2017/05/07

読書感想文・蔵出し (23)

  またまた、読書感想文です。 今現在の事を少し書きますと、4月末頃、いろいろと忙しくて、本を読む余裕がなく、図書館の本は借りていません。 というか、最後に返しに行った時に、貸し出しカードを忘れてしまい、「まあ、毎度、律儀に借りなくてもいいか」と思って、借りずに帰って来て、それっきりになっている次第。

  4月の最終日に、埋め立てゴミを出し、折自で、ポタリングにも行き、5月初めに、庭のプランター数箱に、朝顔の種を蒔いて、ようやく、やる事がなくなり、連休明けに予定している松の手入れまでの間、のんびり暮らしているのが、現状。 引退者で、毎日、休みの癖に、なぜ、連休明けを待つかというと、連休中は、家で静かに過ごしている人達もいるわけで、庭仕事の音が近所迷惑になったら、まずいからです。

  それはいいとして、本ですが、借りていなくても、読みたくなるもので、家にある、昔、母が買った文庫本を読んでいます。 1980年代の推理小説。 結局、気楽に読めるとなると、推理小説になってしまうようです。




≪七人目の陪審員≫

論創海外ミステリ 139
論創社 2015年 初版
フランシス・ディドロ 著
松井百合子 訳

  フランシス・ディドロは、フランスの作家。 ちなみに、男性で、1902年生、1985年没。 この作品は、1958年に刊行され、62年に、ジョルジュ・ロートネル監督によって、≪刑事物語・死の証言≫というタイトルで、映画化されているとの事。 映画の仏題は、原作と同じなのですが、日本未公開なのに、邦題ががついているのは、不思議です。 しかも、小説の内容は、≪刑事物語・死の証言≫という題とはかすりもしないので、ますます、解せません。 よほど大がかりに、翻案したんでしょうか?


  田舎町を流れる川の畔で、身持ちの悪い女が全裸で首を絞めて殺される事件が起こる。 被害者と交際していた札付きの男が逮捕され、町の人々は、当然、死刑にされるべきだと盛り上がるが、たまたま陪審員に選ばれてしまった真犯人が、無実の被告を救うべく、たった一人で、裁判の流れを変えようと、奮闘する話。

  推理小説というわけではなく、犯罪小説と言えば言えますが、むしろ、犯人の心理を描くのが目的なのではないかと思います。 これを、ミステリーの括りに入れてしまうのは、ちと、問題があるのでは? 普通の推理小説が好きな読者は、はっきり、違和感を覚えると思います。

  犯行が行なわれる場面から、犯人が分かっているわけですが、倒叙物のアリバイ崩しとは全く違っていて、探偵役の謎の解き方が読み所になっているわけではありません。 そもそも、探偵役がいませんし。 刑事は出て来ますが、手抜き捜査で、誤認逮捕をするだけの、とんだマヌケです。

  アイデアが変わっている点を認めるのに吝かではないのですが、問題は、小説として、面白いかどうかですな。 読後感は、この下ないくらい、すっきりしません。 どうせ、すっきりしないのなら、もっと、エピソードを継ぎ足して、どんなに苦労しても、町の人が主人公を犯人と認めてくれないところを強調すれば、カフカみたいになって、面白かったかも。

  町の人々が、イメージだけで、犯人を決め付けてしまう様子を描いているという読み方もできますが、それが目的だったと見るには、話の設定が凝り過ぎていますし、主人公の心理を、こんなに深く掘り下げる事もないわけで、やはり、違うと思います。 社会問題を抉りたい場合、小説家は、もっと、直截的に、本題に切り込んで行くはずです。



≪最後の審判の巨匠≫

晶文社ミステリ
晶文社 2005年初版
レオ・ペルッツ 著
垂野創一郎 訳

  レオ・ペルッツという人は、プラハで生まれ育ち、ウィーンに移住して、専ら、戦間期に活躍した、ユダヤ系作家。 推理作家というわけではないようです。 私は、全然知らなくて、図書館で、古典推理小説っぽい本を探していたら、ドイツ作家の棚に、この本があったので、借りてみたというだけの話。

  発表は、1923年。 もし、推理小説であれば、年代的に、古典としての資格は充分にあるのですが、残念ながら、推理小説ではないです。 いや、残念ではないか。 推理小説でなければいけないというわけでもないですから。 一段組み、240ページくらいで、一応、長編ですが、昔の文字サイズの文庫にしたら、150ページくらいになってしまう程度のボリュームでして、ちょっと長めの中編と思っていれば、ちょうどいいです。


  1909年のウィーン、有名な俳優の屋敷に、友人知人が集まって、素人演奏会に興じている席で、座興として、俳優が、次にやる役を披露する事になる。 準備の為に庭の小屋に籠った後、銃声が二発轟き、人々が駆けつけると、俳優が、「最後の審判」という言葉を残して、死ぬ。 俳優の妻の弟や、妻の元恋人の騎兵大尉、医学博士、ロシア軍の技師などが、俳優の死の謎を解こうとする話。

  これだけ読むと、どう見ても、推理小説のようですが、違います。 謎は確かに解けるんですが、推理小説的に解けるのではなく、怪奇小説や、幻想小説的に解けます。 推理小説と思って読んでいた人は、「こんなの、ズルい!」と怒るに違いないのですが、そもそも、作者は、推理小説として発表したわけではないので、怒るのは筋違いなんですな。

  推理小説の構成枠を利用しているのは確かで、たぶん、当時、草創期にあった、長編推理小説を、もじってやろうというつもりもあったんじゃないでしょうか。 謎が解かれる寸前まで、推理小説としか思えないような書き方がされているから、紛らわしいのが、罪と言えば罪です。

  メインの謎ではありませんが、精神医学が、ちょっと絡んでいまして、舞台がウィーンだけに、フロイトの影響が感じられるのは、楽しいです。 第一次世界大戦前のオーストリアは、まだ、巨大な帝国でして、その首都ウィーンは、学問も芸術も、世界の最先端の街だったわけですが、私が、その時代を書いた小説を読んだのは、これが初めてでした。


  訳者本人が、解説を書いているんですが、30ページくらいあって、明らかに、長過ぎです。 小説本体が、240ページしかないのに、30ページも解説をつけられては、たまりません。 内容が詳細過ぎでして、作者の略歴はともかくとして、作者の他の作品まで、細かく紹介しているから、こんなに長くなってしまうのです。

  一人で書いているのに、会話体にしているのも、問題。 それでなくても、解説に、解説者の主観が入るのは感心しないのに、それが、二人分もあるわけで、悪い見本のようになっています。 どういうつもりで、こんな書き方をしたのか、気が知れません。 これだけ、詳細なデータを盛れるのなら、普通に書いても、充分、読み応えがある解説になったと思うのですがね。



≪病的性格≫

中公新書 68
中央公論社 1965年初版 1990年47版
懸田克躬 著

  自分で持っていた本です。 1990年頃に、新刊で買ったものだと思いますが、日記に記載がなくて、何月何日だったかは、分かりません。 一回、読んでいるはずですが、ほとんど、覚えていませんでした。 覚えていないという事は、小説ならば、つまらなかった証拠ですが、新書の場合、面白い・つまらないに関係なく、記憶に残らないものはあります。

  奥付を開いたら、初版が1965年とあるのを見て、「えっ! そんな古い本だったの?」と驚きました。 道理で、昭和20年代の例とかが出てくるわけだ。 買った直後に読んだ時には、あまり、気にならなかったのですが、さすがに、それから、27年も経つと、感じが変わって来ます。 まあ、人間の性格の話だから、古い例でも、有効は有効なんですが。

  病的性格があるからには、病的でない性格もあるわけで、そういう正常者を対象にした性格分類の本と、中身は、ほとんど変わりません。 正常者の各性格が、極端化し、周囲との軋轢が大きくなり、当人も悩み、周囲の人々も迷惑を被るようになると、病的性格の領域に入るのだとか。

  つまり、正常か異常かは、程度の差に過ぎないわけです。 病的性格の例だと思って読んでいると、自分の性格に当て嵌まるところがあり、ドキッとするのですが、それが即、自分も病的性格だという事にはならない点を、何度も認識し直しながら、読み進める必要があります。 当然の事ながら、病的性格の例を他人に当て嵌め、当人の前はもちろん、陰口であっても、軽々しく口にするのは、非常にまずいです。 医師にかかるほどではないレベルの症状も、いくらもあるわけですから。

  性格分類の本には、精神医学の基礎を作った人達の、学派的影響が出るものですが、この本の著者は、シュナイダー学説を中心に、クレッチュマーやフロイトの学説とも突き合せる形で、解説を進めています。 だけど、素人から見ると、学派の主張の違いというのは、なかなか、頭に入りません。 私は、精神医学関係の本を、今までに十数冊くらいは読んでいるはずですが、そんなに深い興味があるわけではないせいか、性格の分類名ですら、ちっとも覚えられません。 それでいて、読んでいて、つまらないという事はないのですがね。



≪精神鑑定の事件史≫

中公新書 1389
中央公論社 1997年
中谷陽二 著

  自分で持っていた、中公新書の、≪病的性格≫を発掘して読み返し、結構、面白かったので、同類の本を図書館で探し、借りて来ました。 精神分析そのものではなく、犯罪事件に於ける精神鑑定について、客観的な診断を下すのが、いかに難しいか、実例を挙げて、説明している本。

  アメリカの、レーガン大統領襲撃事件。 夢遊病者や、多重人格者の犯罪。 明治時代の、ロシア皇太子襲撃事件。 ドイツの大量殺人犯のパラノイア症例。 フランスの哲学者が妻を絞め殺した情動犯罪。 ・・・などが、取り上げられています。 97年時点から見ても、古い症例ばかりですが、これは、実在の患者の個人情報を公開できない制約がある以上、致し方ないようです。

  これらの事件は、全て、精神鑑定で、「責任能力なし」という診断が出て、「無罪だが、病院に収監」という結末になっているのですが、当時の記録を調べると、精神科医の鑑定に予断が入っていて、犯人の演技に、まんまと騙されている例があるとの事。 しかし、大昔の事で、犯人も精神科医も、とおに他界しているので、もはや、正しようがありません。

  犯罪者の精神鑑定を専門に行なうプロが少なく、一般の精神科医が担当すると、一般の患者に対すると同じように、相手の身になって、治療しようとしてしまうせいで、鑑定に予断が入るのだそうです。 治療と鑑定は違うのだという事が、精神科医の常識になっていないようなのです。 面倒な上に、責任を負わされるので、鑑定医をやりたがらない医師が多いと書いてあります。

  たとえば、多重人格は、全くの演技でも、装えるらしいのですが、精神科医には、「多重人格の治療は、まず、患者の主張を信じる事から始めなければならない」という心得があり、その先入意識が、邪魔をするのだとか。 なるほど、最初から信じてしまったのでは、嘘を見破るのは、ますます難しくなりそうですな。

  この本を読むと、精神鑑定なんて、本当に、正確に行えるのかどうか、怪しくなって来ます。 心神喪失、または、心神耗弱を装う犯罪者は、結構いると思うのですが、症状について、入念に下調べをし、充分な期間を取って、周囲の人間に、おかしな様子を見せておいた上で、犯行に及び、鑑定医を騙す事ができれば、無罪になるのは、そんなに難しくないのでは?

  ただし、その後、精神病院に収監されてしまうので、どうやって出るかも、考えておかなければなりませんが。 ちなみに、重罪を犯したのに、精神病院で治療を受けた後、社会復帰した例も、ちゃんとあるそうです。 被害者や、その遺族は、大いに釈然としないのでしょう。 無関係な人間にとっても、普通なら、死刑や無期刑になるはずだった殺人鬼が、そこら辺を、平気な顔して歩いているというのは、怖いですなあ。

  こういう本を読んでいると、犯罪のやり方ばかり考えてしまいますが、言うまでもなく、犯罪などというものは、倫理上の問題を別にしても、まるで割に合わないのであって、やらないに越した事はありません。 そういう事を、自分の頭で判断できない人は、この手の本は、読まない方がいいと思います。




  以上、四作です。 読んだ期間は、今年、つまり、2017年の

≪七人目の陪審員≫が、2月半ばから、下旬。
≪最後の審判の巨匠≫が、2月下旬から、3月初め。
≪病的性格≫が、3月上旬。
≪精神鑑定の事件史≫が、3月上旬。

  長編推理小説に比べると、新書本は、ページの進みが速いです。 同じくらいのページ数でも、半分くらいの期間で読み終えてしまいます。