読書感想文・蔵出し (81)
読書感想文です。 今月は、一回しか、読書感想文を出せないので、溜まっている分が、全く捌けません。 困ったもんだ。 あと、母が体調を崩しており、歳が歳なので、油断がならず、なりゆき次第では、ブログの更新ができなくなるかもしれません。 突然、更新が止まったら、そういう事情があると思っていて下さい。
≪松本清張全集 26 火の縄/小説日本芸譚/私説・日本合戦譚≫
松本清張全集 26
文藝春秋 1973年3月20日/初版 2008年7月25日/8版
松本清張 著
沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、短編集2編(小説日本芸譚、10作)(私説・日本合戦譚、9作)、長編1作の、計20作を収録。 またまた、感想が長くなりそうですな。
【小説日本芸譚】
1957年(昭和32年)1月から、12月まで、「芸術新潮」に連載されたもの。
「運慶」 約13ページ
京都仏師に比べて、評価が低かった奈良仏師の家系に生まれた運慶。 源氏の世になり、平家に焼かれた奈良寺院復興の流れに乗って、伝統の殻を打ち破った運慶の作品が、華々しく世に出る。 晩年になり、一門は繁栄していたが、父の弟子である快慶らが、運慶とは別の流行を作ろうとしているのが、気にかかっていた。
この長さですから、伝記としては、キッチキチですが、テーマも盛り込んであって、ちゃんと、小説になっています。 松本さんは、こういう、歴上の人物の一生を、掻い摘んで説明したような作品が多いんですねえ。 学生に読ませれば、ただ、教科書で説明文を読むよりも、遥かに、記憶に残り易いと思いますが、そうなると、小説的なテーマが邪魔になるかも知れませんな。
「世阿弥」 約13ページ
足利義満に庇護されて、一世を風靡した、神楽の世阿弥。 義満の死によって、主流から遠ざけられ、その息子までも、排斥されて、早世してしまう。 世阿弥の失意に追い討ちをかけるように、晩年になって、地方へ流されて行く話。
世阿弥という人、輝いていたのは、ほんの一時期に過ぎなかったんですな。 なぜ、史上最も有名な能楽師になったのかというと、≪花伝書≫など、多くの著作を遺したからのようです。 無形文化財の世界では、書いたものを遺さないと、どんなに素晴らしい芸術家でも、時代が変わって、その芸を目にした人達が死んでしまうと、どんどん、忘れられて行ってしまうんですな。
「千利休」 約12ページ
茶の湯の師匠として、信長に仕えた後、全く同じ待遇で、秀吉に仕える事になった、千利休。 しかし、秀吉が茶の湯に求めているものが、信長とは違っており、利休の理想とは乖離が大きかった。 利休と秀吉の間に、緊張感が盛り上がって行く話。
歴史に興味がある人の間では、ほぼ常識になっているように、利休は、秀吉の命で、死ぬ事になるわけですが、利休の木像を、寺の門の二階に置いて、その下を秀吉に通らせたから、などというのは、難癖に過ぎず、信長が死んだ直後から、利休と秀吉の静かな戦いは、続いていたわけですな。
利休が死に至る経緯は、映画やドラマで、何度も見ているのですが、この短編の方が、遥かにすんなりと頭に入って来ます。 余計な事が書かれていないからでしょうか。
「雪舟」 約11ページ
出家した雪舟は、画僧の道を選び、不器用ながらも、師匠について研鑽を積み、宋画の模倣を目的としている師匠や兄弟子には、真似ができない新境地を開く。 中年になって、大内氏の庇護下で、明へ渡るが・・・、という話。
雪舟というと、名前は超有名ですが、作品は、美術の教科書で、1・2枚見た程度で、それ以外は、子供の頃、お仕置きを受けて、縛られている時に、涙と足の指で、鼠の絵を描いたというエピソードしか知りません。 この作品を読んで、多少、知識は増えましたが、それでも、まだ、遥かに遠い人という感じです。
「古田織部」 約12ページ
千利休の後を継ぐ形になった、大名茶人、古田織部。 利休の存在の重さから逃れる為に、利休が決めた作法を、ことごとく変更して行く。 それは、秀吉の好みにも叶うはずだったが・・・、という話。
古田織部の伝記は、千利休に比べると、知名度が低いので、勉強になりました。 戦国大名でもあり、戦もやっていたんですなあ。 しかし、結局、こういう文化人として評価されていた人は、その方面が優れていればいるほど、秀吉のように、文化を権威の飾りとしか考えていない主君とは、相容れないんですな。
「岩佐又兵衛」 約10ページ
戦国大名の子として生まれたが、父親が没落したせいで、不遇な生活を強いられた、岩佐又兵衛。 絵師になったものの、それだけでは食べていけず、妻子を抱えて、苦しい生活をしていた。 中年以降になって、京都を離れ、地方へ移り住むが、そこで、絵師として高く評価されて・・・、という話。
岩佐又兵衛というと、浮世絵の先駆者として記憶していますが、この作品では、その件について、何も書かれていません。 特に決まった流派につかなかったお陰で、新しい表現を作り出す事ができたとあります。 なるほど、そういうものなのでしょう。
それ以外には、別に、感じるところ、なし。 あとがきにもありますが、岩佐又兵衛の資料そのものが、少ないんじゃないでしょうか。 資料が足りないのでは、想像で補うしかありませんが、あまり、そちらに励んでしまうと、歴史小説として、破格になってしまうので、この程度の書き方しかできないのでしょう。
「小堀遠州」 約10ページ
千利休、古田織部亡き後、数寄者の第一人者となった、小堀遠州。 武将でもあったが、家康から、武将としては、ほとんど、役目を与えられず、茶の湯や庭作りの時だけ、評価されていた。 戦の後の論功行賞では無視され、一石も加増されないまま、生涯を終えて行く話。
この人は、千利休、古田織部と違い、殺されなかったんですな。 うまく乗り切ったというより、時代が変わって、支配階級の、文化人に対する見方が変わったのでしょう。 文化人が増えて、一人当たりの重要性が落ちたから、殺す必要がなくなったのかもしれません。 加増されない事を嘆くなど、贅沢というもので、殺されるよりは、一億倍、幸せです。 大抵、本人が殺されれば、一族も根絶やしで、もっていた所領も没収ですから。
「光悦」 約13ページ
本阿弥光悦の工房で働いていた、刀の鍔師が、光悦の人柄の問題点を、あげつらう話。
書も、蒔絵も、焼き物も、茶の湯も、なんでも、器用にやってのける人だったらしいですが、他人より優れていたのは、書だけで、他は、二流レベルに過ぎなかったとの事。 ただ、この辛辣な批評が、創作された語り手の考えなのか、松本さんの考えなのか、そこのところは、分かりません。
伝記というのは、本来、その人物の、人並より優れたところを誉めるのが、普通ですが、この作品は、伝記というより、小説でして、創作度が、どの程度なのか判別がつかず、鵜呑みにするのが、大いにためらわれます。 最初に、この作品で光悦を知ったら、こういう人だったと思ってしまうでしょうねえ。
「写楽」 約11ページ
大首絵で売り出した、写楽。 世間の評判は悪く、特に、役者絵の最大の購買層である、女子供の受けが悪かった。 写楽にしてみれば、それでさえ、版元の要求に妥協したものだったが、評判が悪いと、更なる妥協を求められるのは必至で、鬱々として、愉しまない話。
写楽というと、映画でしか知りませんが、まあ、大体、似たような評価なんですな。 写楽の大首絵は、特徴を強調していて、インパクトが強烈ですが、役者のファンは、ああいう絵を買って、自分の部屋に置こうとは、望まなかったわけだ。 それも、分かるような気がします。
「止利仏師」 約9ページ
日本で最初に仏像を作った、止利仏師(とりぶっし)について書こうと思っている作家。 ところが、止利仏師がどういう人だったのか、資料を調べても、さっぱり、人物像が結べない。 調べて行く内に、当時、どんな人達が仏師になっていたかが分かり、止利仏師の正体が掴めなかったのも無理はないと、納得する話。
なるほど、そういうものかなあ、と、読んでいる方も納得します。 特定の人物ではない。 というか、名前は特定の人物であっても、実際に仏像を造っていたのは、工房全体であり、止利仏師は、その代表者に過ぎなかったのであれば、代表者の為人なんか、資料に残るはずがありませんわなあ。
この作家ですが、モデルは、明らかに、松本さん自身です。 あとがきによると、この【小説日本芸譚】シリーズを書くのに、芸術家達の為人が掴めずに、四苦八苦したらしいですが、最終作で、自分の経験を、そのまま書いたのだと思います。 資料が少ないのに、伝記に近い小説を書くのには、無理がありますなあ。
【火の縄】 約162ページ
1959年(昭和34年)5月17日号から、12月27日号まで、「週刊現代」に連載されたもの。 原題は、【雲を呼ぶ】。
丹後の一色家に仕えていた、稲富治介という鉄砲の名手を軸に、「一色義有」、「細川藤孝」、「その息子の忠興」、「一色義有に嫁いだ藤孝の娘、伊予」、「光秀の娘で、忠興の妻である、玉(ガラシャ)」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」らの生き様を描いた話。
鉄砲の名手、稲富某は、実在の人物ですが、名前は、変えてあるようです。 それ以外にも、歴史上の有名人を除き、名前は、かなり、変わっている様子。 わざと変えたのか、この作品が書かれた頃には、そういう名前だと思われていたのか、分かりません。 この鉄砲の名手は、【特技】(1955年)の主人公と、同じ人物。 松本さんは、よほど、この人物が気に入ったのか、短編では書き足りなくて、長編で書き直したんでしょうな。
全体を見れば、戦国物の歴史小説で、軍記物の類いです。 一番、手に汗握るのは、細川藤孝・忠興親子が、一色義有を騙し討ちにし、残った一色の家臣を、ほぼ一掃する過程の描写です。 細川側が、あまりにも汚い手を使うので、思わず、激怒してしまいますが、冷静になって考えてみると、戦国武将は、命のやり取りで、生きているのであって、汚い方が当たり前。 舅と義兄を安易に信じて、罠にかかった一色義有の方が、戦国の習いを失念したと見るべきでしょう。 それはそれとして、こんな卑怯な手を使うようでは、細川と盟約を結ぶ者など、いなくなってしまうでしょうなあ。
一応、話の軸になっている、稲富治介ですが、【特技】と同様、鉄砲の技術は買われていたが、武士としては、裏切り者に過ぎず、人間としては評価されていなかったという見方をされています。 しかし、現代人の感覚で見ると、この稲富治介が、最も、まともな人間に見えます。 忠興や、ガラシャの方が、人間的に優れていたとは、到底、思えません。 この二人、治介の言う通り、まさに、「狂人」ではありませんか。 もっとも、これは、あくまで、小説なので、本当に、忠興・ガラシャが、こういう人間だったかどうかは、分からないのですが。
【私説・日本合戦譚】
1965年(昭和40年)1月から、12月まで、「オール讀物」に連載されたもの。
「長篠合戦」 約21ページ
1575年、徳川方の長篠城を攻めていた、武田勝頼の軍と、救援に来た、徳川・織田連合軍が、長篠の近くの設楽原で戦い、徳川・織田軍の鉄砲隊の前に、武田の騎馬軍が、さんざんに打ちのめされた経緯を解説したもの。
小説では全くなく、軍記物とも違っていて、歴史的事件の解説です。 長篠の合戦は、学校の歴史の授業でも教えるので、大抵の人が、大体の事を知っているはず。 この作品も、概ね、そんな内容です。
ちょっと変わった見方も書いてあって、必ずしも、勝頼が駄目武将だったというわけではなく、父信玄以来の重臣達と意見が合わず、武田軍内部が纏まっていなかったのが、敗因に関係しているとの事。 ただし、鉄砲を中心にした戦い方が、それ以前の、馬、槍、弓、刀の戦い方を圧倒してしまった点については、定説と同じ評価をしています。
資料について、「この資料は、○○だから、信用できない」と言った断じ方をしているパターンが多いですが、自説に都合が悪い事が書いてある資料を排除する時に、「信用できない」というのは、御都合主義ですな。 それを言い出すと、どんな、歴史資料も、信用できなくなってしまうのでは? その事件を直接経験した、複数の人物の記録で、同じ事が書いてあれば、信用できますが、そんなものは、ほとんど存在しないのではないでしょうか。
「姉川の戦」 約19ページ
織田信長が、浅井・朝倉同盟軍と戦って、打撃を与え、両氏を滅ぼすまでを、解説したもの。 1570年の事。
これも、小説ではないです。 歴史的事件の解説。 しかし、講談で語られている、有名な武士の武功物のような部分も、多く見られます。 姉川の戦いで、勝負がつくわけではなく、浅井・朝倉とも、1573年まで、信長と戦い続けます。 その点、タイトルが、「姉川の戦」となっているのは、ちょっと、内容とズレがあります。
浅井・朝倉側の立場で読むと、滅びて行く話ですから、当然、あまり面白くありません。 では、信長側の立場で読めば、面白いかというと、そうでもなくて、つまりその、信長と浅井・朝倉の戦いは、泥沼的でして、スッキリ・ハッキリしていないんですな。 歴史は、こういうダラダラと長引く争いが、一番、退屈です。
「山崎の戦」 約19ページ
1582年、本能寺で信長を討った直後の光秀と、対毛利戦を切り上げて、大急ぎで京都へ戻って来た秀吉が、現在の大阪府と京都府の境付近に位置する山崎でぶつかり、光秀側が敗走した戦いの経緯を解説したもの。
戦国時代の有名な戦いの割には、調略や複雑な作戦が使われず、真っ向から、力と力でぶつかりあって、強い方が勝ったという、大変、シンプルな戦いだったようです。 面白くないなあ。 光秀は、頭は良かったはずですし、戦いの経験も豊富だったはずですが、味方になる武将が出て来ずに、こんな不利な戦いをせざるを得ない状況に、一気に追い込まれてしまったんですな。
私は、信長なんて、人格異常者としか思っていないので、光秀は、よくぞやってくれたと思うのですが、信長に優るとも劣らぬ人格異常者である、秀吉に負けたのは、返す返すも、残念。 命のやり取りで一生を終える戦国武将には、人格が滅茶苦茶な人間の方が多いので、光秀のまともさが、分からなかったのでしょう。 国を治める立場になる人物として相応しいのは、まともな人間と、狂人と、どちらなのか、考えなくても分かりそうなものですが、自分達も頭がおかしいから、分からなかったんですな。
「川中島の戦」 約19ページ
武田信玄と、上杉謙信の間で行なわれた、川中島の戦いの内、最も有名な、1561年の、第4次合戦について、経緯を解説したもの。
信用できる歴史資料には、この戦いの記録がなく、江戸時代に講談のネタ本になった、「甲陽軍鑑」や、「越後軍記」などを元にしているので、結局、講談と同レベルの信用性しかないとの事。 ちなみに、信用できる歴史資料というのは、書状など、実際に使われた文書の事らしいです。
そう言われてみると、戦いの展開が、ちょっと、面白過ぎるでしょうか。 越軍が、甲軍を欺いて、大きく移動し、突然、甲軍本体の前に現れるのですが、実際の戦では、双方で相手の動きを常に監視しているので、こういう事は、滅多に起こりません。 まあ、皆無とは言いませんけど。 戊辰戦争の、長岡城奪還などは、同じ例ですな。
それにしても、書いている本人が、ネタ本を、「信用できない」と、連発しているのは、白けるところです。 だったら、書かなきゃいいのに。 作り話の疑いが強くても、書きたくなるほど、よくできた、軍記物だったんでしょう。
「厳島の戦」 約14ページ
1555年、毛利元就と、陶晴賢が、厳島で交わした戦いの経緯を解説したもの。
この合戦は、一般人には、ほとんど知られていないのでは? 大河ドラマの、≪毛利元就≫には出て来たと思いますが、私、見ていたんですが、忘れてしまいました。 これだけ、大きな合戦なら、記憶に残っていて然るべきなのに。 陶晴賢を陣内孝則さんが演じていたのは、覚えています。
陶方は、狭い島に、大軍を上陸させ過ぎて、被害を増やすのですが、これは、太平洋戦争の硫黄島で、米軍がやらかした失敗に似ていますな。 それにしても、いかに、元就の調略が巧みだったとはいえ、こんな大軍を、厳島に上陸させるほど、まんまと、罠に嵌るとは、些か、嘘臭い感じもしますねえ。
この合戦の眼目は、調略段階でして、実際の戦闘は、一方的で、面白みに欠けます。 戦国の世に、都遊びに現を抜かしていた、大内氏が滅びたのは、致し方ないとは言え、下克上でのしあがった陶氏が、こんなにもろかったとは、何だか、拍子抜けですな。 主君を討つほど、野心があるなら、もっと、実力がありそうなものですが。
「九州征伐」 約16ページ
秀吉が、信長の後を継ぐ立場になってから、薩摩の島津氏が、九州全域を手中に収めようと、北進を続けていた。 大友氏の救援要請を受けて、秀吉が軍を動かし、島津氏を、薩摩まで、押し戻して行く経過を解説したもの。
この戦いも、あまり、知られていないでしょうなあ。 私も知りません。 大河ドラマで取り上げられる事があっても、表面を、さっと撫でる程度の扱いなので、歴史に詳しい人しか、知らないでしょう。 島津氏の撤退が速く、移動距離が大きいせいで、全体に、締りがない印象があります。
島津氏も、九州全域を領しようとするには、タイミングが遅すぎです。 中央に、秀吉のような大きな勢力が出て来てからでは、出る杭が打たれるのは、当然。 大急ぎで、九州を征服しても、占領地の領主は、心から服したわけではないのですから、いつ裏切るか、分かったもんじゃありません。 そんな不安定な状態では、とても、秀吉の大軍とは戦えますまい。 あと、10年早ければ、うまく行ったかも知れませんが。
「島原の役」 約22ページ
1637年から、翌38年にかけて、島原、天草で、領主の暴政に耐えかねたキリシタン領民が、一揆を起こし、それに浪人らが加わって、大勢力になり、島原城下を襲った後、原城に立て籠もった。 幕府は、江戸から、司令役を送り、近隣の大名に出兵させて、城を落とそうとするが、寄せ集めの軍が思うように動かず、信心で結束した籠城側に苦戦する。 その経緯を解説したもの。
戦争自体を褒め称えるつもりはありませんが、この作品は、面白いです。 両者の戦う理由が違う、というか、価値観のレベルからして、大きく異なっていて、幕府側は、元より、相手を人間扱いしていませんが、籠城側も、神の名の下で戦っていると信じているから、武士の誉れも糞もなく、高位の侍も、虫ケラ扱いで、殺しまくって行くところが、実に、本能的です。
それにしても、一揆の原因を作った、松倉氏の、卑怯千万な事よ。 幕府軍に加わっているのですが、幕府派遣の司令役の命令をことごとく無視して、戦おうとしません。 よその藩に戦わせて、勢力を温存していたわけだ。 藩主だけでなく、藩士の末端に至るまで、組織全体が腐れ切っていたのでしょう。
これは、現代社会でも、不祥事ばかり起こす会社があると、一部の社員だけでなく、大部分の社員が腐れ切っているのと、全く同じです。 松倉氏は、後に、改易になり、藩主は打ち首になるですが、島原の乱全体の犠牲者の数を考えると、それでも、罰が足りないくらいです。 こんな大きな罪を、償わせる方法は、この世にありますまい。
「関ヶ原の戦」 約50ページ
1600年に、石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍の間で行われた、天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いについて、その原因から、解説したもの。
面白いです。 大変、分かり易い。 私が今までに、読んだり見たりした、文章や映像作品の中で、事態の推移や、両軍の形勢が、最もすんなり、頭に入って来ました。 西軍の大将は、石田三成ですが、実際に、最も活躍したのは、大谷刑部だったんですなあ。 映画・ドラマでも、必ず、刑部役は出て来ますが、こんなに強かったとは知らなんだ。
石田三成は、丹後にいる細川藤孝を攻める為に、1万5千人も兵を割いていたとの事。 「その数を、関ヶ原に回していたら、全然結果が違っていたろうに」と書いてありますが、全く、その通りだと思います。 馬鹿馬鹿しい。 本隊も大将も、やられてしまったのでは、1万5千人、生き残っても、意味がないです。
「西南戦争」 約35ページ
1887年に起こった、西郷隆盛率いる薩摩軍と、新政府軍が戦った、西南戦争について、解説したもの。
これも、面白い。 大変、分かり易いです。 ちなみに、1887年は、明治10年です。 10年もあれば、新政府の世も、だいぶ、落ち着いてきたと思うのですが、そんな時に、大内戦が起こったわけだ。 ただし、一方は、旧薩摩一藩を中心に、旧他藩の一部が呼応しただけなので、両者の戦力差は、大きいです。
西郷隆盛は、鹿児島県民以外からも、神格化されている傾向がありますが、松本さんは、そういう考え方は、最初から排除していて、「西郷自身は、戦うつもりはなかったが、担がれてやむなく立った」といった見方を、きっぱり、否定しています。 「西郷自身が、もう一度、中央に攻め上ろうという欲望があり、周囲が自分に、それを求めてくるのを待っていたのだ」とあり、私も全く同感だったので、深く頷きました。 予想される死者の数を考えれば、「担がれて、やむなく」程度の事で、立てるわけがありません。
薩摩軍が、大砲も艦船も、もっていなかったというのは、驚き。 小銃と刀だけで、政府軍と戦えると思っていたのだから、いかに、政府軍をナメきっていたかが分かります。 それだけの装備で、激戦を続けたわけですから、薩摩軍が強かったのは、間違いないですが、熊本で一戦するのが目的ではなく、東京まで攻め上ろうとしていたのですから、結果を見れば、大敗だったのも、否定のしようがありません。
西郷のように、何度も修羅場を潜って来た人間が、彼我の戦力差を計算できなかったというのは、奇妙ですな。 もしや、戊辰戦争中、最前線での戦闘指揮を、あまり、経験していなかったのでは? 「薩摩が立てば、全国で、不平士族が反乱を起こす」と期待していたようですが、具体的に、どの集団を当てにしていたというわけではなく、板垣の誘いは断る、江藤が逃げて来れば追い返すと、けんもほろろの扱いをしており、どういうつもりだったのか、さっぱり分かりません。
薩摩軍の切り込み隊に対抗する為に作られた、政府軍の抜刀隊は有名ですが、旧会津藩士が進んで志願したのは、すんなり納得できるものの、旧薩摩藩の元下級藩士が中心だったというのは、意外でした。 薩摩藩では、藩士の間に、身分差別が激しく、新政府で、警察官になっていた薩摩藩の元下級藩士が、軍に加わり、恨み骨髄で、薩摩軍の元上級藩士に切りかかって行ったんですな。 それは、激戦になるでしょうよ。
旧薩摩藩士も、気の毒に。 西郷に決起を促した面々は、自業自得としても、中には、「もう、戦はいい」と思っていた人達もいたでしょうに。 同調圧力で、加わらざるを得ず、それで命を落としたのでは、あまりにも、浮かばれない。 つくづく、戦争は、ノリや、根拠のない楽観的見通しで、始めるものではないです。 巻き込んで、戦死させてしまった仲間に、どう詫びるのだ? 命を何だと思っているのだろう? 大将が腹を切れば、償えるというものではないです。
≪筒井順慶≫
角川文庫
角川書店 1973年9月30日/初版
筒井康隆 著
手持ちの本。 元は、家にあった母の本。 更に元は、製本工場に勤めていた父方の叔父が、実家に帰って来る時に、母への土産に持って来た本。 ちなみに、父は、本を読まない人でした。
私が小学校高学年の頃から、母の本棚にあったので、何度か読もうとしたのですが、当時の私の読書力では歯が立たず、最初に通して読んだのは、大人になってからだと思います。
長編1、中編1、短編2の、計4作を収録。
【筒井順慶】 約138ページ
1968年(昭和43年)9月から、12月まで、「週刊文春」に連載されたもの。
戦国大名、筒井順慶の子孫である若手SF作家が、編集者から、歴史小説を書くように求められ、「洞ヶ峠の日和見」で、先祖に着せられた汚名を払拭すべく、筒井氏の他の子孫や学者に助けられながら、順慶の辿った、茨の足跡を追って行く話。
筒井さんは、この作品で、歴史小説を初めて書いたので、勝手が分からなかったようで、現代のストーリーを軸にして、順慶の事は、解説的に語る形式をとっています。 歴史小説というより、歴史をモチーフにした、現代小説ですな。 歴史解説の部分が、中途半端に硬くて、うまく混ざり合っていないのですが、むしろ、そこが面白いと思います。
歴史解説部分は、諸説併記で、「これが、正しい!」と決めつけるのを避けています。 歴史小説では、普通、そういう事をせず、作者が、どれかの説を選ぶか、自説を立てるかして、それに従って、ストーリーを展開していきます。 そのせいで、単純な読者は、それが定説だと思い込む、複雑な読者は、全く信用しないという、弊害が出て来ますが、諸説併記なら、そうした問題は起こりません。 ただし、何が正しいのか、はっきり書けないわけで、歴史解説部分の躍動感が損なわれているのも、否定できません。
現代のストーリーの方は、アップ・テンポで、スイスイと進みます。 場所の移動も頻繁で、2時間サスペンスにしたら、さぞや、面白いだろうと思うのですが、残念ながら、推理小説ではないです。 編集者二人が、主人公が書いた長編小説の原稿を取り合うのが、光秀と秀吉が、順慶を取り合うのと、重ねられていて、よく考えられています。
そういえば、編集者の一人、「藤田電子」というのは、光秀の家臣、「藤田伝五」のパロディーだったんですな。 ≪麒麟がくる≫を見なければ、分からないまま、一生を終えるところでした。 それにしても、いろいろと、よく考えてあるなあ。 おそらく、私が気づかない仕掛けが、他にもたくさんあるのでは?
この作品、いろんな意味で、面白いです。 また、勉強にもなります。 順慶だけでなく、松永久秀の事も、大変、分かり易く、頭に入って来ます。 1968年当時と、現在では、歴史の研究が進んで、事情が変わっているかも知れませんが、それはまあ、自分で調べて補えばいいでしょう。
ところで、筒井さん自身がモデルと思われる主人公が、順慶の事を、「ご先祖様は、苦労したのだなあ」と言っていますが、順慶には、子がなく、養子が家を継いだのですから、順慶の子孫と称している人達は、順慶の遺伝子を受け継いでいるわけではないんですな。 ただし、養子になったのが、従弟にして甥の定次だったので、筒井一族という意味では、遺伝的に関連があると言えます。
【あらえっさっさ】 約28ページ
1968年(昭和43年)8月、「平凡パンチoh!」に掲載されたもの。 原題は、【巷談人形地獄】。
芸能プロダクション主催の、「芸能記者慰労大会」が開かれ、最初から狂乱状態で、盛り上がりまくっている裏で、その芸能プロに所属する人気歌手の、声担当の女が仕事に来なくなる事態が発生し、企画本部長が、連れ戻しに出張る話。
芸能界というのは、60年代後半で、すでに、こんな感じだったんですな。 もちろん、この作品が、現実そのままではないと承知してはいますが、それにしても、極端化する方法で書いていると思うので、元がどの程度だったのか、おおよそ、想像できようというもの。 芸能界の本質を見抜いていると思いますが、小説としては、さほど、面白くはありません。
【晋金太郎】 約56ページ
1969年(昭和44年)1月、「推理界」に掲載されたもの。
ライフル銃で、高利貸しを射殺して来たという男が、テレビ・ディレクターの家に押し入ってきて、ディレクターと、その母親、その婚約者を人質に立て籠もる。 警察と対峙して、死人も出、マスコミによって、一躍、時の人に祭り上げられるが、やがて・・・、という話。
1968年に、現実に起こった、「金嬉老事件」のパロディー。 ドタバタ喜劇ですが、マスコミにいいように踊らされた人間の悲哀を描くという、しっかりしたテーマもあります。 ドタバタ部分が面白すぎて、テーマの方は、あまり、心に残りませんが。
【新宿祭】 約29ページ
1969年(昭和44年)、「別冊小説現代 新春特別号」に掲載されたもの。
過激な学生運動が、イベント化した未来。 学生、もしくは、偽学生を組織して、各イベントに貸し出す業者が、殺人的に忙しい合間を縫って、新宿騒乱祭りに、櫓席を確保し、母親、婚約者、ホステス、アメリカ大統領などと共に、見物と洒落込むが・・・、という話。
アメリカ大統領が混じっているところが、妙に、凄い。 この人、中南部アフリカ系の女性で、元ジャズ・シンガーという設定。 なんだか、時代を、半世紀以上、先取りしている感があります。 逆に言うと、人種問題や、性差別問題は、半世紀も前からあったけれど、ちっとも解決していないという事ですかね。
学生運動のパロディーは、日本では分かり難くなってしまいましたが、今でも、所によっては、学生運動が行なわれているので、必ずしも、過去の事ではありません。 もっとも、実際に、そういう所に住んでいる人達でも、パロディーは、ピンと来ないかもしれませんねえ。 あまりにも、殺伐としていて。
一番、笑えるのは、ギリシャの大富豪に見初められる、主人公の母親です。 いいのか、こんな結末で・・・。
↑ これは、新装カバーのもの。 改版ではなく、本文も解説も、同じ版です。 奥付けには、「1983年5月30日/22版」とあります。 たった、10年しか開いていないんですが、当時感覚では、筒井作品の角川文庫旧版が、白カバーになったのは、遥かに後だったような気がしていました。
全巻揃え終わらない内に、カバーを変えられてしまったのが、未だに許せぬ。 しかも、こんなテキトーな絵にしてしまって、一体、誰が得をしたというのか。 パッと見、和田誠さんかと思うでしょうが、その実、山藤章二さんでして、本来の画風とは全く違うのが、また許せぬ。
2013年、文庫本蒐集をした時、ブック・オフを巡ったついでに、白カバーのも何冊か買ったのですが、こちらは、全部は揃っていません。 白カバーでだけ出た本もあるのですが、それは、買いました。
↑ これは、新装カバーの方の、中に挟まっていた、広告と、栞。 角川映画全盛期の、≪探偵物語≫と、≪時をかける少女≫。 懐かしい。 涙が出ます。 栞は、原田知世さんモデルの、パイロット・ボールペンの広告が入っていますが、裏面は、やはり、≪探偵物語≫と、≪時をかける少女≫の広告です。
ついでながら、≪時をかける少女≫は、今見ても、傑作だと思いますが、≪探偵物語≫の方は、前宣伝倒れで、今となっては、批評するのも野暮、という感じでしょうか。 薬師丸さんと、松田さんで、どうして、あんなに、つまらなくなってしまったのか、未だに、謎ですな。 ただし、赤川次郎さんの原作は、面白いです。
≪松本清張全集 30 日本の黒い霧≫
松本清張全集 30
文藝春秋 1972年11月20日/初版 2008年8月10日/9版
松本清張 著
沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、ドキュメンタリー集1、全12回と、その補足、4作を収録。
【日本の黒い霧】 約423ページ
1960年(昭和35年)1月から、12月まで、「文藝春秋」に連載されたもの。
取り上げられている項目は、以下の通り。 ( )内は、事件が起こった年です。
・ 下山国鉄総裁謀殺論 (1949年)
・ 「もく星」号遭難事件 (1952年)
・ 二大疑獄事件 (1948年・1954年)
・ 白鳥事件 (1952年)
・ ラストヴォロフ事件 (1954年)
・ 革命を売る男・伊藤律 (1955年)
・ 征服者とダイヤモンド (1945年)
・ 帝銀事件の謎 (1948年)
・ 鹿地亘事件 (1951年)
・ 推理・松川事件 (1949年)
・ 追放とレッド・パージ (1950年)
・ 謀略朝鮮戦争 (1950~1953年)
全て、米軍による占領期間中か、発端が、占領期間中に起こった事件・歴史事象です。 占領期間中には、他にも、様々な事件があったわけですが、GHQと、その下部機関が関わっているものだけ、取り上げているわけで、当然の事ながら、すべて、「米軍関係者が、背後にいた」という結論になっています。
もう、硬い硬い。 小説じゃないんだから、当たり前とはいえ、こういう作品が、発表当時、人気を博したというのが、信じられぬ。 1960年頃の読書人が、そんなに、謀略ドキュメンタリー好きだったとは、思えないのですが。 私は、とても、読み切れないと思い、ざくざく、飛ばし読みしました。 たとえ、貸し出し期間を延長し、じっくり、全ての文字を読んだとしても、ほとんど、頭に残らないでしょう。
各事件が起こった時から、60年以上も経ってしまい、もはや、これらの事件を、同時代感覚で振り返る事ができる人は、ごく僅かでしょう。 今現在、60歳以下の人は、琴線にかすりもしないと思うので、「うっ、こういう内容だったのか・・・」と感じた時点で、そこから後は、飛ばし読みにした方がいいと思います。 律儀に読んでも、時間の無駄です。
【幻の「謀略機関」を探る】 約18ページ
1969年(昭和44年)9月19日、「週刊朝日」。
【松川事件判決の瞬間】 約9ページ
1961年(昭和36年)8月21日、「週刊公論」。
【「白鳥事件」裁判の謎】 約30ページ
1964年(昭和39年)1月、「中央公論」。
【「もく星」号事件の補筆】 約38ページ
1972年(昭和47年)2月、「赤旗」連載、【風の息】の冒頭部分。
これら4作も、内容の性質は、【日本の黒い霧】と、全く同じです。 全部、飛ばし読みしました。
総合的な感想になりますが、米軍の謀略と言っても、個々の事件に於いては、死者数が少ないので、今から見返すと、そんなに大ごとという感じはしませんねえ。 朝鮮戦争と遠い関係があったようにも書かれていますが、死者数から見ると、戦争と並べて語れるような規模では、全くありません。
≪松本清張全集 51 眩人・文豪≫
松本清張全集 51
文藝春秋 1984年2月25日/初版 2008年10月25日/4版
松本清張 著
沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、長編1、中編2、短編2、計4作を収録。
【眩人】 約246ページ
1977年(昭和52年)2月から、1980年9月まで、「中央公論」に連載されたもの。
奈良時代、遣唐使として、唐に長期逗留していた留学僧が、帰国するにあたり、先祖がペルシャ人の少年を連れ帰る。 奇術に長け、医薬の知識がある少年が、10年間、日本の朝廷を観察する話。
唐の場面から始まりますが、松本さんが書きたかったのは、唐に入っていた西域の文化、特に、ペルシャのそれでして、唐の文化が描かれているわけではありません。 【火の路】(1973年)でも、古代日本に入ったペルシャ文化がテーマになっていましたが、それを、地理的に、もう少し遡ったわけですな。 もっとも、【火の路】は、現代物だったので、だいぶ、趣きは異なりますが。
決して、つまらないわけではなく、外国人の目から見た古代日本という、着想が変わっていて、奈良時代に、少しでも興味がある人なら、楽しめると思います。 その上、ペルシャ文化も好きという人なら、尚の事。 しかし、些か、学術的過ぎて、硬い。 また、学者にも、同意見の人がいるとはいえ、あくまでも、松本さんの自説が元になっているので、どこまで、そのまま受け入れていいか、悩むところはあります。
【文豪】
「行者神髄」 約100ページ
1973年(昭和48年)3月から、1974年3月まで、「別冊文藝春秋123号~127号」に連載されたもの。
坪内逍遥について書こうと思っている作家が、資料を集めに行った熱海で、逍遥に詳しい人物に、たまたま出会い、問題人物だった妻の事を始め、知られざる逍遥像に触れる話。
一応、小説仕立てになっていますが、これは、論文ですな。 小説として、普通に読むのは、かなり、無理があります。 特に、後半は、ひどい。 硬い、というより、全く興味が湧かない事柄を、延々と説明されている感じ。 ちょっとした、拷問ですな。
それにしても、坪内逍遥が、文豪ねえ・・・。 漱石や、鴎外なら、すんなり、頷けるんですがねえ。 もはや、過去も過去、遥かな過去の人物としか思えませんな。 明治の作家を、あまり買い被らない方がいいと思います。 名前は知れていても、それは、国語の文学史などで、習うからであって、もはや、ほとんど、読者をもっていますまい。 作品が読まれないのでは、作家とは言えません。
「葉花星宿」 約21ページ
1972年(昭和47年)6月、「別冊文藝春秋120号」に掲載されたもの。
晩年の尾崎紅葉と、その一番弟子、泉鏡花の関わりを例に、師弟関係の複雑さを論じたもの。 小説ではなく、論文です。 文学関係ではあるけれど、文学論ではなく、人間関係について、考察した内容。
最初、飛ばし読みして、何が何だか、さっぱり分からず、ページ数が少なかったのを幸い、今度は、一文字ずつ、全行に目を通したら、面白い内容でした。 読み返して、まるっきり、印象が違うのは、珍しい事です。 念の為、熟読しておいて、良かった。
尾崎紅葉が没したのは、明治36年で、1903年なのですが、その頃まで、作家は、徒弟制度でやっていたとの事。 つまりその、有名な作家は、作家志望の書生を養っていたわけですな。 で、師弟関係が発生するわけですが、これが、現代の感覚からすると、理解できないくらい、奇妙奇天烈。
紅葉自身も、正妻の他に、妾をもっていたくせに、弟子の鏡花が、結婚するつもりで、芸者を引かせた事に激怒して、折檻したというのだから、呆れます。 その大きな理由が、自分が癌になり、余命幾許もないと分かって、幸せいっぱいの若い弟子夫婦に嫉妬したから、となると、人間の醜さも、ここに極まりますな。 鏡花夫婦も鏡花夫婦で、強かに、面従腹背するのですが、そちらの方は、まだ、常識的に理解できます。
とはいえ、紅葉も、鏡花も、今となっては、名のみ残った感が強いですねえ。 文学志望の学生というのは、今でもいると思いますが、明治の作家の作品なんて、読むのだろうか? その様子を想像できぬ。 明治どころか、昭和の作家の作品すら、読まないのでは?
「正太夫の舌」 約50ページ
1972年(昭和47年)9月、「別冊文藝春秋120号」に掲載されたもの。
斎藤緑雨について、評伝を書くように頼まれた作家が、資料を集めながら、緑雨について語る話。
一応、一人称の小説仕立てですが、その体裁には、ほとんど、意味がありません。 普通に、伝記として書いても、大きな違いはなかったと思います。 ちなみに、結構、面白いのですが、緑雨が面白いというより、文芸批評に対する作者の考え方が細かく書かれているところが、面白いです。
斎藤緑雨の名前は聞いた事がありましたが、専ら、批評家で、小説の方は、数えるほどしか書いていないとの事。 1904年(明治37年)没ですから、明治の前半の後期頃に名を売ったわけですが、当時、日本には、文芸批評が確立しておらず、草分けになった人物らしいです。 才気があり、感性も鋭かったものの、批評対象を揶揄するような軽薄な文体を好んだせいで、作家たちからは、疎まれていたのだとか。
現代の批評家と通じるところが多く、そこへ、松本さんが食いついたわけですな。 批評家以外にも、いろいろと、文壇内部の事情が書かれていますが、いずれも、面白いです。 「正太夫」というのは、緑雨の別名。 明治は遠くなったけれど、小説家よりは、批評家の方が、まだ、現代性が感じられるというわけだ。 といって、緑雨の作品を読もうという気にはなりませんが。
以上、四冊です。 読んだ期間は、今年、つまり、2021年の、
≪松本清張全集 26 火の縄/小説日本芸譚/私説・日本合戦譚≫が、7月1日から、11日。
≪筒井順慶≫が、7月8日から、13日まで。
≪松本清張全集 30 日本の黒い霧≫が、7月15日から、21日まで。
≪松本清張全集 51 眩人・文豪≫が、7月26日から、8月2日まで。
≪松本清張全集 26≫と、≪筒井順慶≫の日付が重なっているのは、昼間、全集を読んで、夜眠る前に、≪筒井順慶≫を読んでいたからです。 図書館で借りた本を、眠る前に、横になって読んでいると、ページの間から、ゴミが落ちてくる事があるので、極力、昼間に、座った姿勢で読むようにしています。
≪松本清張全集≫の感想も、終わりが近づいて来ました。 今現在、すでに、読み終わっていますが、一年以上、同全集ばかり読んでいたので、次に何を読んでいいか、うまく決められない日々が続いています。
≪松本清張全集 26 火の縄/小説日本芸譚/私説・日本合戦譚≫
松本清張全集 26
文藝春秋 1973年3月20日/初版 2008年7月25日/8版
松本清張 著
沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、短編集2編(小説日本芸譚、10作)(私説・日本合戦譚、9作)、長編1作の、計20作を収録。 またまた、感想が長くなりそうですな。
【小説日本芸譚】
1957年(昭和32年)1月から、12月まで、「芸術新潮」に連載されたもの。
「運慶」 約13ページ
京都仏師に比べて、評価が低かった奈良仏師の家系に生まれた運慶。 源氏の世になり、平家に焼かれた奈良寺院復興の流れに乗って、伝統の殻を打ち破った運慶の作品が、華々しく世に出る。 晩年になり、一門は繁栄していたが、父の弟子である快慶らが、運慶とは別の流行を作ろうとしているのが、気にかかっていた。
この長さですから、伝記としては、キッチキチですが、テーマも盛り込んであって、ちゃんと、小説になっています。 松本さんは、こういう、歴上の人物の一生を、掻い摘んで説明したような作品が多いんですねえ。 学生に読ませれば、ただ、教科書で説明文を読むよりも、遥かに、記憶に残り易いと思いますが、そうなると、小説的なテーマが邪魔になるかも知れませんな。
「世阿弥」 約13ページ
足利義満に庇護されて、一世を風靡した、神楽の世阿弥。 義満の死によって、主流から遠ざけられ、その息子までも、排斥されて、早世してしまう。 世阿弥の失意に追い討ちをかけるように、晩年になって、地方へ流されて行く話。
世阿弥という人、輝いていたのは、ほんの一時期に過ぎなかったんですな。 なぜ、史上最も有名な能楽師になったのかというと、≪花伝書≫など、多くの著作を遺したからのようです。 無形文化財の世界では、書いたものを遺さないと、どんなに素晴らしい芸術家でも、時代が変わって、その芸を目にした人達が死んでしまうと、どんどん、忘れられて行ってしまうんですな。
「千利休」 約12ページ
茶の湯の師匠として、信長に仕えた後、全く同じ待遇で、秀吉に仕える事になった、千利休。 しかし、秀吉が茶の湯に求めているものが、信長とは違っており、利休の理想とは乖離が大きかった。 利休と秀吉の間に、緊張感が盛り上がって行く話。
歴史に興味がある人の間では、ほぼ常識になっているように、利休は、秀吉の命で、死ぬ事になるわけですが、利休の木像を、寺の門の二階に置いて、その下を秀吉に通らせたから、などというのは、難癖に過ぎず、信長が死んだ直後から、利休と秀吉の静かな戦いは、続いていたわけですな。
利休が死に至る経緯は、映画やドラマで、何度も見ているのですが、この短編の方が、遥かにすんなりと頭に入って来ます。 余計な事が書かれていないからでしょうか。
「雪舟」 約11ページ
出家した雪舟は、画僧の道を選び、不器用ながらも、師匠について研鑽を積み、宋画の模倣を目的としている師匠や兄弟子には、真似ができない新境地を開く。 中年になって、大内氏の庇護下で、明へ渡るが・・・、という話。
雪舟というと、名前は超有名ですが、作品は、美術の教科書で、1・2枚見た程度で、それ以外は、子供の頃、お仕置きを受けて、縛られている時に、涙と足の指で、鼠の絵を描いたというエピソードしか知りません。 この作品を読んで、多少、知識は増えましたが、それでも、まだ、遥かに遠い人という感じです。
「古田織部」 約12ページ
千利休の後を継ぐ形になった、大名茶人、古田織部。 利休の存在の重さから逃れる為に、利休が決めた作法を、ことごとく変更して行く。 それは、秀吉の好みにも叶うはずだったが・・・、という話。
古田織部の伝記は、千利休に比べると、知名度が低いので、勉強になりました。 戦国大名でもあり、戦もやっていたんですなあ。 しかし、結局、こういう文化人として評価されていた人は、その方面が優れていればいるほど、秀吉のように、文化を権威の飾りとしか考えていない主君とは、相容れないんですな。
「岩佐又兵衛」 約10ページ
戦国大名の子として生まれたが、父親が没落したせいで、不遇な生活を強いられた、岩佐又兵衛。 絵師になったものの、それだけでは食べていけず、妻子を抱えて、苦しい生活をしていた。 中年以降になって、京都を離れ、地方へ移り住むが、そこで、絵師として高く評価されて・・・、という話。
岩佐又兵衛というと、浮世絵の先駆者として記憶していますが、この作品では、その件について、何も書かれていません。 特に決まった流派につかなかったお陰で、新しい表現を作り出す事ができたとあります。 なるほど、そういうものなのでしょう。
それ以外には、別に、感じるところ、なし。 あとがきにもありますが、岩佐又兵衛の資料そのものが、少ないんじゃないでしょうか。 資料が足りないのでは、想像で補うしかありませんが、あまり、そちらに励んでしまうと、歴史小説として、破格になってしまうので、この程度の書き方しかできないのでしょう。
「小堀遠州」 約10ページ
千利休、古田織部亡き後、数寄者の第一人者となった、小堀遠州。 武将でもあったが、家康から、武将としては、ほとんど、役目を与えられず、茶の湯や庭作りの時だけ、評価されていた。 戦の後の論功行賞では無視され、一石も加増されないまま、生涯を終えて行く話。
この人は、千利休、古田織部と違い、殺されなかったんですな。 うまく乗り切ったというより、時代が変わって、支配階級の、文化人に対する見方が変わったのでしょう。 文化人が増えて、一人当たりの重要性が落ちたから、殺す必要がなくなったのかもしれません。 加増されない事を嘆くなど、贅沢というもので、殺されるよりは、一億倍、幸せです。 大抵、本人が殺されれば、一族も根絶やしで、もっていた所領も没収ですから。
「光悦」 約13ページ
本阿弥光悦の工房で働いていた、刀の鍔師が、光悦の人柄の問題点を、あげつらう話。
書も、蒔絵も、焼き物も、茶の湯も、なんでも、器用にやってのける人だったらしいですが、他人より優れていたのは、書だけで、他は、二流レベルに過ぎなかったとの事。 ただ、この辛辣な批評が、創作された語り手の考えなのか、松本さんの考えなのか、そこのところは、分かりません。
伝記というのは、本来、その人物の、人並より優れたところを誉めるのが、普通ですが、この作品は、伝記というより、小説でして、創作度が、どの程度なのか判別がつかず、鵜呑みにするのが、大いにためらわれます。 最初に、この作品で光悦を知ったら、こういう人だったと思ってしまうでしょうねえ。
「写楽」 約11ページ
大首絵で売り出した、写楽。 世間の評判は悪く、特に、役者絵の最大の購買層である、女子供の受けが悪かった。 写楽にしてみれば、それでさえ、版元の要求に妥協したものだったが、評判が悪いと、更なる妥協を求められるのは必至で、鬱々として、愉しまない話。
写楽というと、映画でしか知りませんが、まあ、大体、似たような評価なんですな。 写楽の大首絵は、特徴を強調していて、インパクトが強烈ですが、役者のファンは、ああいう絵を買って、自分の部屋に置こうとは、望まなかったわけだ。 それも、分かるような気がします。
「止利仏師」 約9ページ
日本で最初に仏像を作った、止利仏師(とりぶっし)について書こうと思っている作家。 ところが、止利仏師がどういう人だったのか、資料を調べても、さっぱり、人物像が結べない。 調べて行く内に、当時、どんな人達が仏師になっていたかが分かり、止利仏師の正体が掴めなかったのも無理はないと、納得する話。
なるほど、そういうものかなあ、と、読んでいる方も納得します。 特定の人物ではない。 というか、名前は特定の人物であっても、実際に仏像を造っていたのは、工房全体であり、止利仏師は、その代表者に過ぎなかったのであれば、代表者の為人なんか、資料に残るはずがありませんわなあ。
この作家ですが、モデルは、明らかに、松本さん自身です。 あとがきによると、この【小説日本芸譚】シリーズを書くのに、芸術家達の為人が掴めずに、四苦八苦したらしいですが、最終作で、自分の経験を、そのまま書いたのだと思います。 資料が少ないのに、伝記に近い小説を書くのには、無理がありますなあ。
【火の縄】 約162ページ
1959年(昭和34年)5月17日号から、12月27日号まで、「週刊現代」に連載されたもの。 原題は、【雲を呼ぶ】。
丹後の一色家に仕えていた、稲富治介という鉄砲の名手を軸に、「一色義有」、「細川藤孝」、「その息子の忠興」、「一色義有に嫁いだ藤孝の娘、伊予」、「光秀の娘で、忠興の妻である、玉(ガラシャ)」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」らの生き様を描いた話。
鉄砲の名手、稲富某は、実在の人物ですが、名前は、変えてあるようです。 それ以外にも、歴史上の有名人を除き、名前は、かなり、変わっている様子。 わざと変えたのか、この作品が書かれた頃には、そういう名前だと思われていたのか、分かりません。 この鉄砲の名手は、【特技】(1955年)の主人公と、同じ人物。 松本さんは、よほど、この人物が気に入ったのか、短編では書き足りなくて、長編で書き直したんでしょうな。
全体を見れば、戦国物の歴史小説で、軍記物の類いです。 一番、手に汗握るのは、細川藤孝・忠興親子が、一色義有を騙し討ちにし、残った一色の家臣を、ほぼ一掃する過程の描写です。 細川側が、あまりにも汚い手を使うので、思わず、激怒してしまいますが、冷静になって考えてみると、戦国武将は、命のやり取りで、生きているのであって、汚い方が当たり前。 舅と義兄を安易に信じて、罠にかかった一色義有の方が、戦国の習いを失念したと見るべきでしょう。 それはそれとして、こんな卑怯な手を使うようでは、細川と盟約を結ぶ者など、いなくなってしまうでしょうなあ。
一応、話の軸になっている、稲富治介ですが、【特技】と同様、鉄砲の技術は買われていたが、武士としては、裏切り者に過ぎず、人間としては評価されていなかったという見方をされています。 しかし、現代人の感覚で見ると、この稲富治介が、最も、まともな人間に見えます。 忠興や、ガラシャの方が、人間的に優れていたとは、到底、思えません。 この二人、治介の言う通り、まさに、「狂人」ではありませんか。 もっとも、これは、あくまで、小説なので、本当に、忠興・ガラシャが、こういう人間だったかどうかは、分からないのですが。
【私説・日本合戦譚】
1965年(昭和40年)1月から、12月まで、「オール讀物」に連載されたもの。
「長篠合戦」 約21ページ
1575年、徳川方の長篠城を攻めていた、武田勝頼の軍と、救援に来た、徳川・織田連合軍が、長篠の近くの設楽原で戦い、徳川・織田軍の鉄砲隊の前に、武田の騎馬軍が、さんざんに打ちのめされた経緯を解説したもの。
小説では全くなく、軍記物とも違っていて、歴史的事件の解説です。 長篠の合戦は、学校の歴史の授業でも教えるので、大抵の人が、大体の事を知っているはず。 この作品も、概ね、そんな内容です。
ちょっと変わった見方も書いてあって、必ずしも、勝頼が駄目武将だったというわけではなく、父信玄以来の重臣達と意見が合わず、武田軍内部が纏まっていなかったのが、敗因に関係しているとの事。 ただし、鉄砲を中心にした戦い方が、それ以前の、馬、槍、弓、刀の戦い方を圧倒してしまった点については、定説と同じ評価をしています。
資料について、「この資料は、○○だから、信用できない」と言った断じ方をしているパターンが多いですが、自説に都合が悪い事が書いてある資料を排除する時に、「信用できない」というのは、御都合主義ですな。 それを言い出すと、どんな、歴史資料も、信用できなくなってしまうのでは? その事件を直接経験した、複数の人物の記録で、同じ事が書いてあれば、信用できますが、そんなものは、ほとんど存在しないのではないでしょうか。
「姉川の戦」 約19ページ
織田信長が、浅井・朝倉同盟軍と戦って、打撃を与え、両氏を滅ぼすまでを、解説したもの。 1570年の事。
これも、小説ではないです。 歴史的事件の解説。 しかし、講談で語られている、有名な武士の武功物のような部分も、多く見られます。 姉川の戦いで、勝負がつくわけではなく、浅井・朝倉とも、1573年まで、信長と戦い続けます。 その点、タイトルが、「姉川の戦」となっているのは、ちょっと、内容とズレがあります。
浅井・朝倉側の立場で読むと、滅びて行く話ですから、当然、あまり面白くありません。 では、信長側の立場で読めば、面白いかというと、そうでもなくて、つまりその、信長と浅井・朝倉の戦いは、泥沼的でして、スッキリ・ハッキリしていないんですな。 歴史は、こういうダラダラと長引く争いが、一番、退屈です。
「山崎の戦」 約19ページ
1582年、本能寺で信長を討った直後の光秀と、対毛利戦を切り上げて、大急ぎで京都へ戻って来た秀吉が、現在の大阪府と京都府の境付近に位置する山崎でぶつかり、光秀側が敗走した戦いの経緯を解説したもの。
戦国時代の有名な戦いの割には、調略や複雑な作戦が使われず、真っ向から、力と力でぶつかりあって、強い方が勝ったという、大変、シンプルな戦いだったようです。 面白くないなあ。 光秀は、頭は良かったはずですし、戦いの経験も豊富だったはずですが、味方になる武将が出て来ずに、こんな不利な戦いをせざるを得ない状況に、一気に追い込まれてしまったんですな。
私は、信長なんて、人格異常者としか思っていないので、光秀は、よくぞやってくれたと思うのですが、信長に優るとも劣らぬ人格異常者である、秀吉に負けたのは、返す返すも、残念。 命のやり取りで一生を終える戦国武将には、人格が滅茶苦茶な人間の方が多いので、光秀のまともさが、分からなかったのでしょう。 国を治める立場になる人物として相応しいのは、まともな人間と、狂人と、どちらなのか、考えなくても分かりそうなものですが、自分達も頭がおかしいから、分からなかったんですな。
「川中島の戦」 約19ページ
武田信玄と、上杉謙信の間で行なわれた、川中島の戦いの内、最も有名な、1561年の、第4次合戦について、経緯を解説したもの。
信用できる歴史資料には、この戦いの記録がなく、江戸時代に講談のネタ本になった、「甲陽軍鑑」や、「越後軍記」などを元にしているので、結局、講談と同レベルの信用性しかないとの事。 ちなみに、信用できる歴史資料というのは、書状など、実際に使われた文書の事らしいです。
そう言われてみると、戦いの展開が、ちょっと、面白過ぎるでしょうか。 越軍が、甲軍を欺いて、大きく移動し、突然、甲軍本体の前に現れるのですが、実際の戦では、双方で相手の動きを常に監視しているので、こういう事は、滅多に起こりません。 まあ、皆無とは言いませんけど。 戊辰戦争の、長岡城奪還などは、同じ例ですな。
それにしても、書いている本人が、ネタ本を、「信用できない」と、連発しているのは、白けるところです。 だったら、書かなきゃいいのに。 作り話の疑いが強くても、書きたくなるほど、よくできた、軍記物だったんでしょう。
「厳島の戦」 約14ページ
1555年、毛利元就と、陶晴賢が、厳島で交わした戦いの経緯を解説したもの。
この合戦は、一般人には、ほとんど知られていないのでは? 大河ドラマの、≪毛利元就≫には出て来たと思いますが、私、見ていたんですが、忘れてしまいました。 これだけ、大きな合戦なら、記憶に残っていて然るべきなのに。 陶晴賢を陣内孝則さんが演じていたのは、覚えています。
陶方は、狭い島に、大軍を上陸させ過ぎて、被害を増やすのですが、これは、太平洋戦争の硫黄島で、米軍がやらかした失敗に似ていますな。 それにしても、いかに、元就の調略が巧みだったとはいえ、こんな大軍を、厳島に上陸させるほど、まんまと、罠に嵌るとは、些か、嘘臭い感じもしますねえ。
この合戦の眼目は、調略段階でして、実際の戦闘は、一方的で、面白みに欠けます。 戦国の世に、都遊びに現を抜かしていた、大内氏が滅びたのは、致し方ないとは言え、下克上でのしあがった陶氏が、こんなにもろかったとは、何だか、拍子抜けですな。 主君を討つほど、野心があるなら、もっと、実力がありそうなものですが。
「九州征伐」 約16ページ
秀吉が、信長の後を継ぐ立場になってから、薩摩の島津氏が、九州全域を手中に収めようと、北進を続けていた。 大友氏の救援要請を受けて、秀吉が軍を動かし、島津氏を、薩摩まで、押し戻して行く経過を解説したもの。
この戦いも、あまり、知られていないでしょうなあ。 私も知りません。 大河ドラマで取り上げられる事があっても、表面を、さっと撫でる程度の扱いなので、歴史に詳しい人しか、知らないでしょう。 島津氏の撤退が速く、移動距離が大きいせいで、全体に、締りがない印象があります。
島津氏も、九州全域を領しようとするには、タイミングが遅すぎです。 中央に、秀吉のような大きな勢力が出て来てからでは、出る杭が打たれるのは、当然。 大急ぎで、九州を征服しても、占領地の領主は、心から服したわけではないのですから、いつ裏切るか、分かったもんじゃありません。 そんな不安定な状態では、とても、秀吉の大軍とは戦えますまい。 あと、10年早ければ、うまく行ったかも知れませんが。
「島原の役」 約22ページ
1637年から、翌38年にかけて、島原、天草で、領主の暴政に耐えかねたキリシタン領民が、一揆を起こし、それに浪人らが加わって、大勢力になり、島原城下を襲った後、原城に立て籠もった。 幕府は、江戸から、司令役を送り、近隣の大名に出兵させて、城を落とそうとするが、寄せ集めの軍が思うように動かず、信心で結束した籠城側に苦戦する。 その経緯を解説したもの。
戦争自体を褒め称えるつもりはありませんが、この作品は、面白いです。 両者の戦う理由が違う、というか、価値観のレベルからして、大きく異なっていて、幕府側は、元より、相手を人間扱いしていませんが、籠城側も、神の名の下で戦っていると信じているから、武士の誉れも糞もなく、高位の侍も、虫ケラ扱いで、殺しまくって行くところが、実に、本能的です。
それにしても、一揆の原因を作った、松倉氏の、卑怯千万な事よ。 幕府軍に加わっているのですが、幕府派遣の司令役の命令をことごとく無視して、戦おうとしません。 よその藩に戦わせて、勢力を温存していたわけだ。 藩主だけでなく、藩士の末端に至るまで、組織全体が腐れ切っていたのでしょう。
これは、現代社会でも、不祥事ばかり起こす会社があると、一部の社員だけでなく、大部分の社員が腐れ切っているのと、全く同じです。 松倉氏は、後に、改易になり、藩主は打ち首になるですが、島原の乱全体の犠牲者の数を考えると、それでも、罰が足りないくらいです。 こんな大きな罪を、償わせる方法は、この世にありますまい。
「関ヶ原の戦」 約50ページ
1600年に、石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍の間で行われた、天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いについて、その原因から、解説したもの。
面白いです。 大変、分かり易い。 私が今までに、読んだり見たりした、文章や映像作品の中で、事態の推移や、両軍の形勢が、最もすんなり、頭に入って来ました。 西軍の大将は、石田三成ですが、実際に、最も活躍したのは、大谷刑部だったんですなあ。 映画・ドラマでも、必ず、刑部役は出て来ますが、こんなに強かったとは知らなんだ。
石田三成は、丹後にいる細川藤孝を攻める為に、1万5千人も兵を割いていたとの事。 「その数を、関ヶ原に回していたら、全然結果が違っていたろうに」と書いてありますが、全く、その通りだと思います。 馬鹿馬鹿しい。 本隊も大将も、やられてしまったのでは、1万5千人、生き残っても、意味がないです。
「西南戦争」 約35ページ
1887年に起こった、西郷隆盛率いる薩摩軍と、新政府軍が戦った、西南戦争について、解説したもの。
これも、面白い。 大変、分かり易いです。 ちなみに、1887年は、明治10年です。 10年もあれば、新政府の世も、だいぶ、落ち着いてきたと思うのですが、そんな時に、大内戦が起こったわけだ。 ただし、一方は、旧薩摩一藩を中心に、旧他藩の一部が呼応しただけなので、両者の戦力差は、大きいです。
西郷隆盛は、鹿児島県民以外からも、神格化されている傾向がありますが、松本さんは、そういう考え方は、最初から排除していて、「西郷自身は、戦うつもりはなかったが、担がれてやむなく立った」といった見方を、きっぱり、否定しています。 「西郷自身が、もう一度、中央に攻め上ろうという欲望があり、周囲が自分に、それを求めてくるのを待っていたのだ」とあり、私も全く同感だったので、深く頷きました。 予想される死者の数を考えれば、「担がれて、やむなく」程度の事で、立てるわけがありません。
薩摩軍が、大砲も艦船も、もっていなかったというのは、驚き。 小銃と刀だけで、政府軍と戦えると思っていたのだから、いかに、政府軍をナメきっていたかが分かります。 それだけの装備で、激戦を続けたわけですから、薩摩軍が強かったのは、間違いないですが、熊本で一戦するのが目的ではなく、東京まで攻め上ろうとしていたのですから、結果を見れば、大敗だったのも、否定のしようがありません。
西郷のように、何度も修羅場を潜って来た人間が、彼我の戦力差を計算できなかったというのは、奇妙ですな。 もしや、戊辰戦争中、最前線での戦闘指揮を、あまり、経験していなかったのでは? 「薩摩が立てば、全国で、不平士族が反乱を起こす」と期待していたようですが、具体的に、どの集団を当てにしていたというわけではなく、板垣の誘いは断る、江藤が逃げて来れば追い返すと、けんもほろろの扱いをしており、どういうつもりだったのか、さっぱり分かりません。
薩摩軍の切り込み隊に対抗する為に作られた、政府軍の抜刀隊は有名ですが、旧会津藩士が進んで志願したのは、すんなり納得できるものの、旧薩摩藩の元下級藩士が中心だったというのは、意外でした。 薩摩藩では、藩士の間に、身分差別が激しく、新政府で、警察官になっていた薩摩藩の元下級藩士が、軍に加わり、恨み骨髄で、薩摩軍の元上級藩士に切りかかって行ったんですな。 それは、激戦になるでしょうよ。
旧薩摩藩士も、気の毒に。 西郷に決起を促した面々は、自業自得としても、中には、「もう、戦はいい」と思っていた人達もいたでしょうに。 同調圧力で、加わらざるを得ず、それで命を落としたのでは、あまりにも、浮かばれない。 つくづく、戦争は、ノリや、根拠のない楽観的見通しで、始めるものではないです。 巻き込んで、戦死させてしまった仲間に、どう詫びるのだ? 命を何だと思っているのだろう? 大将が腹を切れば、償えるというものではないです。
≪筒井順慶≫
角川文庫
角川書店 1973年9月30日/初版
筒井康隆 著
手持ちの本。 元は、家にあった母の本。 更に元は、製本工場に勤めていた父方の叔父が、実家に帰って来る時に、母への土産に持って来た本。 ちなみに、父は、本を読まない人でした。
私が小学校高学年の頃から、母の本棚にあったので、何度か読もうとしたのですが、当時の私の読書力では歯が立たず、最初に通して読んだのは、大人になってからだと思います。
長編1、中編1、短編2の、計4作を収録。
【筒井順慶】 約138ページ
1968年(昭和43年)9月から、12月まで、「週刊文春」に連載されたもの。
戦国大名、筒井順慶の子孫である若手SF作家が、編集者から、歴史小説を書くように求められ、「洞ヶ峠の日和見」で、先祖に着せられた汚名を払拭すべく、筒井氏の他の子孫や学者に助けられながら、順慶の辿った、茨の足跡を追って行く話。
筒井さんは、この作品で、歴史小説を初めて書いたので、勝手が分からなかったようで、現代のストーリーを軸にして、順慶の事は、解説的に語る形式をとっています。 歴史小説というより、歴史をモチーフにした、現代小説ですな。 歴史解説の部分が、中途半端に硬くて、うまく混ざり合っていないのですが、むしろ、そこが面白いと思います。
歴史解説部分は、諸説併記で、「これが、正しい!」と決めつけるのを避けています。 歴史小説では、普通、そういう事をせず、作者が、どれかの説を選ぶか、自説を立てるかして、それに従って、ストーリーを展開していきます。 そのせいで、単純な読者は、それが定説だと思い込む、複雑な読者は、全く信用しないという、弊害が出て来ますが、諸説併記なら、そうした問題は起こりません。 ただし、何が正しいのか、はっきり書けないわけで、歴史解説部分の躍動感が損なわれているのも、否定できません。
現代のストーリーの方は、アップ・テンポで、スイスイと進みます。 場所の移動も頻繁で、2時間サスペンスにしたら、さぞや、面白いだろうと思うのですが、残念ながら、推理小説ではないです。 編集者二人が、主人公が書いた長編小説の原稿を取り合うのが、光秀と秀吉が、順慶を取り合うのと、重ねられていて、よく考えられています。
そういえば、編集者の一人、「藤田電子」というのは、光秀の家臣、「藤田伝五」のパロディーだったんですな。 ≪麒麟がくる≫を見なければ、分からないまま、一生を終えるところでした。 それにしても、いろいろと、よく考えてあるなあ。 おそらく、私が気づかない仕掛けが、他にもたくさんあるのでは?
この作品、いろんな意味で、面白いです。 また、勉強にもなります。 順慶だけでなく、松永久秀の事も、大変、分かり易く、頭に入って来ます。 1968年当時と、現在では、歴史の研究が進んで、事情が変わっているかも知れませんが、それはまあ、自分で調べて補えばいいでしょう。
ところで、筒井さん自身がモデルと思われる主人公が、順慶の事を、「ご先祖様は、苦労したのだなあ」と言っていますが、順慶には、子がなく、養子が家を継いだのですから、順慶の子孫と称している人達は、順慶の遺伝子を受け継いでいるわけではないんですな。 ただし、養子になったのが、従弟にして甥の定次だったので、筒井一族という意味では、遺伝的に関連があると言えます。
【あらえっさっさ】 約28ページ
1968年(昭和43年)8月、「平凡パンチoh!」に掲載されたもの。 原題は、【巷談人形地獄】。
芸能プロダクション主催の、「芸能記者慰労大会」が開かれ、最初から狂乱状態で、盛り上がりまくっている裏で、その芸能プロに所属する人気歌手の、声担当の女が仕事に来なくなる事態が発生し、企画本部長が、連れ戻しに出張る話。
芸能界というのは、60年代後半で、すでに、こんな感じだったんですな。 もちろん、この作品が、現実そのままではないと承知してはいますが、それにしても、極端化する方法で書いていると思うので、元がどの程度だったのか、おおよそ、想像できようというもの。 芸能界の本質を見抜いていると思いますが、小説としては、さほど、面白くはありません。
【晋金太郎】 約56ページ
1969年(昭和44年)1月、「推理界」に掲載されたもの。
ライフル銃で、高利貸しを射殺して来たという男が、テレビ・ディレクターの家に押し入ってきて、ディレクターと、その母親、その婚約者を人質に立て籠もる。 警察と対峙して、死人も出、マスコミによって、一躍、時の人に祭り上げられるが、やがて・・・、という話。
1968年に、現実に起こった、「金嬉老事件」のパロディー。 ドタバタ喜劇ですが、マスコミにいいように踊らされた人間の悲哀を描くという、しっかりしたテーマもあります。 ドタバタ部分が面白すぎて、テーマの方は、あまり、心に残りませんが。
【新宿祭】 約29ページ
1969年(昭和44年)、「別冊小説現代 新春特別号」に掲載されたもの。
過激な学生運動が、イベント化した未来。 学生、もしくは、偽学生を組織して、各イベントに貸し出す業者が、殺人的に忙しい合間を縫って、新宿騒乱祭りに、櫓席を確保し、母親、婚約者、ホステス、アメリカ大統領などと共に、見物と洒落込むが・・・、という話。
アメリカ大統領が混じっているところが、妙に、凄い。 この人、中南部アフリカ系の女性で、元ジャズ・シンガーという設定。 なんだか、時代を、半世紀以上、先取りしている感があります。 逆に言うと、人種問題や、性差別問題は、半世紀も前からあったけれど、ちっとも解決していないという事ですかね。
学生運動のパロディーは、日本では分かり難くなってしまいましたが、今でも、所によっては、学生運動が行なわれているので、必ずしも、過去の事ではありません。 もっとも、実際に、そういう所に住んでいる人達でも、パロディーは、ピンと来ないかもしれませんねえ。 あまりにも、殺伐としていて。
一番、笑えるのは、ギリシャの大富豪に見初められる、主人公の母親です。 いいのか、こんな結末で・・・。
↑ これは、新装カバーのもの。 改版ではなく、本文も解説も、同じ版です。 奥付けには、「1983年5月30日/22版」とあります。 たった、10年しか開いていないんですが、当時感覚では、筒井作品の角川文庫旧版が、白カバーになったのは、遥かに後だったような気がしていました。
全巻揃え終わらない内に、カバーを変えられてしまったのが、未だに許せぬ。 しかも、こんなテキトーな絵にしてしまって、一体、誰が得をしたというのか。 パッと見、和田誠さんかと思うでしょうが、その実、山藤章二さんでして、本来の画風とは全く違うのが、また許せぬ。
2013年、文庫本蒐集をした時、ブック・オフを巡ったついでに、白カバーのも何冊か買ったのですが、こちらは、全部は揃っていません。 白カバーでだけ出た本もあるのですが、それは、買いました。
↑ これは、新装カバーの方の、中に挟まっていた、広告と、栞。 角川映画全盛期の、≪探偵物語≫と、≪時をかける少女≫。 懐かしい。 涙が出ます。 栞は、原田知世さんモデルの、パイロット・ボールペンの広告が入っていますが、裏面は、やはり、≪探偵物語≫と、≪時をかける少女≫の広告です。
ついでながら、≪時をかける少女≫は、今見ても、傑作だと思いますが、≪探偵物語≫の方は、前宣伝倒れで、今となっては、批評するのも野暮、という感じでしょうか。 薬師丸さんと、松田さんで、どうして、あんなに、つまらなくなってしまったのか、未だに、謎ですな。 ただし、赤川次郎さんの原作は、面白いです。
≪松本清張全集 30 日本の黒い霧≫
松本清張全集 30
文藝春秋 1972年11月20日/初版 2008年8月10日/9版
松本清張 著
沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、ドキュメンタリー集1、全12回と、その補足、4作を収録。
【日本の黒い霧】 約423ページ
1960年(昭和35年)1月から、12月まで、「文藝春秋」に連載されたもの。
取り上げられている項目は、以下の通り。 ( )内は、事件が起こった年です。
・ 下山国鉄総裁謀殺論 (1949年)
・ 「もく星」号遭難事件 (1952年)
・ 二大疑獄事件 (1948年・1954年)
・ 白鳥事件 (1952年)
・ ラストヴォロフ事件 (1954年)
・ 革命を売る男・伊藤律 (1955年)
・ 征服者とダイヤモンド (1945年)
・ 帝銀事件の謎 (1948年)
・ 鹿地亘事件 (1951年)
・ 推理・松川事件 (1949年)
・ 追放とレッド・パージ (1950年)
・ 謀略朝鮮戦争 (1950~1953年)
全て、米軍による占領期間中か、発端が、占領期間中に起こった事件・歴史事象です。 占領期間中には、他にも、様々な事件があったわけですが、GHQと、その下部機関が関わっているものだけ、取り上げているわけで、当然の事ながら、すべて、「米軍関係者が、背後にいた」という結論になっています。
もう、硬い硬い。 小説じゃないんだから、当たり前とはいえ、こういう作品が、発表当時、人気を博したというのが、信じられぬ。 1960年頃の読書人が、そんなに、謀略ドキュメンタリー好きだったとは、思えないのですが。 私は、とても、読み切れないと思い、ざくざく、飛ばし読みしました。 たとえ、貸し出し期間を延長し、じっくり、全ての文字を読んだとしても、ほとんど、頭に残らないでしょう。
各事件が起こった時から、60年以上も経ってしまい、もはや、これらの事件を、同時代感覚で振り返る事ができる人は、ごく僅かでしょう。 今現在、60歳以下の人は、琴線にかすりもしないと思うので、「うっ、こういう内容だったのか・・・」と感じた時点で、そこから後は、飛ばし読みにした方がいいと思います。 律儀に読んでも、時間の無駄です。
【幻の「謀略機関」を探る】 約18ページ
1969年(昭和44年)9月19日、「週刊朝日」。
【松川事件判決の瞬間】 約9ページ
1961年(昭和36年)8月21日、「週刊公論」。
【「白鳥事件」裁判の謎】 約30ページ
1964年(昭和39年)1月、「中央公論」。
【「もく星」号事件の補筆】 約38ページ
1972年(昭和47年)2月、「赤旗」連載、【風の息】の冒頭部分。
これら4作も、内容の性質は、【日本の黒い霧】と、全く同じです。 全部、飛ばし読みしました。
総合的な感想になりますが、米軍の謀略と言っても、個々の事件に於いては、死者数が少ないので、今から見返すと、そんなに大ごとという感じはしませんねえ。 朝鮮戦争と遠い関係があったようにも書かれていますが、死者数から見ると、戦争と並べて語れるような規模では、全くありません。
≪松本清張全集 51 眩人・文豪≫
松本清張全集 51
文藝春秋 1984年2月25日/初版 2008年10月25日/4版
松本清張 著
沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、長編1、中編2、短編2、計4作を収録。
【眩人】 約246ページ
1977年(昭和52年)2月から、1980年9月まで、「中央公論」に連載されたもの。
奈良時代、遣唐使として、唐に長期逗留していた留学僧が、帰国するにあたり、先祖がペルシャ人の少年を連れ帰る。 奇術に長け、医薬の知識がある少年が、10年間、日本の朝廷を観察する話。
唐の場面から始まりますが、松本さんが書きたかったのは、唐に入っていた西域の文化、特に、ペルシャのそれでして、唐の文化が描かれているわけではありません。 【火の路】(1973年)でも、古代日本に入ったペルシャ文化がテーマになっていましたが、それを、地理的に、もう少し遡ったわけですな。 もっとも、【火の路】は、現代物だったので、だいぶ、趣きは異なりますが。
決して、つまらないわけではなく、外国人の目から見た古代日本という、着想が変わっていて、奈良時代に、少しでも興味がある人なら、楽しめると思います。 その上、ペルシャ文化も好きという人なら、尚の事。 しかし、些か、学術的過ぎて、硬い。 また、学者にも、同意見の人がいるとはいえ、あくまでも、松本さんの自説が元になっているので、どこまで、そのまま受け入れていいか、悩むところはあります。
【文豪】
「行者神髄」 約100ページ
1973年(昭和48年)3月から、1974年3月まで、「別冊文藝春秋123号~127号」に連載されたもの。
坪内逍遥について書こうと思っている作家が、資料を集めに行った熱海で、逍遥に詳しい人物に、たまたま出会い、問題人物だった妻の事を始め、知られざる逍遥像に触れる話。
一応、小説仕立てになっていますが、これは、論文ですな。 小説として、普通に読むのは、かなり、無理があります。 特に、後半は、ひどい。 硬い、というより、全く興味が湧かない事柄を、延々と説明されている感じ。 ちょっとした、拷問ですな。
それにしても、坪内逍遥が、文豪ねえ・・・。 漱石や、鴎外なら、すんなり、頷けるんですがねえ。 もはや、過去も過去、遥かな過去の人物としか思えませんな。 明治の作家を、あまり買い被らない方がいいと思います。 名前は知れていても、それは、国語の文学史などで、習うからであって、もはや、ほとんど、読者をもっていますまい。 作品が読まれないのでは、作家とは言えません。
「葉花星宿」 約21ページ
1972年(昭和47年)6月、「別冊文藝春秋120号」に掲載されたもの。
晩年の尾崎紅葉と、その一番弟子、泉鏡花の関わりを例に、師弟関係の複雑さを論じたもの。 小説ではなく、論文です。 文学関係ではあるけれど、文学論ではなく、人間関係について、考察した内容。
最初、飛ばし読みして、何が何だか、さっぱり分からず、ページ数が少なかったのを幸い、今度は、一文字ずつ、全行に目を通したら、面白い内容でした。 読み返して、まるっきり、印象が違うのは、珍しい事です。 念の為、熟読しておいて、良かった。
尾崎紅葉が没したのは、明治36年で、1903年なのですが、その頃まで、作家は、徒弟制度でやっていたとの事。 つまりその、有名な作家は、作家志望の書生を養っていたわけですな。 で、師弟関係が発生するわけですが、これが、現代の感覚からすると、理解できないくらい、奇妙奇天烈。
紅葉自身も、正妻の他に、妾をもっていたくせに、弟子の鏡花が、結婚するつもりで、芸者を引かせた事に激怒して、折檻したというのだから、呆れます。 その大きな理由が、自分が癌になり、余命幾許もないと分かって、幸せいっぱいの若い弟子夫婦に嫉妬したから、となると、人間の醜さも、ここに極まりますな。 鏡花夫婦も鏡花夫婦で、強かに、面従腹背するのですが、そちらの方は、まだ、常識的に理解できます。
とはいえ、紅葉も、鏡花も、今となっては、名のみ残った感が強いですねえ。 文学志望の学生というのは、今でもいると思いますが、明治の作家の作品なんて、読むのだろうか? その様子を想像できぬ。 明治どころか、昭和の作家の作品すら、読まないのでは?
「正太夫の舌」 約50ページ
1972年(昭和47年)9月、「別冊文藝春秋120号」に掲載されたもの。
斎藤緑雨について、評伝を書くように頼まれた作家が、資料を集めながら、緑雨について語る話。
一応、一人称の小説仕立てですが、その体裁には、ほとんど、意味がありません。 普通に、伝記として書いても、大きな違いはなかったと思います。 ちなみに、結構、面白いのですが、緑雨が面白いというより、文芸批評に対する作者の考え方が細かく書かれているところが、面白いです。
斎藤緑雨の名前は聞いた事がありましたが、専ら、批評家で、小説の方は、数えるほどしか書いていないとの事。 1904年(明治37年)没ですから、明治の前半の後期頃に名を売ったわけですが、当時、日本には、文芸批評が確立しておらず、草分けになった人物らしいです。 才気があり、感性も鋭かったものの、批評対象を揶揄するような軽薄な文体を好んだせいで、作家たちからは、疎まれていたのだとか。
現代の批評家と通じるところが多く、そこへ、松本さんが食いついたわけですな。 批評家以外にも、いろいろと、文壇内部の事情が書かれていますが、いずれも、面白いです。 「正太夫」というのは、緑雨の別名。 明治は遠くなったけれど、小説家よりは、批評家の方が、まだ、現代性が感じられるというわけだ。 といって、緑雨の作品を読もうという気にはなりませんが。
以上、四冊です。 読んだ期間は、今年、つまり、2021年の、
≪松本清張全集 26 火の縄/小説日本芸譚/私説・日本合戦譚≫が、7月1日から、11日。
≪筒井順慶≫が、7月8日から、13日まで。
≪松本清張全集 30 日本の黒い霧≫が、7月15日から、21日まで。
≪松本清張全集 51 眩人・文豪≫が、7月26日から、8月2日まで。
≪松本清張全集 26≫と、≪筒井順慶≫の日付が重なっているのは、昼間、全集を読んで、夜眠る前に、≪筒井順慶≫を読んでいたからです。 図書館で借りた本を、眠る前に、横になって読んでいると、ページの間から、ゴミが落ちてくる事があるので、極力、昼間に、座った姿勢で読むようにしています。
≪松本清張全集≫の感想も、終わりが近づいて来ました。 今現在、すでに、読み終わっていますが、一年以上、同全集ばかり読んでいたので、次に何を読んでいいか、うまく決められない日々が続いています。
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