2022/07/17

読書感想文・蔵出し (90)

  読書感想文です。 近況を書きますと、「母にスマホ計画」は、6月下旬に、実行に移し、終了しました。 その件については、いずれ、こちらでも、記事を書きます。





≪氷壁≫

新潮文庫
新潮社 1963年11月5日/初刷 2002年6月20日/84刷改版 2011年1月15日/104刷
井上靖 著

  沼津市立図書館にあった本。 文庫で、609ページもあります。 二冊に分けた方が、良かったのでは? 分厚い文庫を借りる時には、壊さないように、注意して読まなければならないので、神経を使います。 糊が剥がれて、ページが外れてしまうのは、割とよくある事。

  井上靖さんと言ったら、中国を舞台にした歴史小説が有名ですが、これは、現代日本が舞台の、一般小説です。 1955・56年(昭和31・32年)に起こった話として書かれているので、現代といっても、だいぶ昔ですが、山岳遭難がモチーフになっているせいか、話全体は、そんなに古い感じがしません。 ネット情報によると、1956年2月24日から、1957年8月22日まで、「朝日新聞」に連載されたとの事。


  年末に、雪山の氷壁を登りに行った、二人の青年登山家。 出回り始めたばかりの、ナイロン・ザイルが切れて、一人が落下し、死亡する。 生きて帰った方は、「自分が助かりたい為に、ザイルを、わざと切ったのではないか」といった批難を受け、世間の冷たい目に曝される。 死んだ青年には、一方的に思いを寄せていた人妻がいて、彼女から拒まれたせいで、自らザイルを解いて自殺したのではないかという憶測もあった。 やがて、ナイロン・ザイルが切れるか否かの実験が行なわれる事になり・・・ という話。

  山岳遭難がモチーフですが、それが、テーマというわけではないです。 では、何がテーマかというと、恋愛でして、恋愛小説としか言いようがないです。 山は、ダシに使われているだけ。 山岳小説と思って手に取った人達は、相当には、がっかりしたのでは? 私も、そのつもりで借りて来たので、やはり、がっかりしました。

  また、この作品を紹介する時、「ザイルが切れた話だ」と言う人がいると思いますが、確かにそうではあるものの、正確とは言えません。 それは、この作品のテーマではなく、ただのモチーフなので、間違えないように。 決して、ザイルについて書きたかった話ではないです。 ナイロン・ザイルが切れるか否かについて、実験が行なわれますが、犯罪小説ではないので、その結果に大きな意味はないです。

  以下、ネタバレ、あり。 推理小説ではないから、ネタバレしても、楽しめない事はないですが、やはり、知らない方が、「この先、どうなるんだろう?」と、いろいろ考えたり感じたりする楽しみがあると思うので、この作品を読む予定がある方は、以下は読まないでください。

  で、恋愛小説としてですが、つまりその、年が離れた夫を持つ人妻に、山男の青年が惚れるが、相手は、夫と離婚して、その青年と再婚するつもりはなく、はっきり、そう伝えた直後、青年が山で死んでしまった。 生き残ったもう一人の青年も、その後、その夫人を好きになるが、人妻に求婚する気はなく、死んだ青年の妹を選ぼうとする。 本心では、夫人が好きなのに、倫理的に許されないから、友人の妹を好きになろうとするが、その葛藤があだになり・・・、という話なんですな。

  恋愛小説というと、ガキ丸出し、頭スッカラカンの高校生や大学生が、グジャグジャしたナルシシズムや、生殖器ばかり活躍させる、地獄行きのスカタン小説を思い浮かべてしまいますが、それらに比べると、この作品の恋愛は、大人のそれです。 しかし、男の方は、二人とも、至って純情で、相手をとっかえひっかえ、恋愛遊びに興じている、爛れた大人の世界とは無縁です。 大人の恋なのに、純情という点で、大変、新鮮な印象があります。 こういうのを、本当の恋愛小説というのかも知れませんなあ。

  人妻が、古風なタイプ、死んだ青年の妹が、現代的なタイプと、主人公を巡る二人の女性の性質を対立させて、図式化しています。 図式化というのは、あまり、ガチガチにやり過ぎると、白けてしまうものですが、この作品のそれは、絶妙なところで、バランスを取ってあります。 ただ、図式化そのものが嫌いという向きには、通用しないでしょうな。 私も、その手ですが。

  その古風な人妻が、人格的に、つまらない人物なのは、残念なところ。 たぶん、外見がいいのだと思いますが、外見というのは、ただ、そういう形をしているというだけの話で、人間の中身とは関係がないので、若い内ならともかく、私くらいの歳になると、価値を感じられなくなります。 凄い美人だけど、中身は、人間というより、動物に近いというのもいますから。 それでいて、動物ほど、純粋ではないと。

  死んだ青年の妹も、パッとしません。 死んだ兄より、主人公への思いの方が強くて、不自然と言うほどではないものの、人格的な不純さを感じてしまうのです。 人妻に、兄が写った写真を選ばせる件りは、純文学の場面設定としては優れていると思いますが、妹の不純な腹づもりを想像すると、ムカムカと腹が立って来ます。

  そもそも、兄と主人公が一緒に写った写真を人妻にやりたくないのなら、選ばせたりせず、最初から、兄だけが写った写真を持って行けばいいではありませんか。 更にそもそも、人妻に、よその青年の写真をもっていてくれと頼むのも、非常識です。 そんな物をもっているが夫に知れたら、家庭不和の原因になるに決まっています。 この妹、その程度の事も分からないんでしょうか?

  死んだ青年の母親については、ほとんど、描写がありませんが、心情的に、自分の息子の死に関わっている主人公が訪ねて来たのを、歓迎するというのは、おかしくないですかね? ザイルを切った切らないは真相が不明な時点なので、問わないとしても、主人公と一緒でなければ、息子は、その山へ行かなかったわけで、母親としては、自然と恨むと思うのですが。

  井上靖さんが、女性の事を良く分かっていないとは思いませんが、性格類型は描き分けても、そこに人間的魅力を盛り込むところまでは、考えが至らなかったのかも知れませんねえ。 主人公は、あくまで、青年の方だから、女性陣がつまらないと指摘するのは、ズルい批評になってしまうかもしれませんが、私だったら、この人妻や、死んだ青年の妹に惹かれる事は、絶対にないと思います。 どちらも、面倒な事になるだけですわ。

  主人公の勤め先の支店長が、豪胆タイプの人物で、主人公以上に、目立つ存在になっていますが、些か、描き込み過ぎで、鬱陶しいです。 登山論を語らせる為に出したキャラが、独り歩きしてしまったのではないでしょうか。 豪胆であると同時に、支配欲が強く、何でも自分が決めた通りに進まないと気が済まない、何とも、嫌な性格になってしまっています。 こういう人は、確かにいますけど、こんなに出番を多くする必要はないと思います。

  貶してばかりになってしまいましたが、一般小説と取るにせよ、純文学と取るにせよ、決して、つまらない作品ではなく、時間を割いて読む価値はあると思います。 井上靖さんらしくない作品なので、同氏の歴史物しか読んでいない読者には、尚の事。 特に、時代を感じさせない点は、特筆物で、「えっ! 本当に、昭和30年代の作品?」とは、誰もが、思うのではないでしょうか。

  この文庫の解説ですが、文芸評論家二人が、別々に書いています。 一人は、井上靖さんの経歴と作品史について。 もう一人は、【氷壁】という作品について。 どちらも、不親切な事に、作品データには、全く触れられていません。 高邁な文学論なのですが、こういう文章を読んでいると、文学が過去のものになった感じが、強烈にしますねえ。




≪夢見る沼≫

ロマン・ブックス
講談社 1955年12月10日/初刷 1974年2月28日/23刷
井上靖 著

  家にあった、母の本。 新書サイズです。 新書サイズの「○○ブックス」の類いは、みんなそうですが、解説がなく、作品データもありません。 不親切極まりない。 ネット情報では、 1955年12月とありますが、するってーと、この本は、書き下ろしだったんですかね? 分かりません。 一段組みで、241ページ。 短めの長編、1作を収録。

  私、この本を、もう大昔に、一度手にとって、読んだ事があるのですが、当時の私は、恋愛小説など小馬鹿にしていたので、ちょうど真ん中あたりまで読んだら、馬鹿馬鹿しくなって、放棄してしまいました。 ≪氷壁≫を読んで、井上さんの恋愛小説が、現代的である事に気づき、読み返してみた次第。


  親友から、結納まで進んだ縁談を断ってきて欲しいと頼まれた女性が、相手の実家がある信州まで、使者に立つ。 相手の青年は、かなり、変わった人物で、用件は伝えたものの、ショックを受けた様子もない。 その後、何度か、その青年に会う機会があり、自分が彼に惹かれている事に気づくが、いつのまにか、親友と青年の縁談は、復元していて・・・、という話。

  ≪氷壁≫は、山岳遭難がダシに使われていましたが、この作品は、シンプルな恋愛物で、他のモチーフは、使われていません。 シンプル過ぎて、≪氷壁≫と比べると、読み応えは、遥かに劣ります。 会話が多いから、速い人なら、一日かからずに読み終えると思いますが、カテゴリーと言い、軽さと言い、ラノベに近いものを感じます。

  結婚が近づくと、恐怖感を覚える女性というのは、いつの時代にもいるものですが、縁談を断るなどという、不穏な役目を、友人に押し付けるとは、言語道断。 この親友には、呆れます。 相手の青年にとっては、こんな女と縁談が纏まってしまったのは、大変な不運。 破談になるのは、大変な幸運というべきでしょう。

  一見、特殊な事例のように思えますが、友人同士で、一人の異性を取り合いになるというのは、実は、非常に良く起こる事でして、生きている世界が狭いと、目ぼしい異性の数も限られてくるから、自然に、そうなってしまうんですな。 親友に、恋人を奪われてしまって、絶交したなんて例は、探せば、いくらでも出て来るはず。

  今は少ないですが、昭和の前半頃までは、兄弟や、姉妹で、一人の異性を取り合うケースも、小説や映画に、よく出て来ました。 特に、金持ちの家庭が舞台だと、そういうケースが多い。 社会的な身分があると、結婚相手は誰でもいいというわけには行きませんから、条件に合う人間が少なくて、やはり、取り合いになってしまうんですな。 つくづく、世界が狭い。

  以下、ネタバレ、あり。

  この作品のテーマは、主人公の女性が、親友の婚約者だった青年に対する自分の気持ちを、はっきり認識する、その心理過程にあります。 たった、それだけの為に、全体の半分のページ数を費やしています。 ところが、親友との関係があるから、好きだと気づいたからと言って、ホイホイ近づくわけには行かない、というのが、小説の読ませどころになっています。

  終わり方が、はっきりしないのですが、まあ、この後、何年かすれば、結婚できる状況になるんじゃないでしょうか。 友人の方は、別の男と、結婚するようだし。 友人のチャランポランな性格から考えて、恨まれるような事もないでしょう。 もっとも、それ以前に、この友人とは、縁を切った方がいいと思いますねえ。 先々、どんな、滅茶苦茶な事を頼まれるか分からない。

  気の毒なのは、主人公と、かつて、いい仲で、いずれ結婚するつもりでいた新聞記者でして、3年ぶりに海外転勤から戻ってきたら、思いもしない状況になっていて、愕然。 フラれているのに、求婚を諦めず、ひどく滑稽な立場に置かれてしまいます。 「これでは、ストーカーではないか」と思う人も多いはず。 しかし、この人物が取っている行動は、当時の婚姻風俗に照らせば、至って常識的なもので、今の感覚で批判するのは、無理があります。 おかしいのは、結婚したい相手を、くるくる変えている、他の三人の方なのです。

  ≪氷壁≫の人物達に比べると、恋愛だけに焦点が当てられている分、緊張感がなくて、「こんな、はっきりしない心理なら、相手は、誰でもいいんじゃないの?」と思ってしまうのですが、実際問題、結婚なんて、そんなものなのかも知れませんな。 恋愛結婚が、ほとんどを占めるようになった現在でも、うまく行かない夫婦なんて、珍しくもないわけですから。 好きな相手とさえ結婚すれば、幸福になれるとは限らないわけだ。




≪死との約束≫

クリスティー文庫 16
早川書房 2004年5月15日/発行 2012年10月31日/5刷
アガサ・クリスティー 著
高橋豊 訳

  沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【死との約束】は、コピー・ライトが、1938年になっています。 約375ページ。


  中東アラブ世界を観光旅行していた、若い女性医師が、同じように旅行中の、アメリカ人一家と出会う。 その家族は、亡父の後妻が、支配者として君臨し、義理の息子二人と、長男の妻、義理の娘一人、実の娘一人を、奴隷のように扱って、彼らの人生を押し潰していた。 同じホテルに泊まったポワロは、次男と長女が、何者かを殺す相談をしているのを、漏れ聞いてしまう。 やがて、ペトラ遺跡で、亡夫の後妻が急死し・・・、という話。

  クリスティー作品に、中東が舞台の話が多いのは、作者の再婚相手が考古学者で、作者も発掘現場に同行した事があったからだそうですが、結果的に、お洒落で綺麗好きのポワロを、土埃の多い旅先で活躍させる事になってしまい、中には、違和感を覚える読者もいるのではないでしょうか。 かといって、ミス・マープルでは、もっと、無理があるか。

  この話、三谷幸喜さんが翻案したドラマで見て、大変、面白かったのですが、デビッド・スーシェさん主演のドラマ・シリーズでは、原形を留めぬほどに、改悪されていて、全く見るところがありませんでした。 もっと、遥か以前に、映画≪死海殺人事件≫で見ており、その時の場面が、いくつか、記憶に残っていました。

  三谷さんが、「クリスティー作品中の名作」と言っていたらしいですが、確かに、面白い。 先に映像作品を見て、犯人を知っていても、尚、小説が面白いのだから、本当に優れているんですな。 もっとも、ストーリーを知っている場合、楽しめるのは、推理小説部分ではなく、心理を描いた部分ですけど。

  以下、少々、ネタバレしますが、これから読むという人も、まあ、大丈夫でしょう。 どうせ、ネット上で読んだ他人の感想なんて、すぐに忘れるでしょうから。

  フー・ダニット物です。 各容疑者が、被害者に最後に接触した時間の、細かい差が、謎になっています。 注射器などが小道具として出て来るものの、トリックというほどのトリックは使われていません。 つまり、本格トリック物ではないという事になりますが、この作品を、推理小説の中心軸から外してしまうのは、大いに、ためらわれるところ。 これだけ王道的な推理小説も、そうそう、ありますまい。

  容疑者全員が嘘をついているので、あまり、真剣に読むと、無駄なエネルギーを使ってしまいます。 同じく、容疑者全員が嘘をついている、【オリエント急行の殺人】との違いは、全員共謀ではないという点でして、こちらでは、犯人だけが、自分を守る為に嘘をつき、他の者は、互いを庇う為に嘘をついています。 まったく、一人の作者が、いろいろなアイデアを思いつくものですねえ。 感服せざるを得ません。

  一つの特殊な家族の、一人一人の心理を、非常に細かく描きこんでいます。 クリスティーさんは、精神分析学に深い興味があったようで、特殊な人格の心理を掘り下げて、複雑な人間関係を作り出し、更にそれを、推理小説の骨格に嵌め込むという、人間離れした超絶技巧を駆使していたわけだ。 80年以上前に書かれた作品が、未だに、輝きを失わないのですから、驚きます。 その後に登場した作家が、クリスティーさんを、超えられないんですな。




≪八甲田山死の彷徨・岩壁の掟≫

新田次郎全集第七巻
新潮社 1974年9月25日/初刷 1980年3月25日/11刷
新田次郎 著

  沼津図書館にあった本。  二段組みで、長編2作、短編4作、計6作を収録。 【八甲田山死の彷徨】は、映画にもなった、有名な作品。


【八甲田山死の彷徨】 約156ページ
  1971年(昭和46年)9月 新潮社より、書き下ろし刊行。

  日露戦争が現実味を帯びて来た、明治後期。 対ロシア戦に備えて、八甲田山で雪中行軍を行なう計画が発案された。 第31連隊は、30名の小隊で、第5連隊は、200名を超える中隊規模で、それぞれ、逆方向から入山し、ほぼ同日に、八甲田山山中ですれ違う可能性が高かった。 入念な準備を整えていた少数精鋭の第31連隊ですら、凍傷者を大勢出す苦難の行軍だったが、第5連隊の200名は、数日前に寄せ集めた中隊で、装備もろくに整えないまま出発した上に、随行した大隊長が、途中で指揮権を取り上げるような事をしたせいで・・・、という話。

  ほぼ実話のようですが、登場人物の名前は変えてありますし、細部の会話など、想像で補った、もしくは、膨らませた部分もあると思われ、それが理由で、実録ではなく、小説という形式にしたのではないでしょうか。 明治時代に起こった事故ですから、残っている記録が少ないのは、当然です。

  雪中行軍の研究としては、第31連隊の方が、内容があります。 明治時代の日本軍は、割と、科学的・技術的な性質も持っていたんですねえ。 その点、昭和以降の日本軍の方が、退化している観があります。 民間人の案内人に対して、最初は、紳士的に接していた隊長が、肝腎の八甲田山に入ってからは、厳しく当たり、半ば強制的に案内をさせた点は、ちと、違和感あり。 物分かりのいい軍人であっても、所詮、民間人に対する意識は、こんな物なのかもしれません。

  有名な雪山遭難事故は、第5連隊の方で起こった事ですから、そちらの方が、話の中心になります。 こちらは、科学も技術も二の次。 無理が通れば道理引っ込む、コチコチの精神主義で、昭和の日本軍に通じるものが、大いにあります。 とにかく、準備がなさ過ぎる。 足りないのではなく、ないのです。

  雪山をナメきっていて、「ただ傾斜しているだけで、雪の平地を行くのと変わりはない」と思っているのだから、話にならぬ。 寒さも、疲労度も、野営場所を見つけるのが困難なのも、桁違いの凄まじさである事を、全く分かっていない。 本来の指揮官だった大尉は分かっていたわけですが、上官から、人数を増やせと言われて、断れなかったところから、計画が何もかもグスグズに崩れて行きます。 山中で、大隊長に指揮権を奪われる以前に、すでに、遭難は決まっていたようなもの。

  以下、ネタバレ、あり。

  この大佐、雪山について、何も分かっていないのに、「自分が指揮を執って、成功させた」という実績が欲しかったのか、本来の指揮官から、指揮権を、なし崩しに取り上げてしまいます。 この作品だけ読んでいると、凄い馬鹿としか思えませんが、実際には、こんな軍人は、いくらでもいた事でしょう。 一般人の世界でも、こういう人物は珍しくありません。 その能力がない人間が、指揮を執ると、滅茶苦茶になるのは、避けられません。

  なんと、この大佐、生き残った十数名の中に入っているのですが、責任を感じて、自殺したのは、当然と言うべきでしょう。 200人近く、死なせてしまったのですから、一人が自殺しても、責任が取れる事ではありませんが、生き続けるよりは、マシというところ。 自殺の動機は、死なせた部下に悪いと思ったからではなく、軍人・兵隊を大勢死なせてしまった事を、国に申し訳ないと思ったんでしょうねえ。

  遭難の責任について、追求が甘いです。 大佐が自殺、本来の指揮官であった大尉も死んでおり、責任者二人がいなくなっているから、追求できなかったという事情もありますが、軍隊全体で庇い合って、「誰が悪かったわけでもない」という結論で、終わりにしてしまったようなのです。 これでは、山中で凍りついて死んだ者達の遺族は、納得しないでしょう。 実際、かなり、文句が出たらしいです。

  極寒の描写が、凄まじいです。 あまりの低温で、指先が動かなくなり、マッチも擦れないというのは、暖を取る上では、大変、始末が悪い。 方位磁石が凍って、利かなくなるのも、怖い。 当時、ズボンの前は、ボタン留めだったのですが、指がかじかんで、ボタンを外せず、ズボンの中で失禁すると、尿が凍って、凍死してしまうとの事。 では、最初から、ボタンを外しておけばと思うでしょうが、そうすると、風が吹き込んで、やはり、股間が凍傷になってしまうのだそうです。 処置なし。

  体を動かしていれば、体温が低下しないと思うでしょうが、汗を掻くと、それが凍って、凍死するとの事。 頑張れば何とかなるというわけではなく、頑張ったから、死を早めたわけだ。 荷車を押していた兵隊が、真っ先に、汗が凍って死んだらしいですが、気の毒この上ない。 そもそも、山に登るのに、荷車を押して行くなど、夏山でも、非常識です。

  疲労と寒さで、頭までおかしくなり、異常な行動を取り始める者が、続々と出て来ます。 「川を泳いで下れば、麓に下りられる」と言って、裸になって飛び込む者が後を絶たなかったとの事。 もちろん、たちまち、心臓麻痺で死んだ事でしょう。 自分の隣で、人が倒れても、助けようとすれば、自分も死んでしまうので、そんな余裕はないのです。 9割以上が死んだ遭難というのは、そういう、本物の地獄なんですな。 個人の努力でどうにかなる限界を、遥かに超えているのです。

  この作品の最大の教訓は、「雪山には、行かない」という事でしょうか。 それ以外に、対策がないように思えます。 


【岩壁の掟】 約110ページ
  第二章[鴉の子]、1959年(昭和34年)4月、「小説新潮」に掲載。
  第一章「三人の登攀者」、1960年(昭和35年)6月、「日本」に掲載。
  第三章「虚栄の岩場」、1960年(昭和35年)8月、「オール読物」に掲載。

  不遇な少年時代を過ごした青年には、恩師の婚約者を、山で殺した過去があった。 社会人になってからは、山にばかり行っているのが原因で、職を転々とする。 ある時、たまたま出会った若者達と、三人だけの山岳会を作って、谷川岳に登るが、遭難してしまう。 その後、穂高の山小屋に住み込んで、山岳ガイドをしていた時、二人の女に別々に依頼されて、女性初登頂の記録を作る手伝いをするが・・・、という話。

  話の時間軸で並べると、「第二章、第一章、第三章」になりますが、単行本に纏めた時に、効果を高める為に、「三人の登攀者」を、前に持って行ったのでしょう。 なので、時間軸通りに読んでも、別に、混乱する事はないです。 [鴉の子]を書いた後、すっかり、捻くれさせてしまった主人公に、作者としての責任を感じて、続編を書いたんじゃないでしょうか。 結局、それなりの最期になりますが、少年時代の悲惨さに比べれば、随分と立派な大人になったものだと思います。

  「鴉の子」だけ見ると、山岳小説ではなく、少年が主人公の、一般小説、もしくは、純文学です。 私は、少年物が嫌いなので、げんなりしましたが、その内、山岳小説に戻る事を見越して、我慢して読みました。 タイトルの通り、カラスの子が出て来ますが、昭和中期頃までの日本の小説では、動物が出て来ると、必ず、死ぬので、心の準備をしていたら、案の定、死にました。 死なす為に出しているのですから、げんなりだ。 ちなみに、タイトルの「鴉の子」は、カラスの子だけを指しているのではなく、主人公の事も指しています。

  主人公の人格に好感が持てないので、読んでいる間も、読み終わった後も、気分は良くありませんでした。


【偽りの快晴】 約14ページ
  1962年(昭和37年)11月、「オール読物」に掲載。

  台風が沖縄付近に停滞している最中、気象学の大家の元を訪れた山岳家が、これから、八ヶ岳に行きたいと言う。 やめた方がいいと言われたが、台風が動き出したらやめると言って、出発し、山に入ってしまう。 ところが・・・、という話。

  台風の振る舞いは、読者の想像通りになりますが、被害は、読者の想像を超えて、ひどくなります。 短いですが、なかなか、怖い話。


【神々の岩壁】 約36ページ
  1963年(昭和38年)1月、「小説中央公論」に掲載。

  岩登りを得意としていた、北海道出身の青年。 東京に出て来て、働き始める傍ら、友人達と、近郊の山に登っていた。 丹沢で滝を登っている様子を、著名な山岳家に見出され、山岳会に入って、前人未踏の岩壁を次々と制覇して行くが、交際していた女性と結婚する為に、相手の親から出された条件が、危険な山の趣味をやめる事で、大いに葛藤する話。

  自己流で登っていた時の方が、カッコいいですな。 本格的な岩登りの技術を教えられた後は、単に、経験値を積んだだけの人になってしまいます。 岩登りと、登山は、一緒くたにされてしまう事もありますが、全く別物で、登頂したいだけなら、岩登りをする必要がない山の方が、圧倒的に多いと思います。

  結婚の条件云々は、山岳小説としては、尾鰭に過ぎず、一般小説のモチーフですな。 こんな誓いを立てたって、どうせ、しばらくすれば、ああだこうだと言い訳を捏ね、口実を作って、また、岩登りを再開するんじゃないでしょうか。 どうも、岩登りの厳しさと天秤にかけると、主人公の結婚話は、軽過ぎる感があります。 読者にしてみれば、岩登りにとりつかれた男が、結婚するか否かなど、どうでもいい事だからです。

  もしかしたら、この作品、実話が元になっているんでしょうか? だから、実際に起こった事に引っ張られて、小説らしい結構を取れなかったのかも知れません。


【万太郎谷遭難】 約12ページ
 発表誌不明。

  友達と一緒に、冬の谷川岳に登る予定だった若い女性。 友達に急用が出来て、一人で登る事にしたが、山中の雪で足を痛め、歩けなくなってしまう。 動くと危険と考えて、ビバークし、食料を切り詰めて、救助隊が来るまで、長期戦の構えを取る。 徐々に疲労が蓄積し、日付が分からなくなるほど消耗するが・・・、という話。

  一人で雪山に入ったのは、最悪。 しかし、遭難してから取った対応は、最善。 という評価。 だけど、捜索隊にかけた迷惑を考えると、雪山なんて、行かないに越した事はないと思いますねえ。 少なくとも、一度こういう事をやらかしたら、その人は、その後一生、山に入る資格を失うと思います。


【岩壁の九十九時間】 約21ページ
  1965年(昭和40年)7月、「別冊小説新潮」に掲載。

  岩登りをしている途中、上空から下りて来る、白い雲のようなものに、恐怖を感じていると、上を登っていた二人組の内、一人が転落して来て、ザイルで宙ぶらりんになる。 半畳ほどの岩棚に引き上げたものの、頭が割れて、重症。 他の者が救助を呼びに行っている間、岩棚から負傷者が落ちないように、寝ずの番をしていた主人公が、疲労のせいで、負傷者と痛みの感覚が入れ替わる体験をする話。

  オカルトが入っています。 こういう事が、絶対にないとも言い切れませんが、科学的ではありませんな。 必ずしも、オカルト現象だけを書きたかったわけではなく、山岳遭難小説としての緊迫感も描きこまれていますが、オカルトを入れてしまったばかりに、オカルト嫌いの読者を遠ざけてしまった観はあります。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、今年、2022年の、

≪氷壁≫が、4月6日から、8日。
≪夢見る沼≫が、4月9日から、10日。
≪死との約束≫が、4月14日から、15日まで。
≪八甲田山死の彷徨・岩壁の掟≫が、4月16日から、21日まで。


  今回、クリスティー文庫は、一冊だけになってしましましたな。 この頃、無性に、山岳小説を読みたくなって、≪氷壁≫を借りて来たのです。 ≪夢見る沼≫は、家にあったので、同じ井上靖さんの作品という事で、続きで読んだ次第。

  実は、これらの感想文は、日記ブログの方で先行して出しているのですが、迂闊にも、≪夢見る沼≫を出し忘れていまして、こちらの≪読書感想文・蔵出し≫用に、慌てて、写真を加工しました。 こちらでは、読んだ日付を入れているから、後で出すと、混乱すると思って。 まあ、そんな事は、私本人にしか関係して来ない、つまらない楽屋裏事情ではありますが。