2017/04/23

読書感想文・蔵出し (21)

  カー作品以外の本の、読書感想文の続きです。 長編推理小説が続きます。 よくも、立て続けに、こんなに読んだものです。 これだもの、推理小説に嵌まって、出て来れなくなる人が多いわけだ。 あまり、若い内に、読まない方がいいかも知れませんねえ。 他のジャンルの本が、読めなくなってしまいますから。 推理小説しか楽しめないというのは、やはり、不幸でしょう。




≪だれがコマドリを殺したのか?≫

創元推理文庫
東京創元社 2015年初版
イーデン・フィルポッツ 著
武藤崇恵 訳

  発表は、1924年。 フィルポッツの推理小説の代表作と言われている、≪赤毛のレドメイン家≫が、1922年で、どちらも、初期作品の内に入ります。 「だれがコマドリを殺したのか?」は、パタリロのセリフ、「だーれが殺した、クックロビン」なのですが、元は、マザー・グースの一節なのだそうです。 他の作家の推理小説にも、よく使われますが、それらが大抵、童謡の歌詞に擬えた、見立て殺人を扱っているのに対し、この作品は、そうではありません。


  大恩ある叔父の意向に背き、南仏で出会った娘と結婚した医師が、情熱が冷めた後、叔父の遺産をもらえない事を、妻に知られてしまい、頭が上がらなくなる。 妻の元求婚者と結婚していた、妻の姉が交通事故で大怪我をした後、妻が体調を崩して死ぬが、数年後になって、妻が遺した、「自分は夫に毒殺された」という手紙が明るみに出て、医師に殺人容疑がかけられる。 私立探偵である、医師の友人が、事件の捜査を進め、意外な事実を突き止める話。

  半分くらいまでは、普通の心理小説で、推理物的な気配は、全くありません。 それ以降、急ハンドルを切って、推理物に仕立てたという感じ。 大筋を決めてから書き始めたとは思うのですが、フィルポッツは、もともと、純文学作家なので、心理描写による人物造形が興に乗ると、そちらの方が面白くなってしまったのではないかと思われます。

  だけど、もし、前半の細かい書き込みがなかったら、この小説の魅力は半減するでしょうねえ。 情熱的な恋愛が、いかに、急激に冷めるかを、無慈悲なまでに、突き放して描いていますが、こういうのは、人生経験が豊富になければ、とても書けますまい。 ちなみに、フィルポッツは、1924年には、62歳でした。

  冒頭、恋愛小説のような甘い雰囲気で始まるのに、財産が手に入らないと分かった途端に、夫を恨み始める妻を見るにつけ、「こういうものなのだろうなあ」と、つくづく思います。 貴族がまだ幅を利かせていた時代の小説には、自分で働いて富を手に入れようという気が全くない人物が、頻繁に登場しますが、現代から見ると、人間的魅力を何も感じないばかりか、無能者にして、社会の寄生虫としか思えません。

  妻は、夫にあてつけて、女優になろうとするのですが、「お、なんだ、自分で人生を切り開こうとするのか?」と期待したのも束の間、すぐに、諦めてしまい、演技者としての才能を、まるで違う目的に使うようになります。 別に、女性の自立を描きたいわけじゃないんですな。 どうも、現代的感覚では、測りかねる部分が多い。

  事件の謎の方は、現実に起こったとしたら、びっくり仰天なものですが、推理小説の世界では、定番になっているパターンで、現代の読者を唸らせるようなものではありません。 むしろ、私立探偵が捜査に乗り出した時点で、「ああ、なんだ、アレか」と見抜いてしまい、がっかりすると思います。 勘のいい人は、妻の体調が突然、悪化し始めたところで、もう、先が読めてしまうのでは?



≪フレンチ警部最大の事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1975年初版 1991年13版
F・W・クロフツ 著
田中西二郎 訳

  発表は、1925年。 フレンチ警部が初めて登場するという点で、特別な作品。 これ以後のクロフツの長編推理作品には、全て、フレンチ氏が登場して、探偵役というか、捜査員役を務めているとの事。 そういうわけで、≪クロイドン発12時30分≫にも、多少、役不足の感を漂わせつつも、出ていたわけですな。


  宝石商の事務所で、支配人が殺され、金庫の中の宝石が盗まれる事件が起こる。 担当になったフレンチ警部が、宝石と殺人犯を追って、ロンドンから、オランダ、スイス、スペイン、フランスを、船や列車で行き来し、膨大な無駄足を踏みつつ、少しずつ少しずつ、手がかりの糸を手繰り寄せ、やがて、犯人と、事件の真相に辿り着く話。

  推理物というよりは、捜査物です。 この二つは、分けた方がいいと、この作品を読むと、つくづく思います。 フレンチ警部は、人格的に優れているという以外は、警察式の捜査方法を実行するだけの、割と平凡な捜査員でして、天才的なひらめきのようなものは、一切、見せません。 それは、≪クロイドン発12時30分≫でも感じた事ですが、最初の登場から、意図的に、そういうキャラ設定にしてあったんですな。

  手がかりを掴んだと思ったら、肩透かしだったり、犯人側が、明らかに、フレンチ警部より一枚上手で、もう少しで捕まえられると思うと、とっくに逃げてしまっていたり、そんな事ばかり繰り返されます。 大変、泥臭い感じがするのですが、しかし、実際の捜査というのは、たぶん、こういうものなのでしょう。 警察に、ホームズばりの探偵刑事がいたら、そちらの方が、奇怪です。

  つまらないわけではないですが、≪クロイドン発12時30分≫に比べると、やはり、パッとしません。 小説で読むと長く感じられますが、映像作品にすれば、手に汗握る面白さを、醸し出せるかも知れませんな。 日本の刑事ドラマでも、こういう風に、地道な捜査を取り上げればいいのに。 事件に託けているだけで、単なる人情物になってしまっている場合が、ほとんどです。

  ≪最大の事件≫というタイトルですが、最初の登場で、早くも、「最大」を出してしまうのは、確かに変でして、訳者あとがきにあるように、当初は、この作品だけの捜査担当として、フレンチ氏を構想したものの、「こういうタイプの探偵役も面白い」と思って、その後も使い続けたのではないかと思います。



≪フレンチ警部と漂う死体≫

論創海外ミステリ 4
論創社 2004年 初版
F・W・クロフツ 著
井原順彦 訳

  発表は、1937年。 クロフツの長編推理小説は、全部で、34作あり、これは、20作目に当たるそうです。 ≪クロイドン発12時30分≫よりも、5作あとで、3年あと。 原題は、≪Found Floating≫で、過去分詞と現在分詞を組み合わされると、正確な訳が推定し難いのですが、「見つけられた、浮いているもの」とでもすべきなんでしょうか。 意味を暈してあるのは明白ですが、「浮いているもの」とは、死体の事です。


  イギリスのある地方で、電気製品の会社を経営している富豪が、兄の息子をオーストラリアから呼び寄せて、事業の後継者にしようとしたところ、一族が集まった夕食会で、参会者6人全員が、毒物を盛られる事件が起こる。 真犯人が分からないまま、時が過ぎ、体調回復の為に、豪華客船による地中海クルーズに、一族全員と、富豪の姪と婚約した医師が加わる。 ところが、北アフリカの港に停泊中に、一人が行方不明になり、やがて、水死体が発見されて・・・、という話。

  この作品、日本で翻訳出版されたクロフツ作品の中では、最後になったらしいですが、「なるほど、これでは、わざわざ、訳そうという気にならないだろう」と思わせる、中途半端な出来です。 とても、≪クロイドン発12時30分≫と同じ人が書いたとは思えない。 全体の纏まりが悪いのです。

  毒を盛られる事件が前半で、後半が、地中海クルーズになるのですが、この取り合わせに、なんとなく、無理を感じます。 途中で、作品が変わってしまったような、木に竹感が、半端ではありません。 前半と後半を、別々に思いついて、後でくっつけたと勘繰られても、否定し難いのでは?

  この頃、欧米の富裕層では、地中海クルーズが、最高に贅沢な娯楽と見做されていたらしいのですが、今は、そういうわけでもないから、ピンと来ないのかも知れません。 また、やけに、土地土地の描写が、細かいんだわ。 「トラベル・ミステリー」という、2時間サスペンス・ドラマで多用されるカテゴリーがありますが、あれ、そっくり。 観光案内を兼ねているのであって、こういうのを、推理小説と言ってしまって、いいものかどうか・・・。

  水死体の発見された場所や、損壊の状態から、犯人を推理して行くのですが、それらは、船乗りの専門知識がなければ分からない事でして、一般人向けの推理小説としては、失格しています。 これは、結構、重要な事で、推理小説で、専門知識が、トリックや謎の肝になっていた場合、作品の出来が悪いと判断する材料にしても差し支えないと思います。

  前半と後半の繋がりを悪くている最大の原因は、視点人物が、変わってしまう事でしょう。 前半では、富豪の姪の目で、事件が描写されますが、後半では、途中から、フレンチ警部が登場し、以降、ラスト直前まで、彼の視点で、話が進みます。 富豪の姪は、船内にいるのに、ただの一証言者になってしまい、作者に見放されたような感じを読者に与えます。

  捜査員役として、フレンチ警部を出すにせよ、≪クロイドン発12時30分≫のように、別人の視点で描写する方法もあるわけで、そうした方が、纏まりが良くなったと思うのですがね。



≪薔薇の名前≫

東京創元社 【上巻】1990年初版 1993年18版 【下巻】1990年初版 1990年5版
ウンベルト・エーコ 著
河島英昭 訳

  ≪薔薇の名前≫というと、映画をテレビ放送の時に見たのが、もう、遥かな昔。 調べたら、1986年の作で、日本では、87年公開だったそうですから、テレビ放送は、その1・2年後としても、やはり、30年近い大昔という事になります。 その後、沼津の図書館で、本を見つけ、読みたいと思ったものの、下巻しかなくて、いつまで経っても、上巻が戻って来ないので、その内、諦めてしまいました。

  今回、カー作品を相互貸借で取り寄せている間の繋ぎに読む本として、何か推理小説の古典を探していたら、≪薔薇の名前≫が、上下巻、揃っているのを見つけ、えらい遅れ馳せながら、借りて来た次第。 奥付けを見てみたら、下巻は、1990年の5版でしたが、上巻の方は、1993年の18版でした。 結局、上巻は返却されずに、後から、購入し直されたのでしょう。

  イタリアでの原作の発表は、1980年で、映画が、1986年。 それに対して、日本での翻訳の発行が、1990年というのは、なんとも、遅い反応ですな。 映画の日本公開に合わせて発行すれば、どんと売れたものを。 推測するに、原作の内容が専門的過ぎて、一般受けしないと思われたのではないでしょうか? 東京創元社は、海外の推理小説を多く出版している会社ですが、≪薔薇の名前≫も推理小説と見做されたわけですな。 他の出版社が手を出さなかったのは、やはり、翻訳にてこずると思われたからではないかと思います。

  ちなみに、ウンベルト・エーコという人は、本業は、記号学・哲学の学者。 ≪薔薇の名前≫が、小説の処女作品だそうです。 私は、後年の作、≪フーコーの振り子≫の方を、先に読んでいるんですが、お世辞にも、面白い小説ではありませんでした。 壮大な屁理屈を、延々と並べられているような感じ。 あれには、まいったなあ。 それはさておき、≪薔薇の名前≫です。


  14世紀初頭、教皇と皇帝の対立が激しくなる中、「清貧論争」をテーマに、教皇派と肯定派の修道士達が、イタリア北部の僧院で会合を持つ事になる。 それに参加する為に、ドイツ人の弟子と共に、僧院へやって来たイギリス人修道士が、僧院長の依頼で、院内で起こった死亡事件の捜査を手がける事になる。 その僧院は、蔵書の豊かさで、キリスト教世界屈指であり、イギリス人修道士は、迷路になっている文書館の奥に眠る一冊の写本が、事件の鍵を握っている事に気づくものの、連続する死亡事件をとめられない話。

  推理小説の枠を借りて、カトリック教会の宗派争いを嵌め込み、一般的な読者にも、知的な読者にも、楽しめる作品にしています。 カトリックの歴史に興味がない場合、その部分を、そっくり飛ばしてしまっても、面白さに、さほど変わりは発生しません。 しかし、そんな事をするくらいなら、わざわざ、≪薔薇の名前≫を読むより、他の推理小説を読んだ方が、有意義でしょうな。

  映画を見ている人は、あえて読む必要がないほど、映画と近い内容です。 弟子と村娘のラブ・シーンも、映画サイドで、話に色を着ける為に追加したわけではなく、原作に、ちゃんと出て来ます。 しかも、弟子が、物語の語り手になっている関係で、修道士見習いの恋愛心理を細かく描写してあって、結構、重要なパートになっていたのは、意外でした。

  映画にない点というと、文書館がある、「異形の建物」が、三階建てで、文書館は、その三階を占めているに過ぎないという事。 つまり、ワン・フロアなのです。 映画の方では、塔になっていて、その全ての階が文書で埋まっていました。 小説では、平面でなければ成り立たない迷路になっていて、その謎を解くところが、前半最大の見せ場になっています。 映画の方で、そこを端折ったのは、些か、解せないところです。

  異形の建物は、三階が文書庫、二階が写字室で、その配置は合理的です。 ところが、一階が、厨房になっているというのが、かなり奇妙。 当然の事ながら、書物は、火気と湿気を嫌うのであって、厨房が下にあれば、火事の危険性は常に高いですし、下で煮炊きしていれば、上の階が湿気ないはずがなく、こんな配置は、非常識極まりないです。 作者が、文系過ぎて、知らなかったんでしょうか?

  カトリックの宗派争いの部分ですが、哲学的な要素は希薄で、現代的なテーマも含んでいないので、一生懸命読んでも、得るところは、ほとんどないと思います。 読み終わった端から、忘れてしまう感じ。 価値観が全く違う、大昔の人達が、屁理屈合戦に命を懸けているだけの印象。 物語の実質的主人公である、イギリス人修道士にしてからが、その不毛な論争に加わっているので、何だか、白けてしまいます。

  「死にそうな人間が全て死んでから、謎を解き、犯人を指名するだけの、無能な探偵」というのは、金田一耕助の事ですが、この作品の主人公にも、カッチリ当て嵌まります。 作者が、事件を謎めいたものにしたいあまり、探偵が捜査に手間取り、謎を解く前に、死体の山が出来てしまうんですな。 「バスカヴィルのウィリアム」という名前でも分かるように、シャーロック・ホームズをモデルにしているのですが、ホームズのような、頭の切れはないですし、劇的な解決場面を披露してくれるわけでもないです。

  繰り返しになりますが、映画を見ているのなら、わざわざ、読む必要はないと思います。 小説でしか味わえないというと、文書館の迷路の謎と、あとは、ラストですかね。 映画よりも、更に徹底していて、カタルシスを、強烈に感じさせます。 事件に立ち会った見習い修道士が、年老いてから書き綴ったものが、現代になって、ほんの短期間、作者の手に入り、それを書き写して発表したという、凝った設定が、巧みに余韻を響かせています。




  以上、四作です。 読んだ期間は、2016年の内ですが、≪だれがコマドリを殺したのか?≫、≪フレンチ警部最大の事件≫、≪フレンチ警部と漂う死体≫の三冊は、9月中旬。 ≪薔薇の名前≫は、9月末から、10月上旬でした。 もう、半年も経ってしまったか。