読書感想文・蔵出し (84)
読書感想文です。 今回も、他に書きたい事もないので、蔵出しを片付けてしまいます。
なに? 新型肺炎の急増について、どう思うか? 今となっては、論に意味なし。 とにかく、正しくマスクを装着して、人と距離をおき、密を避けるべし。 なに? 当たり前の事を言うな? では、少し、極端な事を書きましょうか。 家から出ないでも済む生活をしている人は、極力、出ない方がいいです。 オミクロン株は、今までの株より、遥かに感染し易いようですから。
無マスク、顎マスクは、論外として、鼻出しマスクや、鼻の横スカスカ・マスクでも、密状態なら、エアロゾルで、一発感染していると見た。 毒性が弱くて、死者が少ない事が予想されるなら、尚の事。 その少ない死者の中に、自分や家族が入りたくはありますまい。
≪【「新青年」版】 黒死館殺人事件≫
作品社 2017年9月30日/初版 2017年11月30日/3版
小栗虫太郎 著
沼津市立図書館にあった本。 購入は、2018年1月ですが、ほとんど、読まれた形跡がありません。 この作品、日本の探偵・推理小説界の、「三大奇書」の一つで、しかも、その筆頭と言われているもの。 必ずしも、高尚な内容だからというわけではなく、単に、読み難いから、敬遠する人が多く、借り手がないんでしょう。 この本、6800円もしますが、それでなくても、読書離れの時代に、買う人がどれだけいるか、大いに疑問。
1934年(昭和9年)の4月から、12月にかけて、「新青年」に連載という、戦前作品です。 すでに、著作権が切れているおかげで、ネット上の、「青空文庫」でも読めるのですが、元が読み難い文章なので、パソコン・横書きだと、ますます読み難い。 なかなか進まない事に業を煮やして、本になっているものを借りて来た次第。 本でも、読み易いとは言えませんでしたが、それでも、何とか、読みました。 薀蓄のほとんどは、さっと目を通すだけで、飛ばしましたけど。
神奈川県の私鉄の終点にある、降矢木家の洋館、黒死館。 乳児の頃に引き取られ、軟禁状態で暮らしていた西洋人四人の内、一人の女性が殺される事件が起こる。 支倉検事が、元警察捜査局長の探偵、法水麟太郎を連れて、現地に乗り込むが、黒死館は、不気味な自働人形の存在を始め、奇怪な暗示に満ち満ちた場所で、殺人事件や、犯人不明の傷害事件が、次々と起こる。 黒死館では、過去に、三人が変死していたが、その最後の一人であり、黒死館を造った、降矢木家算哲が、実は、まだ生きていて、事件を起こしているのではないかと囁かれるが・・・、という話。
この作品、梗概には、あまり、意味がありません。 ネット情報で、もっと詳細な梗概を読む事ができますが、大体のストーリーが分かっても、やはり、意味はありません。 この作品の最大の特徴は、ストーリーではなく、探偵役の法水(のりみず)が口にする、衒学的薀蓄の膨大な羅列にあるからです。
扱われている学問は、ヨーロッパの宗教、歴史、文学、音楽、美術、医学、化学、天文学といったものですが、それらについて、法水が、喋るべるべる、べりまくる。 ただ喋るだけでなく、謎解きの表現方法として、一つを説明するにも、その十倍の薀蓄を交えて語らなければ、気が済まないという、天文学的に嫌な性格。 正直な感想、はっきり言って、常識的に見れば、この男は、狂人としか思えません。
また、こんな狂人と、会話を交わしている、支倉検事や熊城捜査局長も、まともとは思えません。 会話が成り立っていない事に気づいているのに、それでも、法水を頼っているのだから、狂人の友は、やはり、狂人ですな。 法水、これだけ、自信満々で喋るのだから、さぞや、名探偵かと思いきや、そんな事は全然ないのであって、ラストにならないと、真犯人に辿り着かず、犯人の誤指名を、二回もやらかします。 法水が、いてもいなくても、結局、犠牲者の数は変わらないのだから、やはり、検事・捜査局長らは、法水を連れて来るべきではなかったと思います。 捜査が混乱しただけです。
ヴァンダインの、【グリーン家殺人事件】(1928年)を、下敷きにしているそうで、私は、そちらも読みましたが、なるほど、似ています。 【グリーン家】の方は、関係者のほとんどが死んでしまいますが、こちらでは、余分な登場人物がいて、生き残る人数が多いので、その点、【グリーン家】で覚える、ゾーッと感はないです。
むしろ、似ているのは、探偵役が薀蓄垂れで、しょーもない奴だという点でしょう。 しかし、ファイロ・ヴァンスは、嫌な奴でしたが、狂人というほどではなかったです。 喋る薀蓄も、法水に比べたら、すっと、常識的な分量でした。 ファイロ・ヴァンスのキャラを、極端化して、法水を作ったわけですが、狂人と見做されてしまうようでは、探偵として、欠格だと思いますねえ。
しかし、その極端化のお陰で、この作品は、日本の探偵・推理小説界、随一の奇書となり、この作品のお陰で、小栗さんの名前・業績も、後世に残ったわけですから、何でも、工夫や努力は、してみるものですな。 私は、こういう作品は、感心しないと思いますけど。
推理小説としては、全く、大した事はなく、トリックに、心理的な要素を入れたり、特定の体質の人間に起こり易い反応などを使っているものだから、はっきりしないというか、不確定要素が大き過ぎて、「そんなにうまくいくか?」と疑ってしまうのです。 読者に対して、説得力がないトリックは、探偵・推理小説では、有効とは言えますまい。
基本的に、法水の薀蓄が売りなのですが、後ろの方に行くと、演奏会の件りで、木に竹を接ぐが如く、活劇的な場面が出て来ます。 これも、ヴァン・ダインの影響でしょうか。 恐らく、映画化を念頭に置いて用意したと思われる場面なのです。 当時は、映画の勃興期で、小説家の多くが、映画化を意識していたのですが、小栗さんも、その例に漏れなかったのかも知れません。
この活劇場面のせいで、静謐な雰囲気が台なしになるかというと、そうでもなく、後ろの方に行くと、もう、大抵の読者が、読むのにうんざりしているので、劇的な展開で、さっさと話が進んで、犯人が分かれば、その方がありがたい。 むしろ、歓迎されると思います。 いやあ、そもそも、読者が、うんざりしてしまう小説が、礼賛に値いするようなものなのかどうか・・・。
この作品に出て来る衒学的薀蓄ですが、文系系統のものは、今や、全く、価値がありません。 仔細に読んで、頭に入れたとしても、微塵の役にも立ちません。 完膚なきまでに、旧時代の学識であって、もう、この種の事を、教養と捉える習慣が、なくなっているのです。 特に、宗教や文学関連は、カルト知識の領分に入ってしまっており、知らない方が、無難なほどです。
理系的な薀蓄も、使い物にならないでしょうねえ。 まず、正確かどうかが分かりません。 次に、古い。 その後、科学が発展して、否定されてしまった説もあるわけで、そのまま頭に入れるのは、危険です。 さりとて、一つ一つ、手間と時間をかけて検証するほど、一般的に役立つ知識でもないです。
教養を蓄えるつもりで読むのなら、却って、悪影響があるので、やめた方がよいと思います。 法水みたいな人間になったら、社会人として、欠格者の烙印を押されてしまいます。 というか、そんな甘い事では済まず、明確に、精神異常者と見做され、それなりの処遇を受けると思います。
この作品を礼賛している人は、教養に対する、劣等意識があるんでしょうねえ。 こういう薀蓄を知っているのが、教養人だと、勘違いしているのです。 小栗さんは、それを承知の上で、とことん、極端化した小説を書けば、劣等意識を持った面々が無視できない作品になると踏んだのではないでしょうか。
たぶん、衒学的薀蓄のネタ本はあったと思いますが、一冊二冊ではなく、数十冊くらいは調べたのでは? たとえ、役に立たない知識でも、これだけのボリュームのものを書くとなったら、構想段階で、どこにどんな薀蓄を盛り込むかを計算しておかねばならず、詳細はそのつど調べるにしても、おおまかな知識は、常に頭に入っていなければ、とても無理でしょう。 小栗さんには、それだけの知識があったわけだ。
この本、作者による原注とは別に、ページの下段に、脚注が付いています。 薀蓄に関する注は、問題ないとして、漢字熟語にまで、注を付けているのは、如何なものか。 読書経験が少ない読者が、辞書を引かずに済むように配慮したのかも知れませんが、特に難しい言葉が使われているわけではなく、この程度の漢字熟語を読めない読者は、そもそも、この本を読もうとは思わないでしょうに。 最初のページで、やめるはずです。
ごく普通の単語に、注をつけられると、馬鹿にされているような気がします。 何か、特別な意味でもあるのかと思って、わざわざ、ページを繰って、番号の脚注を探してみると、辞書に載っているような説明だけなのですから、骨折り損を感じずにいられません。 大変、宜しくない。
≪夢野久作全集4 ドグラ・マグラ≫
夢野久作全集4
三一社 1969年9月30日/初刷 1971年10月31日/2刷
夢野久作 著
沼津市立図書館にあった本。 古いな、これは。 2刷でも、71年で、私は、まだ、7歳でした。 小学生の頃、母に連れられて、当時まだ、「駿河図書館」と言っていた、市立図書館へ何回か通った事がありましたが、つまり、その頃、すでに、この本は、そこにあったわけですな。 そう思うと、奇妙な感じがします。
現在の沼津市立図書館には、新しい、「夢野久作全集」があるのですが、第4巻だけ、出払っていて、やむなく、古い方を借りて来ました。 外見はくたびれていますが、中は、意外と綺麗でした。 手に取る人は多いけれど、実際に読む人が少ないんでしょう。
1935年(昭和10年)、松柏館書店から、書下ろしで出版された作品。 大正15年から書き始めて、10年くらい、手を入れ続けたとの事。 日本の探偵・推理小説界に於ける、「三大奇書」の一つに数えられています。 夢野さんは、この作品が出版された翌年には、他界しているので、これが代表作で、本人の手による類似作はないです。
九州大学の精神病院で目覚めた青年は、自分が何者なのか、全く思い出せなかった。 若林という法医学博士から、自分が、ある精神医学治療法の対象になっている事や、その治療法の為に、自分が何者なのかは、自分で思い出さなければならないという事を告げられる。 渡された遺伝記憶に関する奇怪な資料を読んでいる内に、一ヵ月前に死んだと聞いていた、青年の主治医、正木博士が現れて、江戸時代、更に遡れば、唐代の人物から伝えられた絵巻物がスイッチとなって、代々、血腥い凶行が繰り返されていると言われ・・・、という話。
梗概を書き難いですな。 これでは、ほとんど、分からないでしょうが、作品を読めば、分かります。 そんなの、当然か。 読もうという意思があるかどうかが、鍵でして、その意思さえあれば、そんなに読み難い作品ではありません。 伊達に、10年間も、推敲を重ねたわけではないわけだ。 同じ三大奇書の、【黒死館殺人事件】に比べれば、ずっと、普通に読めます。
発表当時は、「分からん」という人が多かったそうです。 日本では、最も作風が近い、江戸川乱歩さんまで、「分からん」と言ったそうですが、意外ですな。 江戸川さんが分からんのでは、他の作家は、みな、分からなかったでしょう。 別に、自慢するわけではありませんが、私は、分かりました。 しかも、はっきりと。 ストーリーも、テーマも、作者の意図も。
私だけでなく、SF小説を読んでいる人なら、割合、すっと、この世界に馴染めると思います。 ≪ドグラ・マグラ≫自体は、SFではなく、似非科学をモチーフにしているだけですが、このテイストは、その後、探偵・推理小説ではなく、SF小説の作家に受け継がれて、戦後日本のSFに影響を与えたのだと思います。 だから、戦後SFを読んでいる者には、分かり易いのです。
そもそも、探偵・推理小説に分類するには、無理があります。 業界から、評価を拒まれたのも、無理はない。 たとえば、ドストエフスキーの、【罪と罰】は、殺人事件が起こり、犯人、被害者だけでなく、探偵役も出て来るから、倒叙型推理小説の要素が全て揃っているわけですが、だからといって、【罪と罰】を、推理小説と見做す読者はいません。 それと同じで、≪ドグラ・マグラ≫も、要素が揃っていても、推理小説ではないんですな。
視点人物の一人称ですが、その視点人物の記憶に問題があるせいで、時系列がゴチャゴチャに入り組んでいます。 それが、分かり難くさせている、最も大きな理由でしょうか。 長々と説明をしていた正木博士が、「今のは、嘘だよ」と、あっさり、引っ繰り返してしまう場面があり、そういうところも、読者を嫌がらせる原因になっていると思います。 それでなくても、ややこしいのに、延々と、嘘を読まされたのでは敵いません。 しかし、そこが、面白いところで、実は、正木先生の説明には、一切、嘘はないのです。 これは、作者が読者に仕掛けた罠なのです。
遺伝記憶に関する学説は、まるっきり、デタラメというわけではないですが、医学界では、異端もいいところで、この作品の中で言われているような水準の評価は受けていません。 ところが、この小説を読んでいると、それが、定説であるかのような錯覚に陥ります。 これが、怖い。 SF小説のヨタ話に慣れていない読者は、なんだか、詐欺師の巧い言葉に引っ掛けられているような、警戒感・拒絶感を覚えるのではないでしょうか。
遺伝記憶によって殺人事件が引き起こされるのは、視点人物の空想ではなく、作中の事実でして、読む側は、オカルト的な恐怖を覚えます。 しかし、この作品の中では、遺伝記憶は、科学的な現象とされているので、厳密には、オカルトではないです。 ただ、読者がオカルトと錯覚するのを見越して、作者が、こういう設定をした可能性はあります。 作者本人が、遺伝記憶を、科学的現象と思っていたのか、似非科学と思っていたのかは、分かりません。
実は、一番面白いのは、江戸時代の記録に出てくる、チャンバラ部分なのですが、そこはもう、完全に、チャンバラ物として書かれているので、そこだけ評価しても、意味のない事。 次が、唐代部分ですが、それは、伝奇小説そのまんまです。 たぶん、作者が、唐宋伝奇が好きだったんでしょう。 次が、正木博士が、ある告白を始める部分。 突然、核心に近づくので、ギョッとします。
視点人物の青年が、正木博士と、若林博士を、どちらも、「お父さん」と言ってしまう場面も、面白い。 てっきり、精神異常で、認識能力が低いせいで、一定年齢帯の男性を、みんな、「お父さん」にしてしまっているのだと、読者は思ってしまうのですが、実は・・・、という作者の罠なのです。 凄いな、夢野さんという人は。
これだけ、入り組んだ話なのに、最終的には、全ての謎が解決され、スッキリします。 ただし、それは、読者の側の話でして、視点人物の青年は、最後の一行に至るも、依然、無限ループの中にいて、まるで、救われません。 そこも、作者が仕組んだ巧妙な罠でして、読者は、謎から解放されて、読後感は悪くないのに、視点人物は、何からも解放されず、物語は終わらないんですな。
視点人物こそ、青年ですが、この物語の主人公は、正木博士なんでしょうな。 青年は、ほとんど、若林博士が用意した資料を読んだり、正木博士の話を聞いたりと、受け身の立場に徹していますから。 正木博士を主人公だと思うと、また、違った感慨が起こって来ます。 この人が一番、呪われていたわけだ。 おっと、くどいようですが、この作品は、オカルトではないです。 でも、呪いとしか言いようがないんですよ。
これは、凄い小説だと思います。 同じ、「三大奇書」でも、【グリーン家殺人事件】を、極端化しただけとも言える、【黒死館殺人事件】とは、次元が違います。 出版の翌年に亡くなったというのは、作者が、この作品に、生命力の全てを注入してしまったからではないかと思えます。
≪虚無への供物≫
東京創元社 2000年2月29日/初版
塔晶夫 著
≪虚無への供物≫は、沼津市立図書館にも蔵書があったんですが、貸し出し中で、すぐには返って来そうになかったので、三島図書館までバイクで出かけて行って、≪匣の中の失楽≫と共に、借りて来ました。 単行本、一段組みで、588ページ。 挿絵あり。
完成作は、1964年に、単行本として、発表。 その2年前に、前半だけ、江戸川乱歩賞に応募したらしいですが、次点だったとの事。 そりゃ、前半だけじゃねえ。 日本の探偵・推理小説界に於ける、「三大奇書」の、三冊目。 「塔晶夫(とう・あきお)」というの、この作品用に使った筆名で、本名の「中井英夫」の方が、通り名になっています。 特に、推理作家というわけではなく、この【虚無への供物】一作に、推理小説に対する思いを全部注ぎ込んだという事のよう。 その点、【不連続殺人事件】を書いた、坂口安吾さんと同類。
洞爺丸事件で両親を失った青年・氷沼蒼司の精神的な落ち込みを心配した、在フランスの縁者・牟礼田が、自分の婚約者・奈々村久生に様子を見てくれるように依頼した矢先、氷沼邸で、蒼司の弟の紅司が密室死してしまう。 推理マニアの久生を始め、ワトソン役の青年・光田亜利夫、蒼司の従弟・藍司、氷沼家の相談役・藤木田など、素人探偵が集まって、様々な推理を展開するが、紅司が練っていた推理小説の筋書きに従うかのように、氷沼家の関係者に、密室死が続き・・・、という話。
同じ三大奇書と言っても、【黒死館殺人事件】と【ドグラ・マグラ】が全然違うのと同様に、この【虚無への供物】も、他の二作と、全然、性質が異なる作品です。 最も読み易い。 それはなぜかというと、最も、推理小説的な文体で書かれているからです。 【黒死館殺人事件】は、薀蓄を語るのが目的。 【ドグラ・マグラ】は、そもそも、探偵小説のジャンルを借りているだけで、実は、純文学。 いや、もっと上の何かか。 それに比べると、【虚無への供物】は、純然たる推理小説で、それ以外に分類のしようがありません。
推理小説として、普通に面白いですが、密室トリックは、ゾクゾクするようなものはないです。 戦後物だから、とっくの昔に、あらゆるパターンが出尽くしているわけで、その点は、致し方なし。 この作品が変わっているのは、密室死が、空想も含めると、四件もあり、とことん、密室に拘っていながら、実は、密室トリックが、テーマとは関係なく、モチーフ・レベルでしか使われていないという点です。 読者側も、密室トリックに拘って読む事が可能ですが、それをやっても、あまり、意味がないとでも言いましょうか。
密室死が、四件もある上に、素人探偵が、五人も登場するので、推理は、大変な事になります。 当然の事ながら、最終的に、一人だけが正しい謎解きをし、他の四人は、間違っているわけですが、全てが間違っているのではなく、「部分的には、誰それの推理が正しい」といった入り組み方をするので、読者側は、全面的に信じられる探偵役が見つからず、振り回される事になります。 しかし、混乱するほどではないです。
一番、混乱しやすいのは、四件目の密室死で、これは、実際には起こらずに、作中小説の形で出て来るのですが、その事件について、実際に起こったものとして、推理が展開されるので、読者に、錯覚を起こすなという方が無理というもの。 「もしや、この作者、読者を混乱させて、煙に巻く為に、わざと、こんな話にしているのでは?」と疑いたくなりますが、そうではない事が、最後まで読めば、分かります。
これだけ、密室トリックに拘っているのに、テーマは、手法ではなく、犯人の動機でして、これが、変わっている。 ネタバレを避ける為に、書きませんが、「こんな動機で、人を殺してしまっていいものか・・・」と、ズシーンと重い気分になります。 狂気としか言いようがありませんが、実際、この犯人、精神に異常を来たしていたんですな。 そうであればこそ、犯人に下される罰が、常識的なものではない事が、辛うじて理解できるのです。 ちなみに、警察は、少し顔を出しますが、これといって、事件の解決に寄与するわけではないです。
犯人が自白したのに、司直の手に委ねられる結末にならないのは、作者に、「戦争や、洞爺丸事故のような、人為的災害に比べれば、個人間の殺人事件など、取るに足らない出来事ではないか」という、戦後間もない頃に、多くの人々が抱いていた意識が、強烈にあって、他者による断罪を嫌ったからではないかと思います。 それにしても、中心になる被害者には、殺される理由が理不尽すぎて、「これで、いいのか?」という違和感はあるのですが。
「推理小説である事を否定している、推理小説」という意味で、「反推理小説」と言われているそうですが、特に、それを意識するような部分はなかったような。 【そして誰もいなくなった】のような、形式上の破格を試みようとした形跡があるものの、それが成功しているとは思えません。 ただし、犯人の動機が特殊で、探偵役達や、読者を含む世間の人間全てに、犯行の責任があるという主張は、確かに、破格と言えます。 もっとも、その言い訳を許したら、司法制度の意味など、なくなってしまうのですが・・・。
最も変な登場人物は、奈々村久生で、初っ端、神がかり的に優れた探偵のような手並みを見せますが、次第にズレていって、ただのヘボな推理マニアに過ぎないという事が明らかになって行きます。 カッコつかんなあ。 とはいえ、当時の小説で、こういうキャラは、大変珍しかったと思うので、新時代の女性像として、印象に残っている読者も多いのでは。 一方、視点人物になる、光田亜利夫は、至って、常識的な人格です。 好感が持てるというほど、当人について描き込まれませんが。
1954年から、55年にかけて起こった事件という、時代設定。 当時流行っていた音楽や映画など、時代背景について、細かく描き込まれていて、それが、この作品の質を高めていると思います。 当時の日本の風景が、どんなものだったのか、私の世代では、直接知らないのですが、黒澤明監督の映画で言うと、≪生きものの記録≫が、1954年、≪悪い奴ほどよく眠る≫が、1960年ですから、あんな感じですかねえ。
しかし、この小説を読むと、ずっと、新しい時代のような感じがします。 出てくる時代情報は別として、雰囲気だけ感じ取るなら、1980年代に書かれた言っても、通るのでは? ≪なんとなくクリスタル≫とか、≪ノルウェイの森≫とか、そんな雰囲気。 登場人物が、妙に垢抜けているからでしょうか。
車が二台出て来ます。 「プジョー・203」と、「ルノー・ドーフィン」。 203は、1947年登場だから、問題ないとして、ドーフィンは、1956年登場でして、この物語の時には、まだ、存在していません。 「ルノー・4CV」なら、1946年登場だから、分かるのですがね。 時代考証はさておき、音楽と言い、車といい、作者は、相当には、フランス好きだったようですな。 ちなみに、車の形を、ネットで確認すると、大昔の物語である事が、改めて分かります。
≪匣の中の失楽≫
講談社文庫
講談社 2015年12月15日/初版 2017年5月9日/5版
竹本健治 著
沼津図書館になくて、三島図書館までバイクで出かけて行って、借りて来たもの。 文庫で、776ページ。 厚みが、3センチくらいあります。 開架にありましたが、借りる人が少ないのか、綺麗な本でした。 「匣」は、「はこ」と読みます。
1977年(昭和52年)4月から、1978年2月まで、「幻影城」に連載されたもの。 日本の探偵・推理小説界に於ける、「三大奇書」に並べて、「四大奇書」というと、この作品が入るそうです。 作者が、大学在学中、23歳の時に書いたデビュー作というから、驚きですな。 デビュー作で、長編を連載というのは、そんなリスクを冒す編集部はないと思うので、完成した作品を、分載したのではないかと思います。
バラバラの学校に在籍する大学生達を中心とした、12人の推理小説趣味のグループがあった。 双子の中学生の一人、ナイルズが、実際のメンバーを登場人物にした推理小説を書いて、披露するが、それと並行するように、メンバー内で密室死事件が連続する。 現実と小説世界が入れ代わったり、一方が一方を包み込んだりしながら、メンバーによる推理が戦わされる話。
我ながら、苦しい梗概だな。 こういう作品の梗概をうまく書ける人って、いるのだろうか? 正直なところ、「梗概なんて読んでないで、作品そのものを読め!」と言いたい気持ちで一杯なのですが、この小説を、読み通せるのは、そこそこ、読書歴がある人に限られると思われ、薦めても、冒頭だけで断念してしまう人が多いかもしれませんねえ。 特に、読書離れが進んだ、現在では。
ネタバレさせなければ、感想が書けない種類の作品ですが、ネタバレの前に、断っておく事があります。 まず、いきなり、読むなという事。 この作品を読む前に、「三大奇書」を読んでおかないと、この作品の存在意義が分からず、読み通せなくなってしまう恐れがあります。 【黒死館殺人事件】は、全部読まなくても、大体、どういうものか分かれば、それで充分ですが、【ドグラ・マグラ】と、【虚無への供物】は、全部、読んでおいた方がいいです。
とりわけ、【虚無への供物】は、この作品から見て、オマージュの対象になっているので、重要。 しかし、【虚無への供物】を理解するには、【ドグラ・マグラ】を読んでいる必要があるから、結局、二作は、読まねばならないわけだ。 三大奇書を素通りして、この作品だけ読んでも、意味がない・・・、とまでは言いませんが、意義がないのは、確実。
次の注意事項は、「途中で、迷子になったような不安に襲われても、放棄するな」という事です。 第二章に入って、すぐに、不安の増大が始まると思いますが、大丈夫。 この作者は、ただ、読者を路頭に迷わせるような、無責任な人ではありません。 その不安は、ゾクゾク感の代わりだと思って、読み進めていけば、最終的に、鮮やかに取り払ってもらえます。 作者が若い時に書いたデビュー作だからと言って、「好き勝手に書きっ放しで、感じ取り方は、読者に丸投げ」などといういい加減なものでは、全くないです。 結構は、これ以上ないくらい、しっかりしています。
次。 大学生は、まあ、いいとして、中学生が出て来て、非常に重要な役所を担うので、「子供の話」と、見くびってしまうとしたら、勿体ないです。 別に、大学生を社会人に置き換え、中学生を大学生に置き換えても、概ね、成立する話でして、「こんな中学生は、いない」などと、登場人物の年齢にケチをつけるのは、詮ない事です。
この設定年齢は、作者自身が、執筆時、大学生だったから、致し方ないのです。 大学生が、社会人を主な登場人物にした小説を書いても、社会経験がない事は、如何ともし難いですから、どうしても、薄っぺらく、リアリティーのない話になってしまいます。 それを避ける為には、大学生と中学生の話にせざるを得なかったわけだ。 ちなみに、メンバーの中に、一人だけ、社会人の女性が出て来ますが、その人の人格は、あまり、細かく描きこまれていません。 作者に、「知らない事は、書かない」というポリシーがあったのではないかと思います。
作者自身が、中学生の頃、ナイルズのような少年だったのかも知れませんな。 「こんな中学生」は、「いた」わけだ。 人それぞれ、知能、才能、知識、教養は、違いがあるから、そういう人がいても、あからさまに否定するほど、驚く事はないです。 そもそも、大学生で、こんな作品を書いた人がいるという事実が、驚きではありませんか。
以下、ネタバレ、あり。 すでに、この作品を読んだ人。 または、今後とも、読む気がない人。 もしくは、いつかは読むかも知れないが、その頃には、こんな他人の感想文なんて、すっかり、打ち忘れているだろうと思う人だけ、読んで下さい。
序章と、終章を除き、五章で構成されていますが、奇数章で起こった事が、事実。 偶数章で起こった事は、小説内小説です。 これは、はっきりしていて、「どれもこれも、みんな小説内小説なのでは?」と疑いを抱く気持ちは分かりますが、それは、錯覚です。 だから、不安を感じても、放棄せずに、先に進めというのよ。
小説内小説を、サンドイッチ式に挟んでいる体裁は、読者に、犯人を分かり難くさせる術策でして、巧妙といえば、驚異的なほどに、巧妙。 分かり難くさせるにも程があり、もはや、露悪的な分かり難さになってしまっている、という気もしますが、変格推理小説を読み込んでいる読者なら、むしろ、この分かり難さを、歓迎するかも知れません。
次に、考えてみれば、当然の事なのですが、本格・変格に関係なく、確実に、推理小説なのですから、黒魔術や占星術など、どんなに、胡散臭い小道具が使われていても、断じて、オカルトではありません。 つまり、それらの小道具は、読者に、ゾクゾク感を与える為の、舞台背景のようなものなのです。 ちなみに、オカルト風の要素を、一切無視しても、ストーリーを理解するのに、何の問題もありません。
次。 衒学趣味。 その部分は、【黒死館殺人事件】へのオマージュだと思います。 登場人物達の大学での専攻が、バラエティーに富んでいるので、それぞれ、専門分野について、薀蓄をべらべら喋りまくります。 興味があれば、読んでもいいですが、読まなくても、ストーリーを理解するのに、何の問題もありません。 だから、ただの、【黒死館殺人事件】へのオマージュだって言っているじゃないですか。
これらの薀蓄には、作者の竹本さんと、小栗虫太郎さんの共通点が窺えます。 探偵・推理小説の読者という人種が、基本的に、文系で、自然科学が苦手。 理系的な知識が決定的に欠けていて、劣等意識を抱いている。 だから、理系的薀蓄をこれでもかというくらい、並べてやれば、それだけで、畏れ入ってしまう。 自分の理解を超える、大変な傑作なのではないかと思い込む。 二人とも、その事を、よく分かっていたんですな。
【黒死館殺人事件】同様、これらの薀蓄には、それぞれ、ネタ本があったと思われます。 自然科学の入門書シリーズに、ブルー・ブックスというのがありますが、あの手の本を、参照しまくったんじゃないでしょうか。 逆に考えると、ネタ本さえ揃えれば、衒学的薀蓄を盛り込んだ推理小説は、誰でも書けるという事になりますが、本に頼らなくても、大体の知識が頭に入っている人でないと、作中の適所に盛り込むのは、難しいでしょう。
【黒死館殺人事件】にせよ、この作品にせよ、発表されて、世間に衝撃を与えた後、類似作を、新人賞に応募して来たり、編集者に持ち込んだりする者が、どっと出たと思われますが、おそらく、衒学的薀蓄ばかり羅列した、生煮え料理みたいな、スカ作品ばかりで、それを読まされた編集者は、発熱して、寝込んだに違いありません。 そんなに安直に、四大奇書レベルの作品は、書けますまい。
衒学趣味は、取り扱い注意の危険物のようなもので、作中で、うまく活かせられた例の方が少ないです。 そもそも、【黒死館殺人事件】にしてからが、盛り込み過ぎで、失敗しているという見方もできます。 この作品に使われている薀蓄は、時代が新しい分、現代まで繋がっている、有効期限内の学識がほとんどで、【黒死館殺人事件】のそれよりは、違和感が少ないです。
最後に、この作品で、最も、分かり難いのは、動機です。 密室死が、現実のものだけで、三件起こります。 きっかけになるのは、もちろん、第一の密室死ですが、メインは、第二で、第三は、第二の反応として起こったものになります。 第一の事件の動機は、問うても詮ない事ですし、第三の事件の動機は、ありふれた復讐だから、それらは、スルーするとして・・・。
第二の事件の動機は、大変、特殊なもので、「そんな事で、人を殺すのか?」と思わずにはいられません。 しかし、この推理小説マニアばかりのグループというのが、存在自体、病的でして、メンバーが死んでも、悼むのもそこそこに、推理比べに現つを抜かす有様。 「こういう連中なら、やるかも知れない」と思わせる事で、リアリティーを補い、成立させています。 強引ですが、読者を納得させてしまえば、作者の勝ちですから、これも、小説術の内なんでしょうな。
「反推理小説」の代表作と言われているそうですが、「反推理小説」という言葉自体が、意味的に宙ぶらりんで、どういうカテゴリーを指しているのか、よく分からないので、それについては、述べません。 推理小説の主な読者である、傍流文系の面々が、構成が複雑で、分かり難い作品を、みんな、「反推理小説」や「変格物」という名の押入れへ押し込んでいるだけなのでは?
構造そのものが、推理小説になっているという意味なら、【そして誰もいなくなった】や【アクロイド殺し】、【ドグラ・マグラ】、【虚無への供物】、それに、この作品などが、本当の推理小説であって、「反」などと言うのは、間違っている。 そういう人達は、トリックや謎など、推理小説の要素を、普通の小説の中に嵌め込んだ作品を、本格物や、社会派として、主流と見做しているのでしょうが、「推理小説としての度合い」から見れば、それらの主流作品は、レベルが低いと思います。 レベルが低いものの方が、読者の数が桁違いに多いのは、残念至極。
竹本さんが、「三大奇書」の作者達と違うのは、その後も、長編推理小説を書き続けているという事です。 その後の作品を、読んでみたいような、みたくないような、複雑な気分ですな。 読んでみたくないというのは、もし、この作品以上のものを書き続けていたら、私ごときの読者では、受け止めきれないほどの驚異ですし、その逆だったら、ガッカリしてしまうでしょうから。
【匳の中の失楽】という、21ページの短編が、オマケについています。 「匳」は、「こばこ」と読みます。 【匣の中の失楽】のサイド・ストーリーで、ナイルズと曳間のやり取りでなり立っています。 一応、変格推理物ですが、ささやか過ぎて、読んだら、すぐに忘れてしまいそうな内容。
以上、四冊です。 読んだ期間は、去年、つまり、2021年の、
≪【「新青年」版】 黒死館殺人事件≫が、10月7日から、11日。
≪夢野久作全集4 ドグラ・マグラ≫が、10月12日から、15日。
≪虚無への供物≫が、10月21日から、23日まで。
≪匣の中の失楽≫が、10月24日から、28日まで。
今回は、期せずして、四大奇書が、そっくり、収まりましたな。 別に、計算して、調整したわけではないんですが。 この4作を読んだ事は、結構、刺激的な経験だったので、感想も気合が入っていて、特に、付け加える事はありません。 三島図書館に通ったのは、久しぶり。 自転車で行く自信がなく、バイクで、プチ・ツーリング代わりに、出向きました。
なに? 新型肺炎の急増について、どう思うか? 今となっては、論に意味なし。 とにかく、正しくマスクを装着して、人と距離をおき、密を避けるべし。 なに? 当たり前の事を言うな? では、少し、極端な事を書きましょうか。 家から出ないでも済む生活をしている人は、極力、出ない方がいいです。 オミクロン株は、今までの株より、遥かに感染し易いようですから。
無マスク、顎マスクは、論外として、鼻出しマスクや、鼻の横スカスカ・マスクでも、密状態なら、エアロゾルで、一発感染していると見た。 毒性が弱くて、死者が少ない事が予想されるなら、尚の事。 その少ない死者の中に、自分や家族が入りたくはありますまい。
≪【「新青年」版】 黒死館殺人事件≫
作品社 2017年9月30日/初版 2017年11月30日/3版
小栗虫太郎 著
沼津市立図書館にあった本。 購入は、2018年1月ですが、ほとんど、読まれた形跡がありません。 この作品、日本の探偵・推理小説界の、「三大奇書」の一つで、しかも、その筆頭と言われているもの。 必ずしも、高尚な内容だからというわけではなく、単に、読み難いから、敬遠する人が多く、借り手がないんでしょう。 この本、6800円もしますが、それでなくても、読書離れの時代に、買う人がどれだけいるか、大いに疑問。
1934年(昭和9年)の4月から、12月にかけて、「新青年」に連載という、戦前作品です。 すでに、著作権が切れているおかげで、ネット上の、「青空文庫」でも読めるのですが、元が読み難い文章なので、パソコン・横書きだと、ますます読み難い。 なかなか進まない事に業を煮やして、本になっているものを借りて来た次第。 本でも、読み易いとは言えませんでしたが、それでも、何とか、読みました。 薀蓄のほとんどは、さっと目を通すだけで、飛ばしましたけど。
神奈川県の私鉄の終点にある、降矢木家の洋館、黒死館。 乳児の頃に引き取られ、軟禁状態で暮らしていた西洋人四人の内、一人の女性が殺される事件が起こる。 支倉検事が、元警察捜査局長の探偵、法水麟太郎を連れて、現地に乗り込むが、黒死館は、不気味な自働人形の存在を始め、奇怪な暗示に満ち満ちた場所で、殺人事件や、犯人不明の傷害事件が、次々と起こる。 黒死館では、過去に、三人が変死していたが、その最後の一人であり、黒死館を造った、降矢木家算哲が、実は、まだ生きていて、事件を起こしているのではないかと囁かれるが・・・、という話。
この作品、梗概には、あまり、意味がありません。 ネット情報で、もっと詳細な梗概を読む事ができますが、大体のストーリーが分かっても、やはり、意味はありません。 この作品の最大の特徴は、ストーリーではなく、探偵役の法水(のりみず)が口にする、衒学的薀蓄の膨大な羅列にあるからです。
扱われている学問は、ヨーロッパの宗教、歴史、文学、音楽、美術、医学、化学、天文学といったものですが、それらについて、法水が、喋るべるべる、べりまくる。 ただ喋るだけでなく、謎解きの表現方法として、一つを説明するにも、その十倍の薀蓄を交えて語らなければ、気が済まないという、天文学的に嫌な性格。 正直な感想、はっきり言って、常識的に見れば、この男は、狂人としか思えません。
また、こんな狂人と、会話を交わしている、支倉検事や熊城捜査局長も、まともとは思えません。 会話が成り立っていない事に気づいているのに、それでも、法水を頼っているのだから、狂人の友は、やはり、狂人ですな。 法水、これだけ、自信満々で喋るのだから、さぞや、名探偵かと思いきや、そんな事は全然ないのであって、ラストにならないと、真犯人に辿り着かず、犯人の誤指名を、二回もやらかします。 法水が、いてもいなくても、結局、犠牲者の数は変わらないのだから、やはり、検事・捜査局長らは、法水を連れて来るべきではなかったと思います。 捜査が混乱しただけです。
ヴァンダインの、【グリーン家殺人事件】(1928年)を、下敷きにしているそうで、私は、そちらも読みましたが、なるほど、似ています。 【グリーン家】の方は、関係者のほとんどが死んでしまいますが、こちらでは、余分な登場人物がいて、生き残る人数が多いので、その点、【グリーン家】で覚える、ゾーッと感はないです。
むしろ、似ているのは、探偵役が薀蓄垂れで、しょーもない奴だという点でしょう。 しかし、ファイロ・ヴァンスは、嫌な奴でしたが、狂人というほどではなかったです。 喋る薀蓄も、法水に比べたら、すっと、常識的な分量でした。 ファイロ・ヴァンスのキャラを、極端化して、法水を作ったわけですが、狂人と見做されてしまうようでは、探偵として、欠格だと思いますねえ。
しかし、その極端化のお陰で、この作品は、日本の探偵・推理小説界、随一の奇書となり、この作品のお陰で、小栗さんの名前・業績も、後世に残ったわけですから、何でも、工夫や努力は、してみるものですな。 私は、こういう作品は、感心しないと思いますけど。
推理小説としては、全く、大した事はなく、トリックに、心理的な要素を入れたり、特定の体質の人間に起こり易い反応などを使っているものだから、はっきりしないというか、不確定要素が大き過ぎて、「そんなにうまくいくか?」と疑ってしまうのです。 読者に対して、説得力がないトリックは、探偵・推理小説では、有効とは言えますまい。
基本的に、法水の薀蓄が売りなのですが、後ろの方に行くと、演奏会の件りで、木に竹を接ぐが如く、活劇的な場面が出て来ます。 これも、ヴァン・ダインの影響でしょうか。 恐らく、映画化を念頭に置いて用意したと思われる場面なのです。 当時は、映画の勃興期で、小説家の多くが、映画化を意識していたのですが、小栗さんも、その例に漏れなかったのかも知れません。
この活劇場面のせいで、静謐な雰囲気が台なしになるかというと、そうでもなく、後ろの方に行くと、もう、大抵の読者が、読むのにうんざりしているので、劇的な展開で、さっさと話が進んで、犯人が分かれば、その方がありがたい。 むしろ、歓迎されると思います。 いやあ、そもそも、読者が、うんざりしてしまう小説が、礼賛に値いするようなものなのかどうか・・・。
この作品に出て来る衒学的薀蓄ですが、文系系統のものは、今や、全く、価値がありません。 仔細に読んで、頭に入れたとしても、微塵の役にも立ちません。 完膚なきまでに、旧時代の学識であって、もう、この種の事を、教養と捉える習慣が、なくなっているのです。 特に、宗教や文学関連は、カルト知識の領分に入ってしまっており、知らない方が、無難なほどです。
理系的な薀蓄も、使い物にならないでしょうねえ。 まず、正確かどうかが分かりません。 次に、古い。 その後、科学が発展して、否定されてしまった説もあるわけで、そのまま頭に入れるのは、危険です。 さりとて、一つ一つ、手間と時間をかけて検証するほど、一般的に役立つ知識でもないです。
教養を蓄えるつもりで読むのなら、却って、悪影響があるので、やめた方がよいと思います。 法水みたいな人間になったら、社会人として、欠格者の烙印を押されてしまいます。 というか、そんな甘い事では済まず、明確に、精神異常者と見做され、それなりの処遇を受けると思います。
この作品を礼賛している人は、教養に対する、劣等意識があるんでしょうねえ。 こういう薀蓄を知っているのが、教養人だと、勘違いしているのです。 小栗さんは、それを承知の上で、とことん、極端化した小説を書けば、劣等意識を持った面々が無視できない作品になると踏んだのではないでしょうか。
たぶん、衒学的薀蓄のネタ本はあったと思いますが、一冊二冊ではなく、数十冊くらいは調べたのでは? たとえ、役に立たない知識でも、これだけのボリュームのものを書くとなったら、構想段階で、どこにどんな薀蓄を盛り込むかを計算しておかねばならず、詳細はそのつど調べるにしても、おおまかな知識は、常に頭に入っていなければ、とても無理でしょう。 小栗さんには、それだけの知識があったわけだ。
この本、作者による原注とは別に、ページの下段に、脚注が付いています。 薀蓄に関する注は、問題ないとして、漢字熟語にまで、注を付けているのは、如何なものか。 読書経験が少ない読者が、辞書を引かずに済むように配慮したのかも知れませんが、特に難しい言葉が使われているわけではなく、この程度の漢字熟語を読めない読者は、そもそも、この本を読もうとは思わないでしょうに。 最初のページで、やめるはずです。
ごく普通の単語に、注をつけられると、馬鹿にされているような気がします。 何か、特別な意味でもあるのかと思って、わざわざ、ページを繰って、番号の脚注を探してみると、辞書に載っているような説明だけなのですから、骨折り損を感じずにいられません。 大変、宜しくない。
≪夢野久作全集4 ドグラ・マグラ≫
夢野久作全集4
三一社 1969年9月30日/初刷 1971年10月31日/2刷
夢野久作 著
沼津市立図書館にあった本。 古いな、これは。 2刷でも、71年で、私は、まだ、7歳でした。 小学生の頃、母に連れられて、当時まだ、「駿河図書館」と言っていた、市立図書館へ何回か通った事がありましたが、つまり、その頃、すでに、この本は、そこにあったわけですな。 そう思うと、奇妙な感じがします。
現在の沼津市立図書館には、新しい、「夢野久作全集」があるのですが、第4巻だけ、出払っていて、やむなく、古い方を借りて来ました。 外見はくたびれていますが、中は、意外と綺麗でした。 手に取る人は多いけれど、実際に読む人が少ないんでしょう。
1935年(昭和10年)、松柏館書店から、書下ろしで出版された作品。 大正15年から書き始めて、10年くらい、手を入れ続けたとの事。 日本の探偵・推理小説界に於ける、「三大奇書」の一つに数えられています。 夢野さんは、この作品が出版された翌年には、他界しているので、これが代表作で、本人の手による類似作はないです。
九州大学の精神病院で目覚めた青年は、自分が何者なのか、全く思い出せなかった。 若林という法医学博士から、自分が、ある精神医学治療法の対象になっている事や、その治療法の為に、自分が何者なのかは、自分で思い出さなければならないという事を告げられる。 渡された遺伝記憶に関する奇怪な資料を読んでいる内に、一ヵ月前に死んだと聞いていた、青年の主治医、正木博士が現れて、江戸時代、更に遡れば、唐代の人物から伝えられた絵巻物がスイッチとなって、代々、血腥い凶行が繰り返されていると言われ・・・、という話。
梗概を書き難いですな。 これでは、ほとんど、分からないでしょうが、作品を読めば、分かります。 そんなの、当然か。 読もうという意思があるかどうかが、鍵でして、その意思さえあれば、そんなに読み難い作品ではありません。 伊達に、10年間も、推敲を重ねたわけではないわけだ。 同じ三大奇書の、【黒死館殺人事件】に比べれば、ずっと、普通に読めます。
発表当時は、「分からん」という人が多かったそうです。 日本では、最も作風が近い、江戸川乱歩さんまで、「分からん」と言ったそうですが、意外ですな。 江戸川さんが分からんのでは、他の作家は、みな、分からなかったでしょう。 別に、自慢するわけではありませんが、私は、分かりました。 しかも、はっきりと。 ストーリーも、テーマも、作者の意図も。
私だけでなく、SF小説を読んでいる人なら、割合、すっと、この世界に馴染めると思います。 ≪ドグラ・マグラ≫自体は、SFではなく、似非科学をモチーフにしているだけですが、このテイストは、その後、探偵・推理小説ではなく、SF小説の作家に受け継がれて、戦後日本のSFに影響を与えたのだと思います。 だから、戦後SFを読んでいる者には、分かり易いのです。
そもそも、探偵・推理小説に分類するには、無理があります。 業界から、評価を拒まれたのも、無理はない。 たとえば、ドストエフスキーの、【罪と罰】は、殺人事件が起こり、犯人、被害者だけでなく、探偵役も出て来るから、倒叙型推理小説の要素が全て揃っているわけですが、だからといって、【罪と罰】を、推理小説と見做す読者はいません。 それと同じで、≪ドグラ・マグラ≫も、要素が揃っていても、推理小説ではないんですな。
視点人物の一人称ですが、その視点人物の記憶に問題があるせいで、時系列がゴチャゴチャに入り組んでいます。 それが、分かり難くさせている、最も大きな理由でしょうか。 長々と説明をしていた正木博士が、「今のは、嘘だよ」と、あっさり、引っ繰り返してしまう場面があり、そういうところも、読者を嫌がらせる原因になっていると思います。 それでなくても、ややこしいのに、延々と、嘘を読まされたのでは敵いません。 しかし、そこが、面白いところで、実は、正木先生の説明には、一切、嘘はないのです。 これは、作者が読者に仕掛けた罠なのです。
遺伝記憶に関する学説は、まるっきり、デタラメというわけではないですが、医学界では、異端もいいところで、この作品の中で言われているような水準の評価は受けていません。 ところが、この小説を読んでいると、それが、定説であるかのような錯覚に陥ります。 これが、怖い。 SF小説のヨタ話に慣れていない読者は、なんだか、詐欺師の巧い言葉に引っ掛けられているような、警戒感・拒絶感を覚えるのではないでしょうか。
遺伝記憶によって殺人事件が引き起こされるのは、視点人物の空想ではなく、作中の事実でして、読む側は、オカルト的な恐怖を覚えます。 しかし、この作品の中では、遺伝記憶は、科学的な現象とされているので、厳密には、オカルトではないです。 ただ、読者がオカルトと錯覚するのを見越して、作者が、こういう設定をした可能性はあります。 作者本人が、遺伝記憶を、科学的現象と思っていたのか、似非科学と思っていたのかは、分かりません。
実は、一番面白いのは、江戸時代の記録に出てくる、チャンバラ部分なのですが、そこはもう、完全に、チャンバラ物として書かれているので、そこだけ評価しても、意味のない事。 次が、唐代部分ですが、それは、伝奇小説そのまんまです。 たぶん、作者が、唐宋伝奇が好きだったんでしょう。 次が、正木博士が、ある告白を始める部分。 突然、核心に近づくので、ギョッとします。
視点人物の青年が、正木博士と、若林博士を、どちらも、「お父さん」と言ってしまう場面も、面白い。 てっきり、精神異常で、認識能力が低いせいで、一定年齢帯の男性を、みんな、「お父さん」にしてしまっているのだと、読者は思ってしまうのですが、実は・・・、という作者の罠なのです。 凄いな、夢野さんという人は。
これだけ、入り組んだ話なのに、最終的には、全ての謎が解決され、スッキリします。 ただし、それは、読者の側の話でして、視点人物の青年は、最後の一行に至るも、依然、無限ループの中にいて、まるで、救われません。 そこも、作者が仕組んだ巧妙な罠でして、読者は、謎から解放されて、読後感は悪くないのに、視点人物は、何からも解放されず、物語は終わらないんですな。
視点人物こそ、青年ですが、この物語の主人公は、正木博士なんでしょうな。 青年は、ほとんど、若林博士が用意した資料を読んだり、正木博士の話を聞いたりと、受け身の立場に徹していますから。 正木博士を主人公だと思うと、また、違った感慨が起こって来ます。 この人が一番、呪われていたわけだ。 おっと、くどいようですが、この作品は、オカルトではないです。 でも、呪いとしか言いようがないんですよ。
これは、凄い小説だと思います。 同じ、「三大奇書」でも、【グリーン家殺人事件】を、極端化しただけとも言える、【黒死館殺人事件】とは、次元が違います。 出版の翌年に亡くなったというのは、作者が、この作品に、生命力の全てを注入してしまったからではないかと思えます。
≪虚無への供物≫
東京創元社 2000年2月29日/初版
塔晶夫 著
≪虚無への供物≫は、沼津市立図書館にも蔵書があったんですが、貸し出し中で、すぐには返って来そうになかったので、三島図書館までバイクで出かけて行って、≪匣の中の失楽≫と共に、借りて来ました。 単行本、一段組みで、588ページ。 挿絵あり。
完成作は、1964年に、単行本として、発表。 その2年前に、前半だけ、江戸川乱歩賞に応募したらしいですが、次点だったとの事。 そりゃ、前半だけじゃねえ。 日本の探偵・推理小説界に於ける、「三大奇書」の、三冊目。 「塔晶夫(とう・あきお)」というの、この作品用に使った筆名で、本名の「中井英夫」の方が、通り名になっています。 特に、推理作家というわけではなく、この【虚無への供物】一作に、推理小説に対する思いを全部注ぎ込んだという事のよう。 その点、【不連続殺人事件】を書いた、坂口安吾さんと同類。
洞爺丸事件で両親を失った青年・氷沼蒼司の精神的な落ち込みを心配した、在フランスの縁者・牟礼田が、自分の婚約者・奈々村久生に様子を見てくれるように依頼した矢先、氷沼邸で、蒼司の弟の紅司が密室死してしまう。 推理マニアの久生を始め、ワトソン役の青年・光田亜利夫、蒼司の従弟・藍司、氷沼家の相談役・藤木田など、素人探偵が集まって、様々な推理を展開するが、紅司が練っていた推理小説の筋書きに従うかのように、氷沼家の関係者に、密室死が続き・・・、という話。
同じ三大奇書と言っても、【黒死館殺人事件】と【ドグラ・マグラ】が全然違うのと同様に、この【虚無への供物】も、他の二作と、全然、性質が異なる作品です。 最も読み易い。 それはなぜかというと、最も、推理小説的な文体で書かれているからです。 【黒死館殺人事件】は、薀蓄を語るのが目的。 【ドグラ・マグラ】は、そもそも、探偵小説のジャンルを借りているだけで、実は、純文学。 いや、もっと上の何かか。 それに比べると、【虚無への供物】は、純然たる推理小説で、それ以外に分類のしようがありません。
推理小説として、普通に面白いですが、密室トリックは、ゾクゾクするようなものはないです。 戦後物だから、とっくの昔に、あらゆるパターンが出尽くしているわけで、その点は、致し方なし。 この作品が変わっているのは、密室死が、空想も含めると、四件もあり、とことん、密室に拘っていながら、実は、密室トリックが、テーマとは関係なく、モチーフ・レベルでしか使われていないという点です。 読者側も、密室トリックに拘って読む事が可能ですが、それをやっても、あまり、意味がないとでも言いましょうか。
密室死が、四件もある上に、素人探偵が、五人も登場するので、推理は、大変な事になります。 当然の事ながら、最終的に、一人だけが正しい謎解きをし、他の四人は、間違っているわけですが、全てが間違っているのではなく、「部分的には、誰それの推理が正しい」といった入り組み方をするので、読者側は、全面的に信じられる探偵役が見つからず、振り回される事になります。 しかし、混乱するほどではないです。
一番、混乱しやすいのは、四件目の密室死で、これは、実際には起こらずに、作中小説の形で出て来るのですが、その事件について、実際に起こったものとして、推理が展開されるので、読者に、錯覚を起こすなという方が無理というもの。 「もしや、この作者、読者を混乱させて、煙に巻く為に、わざと、こんな話にしているのでは?」と疑いたくなりますが、そうではない事が、最後まで読めば、分かります。
これだけ、密室トリックに拘っているのに、テーマは、手法ではなく、犯人の動機でして、これが、変わっている。 ネタバレを避ける為に、書きませんが、「こんな動機で、人を殺してしまっていいものか・・・」と、ズシーンと重い気分になります。 狂気としか言いようがありませんが、実際、この犯人、精神に異常を来たしていたんですな。 そうであればこそ、犯人に下される罰が、常識的なものではない事が、辛うじて理解できるのです。 ちなみに、警察は、少し顔を出しますが、これといって、事件の解決に寄与するわけではないです。
犯人が自白したのに、司直の手に委ねられる結末にならないのは、作者に、「戦争や、洞爺丸事故のような、人為的災害に比べれば、個人間の殺人事件など、取るに足らない出来事ではないか」という、戦後間もない頃に、多くの人々が抱いていた意識が、強烈にあって、他者による断罪を嫌ったからではないかと思います。 それにしても、中心になる被害者には、殺される理由が理不尽すぎて、「これで、いいのか?」という違和感はあるのですが。
「推理小説である事を否定している、推理小説」という意味で、「反推理小説」と言われているそうですが、特に、それを意識するような部分はなかったような。 【そして誰もいなくなった】のような、形式上の破格を試みようとした形跡があるものの、それが成功しているとは思えません。 ただし、犯人の動機が特殊で、探偵役達や、読者を含む世間の人間全てに、犯行の責任があるという主張は、確かに、破格と言えます。 もっとも、その言い訳を許したら、司法制度の意味など、なくなってしまうのですが・・・。
最も変な登場人物は、奈々村久生で、初っ端、神がかり的に優れた探偵のような手並みを見せますが、次第にズレていって、ただのヘボな推理マニアに過ぎないという事が明らかになって行きます。 カッコつかんなあ。 とはいえ、当時の小説で、こういうキャラは、大変珍しかったと思うので、新時代の女性像として、印象に残っている読者も多いのでは。 一方、視点人物になる、光田亜利夫は、至って、常識的な人格です。 好感が持てるというほど、当人について描き込まれませんが。
1954年から、55年にかけて起こった事件という、時代設定。 当時流行っていた音楽や映画など、時代背景について、細かく描き込まれていて、それが、この作品の質を高めていると思います。 当時の日本の風景が、どんなものだったのか、私の世代では、直接知らないのですが、黒澤明監督の映画で言うと、≪生きものの記録≫が、1954年、≪悪い奴ほどよく眠る≫が、1960年ですから、あんな感じですかねえ。
しかし、この小説を読むと、ずっと、新しい時代のような感じがします。 出てくる時代情報は別として、雰囲気だけ感じ取るなら、1980年代に書かれた言っても、通るのでは? ≪なんとなくクリスタル≫とか、≪ノルウェイの森≫とか、そんな雰囲気。 登場人物が、妙に垢抜けているからでしょうか。
車が二台出て来ます。 「プジョー・203」と、「ルノー・ドーフィン」。 203は、1947年登場だから、問題ないとして、ドーフィンは、1956年登場でして、この物語の時には、まだ、存在していません。 「ルノー・4CV」なら、1946年登場だから、分かるのですがね。 時代考証はさておき、音楽と言い、車といい、作者は、相当には、フランス好きだったようですな。 ちなみに、車の形を、ネットで確認すると、大昔の物語である事が、改めて分かります。
≪匣の中の失楽≫
講談社文庫
講談社 2015年12月15日/初版 2017年5月9日/5版
竹本健治 著
沼津図書館になくて、三島図書館までバイクで出かけて行って、借りて来たもの。 文庫で、776ページ。 厚みが、3センチくらいあります。 開架にありましたが、借りる人が少ないのか、綺麗な本でした。 「匣」は、「はこ」と読みます。
1977年(昭和52年)4月から、1978年2月まで、「幻影城」に連載されたもの。 日本の探偵・推理小説界に於ける、「三大奇書」に並べて、「四大奇書」というと、この作品が入るそうです。 作者が、大学在学中、23歳の時に書いたデビュー作というから、驚きですな。 デビュー作で、長編を連載というのは、そんなリスクを冒す編集部はないと思うので、完成した作品を、分載したのではないかと思います。
バラバラの学校に在籍する大学生達を中心とした、12人の推理小説趣味のグループがあった。 双子の中学生の一人、ナイルズが、実際のメンバーを登場人物にした推理小説を書いて、披露するが、それと並行するように、メンバー内で密室死事件が連続する。 現実と小説世界が入れ代わったり、一方が一方を包み込んだりしながら、メンバーによる推理が戦わされる話。
我ながら、苦しい梗概だな。 こういう作品の梗概をうまく書ける人って、いるのだろうか? 正直なところ、「梗概なんて読んでないで、作品そのものを読め!」と言いたい気持ちで一杯なのですが、この小説を、読み通せるのは、そこそこ、読書歴がある人に限られると思われ、薦めても、冒頭だけで断念してしまう人が多いかもしれませんねえ。 特に、読書離れが進んだ、現在では。
ネタバレさせなければ、感想が書けない種類の作品ですが、ネタバレの前に、断っておく事があります。 まず、いきなり、読むなという事。 この作品を読む前に、「三大奇書」を読んでおかないと、この作品の存在意義が分からず、読み通せなくなってしまう恐れがあります。 【黒死館殺人事件】は、全部読まなくても、大体、どういうものか分かれば、それで充分ですが、【ドグラ・マグラ】と、【虚無への供物】は、全部、読んでおいた方がいいです。
とりわけ、【虚無への供物】は、この作品から見て、オマージュの対象になっているので、重要。 しかし、【虚無への供物】を理解するには、【ドグラ・マグラ】を読んでいる必要があるから、結局、二作は、読まねばならないわけだ。 三大奇書を素通りして、この作品だけ読んでも、意味がない・・・、とまでは言いませんが、意義がないのは、確実。
次の注意事項は、「途中で、迷子になったような不安に襲われても、放棄するな」という事です。 第二章に入って、すぐに、不安の増大が始まると思いますが、大丈夫。 この作者は、ただ、読者を路頭に迷わせるような、無責任な人ではありません。 その不安は、ゾクゾク感の代わりだと思って、読み進めていけば、最終的に、鮮やかに取り払ってもらえます。 作者が若い時に書いたデビュー作だからと言って、「好き勝手に書きっ放しで、感じ取り方は、読者に丸投げ」などといういい加減なものでは、全くないです。 結構は、これ以上ないくらい、しっかりしています。
次。 大学生は、まあ、いいとして、中学生が出て来て、非常に重要な役所を担うので、「子供の話」と、見くびってしまうとしたら、勿体ないです。 別に、大学生を社会人に置き換え、中学生を大学生に置き換えても、概ね、成立する話でして、「こんな中学生は、いない」などと、登場人物の年齢にケチをつけるのは、詮ない事です。
この設定年齢は、作者自身が、執筆時、大学生だったから、致し方ないのです。 大学生が、社会人を主な登場人物にした小説を書いても、社会経験がない事は、如何ともし難いですから、どうしても、薄っぺらく、リアリティーのない話になってしまいます。 それを避ける為には、大学生と中学生の話にせざるを得なかったわけだ。 ちなみに、メンバーの中に、一人だけ、社会人の女性が出て来ますが、その人の人格は、あまり、細かく描きこまれていません。 作者に、「知らない事は、書かない」というポリシーがあったのではないかと思います。
作者自身が、中学生の頃、ナイルズのような少年だったのかも知れませんな。 「こんな中学生」は、「いた」わけだ。 人それぞれ、知能、才能、知識、教養は、違いがあるから、そういう人がいても、あからさまに否定するほど、驚く事はないです。 そもそも、大学生で、こんな作品を書いた人がいるという事実が、驚きではありませんか。
以下、ネタバレ、あり。 すでに、この作品を読んだ人。 または、今後とも、読む気がない人。 もしくは、いつかは読むかも知れないが、その頃には、こんな他人の感想文なんて、すっかり、打ち忘れているだろうと思う人だけ、読んで下さい。
序章と、終章を除き、五章で構成されていますが、奇数章で起こった事が、事実。 偶数章で起こった事は、小説内小説です。 これは、はっきりしていて、「どれもこれも、みんな小説内小説なのでは?」と疑いを抱く気持ちは分かりますが、それは、錯覚です。 だから、不安を感じても、放棄せずに、先に進めというのよ。
小説内小説を、サンドイッチ式に挟んでいる体裁は、読者に、犯人を分かり難くさせる術策でして、巧妙といえば、驚異的なほどに、巧妙。 分かり難くさせるにも程があり、もはや、露悪的な分かり難さになってしまっている、という気もしますが、変格推理小説を読み込んでいる読者なら、むしろ、この分かり難さを、歓迎するかも知れません。
次に、考えてみれば、当然の事なのですが、本格・変格に関係なく、確実に、推理小説なのですから、黒魔術や占星術など、どんなに、胡散臭い小道具が使われていても、断じて、オカルトではありません。 つまり、それらの小道具は、読者に、ゾクゾク感を与える為の、舞台背景のようなものなのです。 ちなみに、オカルト風の要素を、一切無視しても、ストーリーを理解するのに、何の問題もありません。
次。 衒学趣味。 その部分は、【黒死館殺人事件】へのオマージュだと思います。 登場人物達の大学での専攻が、バラエティーに富んでいるので、それぞれ、専門分野について、薀蓄をべらべら喋りまくります。 興味があれば、読んでもいいですが、読まなくても、ストーリーを理解するのに、何の問題もありません。 だから、ただの、【黒死館殺人事件】へのオマージュだって言っているじゃないですか。
これらの薀蓄には、作者の竹本さんと、小栗虫太郎さんの共通点が窺えます。 探偵・推理小説の読者という人種が、基本的に、文系で、自然科学が苦手。 理系的な知識が決定的に欠けていて、劣等意識を抱いている。 だから、理系的薀蓄をこれでもかというくらい、並べてやれば、それだけで、畏れ入ってしまう。 自分の理解を超える、大変な傑作なのではないかと思い込む。 二人とも、その事を、よく分かっていたんですな。
【黒死館殺人事件】同様、これらの薀蓄には、それぞれ、ネタ本があったと思われます。 自然科学の入門書シリーズに、ブルー・ブックスというのがありますが、あの手の本を、参照しまくったんじゃないでしょうか。 逆に考えると、ネタ本さえ揃えれば、衒学的薀蓄を盛り込んだ推理小説は、誰でも書けるという事になりますが、本に頼らなくても、大体の知識が頭に入っている人でないと、作中の適所に盛り込むのは、難しいでしょう。
【黒死館殺人事件】にせよ、この作品にせよ、発表されて、世間に衝撃を与えた後、類似作を、新人賞に応募して来たり、編集者に持ち込んだりする者が、どっと出たと思われますが、おそらく、衒学的薀蓄ばかり羅列した、生煮え料理みたいな、スカ作品ばかりで、それを読まされた編集者は、発熱して、寝込んだに違いありません。 そんなに安直に、四大奇書レベルの作品は、書けますまい。
衒学趣味は、取り扱い注意の危険物のようなもので、作中で、うまく活かせられた例の方が少ないです。 そもそも、【黒死館殺人事件】にしてからが、盛り込み過ぎで、失敗しているという見方もできます。 この作品に使われている薀蓄は、時代が新しい分、現代まで繋がっている、有効期限内の学識がほとんどで、【黒死館殺人事件】のそれよりは、違和感が少ないです。
最後に、この作品で、最も、分かり難いのは、動機です。 密室死が、現実のものだけで、三件起こります。 きっかけになるのは、もちろん、第一の密室死ですが、メインは、第二で、第三は、第二の反応として起こったものになります。 第一の事件の動機は、問うても詮ない事ですし、第三の事件の動機は、ありふれた復讐だから、それらは、スルーするとして・・・。
第二の事件の動機は、大変、特殊なもので、「そんな事で、人を殺すのか?」と思わずにはいられません。 しかし、この推理小説マニアばかりのグループというのが、存在自体、病的でして、メンバーが死んでも、悼むのもそこそこに、推理比べに現つを抜かす有様。 「こういう連中なら、やるかも知れない」と思わせる事で、リアリティーを補い、成立させています。 強引ですが、読者を納得させてしまえば、作者の勝ちですから、これも、小説術の内なんでしょうな。
「反推理小説」の代表作と言われているそうですが、「反推理小説」という言葉自体が、意味的に宙ぶらりんで、どういうカテゴリーを指しているのか、よく分からないので、それについては、述べません。 推理小説の主な読者である、傍流文系の面々が、構成が複雑で、分かり難い作品を、みんな、「反推理小説」や「変格物」という名の押入れへ押し込んでいるだけなのでは?
構造そのものが、推理小説になっているという意味なら、【そして誰もいなくなった】や【アクロイド殺し】、【ドグラ・マグラ】、【虚無への供物】、それに、この作品などが、本当の推理小説であって、「反」などと言うのは、間違っている。 そういう人達は、トリックや謎など、推理小説の要素を、普通の小説の中に嵌め込んだ作品を、本格物や、社会派として、主流と見做しているのでしょうが、「推理小説としての度合い」から見れば、それらの主流作品は、レベルが低いと思います。 レベルが低いものの方が、読者の数が桁違いに多いのは、残念至極。
竹本さんが、「三大奇書」の作者達と違うのは、その後も、長編推理小説を書き続けているという事です。 その後の作品を、読んでみたいような、みたくないような、複雑な気分ですな。 読んでみたくないというのは、もし、この作品以上のものを書き続けていたら、私ごときの読者では、受け止めきれないほどの驚異ですし、その逆だったら、ガッカリしてしまうでしょうから。
【匳の中の失楽】という、21ページの短編が、オマケについています。 「匳」は、「こばこ」と読みます。 【匣の中の失楽】のサイド・ストーリーで、ナイルズと曳間のやり取りでなり立っています。 一応、変格推理物ですが、ささやか過ぎて、読んだら、すぐに忘れてしまいそうな内容。
以上、四冊です。 読んだ期間は、去年、つまり、2021年の、
≪【「新青年」版】 黒死館殺人事件≫が、10月7日から、11日。
≪夢野久作全集4 ドグラ・マグラ≫が、10月12日から、15日。
≪虚無への供物≫が、10月21日から、23日まで。
≪匣の中の失楽≫が、10月24日から、28日まで。
今回は、期せずして、四大奇書が、そっくり、収まりましたな。 別に、計算して、調整したわけではないんですが。 この4作を読んだ事は、結構、刺激的な経験だったので、感想も気合が入っていて、特に、付け加える事はありません。 三島図書館に通ったのは、久しぶり。 自転車で行く自信がなく、バイクで、プチ・ツーリング代わりに、出向きました。
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