市立図書館から取り寄せてもらった本。 表紙絵が、タロット・カードをあしらったものになっていて、これは、その後の、ハヤカワ・ミステリ文庫のカー作品で、よく見る事になるパターンです。 タロットに詳しい人なら、そのカードが選ばれた理由も分かるんでしょうが、私は、さっぱりでして、わざわざ、調べようという気にもなりません。

  発表は、1947年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、17作目。 ≪疑惑の影≫が、18作目ですから、こちらの方が早いわけですが、同時に借りたのに、なぜか、先に、≪疑惑の影≫の方を読んでしまいました。 例によって、発表年が近くても、内容に類似性はありません。 これも、戦後発表作なので、最盛期のような勢いは感じられません。


  大戦中、諜報機関に属していたせいで、誤って、戦死扱いにされていた男が、7年ぶりに家に戻る。 出征前に思いを寄せていた女性は、まだ、独身でいたが、彼女は、脳出血が原因とされていた姉の死を、その夫に虐待された挙句の自殺であると主張して、姉婿から精神異常者扱いされていた。 フェル博士の導きで、彼女や、その姉、姉婿の秘密を知る事で、事件の真相に迫って行く話。

  出だしの設定が、バルザックの≪シャベール大佐≫そのものでして、良く言えば、落ち着いた、悪く言えば、陰鬱な雰囲気で始まり、純文学的な奥深さを期待させるのですが、本格トリックで有名になったカーが、そういう話を思いつくはずかないのであって、少し進むと、実質的主人公が、戦死扱いになっていた事は、どこかへ消えてしまいます。 終わりの方で、申し訳程度に、その事に触れられますが、そんな設定はなくたって、ストーリーの方は、充分、成立します。

  カー作品にたまに出てくる、事件の主要な関係者の中に、精神異常者が含まれているという設定も、あまり、感心しません。 明らかに頭のおかしい人間がいたら、ちょと話しただけでも、分かるんじゃないですかねえ? 当人が隠して、隠しおおせる事ではないと思うのですが。 関係者に、医師が混じっていれば、尚の事。 正常者と異常者の区別がつかないような医師では、話になりません。

  推理小説として、もっと困るのが、「主要な証言者の中に、嘘をついている者がいる」という設定です。 基本的には、物語の語り手が嘘をついていなければ、フェアと見做されるのですが、語り手でなくても、嘘の証言が出て来ると、読者は、誰の話を信じていいか分からないから、推理しながら読む事ができなくなってしまいます。

  嘘の証言が含まれる場合でも、早い段階で、「一体、誰が嘘をついているのか?」といった問題提起を行なって、探偵役が嘘を見破るところを、話の焦点にすれば、それなりに面白くなるのですが、この作品に出てくる嘘は、焦点どころか、ちょっとしたついでに過ぎず、「こんなの、分かるわけがない!」と、呆れてしまうのです。

  フェル博士が探偵役なので、探偵物の魅力も、ほとんど感じません。 ただ太っているというだけで、性格的に、特徴がないのは、いかがなものか。 誰も入らなかった納骨堂で、棺桶が散乱している謎は、全く大した事がなく、探偵でなくても分かります。



≪囁く影≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1981年発行 2000年2刷
ジョン・ディクスン・カー 著
斎藤数衛 訳

  相互貸借で借りた本。 静岡市立図書館の蔵書です。 1981年が初版で、第2版が、2000年というのは、密かに凄いですな。 19年もかけて、最初に刷った分が捌けて、次を刷る事になったんでしょうなあ。 少しずつだけれど、19年も売れ続けたというのは、典型的な古典作品の売れ方でして、カー作品が、古典に殿堂入りしている証拠だと思います。

  発表は、1946年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、16作目。 この後が、≪眠れるスフィンクス≫。 この前が、≪死が二人をわかつまで≫ですが、それは、1944年の発表で、フェル博士シリーズの方は、1945年の発表作がありません。 一方、H.Mシリーズの方は、戦時中も毎年出ています。 これは、H.Mの肩書きが、陸軍情報局の高官なので、戦争絡みのネタが使いやすかったからでしょうか。 ただの犯罪学者であるフェル博士は、時代に合わなかったのかも知れません。


  戦前に、フランスのシャルトルという土地で、在住のイギリス人事業家が、他に人がいない塔の上で変死する事件が起こる。 その容疑者だった司書の女が、6年後、イギリスに帰って来て、司書を探していた青年に雇われるが、雇ったその晩に、青年の妹が何者かに襲われ、重い精神的ショックを受ける事件が起こる。 フランス人の文学教授が、吸血鬼の仕業ではないかと警告を発する中、フェル博士が、女司書の性格や、最初の犠牲者の家族の素性を調べ、謎を解いて行く話。

  この、フランス人の文学教授というのは、リゴーという人なのですが、この人が、カー作品にしては、ちょっと変わった人物で、性格的には、別に変人ではないんですが、役回りが変わっていて、読者をミス・リードする為に、わざわざ、フェル博士以外に、もう一人、権威筋を出しているんですな。 いや、こう書いても、ネタバレにはなりません。 吸血鬼が出て来た時点で、カー作品にそんなのが、アリでない事は明白ですから、すぐに、リゴー氏が間違っている事はわかります。

  最初の事件は、リゴー氏の口から語られるのですが、普通、作中で、昔の出来事として語られる話は、退屈と相場が決まっているのに、この小説では、なぜか、その部分が、最も面白いです。 これも、リゴー氏の変わった役回りのお陰なのかも知れません。 リゴー氏本人が何者なのかよく分からない状態で語り始めるので、妙に、興味が湧くんですな。 もし、フェル博士が語っていたら、こんな効果は出なかったでしょう。

  前半に、充分なゾクゾク感があるのに対し、後半で、地下鉄を使った追跡場面があったり、関係者の性格分析を後付けするといった、カー作品によくありがちな展開になるのが、ちと、難あり。 事によると、前半の風変わりな趣きは、狙って書いたものではなく、たまたま、そうなっただけなのかも知れませんな。

  もっと、重大な欠点もあります。 犯人が、実質的主人公の青年と知り合う部分が、あまりにも偶然に頼り過ぎています。 普通に考えると、犯人と青年が、知らない内に、知り合いになっている必然性は、全くないです。 もう一割書き足して、犯人と青年の因縁話を補強すれば、自然になったんですがね。 この事は、訳者による解説でも触れられているのですが、あっさり見過ごすには、大き過ぎる問題点だと思います。



≪五つの箱の死≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1957年初版 1989年再版
カーター・ディクスン 著
西田政治 訳

  相互貸借で、静岡市立図書館から取り寄せられた本。 沼津の図書館で借りて来る時に、「古い本なので、取り扱いに気をつけてください」と、事前注意を受けました。 しかし、89年なら、それほど、古いわけではないのでは? 初版が57年で、再版が89年というのは、凄い。 ただ、これは、32年間、細々と売れ続けたわけではなく、初版限りで絶版になっていたのを、復刻したんじゃないでしょうか?

  発表は、1938年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、8作目。 なんと、傑作、≪ユダの窓≫と同じ年に発表された作品です。 弥が上にも、期待が盛り上がるところですが、未だ嘗て、カーの作品で、期待して面白かった例しがありません。


  毒物学研究所に勤める若い医学者が、街なかで出会った女性に頼まれて、あるビルの部屋に一緒に入ると、テーブルを囲んだ、四人の動かない人間がおり、全員、毒を飲まされ、うち一人は、仕込み杖で刺殺されていた。 生き残った三人の供述では、毒がいつ盛られたか、全く分からないという。 一方、死んでいた男が、弁護士事務所に預けてあった五つの箱に収められていた物が盗まれ、それが、毒を盛られた三人のポケットから発見される。 事件現場の発見直後に、階下の事務所から姿を消した男も含めて、複雑に絡み合った事件の背景を、H.Mとマスターズ警部が解いて行く話。

  複雑過ぎて、全然、面白くありません。 大したページ数でもないのに、横になって読んでいると、必ず眠ってしまう、特異なつまらなさを備えています。 訳文が古過ぎて、意味を取るのに難儀するという問題もありますが、話そのものがつまらなくなければ、こんなにひどくはならないでしょう。 このつまらなさは、≪白い僧院の殺人(修道院殺人事件)≫以来です。

  事件の背景に奥行きを与えようとするあまり、明らかに行き過ぎて、必要以上に煩雑になってしまったものと思われます。 そのせいで、ラストの謎解きが、辻褄合わせに終始する事になり、最後の5ページですら、睡魔の襲撃から逃れられません。 H.Mが、延々と、推理が遅れた言い訳をしているようで、読むに耐えないのです。

  謎の中心が、五つの箱なのか、毒を盛った方法なのか、被害者の性格なのか、読者側には、焦点が定まりません。 なんでも、たくさん、盛り込めばいいというわけではないと思うのですがねえ。 もしかしたら、短編用に考えてあったアイデアを、みんな、ぶちこんで、長編に仕立てたのではないでしょうか? ≪ユダの窓≫の後だから、当然、出版社や読者からは、傑作を望まれていたはずですが、そうそう、立て続けに、傑作級のアイデアが出て来るわけもなく、質より量でごまかしたのではないかと勘繰りたくなります。

  カー作品には、探偵役とは別に、実質的な主人公となる、物語の中心人物が出て来るのですが、この作品では、それが、転々としまして、誰の視点で事件を見ているのか、分からなくなってしまいます。 ポラード巡査部長というのが、その一人なのですが、ただの警官でして、なんでまた、彼を視点人物にしたのか、理由が解せません。 描写が立体的になると考えたんでしょうか? 鬱陶しいだけだと思うんですが。

  ところで、H.Mシリーズといえば、後期作品に於ける、コミカルな場面が魅力ですが、どうやら、それは、この作品での登場場面から始まったようです。 ただし、滑稽なだけですけど。 そして、登場場面だけが、コメディーで、その後は、砂を噛むようにつまらなくなります。 H.Mらしい高飛車な推理の切れ味は、まるで感じられません。

  ちなみに、毒を盛った方法のトリックは、今なら、誰でも、どこかで聞いた事があるようなもの。 もしかしたら、これが最初の使用例なんすかね? いや、そんな事もないと思うんですが・・・。 今では、あまりにも、ありふれたトリックになってしまっているが故に、いつ誰が使い始めたのか、考えた事もありませんでした。

  それらはさておき、この訳文の古臭さと言ったら・・・。 「卓子」と書いて、たぶん、「テーブル」と読ませたいのだと思うのですが、厳しいですなあ。 「たくし」なんて言葉はないですよねえ。 中国語なら、ありますけど。 1957年というのは、こういう文字使いが、まだ、幅を利かせていた時代だったんでしょうか。




  今回は、以上、6冊までです。 2016年の、8月下旬から、10月半ばにかけて読んだ本。  ちなみに、今現在、カーの本は、ほぼ読み終わっています。 というか、つい数日前に、最後の一冊を返したばかりでして・・・。 まだ、手に入れられる本もあるのですが、残るは、歴史ミステリーばかりでして、あまり、興味が湧かないのです。

  一人の作家の作品を、8割方読んでしまうと、得てして、全て読まないといけないような強迫観念に襲われるものですが、私は別に、カーのファン・クラブに入って、コアな批評に花を咲かせようと目論んでいるわけではないですから、そんな義理はないという事で、このくらいで、やめにしておきます。