2018/03/11

読書感想文・蔵出し (35)

  読書感想文です。 今回も、ヴァン・ダインだけです。 ちなみに、今現在は、エラリー・クイーンと、ドロシー・L・セイヤーズの作品を、交互に読んでいます。 もう、三島まで足を延ばしたり、相互貸借を頼んだりするのが面倒なので、沼津の図書館にある本だけ、借りている次第。 何の義理があるわけじゃなし、作者ごとに、続けて読む事もあるまいと。  




≪ケンネル殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1960年初版 1995年38版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 この本も、損傷がひどくてねえ。 裏表紙に、「汚れあり」のシールが貼られていて、中のページの汚れが、また、ひどい。 明らかに、水濡れの痕があり、しかも、それが、全ページに渡っています。 机の上に置いてある時に、飲み物をこぼしたといった、普通に考えらる状況ではなく、一回、完全に、水の中に浸けたとしか思えない。 風呂の中で本を読む大馬鹿者が、稀にいるようですが、図書館の本を風呂の中で読み、しかも、取り落として、浴槽に水没させたのではないでしょうか?

  1931年の発表。 「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言っていた人の、第6作です。 これを最終作品にするつもりで書いたわけで、それを念頭に入れて読むと、なるほど、と思わされるところがないでもなし。 しかし、最終作とは思えないような、顰蹙行為もやらかしています。


  中国陶磁器の蒐集家として知られる男が、自宅の密室で、拳銃自殺としか思えない状況で発見される。 ところが、検死の結果、死因は、背中を挿された事による内出血である事が分かる。 更に、同じ屋敷内で、同じ夜に、被害者の弟が殺され、納戸に押し込まれているのが発見されたばかりか、怪我をした素性不明の犬まで出て来て、捜査陣は、混乱に陥る。 素人探偵ファイロ・ヴァンスが、陶磁器と犬に関する知識を元に、捜査を進めて行く話。

  密室物でもあるわけですが、トリックは機械的なもので、それが、謎の中心というわけではありません。 機械的であっても、トリックがあった方が、推理小説っぽくて良いと思うのですが、この作品に関しては、他にも、謎が、あり過ぎるほどあるので、トリックは、余分とまでは言わぬものの、オマケのような格好になっています。

  「密室」、「自殺と見せかけたようでいて、検死をされれば、すぐに露見する他殺死体」、「もう一つの死体」、「怪我をした、品評会レベルの犬」、「割れた陶磁器の破片」と、これだけ、謎を並べたところは、さすが、これが最終作と決めて、豪華な設定に工夫を凝らした結果だと、思わされるではありませんか。

  アイデアだけで評価するのなら、これは、一級の作品だと思います。 「二級のアイデアを、複数組み合わせただけ」という見方も出来ないではないですが、組み合わせ方が巧みなので、無関係な物を無理やり寄せ集めたという感じはしません。 「合わせ技一本」というわけですな。 犬の所有者の愛人が、事件があった屋敷の隣に住んでいた事が、最後に判明するという流れは、ちと、捜査の方向性が逆回りしているような気がしないでもないですが、それだけなら、瑕というほどではないです。

  他の作品に於けるファイロ・ヴァンスは、事情聴取ばかりやっている印象がありますが、この作品では、犬の所有者をつきとめる為に、本格的な捜査を行ないます。 その過程は、ヴァンスらしくない、堅実なもので、そこだけ、クロフツ作品のような雰囲気になっています。 たぶん、作者が、フレンチ警部シリーズを読んでいたんでしょうねえ。

  とまあ、推理小説としての出来は、かなり良いと思うのですが、重大な問題がありまして・・・。 この作品、ある民族差別用語が、頻出するのです。 呆れるくらい、何度も出て来ます。 刑事達が、その呼称を使い、ヴァンスとマーカム検事は、普通の呼称を使っているところから見て、恐らく、原文でも、何らかの差別呼称が使われていたのでしょう。

  「刑事達に差別意識がある事を表現したかったから、差別呼称を使わせたのだ」というのは、一見、理屈が通っているようですが、それは間違いです。 最後まで読んでも、その刑事達に、何の罰も下るわけではないのですから、作者自身が差別を当たり前の事として認めているも同然で、この話全体が、差別承認作品になってしまいます。

  訳者も訳者で、原作の差別呼称を、「忠実に訳した」のだと思われますが、こと、差別表現に関しては、忠実だろうが何だろうが、使うのは、まずいです。 差別用語というのは、禁止薬物に似た性質があり、自分で使うのもまずいですが、広めるのは、もっと、罪が重いからです。

  訳者にも差別意識があったから、こういう呼称を使ったのだと思いますが、担当編集者が、止めなかったというのが、また、まずい。 有害表現のフィルターにならないのでは、編集者が介在する意味がないではないですか。 更に、38版も重ねて、90年代半ばまで来ているのに、まだ、改めなかったというのだから、呆れて物が言えません。



≪カシノ殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1960年初版 1996年30版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 本来なら、第7作の≪ドラゴン殺人事件≫を先に読むべきなのですが、三島図書館になかったので、一つ飛ばしました。 ≪ドラゴン≫は、もちろん、沼津図書館にもないので、いずれ、相互貸借で取り寄せてもらって、読むつもりでいます。

  この本は、水没していないようですな。 ≪ケンネル≫に比べると、あまり借りられていないのか、状態は良い方です。 270ページくらいで、前期6作の平均に比べると、4分の3くらいのページ数しかありません。 あとがきや、解説もなし。 退潮期の作品なので、取り立てて申し添える事はないというわけでしょうか。

  1934年の発表。 「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言っていた人の、第8作ですから、食品で言えば、もう、賞味期限が切れた状態なわけですな。 なぜ、嘘つきになってまで、第7作以降を書いたのかというと、ヴァン・ダインという人、ファイロ・ヴァンス同様の、上流社会的な生活をしていて、何かとお金が入り用だったらしく、「書きさえすれば、金になる」という誘惑に勝てなかったようです。 ちょうど、映画産業の勃興期に当たり、シリーズ物の原作は、いくらでも、需要があったんですな。


  「資産家夫人の家で恐ろしい事が起こる」という匿名の手紙が、ヴァンスの元に届いて間もなく、夫人の弟が経営するカジノで、夫人の息子が、水差しの水を飲み、毒物摂取の症状を出して倒れる。 ほぼ時を同じくして、夫人の家で、息子の嫁が毒殺され、続いて、夫人の娘も毒物によって倒れるが、いずれも、ただの水を飲んだだけだった。 犯人が張り巡らせた目晦ましの罠を掻い潜りつつ、ヴァンスが、捜査を進める話。

  「水差しには、水の代わりに、重水が入っていたのではないか?」という設定が出て来て、「そんな一般化していない物質を使うなんて、ズルではないか。 ヴァン・ダインの二十則は、どうなったのだ?」と言いたくなりますが、その点は、クライマックスまで読めば、ズルというわけではないのが分かります。 読者を惑わす為に使っているわけだ。

  それより何より、この話、推理小説の骨格が出来ていません。 読者に対する目晦ましにばかり気が行って、肝心の謎を謎めかす方が、お留守になってしまったのでしょう。 唐突に、犯人が指摘され、唐突に、毒の盛り方が説明されるのは、正に、木に竹を接いだような 展開です。 こらこら、さんざん説明を続けた、重水は、どこへ行ったのじゃ?

  クライマックスが、安っぽい刑事ドラマのような対決場面になっているのも、大いに、いただけません。 間違いなく、当時の映画に影響されたのだと思いますが、小説家が、映像製作者に媚びてしまったら、おしまいです。 大抵、小説家の側で、「どうです? こういう場面なら、映像にし易いでしょ?」と言わんばかりの情景を書き込むと、映像製作者は、「フン」と、鼻で笑って、無視するものです。

  この作品での、ヴァンスの知識・教養のひけらかしは、毒物に関するものに限られていて、普通の会話では、前期の作品ほど、マーカム検事をイラつかせません。 作者が、批判を受け、反省して、衒学趣味を控えた、というのではなく、ネタが尽きてしまったのではないかと思います。



≪ガーデン殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1959年初版 1993年35版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 同じ、創元推理文庫ですが、他のとは、カバー・イラストが違っていて、真鍋博さんの絵になっています。 一世代前のものなのでしょう。 水濡れの痕がありますが、被害ページは限られており、水没はしていない模様。 古さの割には、程度が良いです。

  1935年の発表。 「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言っていた人の、第9作です。 昔の文庫の文字サイズで、330ページくらい。 巻末に、訳者による、「あとがき」が付いています。 仮名遣いを、創元推理文庫に入れる時に、直しているとの事。 その割には、≪ケンネル殺人事件≫の差別呼称は、直さなかったわけですな。


  素人探偵ファイロ・ヴァンスのもとに、ある高名な化学者の家で、恐ろしい事が起こるという匿名電話がかかる。 その家が入っている高層アパートに、客が集まり、競馬の賭けが行なわれた直後、屋上庭園で、予想を外した男が、拳銃で頭を撃ち抜いた姿で発見される。 他殺と見たヴァンスが、互いに告発しあう容疑者達を相手に、事情聴取を行ない、捜査を進める話。

  「放射能性ナトリウム」という物質が出て来ますが、これは、読者への目晦ましでして、しかも、言及が少なすぎるので、すぐに、本命の謎に関わっていない事が分かります。 ヴァンスに薀蓄を語らせるのが、このシリーズの売りなのですが、もはや、作者の引き出しは空っぽで、科学雑誌で読んだ事を、道に聞いて道に説いている感が、強烈です。

  競馬がモチーフになっているので、競馬に関する書き込みも多いのですが、こんなの、読者は、まともに読めませんわ。 競馬に興味がなければ、単なる耳慣れない単語の羅列に過ぎませんし、競馬に興味がある人でも、知っている馬ではないのですから、面白くも何ともないと思います。 いやあ、作者に、語る薀蓄がなくなって、追い詰められているのが、ヒシヒシと伝わって来ますなあ。

  トリックや謎は、まあまあ普通で、特に出来が悪いという事はないです。 逆に言うと、他の作家も書いているようなレベルでして、印象に残るような話ではありません。 例によって、犯人は指名されますが、司直の手に落ちる事はないです。 このパターン、あまり、繰り返すと、逆に不自然になるのでは? 確かに、正義は行われるわけですが、こういう結末では、マーカム検事の名声が高くなる事はないでしょうに。 

  ヴァン・ダインの、後期6作の評価が低いのは、えらそーに、≪二十則≫なんて書いた人間の割には、内容が普通過ぎるからでしょう。 あとがきにもある通り、決して、レベルが低いわけではないです。 これを、低レベルと言ってしまったら、推理作家の看板を下ろさなければならない作家が、ごちゃまんと出て来てしまいます。



≪誘拐殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1961年初版 1993年27版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 書庫から出してもらいました。 カバー・イラスト=桶本康文、カバー・デザイン=小倉敏夫の版で、三島図書館のヴァン・ダイン作品の中では、珍しく、水濡れ痕なし。 かなり、程度が良いです。 程度が良いという事は、即ち、あまり、読まれなかったという事ですけど。

  1936年の発表。 「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言っていた人の、第10作です。 昔の文庫の文字サイズで、320ページくらい。 巻末に、作者による、「あとがき」が付いていますが、これは、元は、アメリカ本国で、「カブト虫、ケンネル、ドラゴン」の3作を、一冊の本にして出版した時に、序文代わりに書いた、簡略な自伝らしいです。


  親から受け継いだ遺産を食い潰している男が誘拐され、その兄や、弁護士が、身代金を掻き集めて、取引に臨もうとするが、マーカム検事から捜査を依頼された素人探偵ファイロ・ヴァンスは、誘拐現場になった被害者の部屋を見ただけで、すでに殺されていると予想する。 やがて、第二の誘拐事件が起こり、ヴァンスは、ヒース部長刑事とともに、犯人のアジトへ乗り込んで行く。

  もはや、作者本人が、どんなストーリーを書いているのか、分からなくなっている観があります。 売れるものだから、編集者から、せっつかれて、これといったアイデアもないのに、とりあえず、探偵小説っぽい話を捏ね上げたという印象。 推理小説としての基本要素すら、欠いているように思えるのですが、本当に、これが、≪二十則≫なんて、えらそーなものを発表した人の作品なんですかね?

  トリックは、なし。 謎らしきものはあるようですが、はっきりせず、それを解く過程も、よく分かりません。 別に、飛ばし読みをしたわけではないのに、なぜ、分からないのか、それも分からない。 つまり、書いてないんでしょう。 謎解きこそが、推理小説の肝なのに、それが欠けているのでは、話になりません。

  第一の誘拐の身代金受け渡しでは、意外な人物が金を取りに来るのですが、その説明が不足。 誘拐犯ではないにせよ、金を取りに来たのは間違いないのですから、なぜ、逮捕しないのかが、分かりません。 第二の誘拐で、ヴァンスが犯人のアジトを突き止める方法も、よく分かりません。 なぜ、その謎解きをせぬ? 

  で、犯人からの手紙が手掛かりになって、唐突に、真犯人が指名されるわけですが、その手紙の謎というのも、説明が足りないから、よく分かりません。 分からん、分からん、だらけ。 たぶん、作者も、頭が混乱して、何を書いているのか、分からなくなってしまっていたのでは?

  第一の誘拐の身代金受け渡しは、セントラル・パークの大木で行なわれ、ヴァンスとヴァンが、木の上で張り込むという設定なのですが、この場面が、映画化した時の見せ場として構想されたのは、疑いありません。 第二の誘拐の、アジトでの戦いも、同様。 映画的見せ場を意識して、設けられたものだと思います。 そして、そういう場面は、小説では、恥ずかしいまでに浮いてしまうんですわ。

  実際に、ファイロ・ヴァンス物は、原作が出るのを待ち構えて、映画化されていたらしいので、作者が、そういう配慮をしたくなった気持ちは分からないではないですが、どちらも、非常にステレオ・タイプな見せ場で、独創性は、全く感じられません。 映画的な場面は、映画的な場面でも、よくあるタイプの映画的場面では、観客は見飽きているわけで、面白くも何ともないです。

  ところで、この作品にも、差別表現が出て来ます。 もう、いちいち、こんな事を指摘するのも、うんざりする。 差別意識を拡散した責任は、原作者、翻訳者、編集者、発行者、全てが負うべきでしょう。 良識がないにも程がある。 ヴァン・ダイン作品に関しては、何から何まで、「二流」の匂いがします。


  自伝部分ですが、30ページくらいあって、簡略といっても、そこそこのボリュームがあります。 ヴァン・ダインの紹介をする人は、みな、この文章を参考にしているようです。 ところが、この自伝、作者自身によって、相当には脚色されているそうで、事実とは異なる部分が多いのだとか。 ヴァン・ダインについては、近年になって、他人が書いた伝記があり、そちらを読んでみないと、本当のところは分からないと思われます。




  以上、四作です。 読んだ期間は、今年、つまり、2018年の、

≪ケンネル殺人事件≫が、1月11日から、14日にかけて。
≪カシノ殺人事件≫が、1月15日から、18日。
≪ガーデン殺人事件≫が、1月20日から、22日。
≪誘拐殺人事件≫は、1月23日から、1月27日。

  ≪ケンネル≫で、差別表現が出て来たせいで、ヴァン・ダインのイメージが、どっと悪くなり、そこでやめようかと思ったんですが、「まあ、残りは大した数ではないから」と思い直し、続けました。 その後、他人が書いた、ヴァン・ダインの伝記を読んだのですが、それによると、アフリカ系への差別意識も強かったらしく、げんなり。 そういう考え方の持ち主には、つける薬がない感じがしましたねえ。