2017/04/02

遺物との戦い ④

  父が管轄していた場所から出てきた物を片付けた時の写真です。 あるわあるわ。 写真を見返しているだけで、頭がクラクラしてきます。 この大量の品を、私一人で全て処分したというのが、自分でも信じられないくらいです。 これだけ働いても、誰も誉めてくれないのが、腹立たしい。 父の物ばかりではないから、父だけを恨むわけにはいかないのですが。




≪ちりとりと、折自用荷台・前籠ステー≫

≪写真上≫
  物置やプレハブ離屋にあった、ちりとりです。

  左の青いのは既製品ですが、もう、掃き込み口が割れてしまっていて、大雑把な掃除にしか使えなくなっていました。 それに、取っ手が短いので、屈まなければならず、腰を悪くするだけなので、捨てました。 今は、もっと、取っ手が長いちりとりが売っています。

  真ん中のは、父が、プレハブ離屋の室内用に、自作したもの。 木の色から見て、そんなに古いとは思えないのですが、なんで、店でプラスチックのを買って来ずに、こんな重いのを、わざわざ作ったか、気が知れません。 たぶん、構造を思いついて、作れそうだったから、作っただけなのでしょう。 捨てる為に、解体したのですが、釘が多用されていて、怪我をしないように、ヒヤヒヤものでした。

  右のは、庭用ですが、灯油の一斗缶を利用して、木の取っ手をつけたもの。 父が、作りました。 私が子供の頃から、似たような物がありました。 缶を取り換えて、何代か経ているはず。 最後のこれも、もう、ボロボロで、何年も前から、穴が開いていました。 父の存命中、捨てていいか訊いたら、「缶を換えれば、まだ使えるんだがな」と言っていました。 勘弁してください。 重いし、取っ手が短いし、腰痛もちには、とても使えません。 解体して、捨てました。

≪写真下≫
  これはねえ。 母が、親戚のローソンで、アルバイトをしていた頃に、ローソンの懸賞で、16インチの折りたたみ自転車を当てたのですが、それに付ける為に、ホーム・センターで買って来た、荷台と、前籠ステーです。 大変、乗り難い自転車で、母も私も、ほとんど乗らないまま、兄嫁が引き取って行きましたが、やはり、乗らなかったようです。

  前籠も一緒に揃えたのですが、それだけは、今、旧母自に取り付けられて、役に立っています。 もう、自転車本体がないのに、なんで、こんなものを保存してあったのか、分かりません。 父は、物を捨てない人だから、それは納得できるとして、私が、2016年の初めに自転車のレストアをした時に、見ているはずなのに、どうして、捨てなかったんでしょう?

  資源ゴミの金属類に捨てました。



≪父の部屋の片づけ中≫

  このシリーズ、もう終わりにしたつもりだったのですが、見逃していた写真が見つかったので、もうちょっとだけ、出します。

≪写真上≫
  ベッドを解体した後の様子。 一番奥に束ねて立てかけてあるのが、ベッドの残骸です。 部屋の中央にあるのは、箪笥の引き出し。 箪笥本体はとっくになくなっていて、父が、引き出しだけ残し、物入れ代わりに、ベッドの下の奥に入れていたのです。 これ以外に、納戸の中にも入っていて、全部で、大きいのが4つ、小さいのが2つありました。 金槌とプライヤーでバラバラにして、埋め立てゴミや、燃やすゴミに出しました。   

≪写真中≫
  片付けは、二日に一度、半日使うペースで進めていたのですが、埋め立てゴミの日まで、日数があって、しばらくの間、父の部屋は、こんな状態のままでした。 捨てる準備ができた順に、早く、捨ててしまいたかったのですが、どうにもしようがありませんでした。

  右の方に、細長い姿見が写っています。 その昔、母が、懸賞か何かで貰ったもの。 しばらく、私の部屋にありましたが、その後、納戸にしまわれ、数年前に父が出して、父の部屋で使っていました。 これも、解体して、捨てました。 長いガラスは、父の遺品のガラス切りで、三分割にしました。

≪写真下≫
  押入れ。 元から入っていたものは、全部出し、解体・分別して、捨てる準備を整えてから、一時置き場として、また入れたら、こんな状態になりました。

  上段奥の、巻いてある長いのは、ベッドの擬畳から剥がした畳表です。 こうしてしまえば、茣蓙と変わらないので、埋め立てゴミに堂々と出せます。

  父が使っていたハンガーが、ごっそり。 父は、下着と靴下、パジャマ以外は、全て、ハンガーにかけていました。 木製のとプラスチック製のがほとんどでした。 今じゃ、木製ハンガーなんて、売ってないでしょうねえ。 さりとて、記念に残すほどのものでもありません。

  右端の、大きな茶封筒は、父が身罷った病院から受け取った、領収書などの書類が入っています。 二回入院したから、二袋。 すでに、高額療養費の還付手続きは終わっており、もう用はないと思うんですが、念の為、2年くらい、保存して、役所から、何も言って来ないようなら、捨てるつもりでいます。

  下段は、解体したテレビ台とか、ソファ風座椅子から抜きとったスポンジとか、天袋に入っていた兄の鞄類とか、そんなものが入っています。 釣り竿は、兄が子供の頃に使ったものです。 同じ時に買ってもらった、私のもあったのですが、それは、2015年の大整理の時に、先に捨てています。

  キッチン蛍光灯は、父が、ホーム・センターで買って来て、自室の姿見の上に取り付けていたもの。 その姿見は、2014年に、父がぶつかって、割れてしまい、その後、納戸から、≪写真中≫の自立式姿見を出したわけです。 壁に貼った姿見が割れた時点で、蛍光灯は不要になっていたのですが、父が死ぬまで、そのままになっていました。

  父は、キッチン灯が好きだったようで、二階の流しにも、同じ物をつけていました。 それは、別に邪魔になりませんし、たまに点ける事もあるから、そのままにしてあります。 実は、私も、以前、居間で使っていたパソコン・デスク用に買った、同じキッチン灯を保存してあります。 あれも、捨てねばなあ。



≪五月人形の処分≫

  12月の中旬に、父の部屋に最後に残っていた廃棄対象物である、五月人形を解体しました。 たくさんあるので、ざっとだけ、解説します。

≪写真1≫
  左側は、鐘馗様。 これは、風体を見るだけで分かります。 ケース入り人形7体の内、私が、覚えていたのは、これだけでした。 右側は、よく分かりません。 神武天皇? この二体だけは、大人の顔をしています。 それ以外は、人形の想定年齢に関係なく、子供の顔です。

≪写真2≫
  左側は、「六法」という名札がありますが、正体は不詳。 右側は名札がないのですが、たぶん、源義経ではないかと思います。

≪写真3≫
  左側は、「牛若丸」の名札あり。 京の五条の橋の上で、弁慶と戦った時の服装ですな。 右側は、名札が、「月○」とあり、下の字が読めないのですが、「月糸」なのかも知れません。 一方、人形の方は、どう見ても、弁慶だと思われ、もしかしたら、「月糸」というのは、作者の名前なのかも。

≪写真4≫
  左側は、「龍神」の名札があります。 正体は不詳。 右側は、五月人形を入れてあった、サンヨー・テレビのダンボール箱の中に、埃除けとしてかけてあった新聞。 「1979年(昭和54年)5月5日 土曜日」の日付がある、朝日新聞朝刊の番組欄です。 「まんが日本昔ばなし」、「クイズダービー」、「Gメン75」などが載っています。 この頃、静岡の民放は、まだ、3局でした。

 1979年は、私が、15歳になった年でして、五月人形を最後に出した年としては、遅過ぎるのですが、詳しい事は分かりません。 前年に、家を建て替えているので、荷物を移動したついでに、整理し直したのが、79年だったのかも。

≪写真5≫
  人形以外の、飾り物。 組み立て方が分からず、ここまでにするのに、苦労しました。 完成図の紙も出て来たものの、どうせ、撮影の後、直ぐに壊すと思うと、真剣に調べる気になれませんでした。 左側の黒い箱には、鎧兜が入っていました。 この鎧兜が、金属板を紐で綴ったものでして、紐を切るのに、えらい手間がかかりました。


  ガラス・ケースは、ガラスを枠で挟んで、紐で縛ってあるだけでした。 紐を解いたら、枠はバラバラになり、ガラスも外せました。 ちょっと、構造が華奢過ぎて、怖いくらいでした。 ガラスは埋め立てゴミ。 枠は、短く折って、燃やすゴミへ。

  人形は、金属部品だけ外して、燃やすゴミへ。 「人形には魂が入っているから、捨てる時には、お寺へ持って行って、焼いてもらわないと・・・」という人もいますが、私は、そういう事を気にしないようにしています。 結局、人間が作ったものですから。 物に魂なんて事を言い出したら、ティッシュ1枚にも魂がある事になってしまいます。

  ちなみ、これらの人形は、頭と手足だけ、土で作ってあって、胴体は、針金に藁を巻いたものでした。 一万歩譲って、人形の魂に祟られたとしても、私はもう、人生の最終ステージにいるので、何も怖くありません。

  写真を撮り忘れたのですが、これらが入っていたダンボール箱の解体が、また大変でした。 昔のダンボール箱は、接合部を、大きなホチキスでバシバシ留めてあって、それを、プライヤーで、一つ一つ外さねばならなかったのです。 もう、勘弁してくれ。


  母に聞いたところでは、ケース入りの五月人形は、うちで買ったものではなく、親戚などが贈ってくれたものなのだそうです。 男の子が生まれた家には、そういう贈り物をする習慣があったとの事。 もしかしたら、今でも続いているのかも知れませんが、私は結婚しなかったし、兄夫婦にも子供がないので、経験せずじまいでした。 もし、人形の種類が重なってしまった場合、交換とかしてくれたんですかね? どちらを交換しても、角が立つような気がしますが。



≪レコードを捨てる≫

  12月の中頃に、父の部屋の納戸にしまってあったレコードを、ごっそり、捨てました。 兄のレコードもあると思っていたのですが、調べてみたら、一枚もありませんでした。 家を出た時に、持って行ったんでしょう。

≪写真上≫
  一番多かったのは、この、「日本民謡大全集」。 全16巻。 レコードも、「巻」で数えるんですねえ。 母が買ったもの。 昔の、大きなステレオで、これを流されると、うるさくて、他の家族には、拷問でした。 地域ごとに分けられているわけですが、ジャケット絵は、北斎の富嶽三十六景で、それぞれの土地とは無関係です。

≪写真中≫
  クラシック3枚や、「ゴールデン・ハワイアン」、「禁じられた遊び」、「軍歌・戦時歌謡」「懐かしの歌謡曲」は、母が買ったものだと思いますが、「西城秀樹 ゴールデン・ヒット・デラックス」は、誰が買ったのか、分かりません。 うちの家族の、誰の趣味でもないような気がするんですが。

≪写真下≫
  これは、左下の「CD-4」を除き、私が買った、シングル盤です。 シーナ・イーストンの、「マシーナリー」、「モダン・ガール」、原由子の、「横浜レディ・ブルース」。 私は、基本的に、レコードもCDも買わない人間でして、多分に、きまぐれに突き動かされて買ったのが、この三枚です。

  1980年に、「モダン・ガール」を耳にした時には、「ああ、時代が変わったんだなあ」と思いましたねえ。 今聴くと、歌詞の内容は、当たり前の事になってしまいましたが・・・。 80年は、私が高一の時ですが、このレコードを買ったのは、高三の時で、「マシーナリー」がCMに使われていた頃に、レコード店にあったので、一緒に買って来たのです。 決まった小遣いなんて貰ってなかったのに、よく買えたなあ。

  「横浜レディ・ブルース」に至っては、1983年ですから、ひきこもっていた頃ですが、ほとんど、自由になるお金がなかったのに、レコードなんか買ってしまって、当時の私の気が知れません。 これは、ラジオで聴いて、気に入って、買いに行ったんだと思います。 ちなみに、CDが、レコードを、一気に駆逐してしまうのは、1987年頃で、もう少し先です。

  「CD-4」というのは、ステレオに付いて来た、サンプル・レコードだと思います。 「4チャンネル」という、スピーカーを4つ使う方式のステレオで、1970年代に登場したもの。 あまり、普及しなかったようですけど。 ステレオ本体も、長い事、納戸にしまってありましたが、去年(2016年)の5月に捨てています。

  これらのレコードは、分別して、ジャケットは、資源ゴミ・紙類に。 レコード本体は、埋め立てゴミに。 ビニールは、プラスチック・ゴミに捨てました。



≪プレハブの蛍光灯と扇風機≫

≪写真1≫
  父が、かつて、機械設計の仕事場にしていた、プレハブ離屋の蛍光灯です。 これは、製図台の上に吊ってあった物。 もともとは、建て替える前の家で、どこかの部屋の天井灯に使われていた物ではないかと思います。 30ワット×2本。 金属と、プラスチック、蛍光管に分け、捨てました。

≪写真2≫
  これは、机代わりにしていた台の上に吊ってあったもの。 30ワット×1本。 素性は不明。 他で見た記憶がないから、たぶん、父がプレハブ用に買って来たものだと思います。 蛍光管以外は、ほとんど、プラスチックだったので、小型家電扱いで、埋め立てごみに出しました。

≪写真3≫
  これは、プレハブのメインの天井灯で、部屋のほぼ中央に吊られていました。 これらの天井灯は全て、父が自分で取り付け工事をしたようです。 生前、「電気は分からん」と言っていましたが、その割には、プレハブでも自室でも、部屋中に配線コードを張り巡らせて、生活を少しでも便利にしようと、工夫し倒していましたっけ。

  この蛍光灯は、母屋を建て替えた後、最初に和室に設置されたもので、その後、新しいのに取り替えた時に、母屋から離屋に移されたというのが、母の説ですが、私の記憶では、これは、建て替える前の家で、居間に吊られていた物ではないかと思います。 しかし、今や、確かめようがありません。 これは、メイン天井灯なので、そのまま、残しました。 夜にプレハブに入るような事は、もうないのですが、万一・緊急という事もありますから。

≪写真4≫
  壁掛け扇風機。 紐スイッチで、強弱が、2段階、切り替えられます。 同じ型で、羽根の色が緑色なのが、母屋に、二台あります。 その二台は、1978年に家を建て替えた直後、私と兄の部屋用に買ったもの。 この青いのも、ほぼ同じ時期の製品ですが、緑の二台と、どちらを先に買ったのかは分かりません。 母屋の二台は、洗面所と台所で、まだ使っていますが、このプレハブのは、もう不要なので、解体して、捨てました。



≪プレハブのロッカー≫

≪写真1・2≫
  プレハブ離屋に、事務ロッカーがあり、開けてみると、昭和50年代の「趣味の園芸」や、植木の手入れの本が、ズラリと並んでいました。 他に、水墨画の描き方の本など。 細々と、コメントするのも疲れるので、割愛。 私は、盆栽にも植木にも興味がないから、この種の本は、全く不要です。 割と状態が良かった、和英辞典だけ残して、他は、資源ゴミ・紙類に捨てました。

  ちなみに、「趣味の園芸」で、最も後に買われたのは、平成元年9月のものでした。 その頃にはもう、父も、新しい植物に手を出すような事はなくなり、趣味の園芸を新しく買う必要を感じなくなっていたのでしょう。

  昭和50年代のが多いのは、当時、最寄の書店と契約して、毎月、届けて貰っていたから。 いいかげんな配達係がいて、代金の二重取りをされかかった事件をきっかけに、父は契約を打ち切ってしまい、その後は、自分で本屋に行って、欲しい号だけ買っていたようです。

  その配達係は、中年女性でしたが、忘れっぽい人で、代金をすでに受け取っているのを忘れて、また、取りに来て、「絶対に受け取ってません」などと、言い張ったので、それまでにも、いろいろと腹に据えかねる事があったのを我慢していた、父の堪忍袋の緒が切れてしまい、契約打ち切りとなったのです。 後になって、「調べたら、受け取っていました」と電話して来たようですが、もう手遅れ。 私の父は、温厚な性格で、滅多に怒る事はなかったのですが、その時には、怒りが収まらないという態でした。

  私が、「この世には、いい加減な仕事をする人間がいる」という事を、初めて印象付けられたのが、その事件でした。 それまでは、仕事は、みんな、真面目にやっているものだと思っていたのですがね。 忘れっぽいのは、性分だから、仕方ないとしても、周りから、それを指摘されているはずなのに、メモもとらないのでは、いい加減と言われても仕方ありますまい。

  あのおばさん、たぶん、その後も、失敗ばかり続けたんでしょうねえ。 忘れっぽいのに、自分でそれを認めない性格って、最悪ですなあ。 仕事に向かない人って、いるんですよ。

≪写真3左≫
  これは、ロッカーではなく、机の上の本立てに並んでいた物。 機械関係の辞典類ですな。 趣味の園芸ほどではないですけど、三束分くらいはありました。 これこそ、私には、何の縁もありません。 捨てました。

≪写真3右≫
  ロッカーに入っていた、湯呑み・コップ・グラス類。 私が小学生の頃、父は同じ町内会の人二人と懇意になり、三人で、週に一度くらい、夜、プレハブに集まって、話をしていました。 続いた期間は、何ヵ月だったのか、何年だったのか、もう忘れてしまいました。 その頃に、使っていた器のが、いくつか。 他は、酒屋や寿司屋から、粗品で貰ったもののようです。

  こういう物は、母屋にも、ゴチャマンとあるので、残す理由がなく、全て、埋め立てゴミに捨てました。 

≪写真4≫
  ロッカーの上にあった、ダンボール箱を下ろして、中を見たら、なんと、書類がごそっと出て来ました。 公共料金の領収書の類で、個人情報が記されているので、えらい、処分が面倒なのです。 プレハブは、片付け中で、ゴチャゴチャしていたので、父の部屋に運び、処理しました。

  右側は、父の部屋にあった、同類の書類を処分した時の写真です。 個人情報が記された部分だけ破りとって、別のゴミ袋に入れ、別の日に、燃やすゴミに出しました。 名前や住所が入っていても、それだけでは、誰が出したゴミかしか分からないので、危険はないです。 一方、本体の方は、名前も住所も分かりませんから、これまた、何かしらのデータが載っていても、悪用のしようがないわけだ。

  そもそも、それ以前の問題として、燃やすゴミは、回収車に入れられてしまえば、もう、衛生プラントの焼却炉まで、一直線ですから、途中で暴かれる心配は、ます、ありません。 気をつけなければならないのは、量が多いからと言って、資源ゴミ・紙類に、この種の書類を出してしまう事の方です。



≪プレハブの机の中から≫

≪写真1・2≫
  プレハブ離屋の中で、机代わりにされていた台があるのですが、それに、引き出しや扉があり、中に入っていた物を出したら、こんな有様になりました。 あまりにも、物が多すぎて、解説ができません。

  父は、機械設計の仕事をしていたから、文房具は多かったです。 シャープペンの芯は、ごそっと出て来て、0.5ミリのだけ残しましたが、それだけでも、10ケースくらい。 たぶん、私が生きている内には、1ケースも使い切れないでしょう。 関数電卓の取扱説明書が、7冊。 そんなに壊れるもんなんですかねえ。 本体は、一台しかなかったです。 作動しなかったので、埋め立てゴミに。

  父が仕事をやめてからの14年間、プレハブは、父が自分で散髪する為の部屋になっていました。 そのせいで、散髪用具が、多く残っていました。 合わせ鏡を使って、後ろの方まで、自分で切っていたのだから、器用なものです。 父は、私から見ると、異様なくらい、髪の手入れには拘っていました。 「バリカンで、丸坊主にしてくれ」と私に頼んできたのは、最後になった散髪の、たった一回だけでした。

≪写真3左右≫
  この台は、事務用品だと思います。 引き出しの一番上だけ、施錠できるようになっているのですが、そこに鍵がかかっていて、中に、何か入っている模様。 最初に見た時には、青くなりましたが、他を片付けている内に、鍵を発見し、開ける事ができました。 中身は、セールスマンが置いて行った書類や、文具でした。 台は、資源ゴミ・金属類に出しました。




  あー、もー、うんざりだ。 というわけで、今回も、この辺で、勘弁してください。 とりあえず、もう一回分はあります。