2016/12/25

私の父

  2016年、最大の出来事は、8月に起きた、「父の死」です。 その経緯については、これまでにも、ある程度書いて来たので、繰り返しません。 私自身、あまり、思い出したくないです。 去年の最大の出来事が、「シュンの死」でしたが、二年続けて、家族を失ってしまい、我が家は、私と母の二人暮らしに・・・。 急転直下という感じで、家族と呼べる最少人数になってしまいました。

  今回は、その、父の人生について、書いておこうと思います。 2009年の暮れに、母方の叔父さんが死んだ後、叔父さんの人生について、追悼記事を書いた事があり、叔父さんの事を書いて、実の父の事を書かないのも、アンバランスなので、書いておこうと思ったわけです。



  父は、昭和5年(1930年)生まれで、享年86歳。 男5人女2人、7人兄弟の長男で、親から家を受け継ぎましたが、家自体が、借金で買ったもので、親が返せない借金を、父と、すぐ下の弟の二人が働くようになってから、二人の稼ぎで返したそうで、親の財産を貰ったというわけではないです。 ただし、そのすぐ下の弟には、引け目があったようで、歳を取ってからも、会うのを苦手にしていました。

  若い頃は、いくつかの職業をしていたそうです。 戦後間もない頃に、社会に出たから、まともな勤め先がなかったんですな。 割と長く勤めたのが、井戸掘りの会社で、伊豆半島へ泊まり込みで仕事に行っていたらしく、西海岸の地名には、驚くくらい、詳しかったです。 私が子供の頃、ドライブに行ったついでに、父が昔、井戸を掘った飲食店で食事をした事があるのですが、折り悪く、客でごった返している時間帯で、ろくに思い出話もできぬまま、出て来てしまいました。 子供の目から見ても、薄ら寒くなる記憶です。

  学校の成績が良くて、兄弟姉妹の中では唯一、高校(工業)を出ていた関係で、井戸掘りをやめた後、機械設計の会社に入ります。 その後、個人でやるようになり、私が物心ついた時には、家の中に製図台を置いて、仕事をしていました。 一応、設計事務所を名乗っていましたが、会社ではなかったと思います。 私がまだ若い頃、「社長さんはいますか?」という電話をとった事があるのですが、父の事を言っているのだと分かるまでに、かなり時間がかかりました。

  ちなみに、父は、人付き合いが好きでなかった割には、人様の結婚式によく出た人で、そういう時、配席表に書かれる肩書きは、「○○設計事務所社長」でした。 「一人でやってるのに、社長もないもんだ」と、家族は思っていたわけですが、知らない人は、肩書きに惑わされて、「ああ、この人、社長なのか」という目で見てくれたわけですな。

  機械設計の仕事は、その後、庭に、6畳のプレハブ離屋を建てて、そちらでやるようになりました。 私が、小学校低学年の頃だから、もう、45年くらい前ですな。 以来、72歳で仕事をやめるまで、ずっと、家で暮らし、家で仕事をしていました。 私自身は、50歳で引退してしまいましたから、父が72歳まで働いていたのは、大した努力だと思うのですが、世間一般的に見ると、そのくらいまで働く人は珍しくないようです。 ただし、父の場合、「お金がないから、働き続けるしかない」というわけではありませんでした。

  父自身は、仕事がある内は働き続けるつもりでいたようですが、設計という仕事が、紙に書く方式から、コンピューターを使う方式に変わってしまい、仕事がなくなってしまったのです。 終わりの頃には、結構、嫌な思いもしていたようなのですが、家族に愚痴をこぼすタイプではなかったので、詳しい事は分かりません。 特に、仕事の事は、喋りませんでしたねえ。

  庭弄りが趣味だったから、一年の内、仕事をしていたのは、3分の2くらいで、残りの3分の1くらいは、趣味に当てていたのではないかと思います。 いずれにせよ、庭かプレハブ離屋、つまり母屋以外の場所にいるわけで、家族からは、父がその日、何をして過ごしていたか、知る事ができませんでした。

  親から受け継いだ家ですが、母と結婚した時に、夫婦用の部屋を建て増しして、その後、私が小学校低学年の頃、改築して、土間だった台所をフローリングにし、子供部屋を作りました。 それから、5・6年もしない内に、家を建て替えて、1978年に、今の家になりました。 家の建築費は、父と母で折半し、権利も半分ずつにしたとの事。 母は、給食の調理師をやっていて、公務員なので、父よりも収入が多かったのです。

  私の記憶では、台所と子供部屋の改築から、家の建て替えまで、随分と間があったような感じがしていたのですが、計算してみると、どうしても、5・6年しか開いていません。 子供の頃と、大人になってからでは、時間の感覚が、全然違うんですな。 今、考えてみると、改築したばかりなのに、ほんの5・6年で建て替えるのは、勿体ない話ですなあ。 改築後も、トイレが、汲み取りのままだったので、水洗にしたくて、改築に踏み切ったのかも知れません。

  母の方が収入が多かったせいで、父は、母に頭が上がりませんでした。 私が子供の頃には、口喧嘩をしていましたから、まだ対等だったのかもしれませんが、私が中学生くらいになると、父は、家族の事については何も言わなくなり、仕事と趣味の事だけ考えているという人間になりました。

  そういや、子供の頃は、よく叱られました。 殴ると馬鹿になるというので、子供の二の腕をつねるんですよ。 これが、痛い痛い。 だけど、それが原因で、父を憎悪するような事はなかったです。 体罰がいいとは言いませんがね。 中学生になり、ふと気づいたら、父は、全然、子供を叱らない人間になっていました。 そういう教育方針だったのか、子供が大きくなって、体罰がやり難くなったからなのかは、不明。


  昭和一桁生まれですから、昔風の考え方をする世代なのですが、頑固だったのは、車や、植木・盆栽など、ごく一部の事に対してだけで、それ以外は、概ね、物分かりのいい性格でした。 自分の意志を抑えているというより、家族に対して、興味を失ってしまったような感じでしたねえ。 私達子供が小さい内は、よく、車でドライブに連れて行ってくれましたが、二人とも中学生になってしまうと、どうでもいい存在になったようで、進路の事で、あれこれ言うような事はなかったです。 放任主義というより、興味がなかったのだと思います。

  車に乗り始めたのは早くて、父の弟と二人で働いていた頃に、早々と買っていて、我が家には、私が生まれる前から、車がありました。 私が子供の頃には、まだ、車がない家庭も多かったから、その点に関しては、恵まれていたわけだ。 覚えている最初の車は、マツダの2代目ファミリア。 次が、トヨタの5代目コロナ。 次が、8代目コロナ。 最後が、11代目で、最後のコロナになる、コロナ・プレミオでした。

  家族でドライブに行っていたのは、ほとんど、ファミリアです。 ファミリアに買い換えた時の事を覚えているので、その前の車にも、私は乗っているはずですが、車種を覚えていません。 小学生の頃ですが、近所に、同じファミリアがある家があり、その前を通りかかったら、その家の奥さんが、私に声をかけて来て、「ボクんちには、うちと同じ車があるね」と言ったのを、覚えています。 その奥さんも、だいぶ前に、亡くなったらしいですけど。

  5代目コロナがあった頃に、兄が免許を取り、数年後に、私と母が免許を取り、そのコロナで、運転の練習を少ししました。 母が、家の駐車場で、隣の敷地へ脱輪させたのも覚えています。 そのコロナまでは、マニュアル車だったのですが、父は、別に、走りに拘るタイプではなかったようで、次の8代目コロナからは、オートマ車を買いました。 しかし、その8代目コロナには、ほとんど、思い出がありません。 なぜなら、私も母も、それぞれ自分の車を持っていて、父の車を運転する事もなければ、乗せられて、どこかへ行く事もなかったからです。

  最後のコロナ・プレミオに関しては、私が車をやめて、バイクに乗っていた時期だったので、借りて乗る事が、たまにありました。  母が車をやめた2009年から3年間は、再び、父の車が、家で唯一の車になり、私は頻繁に借りました。 それも、2012年の暮れで、廃車。 父は、82歳まで運転をしていた事になります。

  仕事をやめて、車が必要なくなってから、10年間も所有し続けたのは、年に一回、施餓鬼会の時に、近所に住んでいる親戚の奥さん方を乗せて、寺まで行く出番があったからです。 馬鹿馬鹿しいと笑うかもしれませんが、引退すれば、そういう機会が、いかに貴重かが分かるようになります。 片道20分程度、乗せて行くだけでも、引退者にとっては、他人に感謝される、「ハレ」の舞台なのです。

  母は、そうやって、親戚の奥さん方の役に立とうしている父を見るのが大嫌いで、さんざん、嫌味をぶつけて、父が車をやめる方へ追い込みました。 ちなみに、父の運転は、60代の頃、かなり乱暴になりましたが、その後、改善して、70歳以降は、同乗しても、別に、ヒヤヒヤする事はなくなっていました。 車をやめる時の父は、寂しそうでしたよ。


  うちの場合、家族を支配していたのは、母ですが、庭に関しては、父の管轄下にあり、他の家族は、父の許可を得なければ、植木鉢一つ、動かす事ができませんでした。 私と母が、同時に車を買った時、置き場所を作る為に、物置を移動し、植木を何本か切らなければならなくなったのですが、父の許可は得たものの、いつまでたっても、やってくれず、納車の日か刻々と迫って、ヒヤヒヤしました。 ちなみに、貝塚伊吹2本と、夏蜜柑1本、蘇鉄1株です。 業を煮やした私が、蘇鉄を別の場所に移植したら、ようやく、やってくれましたけど。

  父にしてみれば、切りたくなかったんでしょうなあ。 だけど、それなら、最初に頼んだ時から、時間的なゆとりがあったのだから、他の場所へ植え替えれば良かったのに。 思うに、庭は自分の管轄下だと思っているから、家族が自分の権利を侵食するのに、納得が行かなかったのでしょう。 この、庭に対する支配意識は、晩年に、心身ともに衰えて、庭弄りができなくなるまで続きます。

  父の育てていた植木は、いいものもあれば、そうでないものもあります。 松、槙、黄楊、梅、椿、金柑、平戸躑躅、五月、南天、柊南天、今あるのは、そんなところ。 盆栽は、松、柏、椿、梅、海棠など、20鉢くらい。 他に、観音竹が4鉢あります。 父の死後、植木の手入れは、私が引き継ぎましたが、盆栽は、趣味がない人間には、どうにも仕方がなく、水をやりながら、枯れるのを待つという、気の毒な状態になっています。

  趣味をやるなとは言いませんが、生き物を遺すのは、勘弁してください。 ほんと、ほんっとに、困るんですわ。 私は、父の趣味の後始末をする為に、人生を生きているわけじゃないんだから。 


  生き物といえば、父は、50年くらい前に、錦鯉に嵌まり、庭に池を作って、多い時は、20匹くらい買っていました。 金魚もいて、そちらは、数えられないくらい、たくさんいました。 ただ、魚を、物凄く可愛がっていたわけではなく、コレクションだったようで、よその池へくれてやるという事も、よくしていました。 うちで繁殖したのではなく、買って来たのが大きくなって、飼いきれなくなってしまうパターンですな。 感心しない飼い方です。 だけど、父の世代だと、家で飼う動物というのは、「家畜」と同様の認識ですから、命の尊さなんて、最初から念頭になかったのだと思います。

  父が、人間同様に愛した動物というと、柴犬のシュンだけです。 犬を飼う事を決めたのは、私と母でして、父は最初、興味がない様子でしたが、その内、午後の散歩を引き受けるようになり、散歩から帰って来ると、濡れタオルでシュンの体を拭いてやるのが、日課になりました。 雨の日でも風の日でも、お構いなしに、約14年間、それを続けたのです。 シュンは、父にとって、唯一、心から愛した対象だったのではないかと思います。

  だけど、シュンが衰えて、散歩に行けなくなってしまうと、これまた、急速に興味がなくなって、何の世話もしなくなってしまいました。 シュンが寝たきりになってからも、何もしませんでした。 その辺が、父の世代の、動物に対する愛情の限界だったのでしょうか。 シュンが死んだ後、一度だけ、私と一緒に、自転車で、供養塔のあるお寺へ行った事がありますが、父が自分一人で行く事はありませんでした。


  朝食に味噌汁を作るのは、もう、だいぶ前から、父の仕事になっていて、父は、季節に関係なく、朝5時には起きて、朝食の仕度をし、他の家族が起きてくれば、一緒に食べるものの、そうでなければ、一人で食べていました。 昼食と夕食は、必ず、家族と一緒に食べました。 昼食の食器洗いも、父がやっていましたが、日曜日だけは、私がやりました。 出された物に、文句をつける事はなかったですが、食べたくない物は食べず、そういうのは、私が食べました。

  挽肉が嫌いで、スパゲティーは、ミート・ソースが駄目、餃子も嫌いと、私が好きな物が嫌い。 貰えるのは好都合なのですが、ミート・ソースは、母が最初から作らないので、何年間も食べられない事がありました。 また、私が食べ終わった頃に、「これ食うか?」と言ってくるので、タイミングが悪く、すでに満腹している私は、父から貰った分を、おいしく食べられませんでした。 父が歳を取るに連れて、残す料理は増えて行きました。

  そうめんが好きで、残った分を、最終的に片付けるのは、父でした。 私は、そうめんが嫌いなので、気が知れませんでした。 今年の7月、最初の入院から退院して来た後、父の食が回復しなくて、そうめんならばと、母が何度も作りましたが、食べ過ぎると、胃で消化できずに、次の日に何も食べられなくなってしまうという、厄介なパターンを繰り返しました。

  部分入れ歯をしていましたが、自分の歯の方が、ずっと多かったので、最後まで、硬い物でも、食べる事ができました。 その点、遥かに早く歯を失ってしまった母よりも、食生活は幸福だったと思います。 間食は、あまり、しませんでしたねえ。 健康オタクだったせいか、歯磨きに異様に時間がかかり、なかなか、洗面所が空かず、イライラさせられた事があります。

  健康オタクと言えば、座り仕事だったから、朝、体操をしていた時期もありました。 シュンと散歩に行くようになってからは、やめてしまいましたが、続けていれば、もっと、元気で長生きできたかもしれません。 体操ごときと侮るなかれ。 毎日の積み重ねが、健康を維持するのです。

  アロエ信者で、庭に温室を作って栽培し、食べたり、貼ったり、いろいろと活用していました。 最後に、アロエを食べる姿を見たのは、最初の入院から退院して来てから、一週間くらいした頃で、便通が悪いので、アロエで、強制的に出そうと言うのでした。 確かに出ましたが、すでに、その時、父の胃は、そういう荒療治に耐えられない状態になっていたのだと思います。

  青汁と、善玉菌のサプリメントは、死ぬ寸前まで、定期購入していて、私が、「死にかけているというのに、そんな物で治るか!」と怒って、やめさせました。 私が電話をかけて断りましたが、後払いシステムだったので、最後に送られて来た分の代金は、払わなければなりませんでした。 馬鹿馬鹿しい。


  1993年に、兄が結婚して家を出るまで、父は、旧居間で寝起きしていたのですが、兄の部屋が空いたので、そちらに移り、ベッドと箪笥に、自分専用のテレビを買いました。 そして、夕食が済むと、自室へ直行するようになりました。 最初は、好きな番組を見たいから、そうしていたわけですが、そういう事をやっていると、次第に居間に来れなくなってしまいます。 居間にあった父の座椅子も、10年くらいしたら、片付けられてしまい、父は、自室以外に居場所がなくなりました。

  母とは、ほとんど、会話がなくなりました。 私は、ちょくちょく、父と話していましたが、用件を言うだけで、そんなに長い話をした事はないです。 それに、私が働いていた間は、自分の事に精一杯で、父の話し相手になるゆとりはありませんでした。 シュンがいた間だけ、シュンが家族の接着剤になって、何とか、崩壊を免れたという格好です。

  父は、晩年、家庭内別居に近いような、寂しい日々を送っていました。 私が、早く引退したおかげで、父に構うゆとりが出来て、毎朝、父の部屋へ行って、レコーダーの予約をしたりしていましたが、その頃には、もう、父の認知機能が低下していて、半分、廃人のようになっていました。 もともと、べらべら喋るタイプの人ではなかったから、そんなに大きな落差はなく、ショックというほどのショックは受けませんでしたけど。

  テレビ番組ですが、父は、私が子供の頃には、プロレスが好きで、体を揺らしながら、興奮して見ていました。 ところが、八百長である事が分かってから、ピタリと、興味がなくなったようで、全く見なくなってしまいました。 晩年は、時代劇の再放送ばかり見ていましたねえ。 最後まで、見たがっていたのは、座頭市シリーズでした。


  父が私にしてくれた事というと、どこかへ行かなければならない時に、車で送ってくれました。 ほとんどは、子供の頃ですが、大人になってからも、2010年に、岩手応援に行く時に、集合場所である会社の駐車場まで送ってもらったので、割と最近まで、続いていた事になります。

  あと、中学生の頃、坊主頭にするのに、父にバリカンで刈ってもらっていました。 そして、なんと、その習慣は、私が40歳を過ぎてから、2007年に復活し、今年の春先まで続きました。 電動バリカンは、私が新しく買ったものでしたけど。 年に3・4回として、9年で、約30回。 床屋だと、丸坊主でも3千円取られますから、9万円も浮いた事になります。 父にして貰った事で、これが、一番ありがたかった。

  他に、私が仕事の応援や異動で、家にいない間、亀の世話をしてもらった事も、忘れてはいけませんな。 もともと、生き物を飼うのが好きな人だったわけですが、自分のペットではないですから、楽しくはなかったでしょう。 もっとも、私の亀は、エビをやると、大喜びするので、それは面白かったようですけど。


  逆に、私が父にしてやった事というと、ビデオ・デッキを買ってやったり、パソコンを譲ったり、テレビやレコーダーを買いに行ってやったり、そういう事が多かったです。 デジカメも買ってやった事がありますが、数枚しか撮らなかったようです。 自分の趣味を、親に薦めても、駄目なんですねえ。

  パソコンは、2002年から、2014年まで、12年間、父の部屋に設置されていました。 父は、キー・ボードを打てるようになり、その頃していた、白内障治療の記録をつけていましたが、手術が終わったら、興味がなくなって、インター・ネットも、まるで見なくなり、その後、パソコン・セットは、埃を被る事になりました。

  晩年には、植木の手入れを、父の代わりにやる事になりました。 これは、どえらい重労働でして、最も感謝されて然るべきなのですが、私が引き継いだ頃には、父は、半分、廃人化していて、植木に興味がなくなり、ありがたいとも何とも思っていないようでした。


  いいかげん、長くなり過ぎたので、そろそろ、纏めます。 果たして、父の人生は、良かったのか、悪かったのか? そういう話になると、一応、天寿を全うしたわけだから、その点は、文句ないでしょう。 結婚もしたし、子供も育てた。 悪い事は一切せず、正道だけ進んで来た上に、人柄も良かったと思います。 父の人柄を悪く言っているのは、母だけですな。

  私は、父から、腰の低さを受け継ぎましたが、それは、社会生活をする上で、結構には役に立ちました。 ただし、私の性格は、むしろ、母似でして、腰が低いのにも限度があり、ナメてかかってくるような相手には、キレてしまうわけですが・・・。 父の腰の低さは本物でして、他人と喧嘩しているところなんて、見た事がありませんでした。

  家族に興味がなかったのは、やはり、マイナスですかねえ。 人様の結婚式には、ホイホイ出かけて行くくせに、私の結婚には、何の興味もなく、縁談を探して来ようなどとは、小指の爪の先ほども思わなかったようです。 そのせいもあって、孫はできずに、血筋が絶える事が決定したわけですが、おそらく、そんな事にも、興味がなかったんでしょう。

  また、物を捨てられない人でして、父の部屋、その奥の納戸、プレハブ離屋、物置の四ヵ所に、父が遺した物が、ごっそりごちゃまんと詰まっていました。 捨てたくないのか、捨て方を知らないのか、とにかく、「なんじゃ、こりゃ?」と思う物まで残っているのです。 仕事をやめてから、14年間も遊んでいたのに、なーんで、片付けておいてくれなかったのか・・・。 いや、それはまた、別の記事で書く事にしましょう。

  叔父さんの追悼記事の時には、「叔父さん、万歳!」と書きましたが、自分の父親だと、万歳とは言えませんなあ。 いろいろとあったんですよ。 つまるところ。


もういない家族。 2006年3月頃の撮影。