2023/05/21

実話風小説 ⑯ 【地主意識】

  「実話風小説」の16作目です。 昨今、長くなり過ぎて、もはや、実話風ではなくなってしまいましたが、それでも、まだ、普通の小説よりは、簡素だと思います。





【地主意識】

  B氏は、A家の次男である。 A家は、かつて、Z村の地主で、集落のほとんどの土地を所有していた。 A家の本家で育ったB氏は、祖父母から、地主意識を、自然に刷り込まれた。 地主的な考え方、世界観、処世観、他者に対する意識、そういったものを、受け継いだのである。

  B氏は、小学校卒業後、最寄の都市にある私立の中高一貫校に入り、そこから、同じ学校法人の都会にある大学へと、無試験で進んだ。 家に金があったから、できた事であるが、成績的には、中の下くらいで、留年するほどではなかった。 ちょっと変わっているのは、卒業後、就職しなかった事である。 家からは、毎月、30万円の仕送りがあったので、そのまま、都会の賃貸マンションに住んでいた。 それだけ、生活費があれば、働く気にならないのも、無理はない。 5年くらい、そんな生活をしていたらしい。

  A家の長男である兄は、学校こそ、B氏と同じだったが、成績が良く、大学院まで進んで、ある薬品メーカーの研究所に就職していた。 研究所が、Z村の近くにあったので、そのメーカーに勤めたのだった。 実家に住み、実家から、車で通勤していた。 兄の方は、まずまず、常識がある人物と見られていた。

  B氏が、叔父の葬儀で、Z村に戻った時、年上の親戚達から、何の仕事をしているのかと訊かれ、何もしていないと答えると、「そりゃ、まずいだろう!」という話になった。

「金はあるし、別に働かなくても、食っていけるから」
「そういう問題じゃない。 社会人なんだから、何かしら、肩書きがいるだろう」 

  少し、焦りを感じたB氏は、親戚の伝を頼り、都会に近い食品メーカーに、非常勤役員として、籍をおく事になった。 仕事は・・・、仕事は、特にない。 役員会での発言権もない。 会社に、部屋も席もない。 出勤しても、いる場所がない。 給料・賞与も出ない。 そんなの、社員の内に入らないわけだが、会社側が、なぜ、在籍を許したかというと、B氏が就職したがっていると知った父親が、その会社の株を、纏まった量、買ったからである。

  父親は、自分によく似たB氏を、子供の頃から、猫可愛がりしていて、B氏の望みは、何でも叶えてくれた。 幼い頃など、B氏の部屋は、高価な玩具で埋まっていた。 父親が、B氏が欲しがる物を、全て買い与えていたからだ。 すぐに飽きるので、近所の保育園に、半年に一度は、ごっそり、寄付していた。 大学も、父親としては、家から通える所にしたかったのだが、「家から離れる機会を作らないと、世間知らずになってしまう」という、母親の訴えを入れて、しぶしぶ、長男と同じコースに進ませたのだった。

  母親は、自分が病弱だった事もあり、B氏の将来を心配していた。 何とか、一人でも生きて行けるような、逞しさを獲得して欲しかったのだが、父親が、B氏を溺愛して、月に30万円も仕送りしている有様では、自立には程遠い。 都会で一人暮らしをしても、遊びほうけるばかりで、母親の望みとは、どんどん掛け離れて行くばかりだった。

  その母親は、B氏が、25歳の時に、持病が悪化して、死んだ。 人柄がいい女性で、周囲は早逝を惜しんだが、B氏は、口うるさい母親がいなくなって、清々していた。 B氏は、母親が、兄に甘い分、自分に冷たいのだと、勝手に決めていたが、そんな事はない。 兄の方は、母親が心配しなくてもやって行ける。 B氏に厳しかったのは、B氏が、駄目人間だったからである。 心配で仕方がなかったのだ。

  母親が死ぬのを待っていたかのように、父親が、縁談を持って来て、B氏は、結婚した。 生前の母親は、「仕事もしていないのに、結婚なんて、とんでもない」と反対していたのだ。 もっともな話だが、父親も、B氏も、そういう常識はなかった。 それも、地主意識の発露だろうか。 先祖代々、連綿と、遊んで暮らして来たのである。

  B氏は、父親の出した金で、都会の郊外に、一戸建ての家を買った。 5千万円くらい。 親に、住宅ローンの頭金を出してもらうというのは、よくある話だが、B氏には、蓄えなどないので、全額、父親が出した。 親戚に、法律に明るい者がいて、

「それは、まずい。 金額が大き過ぎる。 贈与税をごっそり、取られますよ」

  と、忠告したが、父親自身、家には金がいくらでもあると思っていたので、税金を取るというのなら、払ってやろうじゃないかと、ゆうゆう、構えていた。

  5千万の家を買ってやった上に、毎月、30万円の仕送りは続いていた。 「どーゆー親やねん?」と思うだろうが、そういう親なのだ。 何せ、地主意識の持ち主だから。

  ところが、その父親が、60歳にならない内に、これまた、病死した。 金持ち意識を存分に発揮して、うまいものばかり、食べていたので、しっかり、糖尿病になっていたのだが、医者の言う事など聞かず、そのままの食生活を続けていたら、悪化して、ころりと死んでしまったのだ。 B氏が、35歳の時である。

  父親の葬儀でも、B氏は、泣くような事はなかった。 非常に不安そうな顔をしていたので、周囲からは、ショックが大きいのだろうと思われていたが、ショックとは、違っていた。 とにかく、不安だったのだ。 そりゃそうだ。 今まで、自分の生活を支えてくれていた柱が折れてしまったのだから。 どちらかというと、不仲な兄が、父の代わりをしてくれるとは、思えなかった。

  遺言書はなく、財産は、普通に、兄とB氏に、等分された。 兄は、家屋敷と畑を、B氏は、現金で、1億円ほどを、相続した。 金持ちにしては、少ないと思うだろうが、今時、地方の元地主の財産なんて、その程度である。 B氏は、兄が隠しているのではないかと疑って、わざわざ、別の税理士を雇って、調べさせたが、結果は、同じだった。

  そうそう、書き忘れていたが、戦後の農地改革で、A家も、所有していた農地を、ほとんど、没収されており、とっくの昔に、地主ではなくなっていた。 地主ではなくなっているのに、地主意識だけが残っていたというのが、この話の肝である。

  
  B氏は、父親の死後、仕送りがなくなったので、気持ちだけ節約に努めるつもりでいたが、所詮、気持ちだけだった。 染みついた丼勘定癖が簡単に治るわけはなく、欲しいと思った物は、ほとんど、買い、旅行にも、しょっちゅう出かけた。 夫婦と息子の三人で、平均して、年間に、500万円ほどを消費した。 仕送りで暮らしていた頃より、却って、金使いが荒くなっていたのは、さすが、地主意識の持ち主と言うべきか。 1億円は、20年でなくなる計算である。 B氏が、55歳の時には、ほぼ、ゼロになった。

  家が、現金で買ったものだったので、リバース・モーゲージで、融資を受けて、生活費に当てる事を考えたが、計算してみると、月当たりの生活費が、激減してしまう。 息子は、まだ大学生で、学費も出さねばならず、とても、食って行けないという結果になった。

  B氏が働けばいいのだが、働いた事が一度もない人間である上に、55歳にもなって、どこで、雇ってくれるわけもない。 肩書きだけ、役員だった会社で、給料が出る仕事がないか打診したが、笑い飛ばされた。 実は、B氏の父親が存命中、B氏に家を買ってやる為に、その会社の株を処分してしまっていたのだ。 役員の肩書きも、とっくになくなっていたのだが、B氏が気づかなかったのは、そもそも、出勤していなかった事が一つ。 もう一つは、郵便通知の類いを、開封せずに捨てる癖があったのが原因である。

  B氏の妻、Dさんは、結婚前に、働いていた経験があり、家計が行き詰ってから、家の近くのガソリン・スタンドで、働き始めた。 しかし、折り悪く、人余りの時期で、フル・タイムは断られ、パート・タイムで、午前中しか働けなかった。 収入としては、一人分の食い扶持が稼げる程度だった。

  B氏も、手を拱いていたわけではなく、会社経営をしている友人・知人・元同級生らに電話をかけて、雇ってくれるように申し入れた。 頼んだのではない。 あくまで、申し入れたのである。 8人ほどいたが、全て、断られた。

「もう、55歳じゃ、退職を考える歳だ」
「そんな事は分かってる。 こっちには、こっちの事情があるんだ」
「事務はできるのか?」
「そんな事をする気はない」
「接客は?」
「それもする気はない」
「雑用は?」
「馬鹿にしてんのか?」 
「一体、何ができるんだ?」
「非常勤役員」
「わははは!」
「何が、おかしい?」
「肩書きだけで、無権限・無報酬なら、いいぞ」
「金が要るんだよ」
「そりゃ、無理だろ? 何もしないで、どうして、金をもらえると思うんだ?」
「地主ってのは、そういうもんじゃないのかい?」
「・・・・・」

  相手は、絶句した。 しばらく考えてから、慎重に言葉を選んで、訊き返した。

「まさかとは思うが、うちが、祖父さんの代まで、お前んちの小作だったから、俺のところへ電話して来たのか?」
「そうだよ」
「そうだよ? マジで言ってるのか? ふざけるな! もう、かけて来るな!」

  切れた。 大抵は、こんなやりとりで、断られた。 B氏が就職を申し入れたのは、全て、元小作の家だった。 自分の先祖に恩があるのだから、当然、申し入れを聞いてくれるものだと決め込んでいたのだ。 B氏は、切れた受話器に向かって、毒づいた。

「ふざけてんのは、てめえだ。 小作のくせに」

  B氏から、電話を受けた者同士で、連絡が取られ、こんな会話が交わされた。

「Bの奴、子供の頃から、地主だ、小作だと言ってたけど、あれ、冗談じゃなかったんだな」
「俺も、そう思った。 本気で、自分を地主、俺らを小作だと思ってたんだ。 今でもな」
「そういえば、中学の頃、赤の他人を使いっ走りにしようとして、断られて、『生意気言うな! この小作が!』って、怒鳴りつけた事があったよ。 その相手は、Z村と関係ない奴だったんだけどな」
「Bからすると、自分と一族は地主で、それ以外の人間は、みんな、小作なんじゃないか?」

  その推測は、当っていた。 B氏にとって、地主と小作は、実際の地主・小作関係ではなく、身分の違いを表しているのだ。 元地主である人間と、元小作である人間は、生まれながらに、身分が違い、それは、家の格として、永久に続くと思っているのだ。 祖父母や、父親がそうだったように、差別意識が染みついていて、身分制度がなくなったという事実を、受け入れられないである。

  B氏は、地主意識が抜き難く残っていたが故に、働くなんて事は、自分のやる事ではないと考えていた。 働く気がないから、何もできるようにならず、何もできないから、働かない。 悪循環を起こしていたのだ。

  そして、働かないでも生きて行ける根拠として、「小作は地主を養う義務がある」という、黴の生えた社会観を堅持していた。 B氏の自我そのものが、地主という特権意識の上に構築されており、働く事を受け入れる事は、自我を崩壊させてしまうのではないかと、B氏は恐れ、恐れるが故に、真面目に検討しようとしなかった。 これも、悪循環である。


  B氏は、家を売る事を考え始めた。 しかし、家を手放したら、住む所がなくなってしまう。 一人なら、実家に戻るという手があるが、妻子がいるのでは、それは、ためらわれた。 その時、ふっと、思いついた。

「そうだ! おばあちゃんの家がある! あそこに引っ越そう!」

  「おばあちゃんの家」というのは、B氏の祖母が、晩年を過ごした家である。 B氏の祖父が亡くなった後、祖母が、嫁の厄介になりたくないと言って、隣家に近い所にある畑を潰して建てた、隠居所だった。 隣家には、仲が良いお喋り仲間がいたのだ。 祖母は、5年間、そこで暮らし、その後、施設に移って、亡くなった。 祖母が、その家にいた頃、小学生だったB氏は、しょっちゅう、訪ねて行って、おやつをもらって食べていた。

  平屋だが、部屋数は、3LDKあって、B氏夫妻だけなら、暮らせない事はない。 息子は、大学の寮に入れればいいだろう。 B氏は、おばあちゃんの家での生活を思い描いて、夢中になってしまった。 おばあちゃんの家は、祖母の死後、借家にされ、他人が入居していた。 しかし、自分は、本家の次男なのだから、当然、優先的に住む権利がある。 借家人など、追い出してしまえばいい。

  兄も、家賃を取るとは、言わないだろう。 実家を譲ってやったんだから、兄は俺に借りがあるはずだ。 おばあちゃんの家を借りるのではなく、もらってしまっても、いいくらいだ。 そうだ。 うまく交渉すれば、実家の母屋を兄、おばあちゃんの家を俺、という形で、俺の所有にできるかもしれないぞ。 よしよし、いい事を思いついた。 明日にでも、早速、おばあちゃんの家がどうなっているか、見に行ってみよう。

  その夜は、わくわくして、なかなか、寝つけなかった。


  さて、翌日、B氏は、電車とバスを乗り継いで、Z集落へ赴いた。 おばあちゃんの家は、最寄りのバス停から、実家とは逆方向に、少し山に入った所にあった。 15分ほど、歩く。 遠くから、おばあちゃんの家が見えた。 家そのものは、二十数年前、最後に行った時と変わっていないように見えた。 多少、ボロになっていても、贅沢は言えない。

  おや、家の外に、人が大勢いるぞ。 何をやってるんだ? 工事をしているのか? カー・ポートを造っているみたいだ。 あそこには、物干し場があったのに、何を勝手な事をしてやがる! 借家人のくせに、ふざけるな! B氏は、いつのまにか、血相を変えて、走り出していた。

  おばあちゃんの家は、南面道路で、家と道路の間に、車一台置けるくらいの、ゆとりがあった。 地面は浅く広く掘られて、鉄筋の格子が組まれており、コンクリートを流し込むばかりの状態になっている。 5人の男がいた。 その内、3人が、カー・ポートの柱を立てる作業をしていて、二人が、少し離れた所で、その様子を見ていた。 そこへ、B氏が乗り込んで来た。

「何をやってるんだ! やめろ、やめろ!」

  作業をしていた3人が、手を止めた。 見ていた二人の内、作業着を来た人物が、B氏に言った。

「何ですか、あなたは?」
「俺は、A家の者だ! 人の家で、何を勝手な工事をしてるんだ! 誰の許可を取った!?」
「A家の方ですか。 それは、どうも。 私は、Q工務店の者です」

  その人物は、地元の小企業、Q工務店の社長で、A家から仕事を頼まれる事があったので、A家が、Z村の元地主だという事は知っていた。

「A家を知ってるなら、なんで、こんな事をするんだ? 兄貴や、義姉さんは、承知しているのか?」
「いえ。 たぶん、ご存じないと思います。 施主は、こちらの、Cさんですから」

  Q工務店の社長は、普段着姿の中年男性、C氏を指した。 C氏は、怪訝そうに首を傾げながら、B氏に、一応、会釈をした。

「Cです」

  B氏は、食ってかかった。

「なんだ、最近の借家人は、大家に無断で、勝手に工事をするのか!」 

  C氏は、B氏の態度に腹を立てて、同じ口調で言い返した。

「俺は、この家の所有者だ。 借家人じゃない」
「いい加減な事を言うな! ここは、A家の借家だ! 俺は、A家の次男なんだぞ! ごまかしが利くと思うなよ!」
「ごまかしてない! 俺は、この家を買ったんだ!」

  B氏は、少し、ひるんだ。 しかし、自分から怒鳴りつけた手前、引くわけには行かない。

「買った? 馬鹿抜かせ! そんな話、聞いてないぞ! ほんとに売ったんなら、俺の耳に入らないはずがない!」
「お前の家の事情なんて、知った事か!」
「地主に向かって、お前とは何だ! 大の大人が、口の利き方も知らないのか!」
「分からん奴だな。 ここは、俺の所有地だ! お前が地主なわけがないだろう! 何を言ってるんだ!」

  Q工務店の社長が、割って入った。

「Cさん。 不動産登記簿謄本があれば、それをお見せした方が早いんじゃないですかね?」
「ありますよ。 持って来ます」

  C氏は、家の中に入って行って、3分ほどで、封筒を持って出てきた。 B氏が、取り上げようとするのを、C氏が、空いている手で制した。

「お前は手を出すな! 社長に見てもらう!」

  Q工務店の社長が受け取って、中を確認した。

「間違いありません。 土地も家も、Cさんの所有です」
「そんな、馬鹿な! 贋物に決まってる! 売るわけ、ないんだ!」

  B氏は、納得しない。 C氏は、苦りきり、Q工務店の社長も、困惑顔になった。 C氏が言った。

「そんなに言うなら、不動産屋に来てもらおう」
「それなら、こっちも、兄貴か、義姉さんに来てもらう。 吠え面掻くなよ」

  C氏は、Q工務店の社長に言った。

「とにかく、工事は進めてください」
「そうですね。 今日中に、柱と屋根をやってしまわないと、明日の朝には、コンクリート・ミキサーが来てしまいますから」

  これに、B氏が、また、食ってかかった。

「駄目だ、駄目だ! ここの所有者が誰か、形がつくまで、工事は中止だ。 そんなの当然だろう!」

  社長が言った。

「そうなると、うちらの人足代と、明日の朝のミキサー代が、無駄になってしまうんですよ。 また、出直す事になると、2倍とまでは行きませんが、1.8倍くらい、費用が余分にかかってしまうんです」
「そんな事、知らん! とにかく、所有者がはっきりするまで、何もするな! 無理やり、やるなら、訴えるぞ!」
「困った奴だな・・・」

  と、これは、C氏。


  やむなく、工事は中断し、不動産屋と、A家の者が呼ばれた。 P不動産からは、中年男性の社員が、車でやってきた。 B氏の兄は、出勤中で、代わりに、兄嫁が、歩いてやって来た。 畑仕事をしていた時に呼び出されたので、野良着である。 兄嫁は、麦藁帽子を外してから、言った。

「はい。 この家は、P不動産さんに、お売りしましたよ」
「確かに、私どもで買って、その後、Cさんに、お売りしました」

  B氏は、カンカンに怒った。

「ふざけるなっ!! 誰が、売っていいと言った! ここは、大事なおばあちゃんの家なんだぞ! 俺に無断で、なんで、そんな事ができるんだ! 義姉さん、あんた、どういうつもりだ! 兄貴は知ってるのか?!」
「もちろん、知ってますよ」
「兄貴を呼べっ!」

  C氏が、Q工務店の社長に訊いた。

「30分、無駄にしたけど、まだ、間に合いますか?」
「大丈夫です」

  作業員に指示して、すぐに、作業が再開された。

「ちょっと、待てっ!」

  と言って、B氏が、作業員の腕を掴んだのを、C氏が引き離した。

「所有者が俺なのは、はっきりしたんだから、あとは、A家の人と話せ! これ以上、邪魔をするな!」
「ちきしょう! 偉そうな事を言うな! 小作のくせにっ!」
「・・・、お前、狂ってるのか?」

  C氏の目から、怒りが消え、怯えがよぎった。 それを見て、B氏は、ちょっと、うろたえて、身を引いた。

  B氏は、C氏に謝る事もせず、兄嫁と共に、P不動産の社員が乗って来た車に乗り、A家に向かった。 座敷に上がると、B氏は、兄嫁を問い詰めた。

「どうして、あの家を売ったんだ? なぜ、俺に一言も言わなかった!」
「Bさん。 あんた、Dさんから、何も聞いてないの?」

  Dというのは、B氏の妻の名前である。

「D? Dがどうしたって?」
「Dさんに、事情を聞いてから、出直して来て」
「いいから、今ここで言ってくれよ。 分からないじゃないか。 Dは仕事中だから、ホイホイ、電話できないんだよ」
「私だって、仕事中に、呼び出されたんだよ。 葱の種を播かなきゃなんないのに、明日に延期だ」

  兄嫁は、これ以上ないくらい、胡散臭気に顔をしかめて、B氏を睨んだ。

「あんた、モーター・ボートで、事故を起こしたよね」
「はあ? ああ、クルーザーね。 もう、一昨年の事だ」
「友達のモーター・ボートを借りて、岩に乗り上げたんだよね」
「あんなの、大した事じゃない。 無免許だったのがバレて、ちょっと、揉めただけで・・・」
「向こうの弁護士が、Dさんの所へ押しかけて来たのに、大した事ないわけないじゃないの!」
「・・・・・」
「モーター・ボートの修理代が、400万円。 持ち主が訴訟を起こさないように払った示談金が、100万円。 合計500万円の工面で、Dさんが、うちの人に相談に来たんだよ。 うちでも、そんな大金、出せないから、さんざん悩んだ挙句、あの隠居所を売る事にしたってわけよ」
「・・・・、そんな。 そんなの聞いてない・・・」
「聞いてないかどうかは、あんたと、Dさんの問題だから、自分のうちに帰ってから、話をして。 もーお、迷惑しか、かけないんだから! いい加減にしてよ!」

  B氏、一言も返せない。 事の意外さに、心ここにあらず。 P不動産の社員が、駅まで送ってくれるというので、唯々諾々、それに従って、夢遊病者のような足取りで、A家を後にした。 駅から、電車に乗って、家まで、無事に辿り着いたのが、不思議なくらいである。

  昼過ぎに、妻のDさんが、パートから帰って来たので、また、B氏の魂が体に戻って来た。

「赤っ恥を掻いたぞ! クルーザーの金の事、どうして、俺に言わなかったんだ!」
「だって、あんた、その話をすると、すぐに怒ったから、言えなかったんでしょうが!」
「兄貴のところに借りに行くなんて、大恥だ!」
「他に借りられるところがなかったの!」
「あんなの、払わなくたって、放っておけばよかったんだ! どうせ、クルーザーなんて、年に一度くらいしか乗らないんだから!」
「何を言ってるの? 人様の物を壊して、そんなの通るわけないでしょ! 訴えられたら、あんた、刑務所行きだったんだよ? もう、いい加減にしてよ! あんたの頭の中、どうなってんの?」

  とにかく、おばあちゃんの家に引っ越す計画は、おじゃんになった。 B氏は、結局、C氏に謝りに行く事はなかった。 それどころか、C氏の態度や言葉使いに、甚だしく、腹を立てていた。

「あの野郎。 小作のくせに、地主を、お前呼ばわりしやがって・・・」

  お前呼ばわりも然る事ながら、「狂っているのか?」と言われたのが、B氏には、ショックだった。 B氏は、常識的な人生を送って来なかったせいで、過去に、友人・知人から、「頭がおかしい」と、何度か言われた事があった。 それは、相手が知り合いだけに、冗談として聞き流して来たのだが、C氏は、そうではない。 初対面の相手から、「狂っている」と言われたのが、心に杭を打ち込まれたように、B氏を傷つけていた。

「あの野郎・・・、いつか、仕返ししてやる」 

  そういう考え方になるところが、異常な証拠なのだが、B氏本人は、気づいていない。


  結局、B家は、生活費が尽きてしまい、家を売る事になった。 築20年で、まだまだ、新しく見えたが、3000万円にしかならなかった。
 今までと同じ生活をしていたら、6年でなくなる計算である。 B氏は、実家の近くに、アパートを借りて、住む事にした。 Z村の隣の町である。 実家の近くに住んで、しょっちゅう、顔を出していれば、食い詰めた時に、助けてもらえるだろうと、期待していたのだ。

  B氏自身は、無職だったから、どこに住もうが問題なかったが、家族は、いい顔をしなかった。 息子は、大学の寮に行けと言われて、渋々、従った。 妻は、やむなく、勤めていたガソリン・スタンドをやめ、新しく借りたアパートから通える範囲で、ガソリン・スタンドを探し、勤め直した。 相変わらず、パートだった。

  実は、B氏、実家に戻って、兄夫婦と同居するという提案もしたのだが、切り出した直後に、ピシャリと断られた。 兄嫁は、おぞましげに身震いし、嫌悪感を剥き出しにして、言った。

「モーター・ボートの一件で、一生分の迷惑は受けたんだから、これ以上は、たくさん!」
「だけど、ここは、俺の実家だから・・・」
「お義父さんの遺産は、ちゃんと、もらったでしょ! あんたの理屈が通るなら、うちは、破産するまで、あんたを助け続けなきゃならなくなる! そんな義理はないよ! それに、あんた、この家に住んで、一体、何をやって暮らすつもり? 遊んでるの? 他は、みんな、働いてるのに! 私は、畑仕事をした上に、遊んでるあんたの為に、ご飯まで用意するの? 馬鹿馬鹿しい!」

  同席していた兄が、B氏に言った。

「お前、いい加減に、目を覚まして、働いたら、どうなんだ?」
「あちこち、声をかけたけど、駄目だったんだよ。 あの、小作どもが・・・。 うちの先祖の恩を忘れやがって・・・」
「まだ、そんな事を言ってる・・・」

  ちなみに、兄の方には、地主意識はなかった。 祖父母や、父親の影響で、子供の頃に、近所の子供に向かって、そういう口を利いた事があったが、傍で聞いていた母親から、厳しく窘められ、それ以来、自分を戒めていたのだ。 実際、兄が生まれた頃には、すでに、地主ではなかったのだから、自分で気づけば、地主意識など、幻想である事が分かるはずだ。 弟のB氏は、それに気づかなかったというわけだ。


  さて、「元おばあちゃんの家」の一件で、C氏を逆恨みしていたB氏だが、意趣返しの機会は、意外と早く訪れた。 集落の一軒で、葬儀があり、A家でも、兄夫婦が参列したのだが、どこで聞きつけたのか、B氏まで、やって来た。 B氏としては、いつか、実家に移り住む事を考えて、A家の一員というイメージを、近所に植えつけておきたかったのだ。

  葬儀を出したE家は、元小作であり、元地主のA家に、場所が近い事から、今でも、A家の者を粗略に扱わない気風があった。 しかし、それも、親の世代の話。 現当主のE氏は、B氏を嫌っていた。 子供の頃に、「小作、小作」と顎で使われた恨みである。 両親は、「A家の人なんだから、黙って言う事を聞いていればいいんだ」と言って、取り合ってくれなかった。

  成長して、地主だ小作だといった区別が、時代錯誤も甚だしいという事が分かって来ると、ますます、腹が立ち、地主意識が増長する一方のB氏を避けて暮らすようになった。 その内、B氏が、都会へ行ってしまうと、ホッとした。 二度と会いたくないと思った。 一方、B氏の兄夫婦との関係は、良好である。 大人になってからは、互いに、敬語で話をしていた。

  ところが、父親の葬儀に、そのB氏が、来てしまったのだ。 呆れた事に、香典を持って来なかった。 受付で、訊かれると、平然と答えた。

「ああ、俺は、A家の者だから、そっちで出してあるはずだ」

  しかも、普段着である。 喪章もつけていない。

「ここの亭主とは、幼馴染みだからよー。 そんなの気にする間柄じゃないのさ」

  もちろん、E氏の方は、大いに気にしていた。 B氏の兄嫁は、E氏のそんな様子を見て、E氏の妻に、申しわけなさそうに、頭を下げた。

「ごめんなさいね。 うちで、報せたわけじゃないんだけど・・・」

  葬儀は、葬祭会館で行なわれ、食事は、火葬場で振舞われた。 E家に戻って来たのは、家族と親戚、ご近所の、10人ほど。 寿司がとられ、酒が出された。 故人を偲んで、しめやかに酒が酌み交わされたが、なんと、その中に、B氏が含まれていた。 こういう場には、来て欲しくない者ほど、決まって、来ているものなのだ。

  日が暮れ、午後7時を過ぎた頃、E氏の妻が、「娘の姿が見えない」と、騒ぎ出した。 娘は、17歳で、高校生である。 葬祭会館から戻って来る時には、家族と一緒だったのに、その後、二階の自室に着替えに上がったのを見たのが最後で、それきり、いなくなってしまったというのだ。 家の中にいないのは確実だが、人が、バタバタと出入りしていたから、いつ出て行ったのか分からない。

  座敷にいた客達も、ざわつき始め、みんなで捜そうという流れになった。 E家の娘が、年齢的にも、容姿的にも、変質者の餌食になり易い特徴があったので、みんな、そちらを心配していた。 みんなが、懐中電灯を借りて、外へ出かけようとしていた時、B氏が、こんな事を言った。

「Cの所にいるんじゃないか?」
「Cさんの家? なんで?」
「だって、あいつ、いい歳扱いて、独身だろう。 ここんちの娘に目をつけても、不思議じゃないぜ」

  逆恨み半分、思いつき半分の戯言である。 しかし、性犯罪目当てで、かどわかされた恐れがあると、みなが思っていたので、こんな戯言でも、一時的に、受け入れられてしまった。 B氏の兄が、その場にいて、

「そんな事はない。 Cさんは、ちゃんとした人だ。 話した事があるから、分かる」

  と言ったが、B氏が、すぐに、言い返した。

「確認するのは、無駄じゃないだろう。 すぐ、近くなんだし」

  そこへ、E氏の妻から電話を受けた、駐在所の警官がやって来た。 みんなで、C家へ行くというのを聞いて、一応、止めた。

「証拠もないのに、人の家に押しかけたら、まずいですよ。 家の中を調べるには、警察だって、令状がいるんだから」
「隠してないなら、堂々と調べさせるんじゃないか? とにかく、行くだけ行ってみて、損はない」

  と、これは、B氏。 自分に都合がいい屁理屈は、いくらでも、思いつくのだ。

  警官を含め、十数人で、夜の村内を歩いて行くが、他の家にも、声をかけながら進むので、集団はバラバラになり、B氏が一人だけ先に、C家に着いた。 元おばあちゃんの家である。

  C氏は、在宅だった。 B氏の顔を見て、あからさまに、眉を顰めた。

「なんだ? 何の用だ?」
「お前の所に、Eの娘がいるだろう」

  B氏は、C氏の応えも待たず、靴を脱いで、上がり込もうとした。 C氏が、B氏の肩を抑えて、上がるのを阻む。 C氏の力は強くて、そのまま、B氏を、玄関から外へ押し出した。 B氏は、勢いがついて、道路の方まで、後ずさりした。 そこから、遅れて来る者達が見えたので、大声で叫んだ。

「おおーい! ここにいるぞーっ!」

  他の者達が、早足で、ぞろぞろと駆けつけて来た。 多勢を頼みに、玄関まで押し戻したB氏が、鬼の首でも獲ったかのように、C氏を責め立てる。

「家の中を見せろ!」
「お前なんか、家に入れるか!」
「それ見ろ! 監禁してるから、見せられないんだ!」
「いい加減にしろ! お前、常識がないのか?」
「変質者が言う事か!」

  B氏の兄が、B氏に訊いた。

「おい。 中にいるのを見たんだろうな」
「見てないよ。 でも、いるに決まってる!」
「なんだ、見てないのか」

  その場にいた者の半数以上が、落胆した。 B氏のいい加減さを知っていたから、ただの思い込みだと、判断したのだ。 C氏が、警官に言った。

「別に、後ろ暗い事はないから、お巡りさん一人だけなら、上がって、調べて下さい」

  B氏も、勢いで、一緒に上がろうとしたが、C氏から、怒鳴りつけられた。

「お前は、ここにいろ! 謝るセリフを考えとけ!」

  B氏が目を血走らせて、殴りかかろうとしたのを、B氏の兄が押さえ込んだ。

「馬鹿! やめろ! 暴行罪で、手が後ろに回るぞ!」
「捕まるのは、こいつだっ!」

  警官を中に上げた時点で、E氏の娘が、この家にいない事が分かった者達は、他を捜しに、散り始めた。 やがて、警官が玄関に戻って来た。

「風呂場、トイレ、押入れも見ましたが、いませんね」

  B氏が、わめいた。

「天井裏は見たのか!?」
「高校生の娘さんでしょ? 天上裏に、どうやって、上げるんですか?」
「見てみなきゃ、分かんないだろう!」

  ここで、E氏が、B氏に言った。

「Bさん。 もういいから、Cさんに、謝ってよ」
「なんで、俺が!」
「勝手に疑って、迷惑かけたんだから、当然でしょ」

  周囲の無言の圧力を受けて、B氏は、あさっての方角を見ながら、C氏に言った。

「・・・、まあ、そういう事だ」
「なにい? 何がどういう事なんだ?」
「ちっ! その口の利き方がよぉ・・・。 お前も、この村に住むんなら、小作らしい態度を取れ」
「お前、小作と地主の意味が分かってて、言っているのか?」
「俺が地主で、お前が小作だよ」
「駄目だ、こいつ・・・」

  さすがに、その場にいた者全員が、笑い出した。 馬鹿もここまで来ると、笑ってしまうのである。 B氏は、一緒になって笑っていたが、C氏に肩を叩かれ、

「おい! 笑われてるのが、自分だって、分かっているのか?」

  と言われると、また、怒り出した。

「こいつだよ、誘拐犯は! どこかに隠してるんだ! ここらに、他に、変質者なんているか!」


  ところが、いたのである。 正確に言うと、村の人間ではなく、一時的に、村へ来ていた者だった。 しかし、純然たるよそ者というわけでもない。 ある家に、父親と一緒に来ていた、21歳の大学生だった。 父親は、村内の葬儀に行き、その大学生は、父親の実家に滞在していた。 留守番代わりである。

  6時頃、義理の伯母が帰って来たので、入れ替わりに、散歩に出た。 子供の頃に、父親に連れられて、よく来ていたから、近所の勝手は知っている。 一時間くらいかけて、溜池や共同墓地の方を回り、村の中心部の方へ向かって歩いていると、子供の頃に一緒に遊んだ事がある、女の子に出会った。

「ああ、久しぶり」
「はい・・・、どうも」
「大きくなったね。 今、高校生」
「はい」

  それまで、すっかり忘れていたのだが、ちょっと驚くほど、綺麗な娘になっていたのを見て、ムラムラと、欲情して来た。 都会で仕込んだ、女を口説くセリフを織り交ぜつつ、話をしながら歩き、空き家の前まで来ると、手首を掴んで引っ張り込み、濡れ縁で、狼藉に及ぼうとした。 狼藉などという言葉を使っては、誤解を招くか。 ズバリ言うと、性的暴行を仕掛けたのである。 強制性交に挑んだのである。

  しかし、その娘は、果敢に抵抗した。 押し倒されながらも、踏み石の上にあった、鼻緒の切れた下駄を掴み、大学生の頭を殴りつけた。 握り拳で、殴り返されたが、下駄は放さず、何度も何度も、殴った。 大学生は、体を起こし、ふらふらと後ずさりして、地面に倒れた。

  そこへ、空き家の向かいに住んでいる、小学生の女の子が、人を呼んで来た。 たまたま、近くにいたのが、B氏達だったので、B氏が一番早く、現場に到着した。 B氏は、一旦、立ち上がった大学生に、後ろから跳び蹴りを食らわせ、倒れたところを、腹を狙って、何度も蹴りつけた。 そんなに張り切っていたのは、E家で失敗をやらかしたので、手柄を挙げて、信用を回復しようと思っていたからである。

  捜索に当っていた人達が、集まって来た。 E家の娘は、顔を殴られて、頬骨の辺りが腫れていたが、着衣に大きな乱れはなく、性的暴行は未遂だった。 一方、大学生の方は、こめかみから、髪の中まで、下駄で殴られて出来た裂傷が走り、かなりの出血があった。 顔にかかった血のせいで、分かり難かったが、懐中電灯の光を当てて、最初に気づいたのは、B氏の兄だった。

「なんだ! Fじゃないか!」

  娘の近くで、周囲の者達に、武勇伝を語っていたB氏は、その名前を聞いて、喋る口が止まった。 Fは、B氏の息子だったのだ。 「泥棒を捕えてみれば、我が子なり」と言うが、強姦犯を捕らえてみたら、我が子だったのである。 周囲の人間も、言葉を失った。 Fは、意識がはっきりして来ると、喚くように言った。

「あの女が誘ったんだ! なのに、いざとなったら、急に騒いで、暴れ出しやがったんだ!」

  誰も、そんな事、信用しない。 よりによって、祖父の葬式の日に、男を誘う娘など、いるわけがない。 そこへ、空き家の向かいの家に住んでいる、小学生の女の子が、大声で言った。

「ちがう! その人が、むりやり、お姉ちゃんを、ひっぱってった! ちゃんと、見てたよ!」
「ガキの言う事なんか、信用できるか!」

  B氏の兄は、冷たく、言った。

「お前の言う事の方が、信用できん」
「伯父さん!」
「いいから、前をしまえ」
「へ?」

  Fのズボンは、ベルトが解かれ、前が開いて、勃起したままの性器がブリーフを押し上げていた。 B氏の兄は、穴があったら入りたい気持ちだった。

  Fは、駐在警官によって、暴行の現行犯で、逮捕された。 B氏は、その間、陰に隠れていたが、息子が連行される段になって、警官に近づいて、小声で言った。

「こいつは、血塗れだが、殴ったあの娘は、罪にならないのか?」
「正当防衛だから、ならんでしょう」
「とにかく、あの娘も、しょっぴけよ」
「被害者なんだから、必要ありません。 あとで、本署の係の者が、事情を聞く事になりますが」

  このやり取りを耳にした者が、他の者に伝え、その場の雰囲気は、緊張した。

「おい、B。 Eさんに、何か言う事はないのか?」
「俺がやったわけじゃない」
「お前の息子だろう」
「俺は、犯人を捕まえるのに貢献したんだ」
「お前、頭、大丈夫なのか?」
「お前こそ、口の利き方に気をつけろ! 小作のくせに!」

  B氏の兄が、怒鳴りつけた。

「黙れっ! この馬鹿めっ!」

  B氏の腕を掴むと、引きずるように、A家の方へ、連れ帰って行った。


  E家の娘は、病院に運ばれ、腫れた顔の治療を受けた上で、一晩、入院したが、翌日の昼過ぎには、家に戻った。 一時間もしない内に、B氏が、兄に連れられて、訪ねて来た。 E家の娘に、話があるという。 当然、謝るのだと思っていた娘の父親は、娘が寝ている部屋に案内した。 しばらくすると、娘の金切り声が聞こえて来たので、仰天して、両親と、B氏の兄とで、駆けつけた。

  興奮して、泣きじゃくっている娘の話では、B氏は、謝りに来たのではなかった。 Fに暴行されそうになった事実はないと、警察に言いに行けと、脅しに来たのであった。

「Fは、お前が誘ったって言ってたぞ。 実際、そうだったんじゃないか? 子供の頃、Fちゃん、Fちゃんて、なついてたじゃないか。 嫌いなわけじゃなかったんだろう。 なあ、お前の方が、誘ったんだよな。 小作の娘なら、地主を敵に回したら、どうなるか、分かってるよな。 お前の家は、ここに住んでられなくなるんだぞ」

  B氏の兄は、呆れ返った。 今までにも、何度も呆れ返って来たが、今度という今度は、心底、呆れ返った。 こいつはもう、人間ではない。 化け物だ。 昔話のヒーローがいたら、退治してもらわなければならないような、典型的な化け物なのだ。

  娘の悲鳴が大きかったので、近所の人達が、E家の前に集まって来ていた。 兄に引っ張られて、玄関から出てきたB氏は、いい機会だとばかり、演説をブチ始めた。

「こんな事件が起きたのは、Z村の恥だ! いいか、みんな、この事は、口外するなよ! 何もなかったんだ! 分かったな!」
「黙れ、馬鹿っ!」

  B氏に、兄がそう言うと、他の者も、それに続いた。

「村から、出て行け!」
「二度と来るな!」
「Aさん、あんたも、こんな奴とは、縁を切らなきゃ駄目だ! こいつは、言ったって、分かる奴じゃないんだ!」

  B氏は、顔を真っ赤にして、怒鳴り散らした。

「なんだと! 小作どもがっ! うちの先祖のお陰で、お前らの先祖が生きていられたんだろうが! どいつもこいつも、恩知らずが!」
「逆だ! 俺らの先祖が働いて、お前の先祖を食わしてやってたんだ! 恩知らずは、お前の方だ!」

  その場には、20人を超える人数がいたが、B氏以外の全員が、B氏を、睨みつけていた。 B氏は、口汚く、「小作!小作!」と罵りながら、兄に引きずられて、車に押し込められ、村から、出て行かされた。 その後、A家にも、出入り禁止にされてしまった。

  Fが拘留されている間に、B氏から、E家に電話があった。 E氏が、一応、言い分を訊いてみると、やはり、脅迫であった。

「何もなかった事にしないと、お前の娘の将来によくないぞ。 強姦されたなんて知れたら、結婚できなくなるからな」
「そんな心配は無用です。 未遂ですから。 こっちには、恥じるところなんて、何もないんですよ」

  B氏は、E家の娘の事件を揉み消す事ばかり考えていたが、全く別の所から、火の手が上がった。 Fが通っている大学で、女子学生が強姦される事件が幾つも起きており、強姦目的のグループがあると見られていたが、互いに、アリバイを証言するので、なかなか、尻尾を掴めなかった。 それが、今度の一件で、どうやら、その首班が、Fらしいと目星がついたのである。 E家の娘の事件は、父親の郷里にいた時に起こったので、アリバイの用意など、考えていなかったのだ。

  Fは、刑事に尋問されると、割と容易に、罪を認めた。 一つ認めてしまうと、あとは勢いがつき、まるで、自慢するかのように、ベラベラと喋りまくった。 嫌な容疑者だった。 担当刑事は、Fの話し方に、他人を見下す意識を感じ取った。

「これだけ、犯行を重ねて、被害者に悪いとは、全く思ってないのか?」

  Fは、小馬鹿にしたような口ぶりで言った。

「だって、そいつら、みんな、コサクじゃん」

  Fは、都会育ちで、B氏以上に、地主・小作の関係について、無知だった。 刑事が訊き返すと、小作の意味が、全く分かっていなかった。 ただ、「自分より格下で、見下していい連中」くらいの意味で使っているようだ。 刑事が、正しい知識を教えてやると、それまでに見せなかったような真顔で聞いていて、「ふーん。 そういう意味なんだ」と、カルチャー・ショックを受けたように見えた。

  その後、Fの態度が改まり、真面目に取り調べに応じるようになった。 ヘラヘラ笑いは影を潜め、神妙な罪人の顔になった。 最終的に、強姦の余罪が、10件以上出て来た。 送検され、起訴された。 検事の前でも、法廷でも、Fは、罪を認め、反省の言葉を口にした。

「恥ずかしい事ですが、この歳になるまで、他人というのを、勘違いしていました。 自分が何者なのか、ようやく、分かったような気がします」

  B氏は、息子の余罪が多かった事にも驚いたが、息子が罪を認めて反省している事に、もっと驚いた。 自分だったら、白を切って、あくまで、つっぱねてやるのに。 B氏は、息子を理解できなくなり、見限る事にした。 妻との間でも、息子の事を口にしなくなった。 妻が、裁判について、相談を持ちかけても、「うるさい! その話はするな!」と言って、その場から、逃げ出すようになった。

  裁判の結果、息子が実刑を言い渡され、B氏の妻、Dさんは、生きているのが、嫌になってしまった。 亭主が、穀潰しの、ろくでなしなので、息子に期待をかけていたのだが、強姦魔で、刑務所行きでは、将来も何もない。 パートで働いて、疲れて帰って来ても、家で待っているのは、袋ラーメンも作れないような、能なし亭主なのである。 結婚した時には、玉の輿に乗ったつもりでいたのが、とんだ、結末である。 離婚を切り出す気力もなく、置き手紙一つ残さずに逐電し、自殺の名所で、崖から身を投げ、あの世へ行ってしまった。

  息子は、拘置所から刑務所に移る寸前に、病死した。 死因は、内臓破裂だったが、なぜ、そんな事になったのかは、分からずじまいだった。 収監後には、思い当たる事はなかったから、逮捕前に、腹を、何かに強くぶつけるか、蹴られるかして、損傷した内蔵が、次第に悪化し、破裂に至ったと考えられた。 しかし、検事も、刑事も、逮捕の際の詳しい経緯を知らず、すでに、裁判が終わっていた事もあり、それ以上、調べなかったのだ。

  B氏は、息子の死と、死因を知らされたが、まさか、腹を蹴ったのは自分だとも言えず、黙っていた。 息子の事は、とっくに見限っていたので、特に、悪い事をしたとも、気の毒とも思わなかった。 逆に、自分を必死で慰めた。 息子と知らなかったから、蹴ったのだ。 知ってたら、蹴るものか。 あれは、事故のようなものだったのだと、自分で自分に言い聞かせて、罪悪感に打ち勝とうと努力した。

  B氏は、妻の葬儀を、普通に出したが、5段階ある内、最上クラスを頼み、自分や妻の友人・知人らをに声をかけて、200人も人を集め、500万円も使ってしまった。 愚かにも、葬式は、大きければ大きいほど、黒字になると思っていたのである。 それは、参列者が、高額な香典を持ち寄る、芸能人・政治家・著名人など、特殊な場合だという事を知らなかったのだ。 結果は、300万円の赤字。 乏しい預金が更に減った。

  それに懲りて、息子の時には、ゼロ葬にした。 Fのグループに、強姦された被害者達の事を思えば、ゼロ葬でも、気の毒がってやる必要はないだろう。 ちなみに、A家の兄夫婦は、どちらの葬儀にも、顔を出さなかった。 もう、完全に、見放されていた。 電話をしても、すぐに切られてしまった。 遺骨を入れる墓がなくて、分譲墓地を買ったが、それで、また、200万円、消えた。

  B氏は、一人になった。 預金を取り崩して暮らす生活だから、三人よりは、二人、二人よりは一人の方が、もちはいい。 しかし、家事全般に、経験値が低過ぎて、すぐに、生活に困ってしまった。 といって、外食したり、惣菜弁当を買ったりしていたのでは、たちまち、お金がなくなってしまう。 食事をたかろうと、こっそり、実家に帰ってみたが、顔を見せるなり、兄嫁に、洗面器で、水をぶっかけられた。

「二度と来るなって、言っただろっ! 疫病神がっ!」

  兄嫁が、警察に電話をかけるのを見て、急いで、逃げ出した。 逃げる途中で、村人に見つかり、石を投げられた。

「おーい! Bがいるぞーっ!」

  一人二人ではなく、次々と、家から出て来た者が、手当たり次第、物を投げつけて来た。 束子、洗面器、バケツ、形が悪くて出荷しなかった野菜、薪、煉瓦、鎌、鉈、手斧、等々。 もはや、人間扱いされていなかった。 命からがら、逃げのびた。

  間もなく、B氏は、アパートの自室で、火事を出して、焼け死んだ。 アパートは半焼したものの、他に犠牲者が出なかったのは、不幸中の幸いだった。 火元は、ガス・レンジだったが、何がどう燃えたのかは分からない。 何もできない人だったから、操作ミスである可能性は高い。 B氏が死んで、A家の者や、Z村の者は、一様に、ホッとした。 この世界は、ごく僅かだが、良くなったのである。