2018/09/23

読書感想文・蔵出し (41)

  読書感想文です。 前回、このシリーズをやったのは、7月15日でしたから、2ヵ月以上、開きましたな。 本の方は、ほぼ、断絶なく、読んでいるんですがね。 コリン・デクスター作品の続きになります。 




≪消えた装身具≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1997年4月 初版
コリン・デクスター 著
大庭忠男 訳

  沼津市立図書館にあった本。 借りて来たのは、文庫版ですが、390ページくらいあり、かなり、厚いです。 末尾の方に、プリンターで刷って、挿入・補修したページが、1枚ありました。 紙の質が全く違うのですが、うまく直してあって、そのページが近づくまで、分かりませんでした。 一体、どういう理由で、その1枚だけ欠けたのか、再プリントする時に、どこから、コピー元になる本を持って来たのか、謎が多いです。

  発表は、1991年。 コリン・デクスターの第9作。 おや? 前作からの間隔が、2年に戻りましたな。 解説によると、その頃、放送されていたドラマのストーリーが足りなくなり、原作者自らが、新作の脚本を書き下ろして、提供し、その後、原作者自らが、小説に書き直したのだそうです。 道理で、最初から小説として書いた作品と比べると、無駄に長いようなところがあるにはあります。


  アメリカから観光に来た団体客の一人が、オックスフォードのホテルの部屋で、死体で発見された上に、有名な宝飾装身具を盗まれた事が分かる。 その後、その装身具を受け取る予定だったイギリス人の男が殺される。 モース警部とその一味が、団体客や案内人達の、嘘を含むアリバイ証言に翻弄されつつも、二つの事件の背後にある複雑な相関関係を調べ、謎を解いて行く話。

  以下、ネタバレ、含みます。

  交換殺人に似た構図の共犯関係が出てくる話でして、デクスター作品にしては、ありきたりなモチーフを使っています。 この程度の話なら、2時間サスペンスや、1時間の刑事ドラマ・シリーズでも、出てきそうな感じ。 犯罪を複雑にしようとして、アリバイを作らせる為に、共犯者を設定したわけですが、この共犯関係が成立したきっかけが、観光バスの中で小耳に挟んだ会話だというから、どうにも、安っぽい。

  自作が映像化され始めると、映像製作サイドに気を使って、映像化し易い場面を入れたり、レギュラー出演者に気を使って、必要がないのに、出番を作ったりする事を、推理作家は、割と良くやるようですが、デクスター氏も、例外ではないようです。 まして、先に脚本ありきでは、映像的なストーリー展開になるのは避けられないか・・・。。

  それでも、面白い話なら、文句はないのですが、恐らく、脚本から話を作るのに不慣れだったんでしょう。 明らかに、刑事ドラマの一般的な作法に囚われていて、推理小説ならではの面白さが、損なわれてしまっています。 端的に、それを表しているのが、ラストの謎解き場面で、犯人を含む大勢の聴衆を相手に、モース警部が、講演でもするように、事件の真相を語るのですが、こんな大袈裟な場面設定は、小説ならば、不要、というか、邪魔です。 

  この、何となーく、推理小説らしさに欠ける雰囲気、何かに似ていると思ったら、ヴァン・ダインの、≪グレイシー・アレン殺人事件≫ですな。 あちらは、作者のオリジナルではなく、映画会社の脚本部が考えたストーリーを、ヴァン・ダインが小説に書いたものですが、映像化を前提にして、ストーリーを作ったという点では同じです。 そして、そういう事をやると、決して、いい小説にはならないわけだ。


  枝葉末節の事ですが、この作品から、モース警部の車が、ランチアから、赤いジャガーに変わっています。 うーん・・・、ジャガーで、赤ねえ。 モース警部は、50代の公務員で、独身独居なので、ジャガーくらい買えても、全然、おかしくはないですが、赤は、ちと派手すぎるのでは? 性格から考えて、もっと渋好みではないかと思っていたのですがね。



≪森を抜ける道≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1998年10月 初版
コリン・デクスター 著
大庭忠男 訳

  沼津市立図書館にあった本。 借りて来たのは、文庫版で、500ページくらいあります。 厚さを見ただけで、読む気をなくす人もいる事でしょう。 文庫版の方が新しいのに、水濡れ痕や、皺、汚れが目立ちます。 デクスターの後期代表作という事になっているので、読む人が多いのかもしれません。 この作品は、1994年に、新書版の方を、確実に借りています。 しかし、最後まで読んだかどうかは、不明。

  発表は、1992年。 コリン・デクスターの第10作。 何と、ここへ来て、前作からの間隔が、1年になりました。 どういう理由で、急に、書くスピードが上がったんでしょう? 前作の、≪消えた装身具≫が、最初、ドラマの脚本として書かれ、その後、小説化されたという事情と、何か関連しているのかも知れません。


  スウェーデンから、イギリスへ、一人旅に来ていた若い女性が、オックスフォードの森で行方不明になり、リュックだけが発見される。 一年後、タイムズ紙に投稿者不明の詩が掲載され、忘れかけられていた事件が、再び、世間の注目を集める。 事件を引きついだモース警部が、前任の警部が捜していたのとは別の森で、たちまち、白骨死体を発見するが、それは、男性の骨だと分かる。 一年前、スウェーデン人女性に何が起こったのかを、解明していく話。

  以下、ネタバレ、含みます。

  面白い小説なんですが、それは、書き方が巧みだからで、事件の内容は、絶賛するようなものではありません。 一口で言うと、≪キドリントンから消えた娘≫の焼き直しですな。 若い女性が失踪し、誰もが、何らかの事件に巻き込まれて死んだと思っていたのに、実は、生きていて、事件関係者の中に、紛れ込んで暮らしているというパターンです。

  短編小説を、アイデアはそのまま、長編に書き直すというケースは、珍しくありませんが、この作品の場合、長編を、より長い長編に、別作品として書き直したという感じです。 書き方は、練りに練ってあって、≪キドリントン≫に比べると、こちらの方が、遥かに面白く読めるようになっています。 デクスター作品を、3作か、せいぜい、5作しか読むつもりがないという読者なら、≪キドリントン≫を外して、こちらを入れるべきですな。 

  割と多い人数の共犯関係になっているという点では、≪死者たちの礼拝≫にも、似ています。 推理小説のアイデアそのものは、底をついてしまい、過去の作品から、断片を掻き集めて、一作、捏ね上げたものと思うのですが、それが分かっていても、小説としての完成度が高いお陰で、貶す気になりません。 他人の作品から、パクったわけではないのだから、こういうのも、アリなのかも知れませんな。


  ちなみに、今までの作品で、レギュラーとして登場していた警察医、マックス氏が、この作品の半ばくらいで、突然死してしまいます。 死亡推定時刻を、口が裂けても、はっきり言わない事で、特徴的な人だったのですが、あまりにも、あっけなく死んでしまって、読者としては、大きなショックを受けます。 この作品で、一番記憶に残るのは、そこですかね。

  上述したように、私は、この作品を、1994年に読んでいるのですが、「彼(モース)は、殺人犯人をつかまえるのが上手です」というルイス部長刑事のセリフと、作中に出てくるオペラ、≪ミカド≫の事だけしか、覚えていませんでした。 素人オペラの上演は、些か、強引な形で、話に挿入されています。

  作者は、別に、日本に興味があるわけではないのですが、なぜ、≪ミカド≫なのかと言うと、これは、私の推測ですが、作者が、日本から入る印税の多さに驚いて、「少し、サービスしてやるか」と配慮したんじゃないかと思います。 そういう事は、小説だけでなく、映画でも、よくある事でして、ストーリー上の必然性がないのに、特定の国に関するエピソードが挟み込まれていたら、それは、読者、もしくは、観客の数が多い国である事を、作り手が知っていて、媚びているわけです。

  同時に、正確な知識がないというのは、哀しいものでして、デクスター氏は、日本人のほとんどが、≪ミカド≫を見た事がないばかりか、どんな話かも、そんな題名のオペラがある事すらも知らないという事を、知らなかったのでしょう。 そもそも、日本人、オペラ自体を見ないからのう・・・。 「自分の作品を読むほど、知的な人達なら、当然、オペラも見るはずだ」と判断したのだとしたら、それはそれで、哀しい思い違いです。



≪カインの娘たち≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1995年10月初版
コリン・デクスター 著
大庭忠男 訳

  沼津市立図書館にあった本。 文庫版がなくて、新書版の方を借りて来ました。 1995年が初版ですから、私が94年に、デクスター作品を何冊か借りた時には、確実に、この本は、図書館になかったわけで、もちろん、初読という事になります。 ふと気になったのは、94年の記憶で、私が覚えていた場面の一つが、今までに読んだ10作品の中に出て来なかった事です。 誰か別の作家の作品で読んだ場面と、ゴッチャになってしまったのでしょうか。

  発表は、1994年。 コリン・デクスターの第11作。 前作からの間隔が、また、2年になりました。 訳者あとがきによると、長編第10作と、第11作の間に、短編集が発行されているそうです。 それも、早川書房から出ているのですが、沼津の図書館にはありません。 隣の清水町の図書館にあるようなので、長編を全部読み終わってから、借りに行こうと思っています。


  オックスフォード大学の学寮に住んでいた博士が殺される。 その後、かつて、その学寮で用務員をやっていて、博物館に転職した男が行方不明になり、やがて、彼の刺殺体が川に浮かぶ。 用務員の妻と娘、妻の親友の女性教師が容疑者となるが、彼女らには、しっかりしたアリバイがあった。 殺害に使われたナイフが、いつ、博物館から盗まれたかに着目したモース警部らが、容疑者のアリバイを崩して行く話。

  以下、ネタバレ、含みます。

  前作、≪森を抜ける道≫が、デクスター作品の集大成と言われているそうで、なるほど、この作品を読むと、ピークを越えて、緩いながらも、下り坂に入ったような印象を受けます。 事件は、陰惨というほどでもないし、決して、暗い話ではないのですが、モース警部本人が、「来年には、引退する」などと、弱気な事を口にしていて、何となく、翳がかかったような雰囲気に覆われているのです。

  東野圭吾原作の、≪容疑者Xの献身≫という映画で、殺したい相手とは別に、まるで関係ないもう一人を、別の日に殺しておいて、捜査陣に、殺害日を錯覚させ、本命を殺したと思われている日には、実際には何もしていないから、取り調べを受けても、全く動揺する事なしに否定できる、という一種のトリックが出て来ました。

  その映画を見た時には、そういうアイデアを、初めて知ったので、新鮮な驚きがあったのですが、この、≪カインの娘たち≫に、似たようなトリックが出て来ました。 殺した日が違うから、完璧なアリバイがあって、捜査が撹乱されてしまうんですな。 では、この作品が、そのトリックの本家なのかと言うと、ちょっと、疑わしいところもあり、私が知らないだけで、それ以前の、別の作家の別の作品に、すでに使われている事も考えられます。

  例によって、デクスター作品は、トリックの目新しさで勝負する気はなく、人物描写の奥行きや、ストーリーの語り口で読ませるので、どんなトリックが使われていようが、あまり大きな意味はないという感じはあります。 最も古い作品でも、1975年ですから、すでに、推理トリックは出尽くしていて、瓦礫の中から、使えそうなものを漁って、物語を作って行ったというのが、デクスター氏がやった仕事とでも言いましょうか。 トリックがメインではないのに、この作家が、「本格派」に分類されているのは、奇妙な話ですな。

  必要なカロリーを酒で摂るという、モース警部の不健康な生活は、頂点に達した観があり、救急車で運ばれるわ、嘔吐は繰り返すは、ちと、笑えない領域に入っています。 昔から、名探偵は、自分の健康に気を使わないものですが、薬物依存ではなく、酒と煙草だけで、ここまで、体を悪くするのは、珍しいのでは?

  傑作とか、代表作とか言うほどの特長はないですけど、普通に読めば、普通に面白いです。 新書版の二段組みで、330ページくらい。 デクスター作品は、「早く読み終わりたい」という気分と、「終わって欲しくない」という気分が、相半ばしますなあ。 根っからの読書好きというわけではない私が、そう感じるという事は、平均よりずっと面白いという証明なのかも知れません。



≪死はわが隣人≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1998年3月初版
コリン・デクスター 著
大庭忠男 訳

  沼津市立図書館にあった本。 これも、≪カインの娘たち≫と同じく、文庫版がなくて、新書版の方を借りて来ました。 割と、状態がいい本でした。 新書版は、二段組みなので、負担が大きいような気がしますが、訳者は、文庫版と同じですから、文字数は同じなはずで、錯覚に過ぎません。

  発表は、1996年。 コリン・デクスターの第12作。 前作からの間隔は、2年です。 96年というと、私の年齢では、もう充分、最近です。 作中に、ボスニア紛争の事が、ちょこちょこと出て来ますが、最近ですなあ。 もっとも、21世紀になってから生まれた人でも、もう、高校生なわけで、そういう人達にとっては、大昔なんでしょうけど。


  オックスフォード大学、ロンズデール・カレッジの学寮長が引退する事になり、後継者候補の二人が水面下で競い合う中、ある住宅街で、若い女性が射殺され、続いて、隣に住んでいる新聞記者が、同じように射殺される。 酒と煙草のせいで、いよいよ、糖尿病になったモース警部が、病気と戦ったり和解したりしながら、容疑者のアリバイを崩して行く話。

  以下、ネタバレ、含みます。

  ダラダラですな。 と言っても、≪オックスフォード運河の殺人≫から後の作品は、みんな、そんな感じですけど。 ダラダラと話が進みながら、少しずつ、謎が解けて行くわけですが、計算し尽されているというよりも、おおまかな流れだけ決めておいて、後は、筆の赴くままに、テキトーに書き綴ったという感じがします。 

  アリバイ・トリックは、代役を使うもので、前にもどこかで読んだような、ありふれたタイプです。 「DC」という頭文字が、謎の一つになるのですが、該当する人物が、ぞろぞろ出て来て、それが、推理小説に良く使われる、頭文字の謎のパロディーである事が分かります。

  デクスター氏は、本格派と言われていますが、トリックや謎に、造詣が深かったわけではなく、そちらの興味は、推理作家としては、平均以下で、「どうやったか?」よりも、「どう書くか?」の方に、エネルギーを注いだようです。 頭のいい人ですから、トリックや謎が、すでに出尽くしている事を、承知していたんでしょう。

  ダラダラなんですが、たぶん、デクスター作品のファンなら、歓迎すると思います。 推理小説を読みたいが、一方で、ゾクゾクする緊張感よりも、慣れ親しんだ文体の中に、どっぷり浸かるひと時が欲しい、という人達が多いわけだ。 決して多くはない作品数でありながら、そういうファンの一団を作り上げたのは、デクスター氏の偉業ですな。


  各章の始めに、引用文が置かれているのですが、知識・教養が欧米に偏っている、デクスター氏にしては珍しく、「孔子の言行録」からの引用が出て来ます。 ところが、内容は、下品なもので、とても、孔子と弟子の会話とは思えません。 論語はもちろん、孔子が関わったどんな著作にも、こんな会話は出て来ないでしょう。

  その点について、あとがきで、訳者が触れているのですが、論語の英訳版を調べても、該当する会話は載っていなくて、出典をつきとめられなかったとの事。 恐らく、英語で書かれた、論語のパロディーのような本があって、デクスター氏が、それを、実在する「孔子の言行録」だと思い込んだんじゃないでしょうか。 差別意識こそ窺えないものの、興味の対象は、アラブ世界が限界と思われる人物なので、充分にありうる事です。




  以上、四作です。 読んだ期間は、今年、つまり、2018年の、

≪消えた装身具≫が、6月28日から、7月5日にかけて。
≪森を抜ける道≫が、7月10日から、15日。
≪カインの娘たち≫が、7月15日から、20日。
≪死はわが隣人≫が、7月21日から、29日にかけて。

  デクスター作品は、長編が、もう一作。 他に、短編集が、一冊あります。 ちなみに、今は、清水町立図書館にある、横溝正史作品を読んでいます。 なんで、清水町立図書館に通うようになったかは、次回、説明します。