読書感想文・蔵出し (97)
読書感想文です。 在庫を減らす為に、今月は三回、読書感想文を出します。 それでも、いつ、終わるか分からないほど、溜まってしまいました。
≪ポケットにライ麦を≫
クリスティー文庫 40
早川書房 2003年11月15日/初版
アガサ・クリスティー 著
宇野利泰 訳
沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【ポケットにライ麦を】は、コピー・ライトが、1953年になっています。 約379ページ。
投資信託会社の社長が、会社で毒殺されるが、そのポケットには、ライ麦が一つかみ入っていた。 続いて、社長の屋敷で、小間使いが絞殺されるが、その鼻は洗濯挟みで抓まれていた。 ほぼ、時を同じくして、社長の若い後妻が、毒殺される。 かつて、その小間使いに仕事を教えた立場のマープルが、社長の屋敷に乗り込み、担当の警部に向かって、「くろつぐみの童謡」の見立て殺人だと告げる。 社長は、昔、アフリカにある「くろつぐみ鉱山」を巡って、人を騙した経歴がある事が分かり・・・、という話。
これだけでは、全然、分かりませんな。 社長には、二人の息子がいて、長男が、会社の仕事をし、次男は、外国を放浪しているという設定。 ごく最近、次男が社長に呼び戻されて、会社の仕事を手伝うように誘われていたというのですが、その前に、社長が死んでしまうわけです。 長男にも次男にも、妻がおり、社長の屋敷には、前妻の姉も同居していて、フー・ダニットを成立させる頭数は、充分、揃っています。
マープルは、普段、友人・知人から頼まれたり、成り行き上、巻き込まれたりして、事件に関わるのですが、この作品では珍しく、自発的に事件に首を突っ込んできます。 小間使いの敵をとるのが、その目的。 こういう、熱い面もあるわけだ。 しかし、今までの作品で見せていたのと、明らかに異なる性向なので、ちょっと、不似合いな感じがしないでもなし。
自分から関わって来ただけあって、積極的に聞き取りをしますが、その場面は、あまり描かれません。 専ら、捜査の様子が追われるのは、警部の方です。 時折り、二人で情報交換をしますが、警部の読みは、的外れで、マープルに、謎解きと犯人指名をされて、仰天する有様は、読者からすると、小気味良いです。 この警部、決して、無能ではなく、むしろ、切れ者なのですが、その上を行くのが、田舎暮らしのおばあさんなのだから、尚の事、痛快。
私だけの感想かもしれませんが、この作品は、これまでに読んだマープル物の中では、最も、読み応えがありました。 もちろん、面白かったです。 犯人は、意外な人物なのに、説明されると、スッと腑に落ちるのも、してやられた感、あり。 クリスティー作品の上物を読んだ時にだけ感じる、不思議な気持ちに酔わされるのです。
マープルは、警部相手に、謎解きと犯人指名をした後、犯人が逮捕される前に、屋敷を去ってしまうのですが、それも、カッコいいですねえ。 これから、大変な目に遭う人達を、済まし顔で置いて行くところが、実に、ドライ。 ラストは、ウェットになりますが、おそらく、マープルは、殺された小間使いを、可愛がっていたんでしょうねえ。 出来の悪い子ほど、可愛いと言いますから。
≪鏡は横にひび割れて≫
クリスティー文庫 42
早川書房 2004年7月15日/初版 2018年3月25日/8刷
アガサ・クリスティー 著
橋本福夫 訳
沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【鏡は横にひび割れて】は、コピー・ライトが、1962年になっています。 約438ページ。
【書斎の死体】の舞台になった屋敷を買った有名な映画女優。 屋敷で開かれたパーティーの席で、招待された女性が、毒殺される。 女優が手にしていたグラスを貰い受けて飲んだ事から、狙われたのは、女優の方ではないかと考えられた。 女性は、死ぬ直前、過去に女優と会った時の話をしていて、それを聞いていた女優の表情がおかしかったという証言があり・・・、という話。
この話、1980年のイギリス映画、≪クリスタル殺人事件≫で、先に見ていて、犯人も覚えていたので、正直、小説の方は、楽しめませんでした。 犯人が分かっていると、こんなにもつまらないものか。 フー・ダニットの体裁を取っているから、大勢、怪しい人物が出て来るわけですが、犯人が誰が分かっていると、それ以外の人物への聞き取りや、間違った推理を読むのが、面倒に感じられて、つい、飛ばし読みになってしまうのです。
とはいえ、それは、私が、犯人を知っていたからであって、小説から先に読む人達にとっては、たぶん、相当には面白い作品だと思います。 動機が、要でして、この動機に気づく人は、まず、いますまい。 マープルに指摘されて、「あっ!」と驚くのは、請け合い。 マープル物で、映画化されたというと、≪クリスタル殺人事件≫だけなのではないかと思うのですが、12作ある長編の内、この作品が選ばれたのは、理由がある事で、やはり、一番、面白いと思われたんでしょうねえ。
以下、ネタバレ、あり。 なるべく、分かり難く書きますが、勘の鋭い人で、これから、この小説を読もうという人は、以下を読まないで下さい。 勝手に感づいて、小説を読む時に、白けてしまっても、責任持ちません。
とにかく、動機が意表を突くのですが、それは別として、作者が書きたかったのは、ある性格だと思います。 被害者側の性格に問題があり、それが元になって、十年以上経ってから、殺害されるわけです。 「自分の事しか頭にない。 自分がやりたい事をやり、それが、他人にどういう迷惑を及ぼすか、全く考えていない」というのですが、確かに、そういう人は、存在しますな。 おそらく、クリスティーさんの周囲にも、そういう性格の人間がいて、嫌な思いをさせられたのでしょう。
で、そういう性格の人間がしでかすであろう、最も迷惑な事を想像し、こういう設定を組み立てて行ったのではないでしょうか。 迷惑どころでは済まない事で、確かに、これは、殺されても仕方がないなと思わせます。 人生が変わってしまったわけですから。 今、新型肺炎禍で、感染が身近な恐怖になっているので、この大迷惑は、想像し易いと思います。 「悪気はなかった」など、言いわけになりません。
もう一人、困った性格の人間が出て来ます。 マープルの付き添い人の、ミス・ナイト。 家政婦や小間使いとは別ですが、具体的に、どんな仕事をしているのかは、分かり難いです。 とにかく、マープルの家にいて、あれやこれやと、指図をするのです。 自分の判断が一番正しいと思っていて、雇い主のマープルにさえ、それを押し付けようとするのだから、癇に障るなという方が、無理難題。
この性格は、強烈な支配欲から来るものでしょう。 そういう人は、多数派と言っていいくらい、大勢いますが、自分の生活だけ構っていれば、別に問題ありません。 ところが、他人と関わると、害毒を垂れ流します。 ましてや、他人の世話をするなど、言語道断。 なんで、こんな奴の指図を聞かなきゃならんのか。 このタイプも、クリスティーさんの周囲に実在して、うんざりさせられた経験があるんじゃないでしょうか。
本来、問題がある性格を描くのが、作者の執筆動機だったのだと思いますが、たまたま、推理小説の枠に、うまく嵌ったので、推理小説として書いたのでしょう。 ちなみに、映画の方は、被害者の性格について、それほど深く、描き込んではいなかったと思います。 おそらく、この作品を原作に選んだ映画製作関係者の面々も、この作品の面白さの源が、異常性格の描写にあるとは気づいていなかったのではないでしょうか。
≪バートラム・ホテルにて≫
クリスティー文庫 44
早川書房 2004年7月15日/初版 2019年5月15日/7刷
アガサ・クリスティー 著
乾信一郎 訳
沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【バートラム・ホテルにて】は、コピー・ライトが、1965年になっています。 約403ページ。
戦争を境に、様変わりしてしまったロンドンで、戦前からの雰囲気を残していると見做されている、バートラム・ホテル。 甥の計らいで、二週間、滞在する事になったマープルは、戦前の様子と比べて、似てはいるが、何か違うものを感じていた。 ある日、物忘れの激しい牧師が行方不明になり、ホテルの前で、発砲による殺人事件が起こる。 地道な捜査を続ける担当警部に、マープルが助言を与え、ホテルの謎を解き明かす話。
変わっています。 フー・ダニット物ではないです。 推理小説ではあるけれど、らしくないというか、スパイ物に近いところもあります。 とにかく、他のマープル物にはないタイプの話。 マープルその人も、活躍するとは言えません。 別に、マープルでなくても務まるような役でして、元々、ノン・シリーズとして書いていたのを、何かの事情で、マープル物に直したのではないかと、勘繰りたくなります。
トリックあり、謎あり。 トリックは、なりすまし物で、それが解けるところだけ、ちょっと、面白いですが、ストーリー上は、あまり大きな意味を持っていません。 謎は、専ら、物忘れのひどい牧師に関わる事ですが、この牧師のキャラは、面白いです。 こんな人でも、何かの仕事が務まるんですな。 こうと、忘れまくられては、周囲は迷惑でしょうけど。
細かい部分には、面白いところもありますが、マープルが、探偵役として不完全燃焼しているところが、残念ですし、ラストで判明する、ホテルの謎が、大き過ぎて、嘘臭いところが、大いに戴けません。 相手の組織が大きくなればなるほど、個人探偵や、少人数の警察官では、勢力が、アン・バランスになってしまうからです。 推理小説の悪役に、暴力団が出て来ないのは、そういう理由。
≪パディントン発4時50分≫
クリスティー文庫 41
早川書房 2003年10月15日/初版 2006年4月30日/3刷
アガサ・クリスティー 著
松下祥子 訳
沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【パディントン発4時50分】は、コピー・ライトが、1957年になっています。 約410ページ。
列車に乗っていた老婦人が、ほんの僅かな時間、隣の線路を並走し、抜き去って行った別の列車の中で、女が男に絞め殺されている様子を目撃する。 すぐに、鉄道関係者や警察に報告したが、死体は見つからず、それ以上の捜査は行われなかった。 老婦人が、友人のマープルに話したところ、彼女は、その話を信じて、推理を働かせ、死体があると思われる屋敷に、自分が雇ったスーパー家政婦を派遣する。 その一家には、遺産を巡って緊張関係にある、吝嗇な主と、3人の息子、1人の娘がおり、納屋に置かれている石棺の中には・・・、という話。
まー、とにかく、この導入部は、素晴らしい。 100点満点で、1億点を進呈したいくらい、天晴れな出来です。 今までに読んだ推理小説の中で、これだけ、ゾクゾクさせる導入部を持った作品は、一つもありませんでした。 導入部だけの勝負なら、≪そして誰もいなくなった≫や、≪アクロイド殺し≫と比較しても、圧勝ですな。
抜き去って行く列車の中で行なわれている殺人を、リアル・タイムで目撃するという場面が、もう、たまりませんが、それに続く、スーパー家政婦の派遣が、また、面白い。 マープルは、歳を取り過ぎた上に、病み上がりで、精力的に動けないので、過去に雇って、有能さを知っている女性に声をかけ、今度は、家事ではなく、探偵助手をさせようという寸法。 マープルの推理通り、屋敷内で死体が発見されるまでは、ゾクゾクのし通しです。 これを、導入部の傑作と言わずして、何と言おうか。 いいや、何とも言いようがあろうはずがない。
しかし、警察の捜査が始まった後は、割と普通の、フー・ダニット物になります。 つまらなくはないけれど、ノリが悪くなるのは、否定のしようがありません。 語り始めが、面白過ぎたんですな。 しかし、フー・ダニット物の出来としては、上の中くらいで、平均よりは、ずっと上です。
列車内で殺された女の事件が解決しないまま、一家の者が、バタバタと毒殺されて行くのですが、3分の2くらいまで読んだところで、「犯人は、この人では?」と思わせる人物が浮上してきます。 遺産相続で得をするわけではないので、「一見、容疑圏外にいると思わせて、実は、性格上の欠陥から、殺害の動機が発生していたのでは?」と、読者は思うのですが、最後まで読むと、違うんですな、これが。 わははは! まーた、だまされてしまいましたよ。 クリスティーさんは、読者に目晦ましを食らわすのが、実に巧い。 名人芸です。
読者が、犯人を推理するのは、大変、難しいです。 謎解きを読むと、「このくらい容疑が薄い人が犯人なら、他の人でも、犯人にできるのでは?」とも思いますが、フー・ダニット物とは、本質的に、そういうものなのでしょう。
とはいえ、この作品、導入部だけでも、読む価値は、充分にあります。 なぜ、こんなにゾクゾクするのか、それを究明するのも面白いと思います。 推理作家を目指している人は、是非、研究していただきたいもの。
以上、四冊です。 読んだ期間は、2022年の、
≪ポケットにライ麦を≫が、10月5日から、9日。
≪鏡は横にひび割れて≫が、10月13日から、16日。
≪バートラム・ホテルにて≫が、10月17日から、19日まで。
≪パディントン発4時50分≫が、10月28日から、10月31日まで。
今回紹介分も、全て、マープル物です。 この記事を纏めている時、ちょうど、BS11で、2000年代前半に作られた、マープル物のドラマ・シリーズを放送していて、見ているんですが、悪くはないものの、デビッド・スーシェさんのポワロ物に比べると、些か、スマートさに欠ける感があります。 しかし、ドラマ製作者が悪いのではなく、原作にしてからが、品質に、バラつきが大きいのです。 やはり、マープル物は、サブ・シリーズなんですなあ。
≪ポケットにライ麦を≫
クリスティー文庫 40
早川書房 2003年11月15日/初版
アガサ・クリスティー 著
宇野利泰 訳
沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【ポケットにライ麦を】は、コピー・ライトが、1953年になっています。 約379ページ。
投資信託会社の社長が、会社で毒殺されるが、そのポケットには、ライ麦が一つかみ入っていた。 続いて、社長の屋敷で、小間使いが絞殺されるが、その鼻は洗濯挟みで抓まれていた。 ほぼ、時を同じくして、社長の若い後妻が、毒殺される。 かつて、その小間使いに仕事を教えた立場のマープルが、社長の屋敷に乗り込み、担当の警部に向かって、「くろつぐみの童謡」の見立て殺人だと告げる。 社長は、昔、アフリカにある「くろつぐみ鉱山」を巡って、人を騙した経歴がある事が分かり・・・、という話。
これだけでは、全然、分かりませんな。 社長には、二人の息子がいて、長男が、会社の仕事をし、次男は、外国を放浪しているという設定。 ごく最近、次男が社長に呼び戻されて、会社の仕事を手伝うように誘われていたというのですが、その前に、社長が死んでしまうわけです。 長男にも次男にも、妻がおり、社長の屋敷には、前妻の姉も同居していて、フー・ダニットを成立させる頭数は、充分、揃っています。
マープルは、普段、友人・知人から頼まれたり、成り行き上、巻き込まれたりして、事件に関わるのですが、この作品では珍しく、自発的に事件に首を突っ込んできます。 小間使いの敵をとるのが、その目的。 こういう、熱い面もあるわけだ。 しかし、今までの作品で見せていたのと、明らかに異なる性向なので、ちょっと、不似合いな感じがしないでもなし。
自分から関わって来ただけあって、積極的に聞き取りをしますが、その場面は、あまり描かれません。 専ら、捜査の様子が追われるのは、警部の方です。 時折り、二人で情報交換をしますが、警部の読みは、的外れで、マープルに、謎解きと犯人指名をされて、仰天する有様は、読者からすると、小気味良いです。 この警部、決して、無能ではなく、むしろ、切れ者なのですが、その上を行くのが、田舎暮らしのおばあさんなのだから、尚の事、痛快。
私だけの感想かもしれませんが、この作品は、これまでに読んだマープル物の中では、最も、読み応えがありました。 もちろん、面白かったです。 犯人は、意外な人物なのに、説明されると、スッと腑に落ちるのも、してやられた感、あり。 クリスティー作品の上物を読んだ時にだけ感じる、不思議な気持ちに酔わされるのです。
マープルは、警部相手に、謎解きと犯人指名をした後、犯人が逮捕される前に、屋敷を去ってしまうのですが、それも、カッコいいですねえ。 これから、大変な目に遭う人達を、済まし顔で置いて行くところが、実に、ドライ。 ラストは、ウェットになりますが、おそらく、マープルは、殺された小間使いを、可愛がっていたんでしょうねえ。 出来の悪い子ほど、可愛いと言いますから。
≪鏡は横にひび割れて≫
クリスティー文庫 42
早川書房 2004年7月15日/初版 2018年3月25日/8刷
アガサ・クリスティー 著
橋本福夫 訳
沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【鏡は横にひび割れて】は、コピー・ライトが、1962年になっています。 約438ページ。
【書斎の死体】の舞台になった屋敷を買った有名な映画女優。 屋敷で開かれたパーティーの席で、招待された女性が、毒殺される。 女優が手にしていたグラスを貰い受けて飲んだ事から、狙われたのは、女優の方ではないかと考えられた。 女性は、死ぬ直前、過去に女優と会った時の話をしていて、それを聞いていた女優の表情がおかしかったという証言があり・・・、という話。
この話、1980年のイギリス映画、≪クリスタル殺人事件≫で、先に見ていて、犯人も覚えていたので、正直、小説の方は、楽しめませんでした。 犯人が分かっていると、こんなにもつまらないものか。 フー・ダニットの体裁を取っているから、大勢、怪しい人物が出て来るわけですが、犯人が誰が分かっていると、それ以外の人物への聞き取りや、間違った推理を読むのが、面倒に感じられて、つい、飛ばし読みになってしまうのです。
とはいえ、それは、私が、犯人を知っていたからであって、小説から先に読む人達にとっては、たぶん、相当には面白い作品だと思います。 動機が、要でして、この動機に気づく人は、まず、いますまい。 マープルに指摘されて、「あっ!」と驚くのは、請け合い。 マープル物で、映画化されたというと、≪クリスタル殺人事件≫だけなのではないかと思うのですが、12作ある長編の内、この作品が選ばれたのは、理由がある事で、やはり、一番、面白いと思われたんでしょうねえ。
以下、ネタバレ、あり。 なるべく、分かり難く書きますが、勘の鋭い人で、これから、この小説を読もうという人は、以下を読まないで下さい。 勝手に感づいて、小説を読む時に、白けてしまっても、責任持ちません。
とにかく、動機が意表を突くのですが、それは別として、作者が書きたかったのは、ある性格だと思います。 被害者側の性格に問題があり、それが元になって、十年以上経ってから、殺害されるわけです。 「自分の事しか頭にない。 自分がやりたい事をやり、それが、他人にどういう迷惑を及ぼすか、全く考えていない」というのですが、確かに、そういう人は、存在しますな。 おそらく、クリスティーさんの周囲にも、そういう性格の人間がいて、嫌な思いをさせられたのでしょう。
で、そういう性格の人間がしでかすであろう、最も迷惑な事を想像し、こういう設定を組み立てて行ったのではないでしょうか。 迷惑どころでは済まない事で、確かに、これは、殺されても仕方がないなと思わせます。 人生が変わってしまったわけですから。 今、新型肺炎禍で、感染が身近な恐怖になっているので、この大迷惑は、想像し易いと思います。 「悪気はなかった」など、言いわけになりません。
もう一人、困った性格の人間が出て来ます。 マープルの付き添い人の、ミス・ナイト。 家政婦や小間使いとは別ですが、具体的に、どんな仕事をしているのかは、分かり難いです。 とにかく、マープルの家にいて、あれやこれやと、指図をするのです。 自分の判断が一番正しいと思っていて、雇い主のマープルにさえ、それを押し付けようとするのだから、癇に障るなという方が、無理難題。
この性格は、強烈な支配欲から来るものでしょう。 そういう人は、多数派と言っていいくらい、大勢いますが、自分の生活だけ構っていれば、別に問題ありません。 ところが、他人と関わると、害毒を垂れ流します。 ましてや、他人の世話をするなど、言語道断。 なんで、こんな奴の指図を聞かなきゃならんのか。 このタイプも、クリスティーさんの周囲に実在して、うんざりさせられた経験があるんじゃないでしょうか。
本来、問題がある性格を描くのが、作者の執筆動機だったのだと思いますが、たまたま、推理小説の枠に、うまく嵌ったので、推理小説として書いたのでしょう。 ちなみに、映画の方は、被害者の性格について、それほど深く、描き込んではいなかったと思います。 おそらく、この作品を原作に選んだ映画製作関係者の面々も、この作品の面白さの源が、異常性格の描写にあるとは気づいていなかったのではないでしょうか。
≪バートラム・ホテルにて≫
クリスティー文庫 44
早川書房 2004年7月15日/初版 2019年5月15日/7刷
アガサ・クリスティー 著
乾信一郎 訳
沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【バートラム・ホテルにて】は、コピー・ライトが、1965年になっています。 約403ページ。
戦争を境に、様変わりしてしまったロンドンで、戦前からの雰囲気を残していると見做されている、バートラム・ホテル。 甥の計らいで、二週間、滞在する事になったマープルは、戦前の様子と比べて、似てはいるが、何か違うものを感じていた。 ある日、物忘れの激しい牧師が行方不明になり、ホテルの前で、発砲による殺人事件が起こる。 地道な捜査を続ける担当警部に、マープルが助言を与え、ホテルの謎を解き明かす話。
変わっています。 フー・ダニット物ではないです。 推理小説ではあるけれど、らしくないというか、スパイ物に近いところもあります。 とにかく、他のマープル物にはないタイプの話。 マープルその人も、活躍するとは言えません。 別に、マープルでなくても務まるような役でして、元々、ノン・シリーズとして書いていたのを、何かの事情で、マープル物に直したのではないかと、勘繰りたくなります。
トリックあり、謎あり。 トリックは、なりすまし物で、それが解けるところだけ、ちょっと、面白いですが、ストーリー上は、あまり大きな意味を持っていません。 謎は、専ら、物忘れのひどい牧師に関わる事ですが、この牧師のキャラは、面白いです。 こんな人でも、何かの仕事が務まるんですな。 こうと、忘れまくられては、周囲は迷惑でしょうけど。
細かい部分には、面白いところもありますが、マープルが、探偵役として不完全燃焼しているところが、残念ですし、ラストで判明する、ホテルの謎が、大き過ぎて、嘘臭いところが、大いに戴けません。 相手の組織が大きくなればなるほど、個人探偵や、少人数の警察官では、勢力が、アン・バランスになってしまうからです。 推理小説の悪役に、暴力団が出て来ないのは、そういう理由。
≪パディントン発4時50分≫
クリスティー文庫 41
早川書房 2003年10月15日/初版 2006年4月30日/3刷
アガサ・クリスティー 著
松下祥子 訳
沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【パディントン発4時50分】は、コピー・ライトが、1957年になっています。 約410ページ。
列車に乗っていた老婦人が、ほんの僅かな時間、隣の線路を並走し、抜き去って行った別の列車の中で、女が男に絞め殺されている様子を目撃する。 すぐに、鉄道関係者や警察に報告したが、死体は見つからず、それ以上の捜査は行われなかった。 老婦人が、友人のマープルに話したところ、彼女は、その話を信じて、推理を働かせ、死体があると思われる屋敷に、自分が雇ったスーパー家政婦を派遣する。 その一家には、遺産を巡って緊張関係にある、吝嗇な主と、3人の息子、1人の娘がおり、納屋に置かれている石棺の中には・・・、という話。
まー、とにかく、この導入部は、素晴らしい。 100点満点で、1億点を進呈したいくらい、天晴れな出来です。 今までに読んだ推理小説の中で、これだけ、ゾクゾクさせる導入部を持った作品は、一つもありませんでした。 導入部だけの勝負なら、≪そして誰もいなくなった≫や、≪アクロイド殺し≫と比較しても、圧勝ですな。
抜き去って行く列車の中で行なわれている殺人を、リアル・タイムで目撃するという場面が、もう、たまりませんが、それに続く、スーパー家政婦の派遣が、また、面白い。 マープルは、歳を取り過ぎた上に、病み上がりで、精力的に動けないので、過去に雇って、有能さを知っている女性に声をかけ、今度は、家事ではなく、探偵助手をさせようという寸法。 マープルの推理通り、屋敷内で死体が発見されるまでは、ゾクゾクのし通しです。 これを、導入部の傑作と言わずして、何と言おうか。 いいや、何とも言いようがあろうはずがない。
しかし、警察の捜査が始まった後は、割と普通の、フー・ダニット物になります。 つまらなくはないけれど、ノリが悪くなるのは、否定のしようがありません。 語り始めが、面白過ぎたんですな。 しかし、フー・ダニット物の出来としては、上の中くらいで、平均よりは、ずっと上です。
列車内で殺された女の事件が解決しないまま、一家の者が、バタバタと毒殺されて行くのですが、3分の2くらいまで読んだところで、「犯人は、この人では?」と思わせる人物が浮上してきます。 遺産相続で得をするわけではないので、「一見、容疑圏外にいると思わせて、実は、性格上の欠陥から、殺害の動機が発生していたのでは?」と、読者は思うのですが、最後まで読むと、違うんですな、これが。 わははは! まーた、だまされてしまいましたよ。 クリスティーさんは、読者に目晦ましを食らわすのが、実に巧い。 名人芸です。
読者が、犯人を推理するのは、大変、難しいです。 謎解きを読むと、「このくらい容疑が薄い人が犯人なら、他の人でも、犯人にできるのでは?」とも思いますが、フー・ダニット物とは、本質的に、そういうものなのでしょう。
とはいえ、この作品、導入部だけでも、読む価値は、充分にあります。 なぜ、こんなにゾクゾクするのか、それを究明するのも面白いと思います。 推理作家を目指している人は、是非、研究していただきたいもの。
以上、四冊です。 読んだ期間は、2022年の、
≪ポケットにライ麦を≫が、10月5日から、9日。
≪鏡は横にひび割れて≫が、10月13日から、16日。
≪バートラム・ホテルにて≫が、10月17日から、19日まで。
≪パディントン発4時50分≫が、10月28日から、10月31日まで。
今回紹介分も、全て、マープル物です。 この記事を纏めている時、ちょうど、BS11で、2000年代前半に作られた、マープル物のドラマ・シリーズを放送していて、見ているんですが、悪くはないものの、デビッド・スーシェさんのポワロ物に比べると、些か、スマートさに欠ける感があります。 しかし、ドラマ製作者が悪いのではなく、原作にしてからが、品質に、バラつきが大きいのです。 やはり、マープル物は、サブ・シリーズなんですなあ。
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