2023/02/19

実話風小説 ⑬ 【高級車志向】

  「実話風小説」の13作目です。 普通の小説との違いは、情景描写や心理描写を最小限にして、文字通り、新聞や雑誌の記事のような、実話風の文体で書いてあるという事です。




【高級車志向】

  A氏は、バブル時代に、社会人になった世代である。 都会の大学を出て、全国チェーンの小売業界企業に就職。 38年間、専ら、デパート、スーパー、ショッピング・モールなどの出店を担当し、60歳で、定年退職した。 定年延長制度があったが、給料が半額になると聞いて、蹴ってしまった。 プライドの高い性格だったのである。

  A氏と言えば、友人・知人・同僚の間では、高級車に乗っている事で有名だった。 高校卒業前に、車の免許を取ったのは、まあ、普通の事だが、大学2年の頃から、中古の高級車に乗っていた。 2年間、アルバイトで稼いだお金を、全て注ぎ込んで、100万円近い中古を買ったのである。 まだ、現行で売っている最新型で、実は、事故車だったのだが、外見からは分からなかった。

  大学の友人達からは、「こんな都会で、車なんて、もってたって、使い難いだけだろう」と言われたが、A氏は、アパートを郊外に移してでも、車をもつ事に拘った。 平日は、電車で、片道1時間かけて、大学とバイトへ通い、車に乗れるのは、休みの日だけだったが、バッテリーが上がらないように乗る程度で、ドライブが好きなわけでもなく、改造に凝るわけでもなく、傍から見ると、何の為に車をもっているのか、理解できなかった。 まして、高級車など、全く、無用の長物ではないか。

  成人式には、実家のある地方都市まで、その高級車で帰省した。 700キロも離れており、友人達は、「危ないから、よせ」と言ったが、聞き入れなかった。 なぜというに、成人式に間に合わせる為に、2年間、必死で、バイトに励み、その車を買ったからだ。 成人式には、是が非でも、高級車で乗りつけなければならなかったのだ。

  友人達の心配通り、A氏の車は、帰省途中で、故障した。 事故車だから、無理をさせれば、そうなる可能性は高い。 見知らぬ土地で、レッカー車を呼び、最寄の整備工場に運んでもらった。 大物部品の交換が必要だと言われ、10万円も要求されたが、A氏は、預金を全部はたいて、直してもらった。 是が非でも、成人式に間に合わせなければならなかったのだ。

  成人式には、間に合った。 しかし、A氏は、喜びはしなかった。 是が非でも、車を見せたい相手が、来ていなかったからである。 他の、元同窓生達は、A氏が、都会の大学に行っているのに、高級車を所有している事に、驚いてくれた。 しかし、A氏は、喜ばなかった。 A氏が、車を自慢したい相手は、ただ一人だけだったのだ。

  A氏は、式が終わると、気分を腐らせたまま、実家へ帰ってしまった。 誰かを乗せて、遊びに行く事をしなかったのは、中に乗られると、事故車である事が分かってしまうからだった。 親からは、「なんで、そんな車を買ったんだ?」と訝られたが、A氏は、「この車種が好きなんだよ」と、テキトーにはぐらかした。 

  その後の大学時代は、これといって、車に関する出来事はない。 成人式が終わっても、車を手放す事はせず、ずっと、所有していた。 サークルの行事で、車を出す事があったが、乗せた友人から、内装が壊れている点を指摘されても、A氏は、無視していた。 その頃は、まだ、インター・ネットがなくて、自分で中古部品を買って直すという人はいなかった。 整備工場に頼むと、数十万かかってしまうから、直しようがなかったのだ。


  大学を卒業し、そのまま、都会で就職すると、給料とボーナスを、生活費以外、ギュッと切り詰めて、貯金に励み、400万円貯まると、新車に買い換えた。 別の車種だが、また、高級車である。 友人や同僚は、A氏が前の車を、気に入って、もっているのだと思っていたので、あっさり買い換えてしまった事に、意外さを感じた。

  アパートは、大学時代と変わらず、月極駐車場も、そのまま。 ただ、車だけが、ピカピカ新品の高級車に変わった。 しかし、相変わらず、通勤は電車で、車に乗るのは、休みの日に、ほんの一時間程度だけだった。

  周囲が不思議に思ったのは、A氏が、特に、見栄っ張りというわけではなく、服装や暮らし向き全般を見ると、ごく普通の青年だった事だ。 ある時、アパートの大家が、月極駐車場の前で、A氏と会い、ちょっと話になった。

「Aさんは、車に滅多に乗らないんだねえ」
「ええ、まあ・・・」
「いい車なのに、もったいないねえ。 もっと、安いのでもいいんじゃないの?」
「いやあ、いつ、どこで、誰と会うか分かりませんからねえ」

  よく分からない、応えである。 しかし、この言葉からも、A氏が高級車に拘っているのが、誰かを意識しての事である事が分かる。 成人式に間に合わせようとした点から見て、高校時代以前の知り合いだろう。 そして、A氏は、その相手の近況を知らない。 どこに住んでいるか分からないから、どこで会ってもいいように、用心しているのであろう。

  しかし、A氏が、その相手に会う事は、会社勤めをしていた38年間、一度もなかった。 その間に、結婚し、都会の郊外に家を買い、子供が生まれ、育った子供が、家を出て行き、夫婦二人だけになった。 車は、10回も買い換えていた。 車種は一定しないが、全て、高級車の最新型だった。 最新型でなければ、まずいのだ。

  仕事の方では、特に優秀というわけではなく、単身赴任が多くて、会社にいいように利用された方だった。 地方に赴任している時には、車が役に立った。 A氏は、最終的に、課長並み止まりだったが、車だけは、重役が運転手付きで乗っていてもおかしくないような、立派なものだった。 新しい赴任先で、同僚から、「いい車、乗ってますね」と言われる事が多かったが、A氏は、そういう人達に、車を自慢する事はなかった。 彼らに見せる為に、高級車に乗っているわけではなかったからだ。

  赴任先の、職場違いの同僚に、A氏と同じ車種に乗っている人物がいて、駐車場でA氏と会い、車について、話をした事があった。 その人物が、他の同僚に語った事。

「Aさんは、別に、車好きというわけじゃないようだな。 自分が乗っている車種の事でも、全然、興味がないみたいな話しぶりだったよ。 あの車も、グレードは最高だけど、後付けのアクセサリーは、一つも付けてないしな」
「それに、いつも、妙に汚れてませんか?」
「そうそう。 埃だらけだよな。 ワックスなんか、一度もかけてないと思うね。 洗車くらい、すればいいのに。 あれじゃ、塗装が駄目になっちまうよ。 たぶん、下取り価格は、相当、足元を見られるぜ」


  妻からは、A氏の高級車志向は、不評だった。 理由は明快。 価格が高い車を、5年もしない内に、買い換えていたから、それが、家計を圧迫していたのだ。 それでいて、妻が、自分用に、軽自動車を買おうとすると、A氏は、頑強に反対し、1000cc以上の車を薦めた。 軽自動車を、「危険だ」とか、「デザインがセコい」とか、「貧乏人が乗る車だ」とか、口汚く扱き下ろし、差額分は自分が出してやるから、1000cc以上の車を買えと言った。

  ちなみに、A氏は、軽自動車には、一度も乗った事がなく、乗せてもらった事さえもなかった。 乗った事がないのに、扱き下ろすのは、奇妙だったが、とにかく、周囲から見て、異常さを感じるほど、軽自動車を忌み嫌っていたのだ。

  息子が、車の免許を取り、車を買いたいと言った時にも、A氏と、揉めた。

「親父が、あのデカい車をやめて、軽にしてくれれば、俺が月極を借りなくても、家の車置き場に、3台置けるじゃないか」

  怒った怒った。

「とんでもない! 俺が軽なんか、乗るわけないだろう! お前も、軽は駄目だ! 父さんが、差額を出してやるから、1000cc以上のを買え。 月極の料金も、俺が出してやる」

  これは、必ずしも、息子にとって悪い話ではなかったので、揉めはしたものの、最終的には、A氏の意向が通った。 しかし、A氏の妻は、お金の事を心配していた。 息子は、これから、大学だというのに、家の貯金が、ほとんど、底をついていたからだ。 差額を出すと言うが、A氏本人に、それほどの蓄えがない事は、分かっていた。 息子に、ローンを組ませて、月毎に、少しずつ、援助してやる事になるのだろう。 そういう経済状況に、不安を覚えていたのだ。

  A氏の家では、妻も働いていたので、生活費は、夫婦で、6対4の割合で出し合っていた。 妻の方は、収入が少なくて、常に、カツカツ。 しかし、夫の方も、カツカツだった。 理由は、車の買い換えで、消えてしまうからであった。 家のローン、車のローン、学資ローン、借金だらけであった。

  息子は、大学を出ると、縁もゆかりもない地方都市に行って、就職した。 理由は言わなかったが、両親に貯金がないのを察知して、老後の世話をさせられないように、予め、遠隔地に退避したのだった。 距離を言いわけにすれば、いずれ親から来るであろう、様々な頼み事を、断ったり拒んだりするのに、都合がいいと踏んだのである。

  A氏の家は、夫婦二人になっても、依然、家計がカツカツ、というか、完全な赤字だった。 理由は全て、A氏の高級車志向に尽きる。 それまで乗っていた車種に新型が出て、型落ちになるやいなや、買い換えるので、お金が幾らあっても足りるわけがない。 そのつど、夫婦で口論になるが、A氏は、なぜ、そんなに、新型の高級車に拘るのか、妻が納得できる理由を口にしなかった。

「物欲に、理由なんか、あるか」

  の一言で、ごまかそうとした。 だが、理由はあった。 隠していただけなのだ。

  しょっちゅう、単身赴任に出されていたA氏は、よくある事であるが、赴任先で女を作っていた。 各地方に、何人かいたが、その話を打ち明けたのは、一人の女性だけである。 妻や、他の浮気相手とは違って、母親のような包容力を感じさせる女性だった。 親しくなっても、馴れ馴れしい態度にならず、どんな事でも真面目に聞いてくれる相手に、心を許して、秘密を打ち明けたのだ。

  A氏が、高校3年生の2月、もうすぐ、卒業式という時期の事である。 すでに、授業らしい授業はなく、教室で、同級生達と、ガヤガヤ話をしていた。 A氏を始めとして、そこにいた面子のほとんどが、車の免許を取ったばかりで、どんな車を買うかが話題になっていた。 A氏は、大学進学組だったが、

「せっかく、免許を取ったんだし、運転を忘れるのも嫌だから、都会の郊外に住んで、車を買おうと思う」

  と、話していた。 そこへ、すぐ隣のグループで話をしていた、B氏が、振り向いて、A氏に声をかけた。

「なになに? Aって、車買うの? 軽?」

  A氏は、馬鹿にされたと思って、ムッとし、返事をしなかった。 B氏は、自分のグループで、話が盛り上がっていたせいで、少し、ハイな精神状態にあり、A氏が返事をしなくても、気にした様子もなく、また、自分のグループに戻って、会話を続けた。

  このB氏だが、実は、A氏の恋敵だった。 といっても、三角関係というのではなく、A氏が片思いしている女子が、B氏と交際しているという噂があり、A氏が勝手に、B氏を恋敵として、憎んでいたのだ。 そういう相手から、馬鹿にされたわけだから、A氏は、額に血管が浮き出るほど、腹を立てたが、卒業が近いタイミングで、喧嘩をするのもどうかと思い、怒りを鎮める事に努力した。

  A氏の高級車志向の発端は、そんな事だったのだ。 にっくき恋敵から、「おまえなんか、軽自動車がお似合いだ」と言われて、鶏冠に来た。 その反動で、高級車ばかり、乗り継いで来たのだ。 偏えに、いつか、B氏に出会った時に、馬鹿にされないように、馬鹿にし返せるように、準備して来たのである。

「成人式に、Bは来なかった。 どうせ、ろくでもない人生を送っているんだろう。 それに引き替え、俺は、一流企業に就職して、高級車に乗っている。 圧勝じゃないか。 見ろ、この車を! お前は、こんなのに乗れる人間になったのか?」

  と・・・。 他人から見ると、大変、下らない執着だが、人間の本性なんて、そんなものなのだろう。 気の毒なのは、そんな低次元な戦いに巻き込まれた、A氏の妻であるが、彼女にも、後ろ暗い判断ミスはあった。 バブル時代に結婚したから、「乗っている車で、男を選ぶ」という、今考えると、途轍もなく馬鹿馬鹿しい理由で、A氏と交際を始めてしまったのである。

  高級車に乗っている男が、即、金持ちや、高給取りではないという事を、結婚してから知ったわけだ。 金持ちどころか、高級車志向のせいで、むしろ、平均より、遥かに貧乏なのである。 それも、破滅的なレベルで。

  A氏が定年になった途端、A家では、家のローンが返せなくなった。 妻は、まだ、パートで働いていたが、貯金が、なくなってしまったのだ。 正確に言うと、ローンを返し続けて、食費をゼロにするか、家を処分して、食費を確保するか、どちらかしか選べなくなった。 食べないわけには行かないので、とりあえず、妻の車を売って、当座の食費を確保した。

  A氏の車は、まだ、買い換えたばかりで、売れば、300万円くらいになると思われたが、当然のごとく、A氏は、頑として、首を縦に振らなかった。 「車を売るくらいなら、働きに出る!」と、啖呵を切ったが、60歳過ぎている者が、そう簡単に就職はできない。 たまに、口があっても、給料は、定年延長した場合の、更に半分で、就職する前から、やる気が失せる。

  妻としては、もはや、夫は、「生活の敵」以外の何ものでもなくなった。 なぜ、使いもしない車を売らないのか、ほとほと、理解しかねる。 それには、息子や、A氏の兄弟、妻の姉なども同意見で、妻から応援を頼まれて、直談判に乗り込んで来る者もいた。

「Aさん、あなたの気持ちも分からないじゃないが、家を売るところまで追い詰められたら、やはり、車より、家族でしょう!」

  しかし、A氏は、決して、車を売るとは言わなかった。

「車は、私の人生の価値そのものなんです。 大袈裟な言い方に聞こえるかもしれないが、車を売る事は、私の人生を否定するのと同じなんです」

  説得不能。 結局、A氏の家は、人手に渡り、妻は、実家に戻って、だいぶ前から寡婦になっていた姉と同居する事になった。 A氏は、家を売って、ローンを返したお金の残りで、アパートを借りようとしたが、保証人を見つけられず、結局、実家の近くに戻り、親戚がやっている、下宿に身を寄せる事になった。

  そういう立場では、遊んでいるわけにも行かないので、シルバー人材センターに登録して、人足仕事がある時だけ、働きに出た。 専ら、自治体から依頼される、イベントの準備の手伝いとか、清掃作業とか、そういった仕事である。 給料は少なくて、下宿代と生活費を差し引くと、車の維持費が辛うじて残るくらいである。

  そう。 下宿人であるにも拘らず、高級車だけは、維持していた。 その家が、元農家で、庭が広くて、車の置き場所に困らなかったからである。 A氏は、その時点でも、「いつか、Bに会うかも知れない」と、用心していたのだ。 もはや、その為に、A氏の人生は存在すると表現しても、過言ではあるまい。


  待てば、海路の日和あり。 とうとう、A氏が、B氏に再会する時が来た。 自治体のイベントで、駐車場の整理・案内係として、文化センターに来ていた日、帰り際に、駐車場の隅で、B氏が、自分の車に乗り込もうとしているところへ、出くわしたのだ。 最後に会ってから、40年以上経っていたが、B氏の顔は、はっきり見分けられた。 一日たりとも、忘れた事がなかったから、多少変わっていても、分かった事だろう。

  なんと、B氏は、軽自動車に乗っていた。 しかも、異様に古い。 周囲から浮いてしまうほど、古い。 50年以上、昔の車なのだ。 A氏は、非常に、奇妙な気分になった。 そして、心の中で、思った。

「なんだ、Bの奴。 俺の事を、『軽がお似合いだ』なんて、からかったくせに、そう言った自分が、軽に乗っているじゃないか。 ちゃんちゃら、おかしい」

  断っておくが、高校卒業直前に、B氏が、A氏に言った言葉は、正確には、「なになに? Aって、車買うの? 軽?」である。 「軽がお似合いだ」とは、言っていない。 A氏が、自分で、そう解釈しただけである。  

  A氏は、今こそが、B氏をからかい返す、人生最大の好機、と思う一方で、そういう態度が、大変、大人げないような気もした。 A氏は、厳しい社会で、揉まれて生きて来た人物であり、相手が高校時代に言った言葉に対し、60歳を過ぎた今、同じレベルで言い返す事に、大きな抵抗を感じたのだ。

  A氏が立ち止まっているのに気づいたB氏が、A氏の顔を認めて、驚いた。

「やあ! Aじゃないか! 久しぶり!」
「あ、ああ・・・」
「俺の事、覚えてる?」
「ああ、うん・・・」 一日たりとも、忘れた事はない。
「Bだよ、B! 懐かしいなあ!」

  B氏は、車の中に顔を入れ、助手席に乗っている妻に向かって言った。

「おーい! この人、俺の高校時代の同級生!」

  B氏の妻は、ドアを開けて、出て来て、A氏に、挨拶した。

「初めまして。 Bの妻です」
「どうも。 初めまして。 Aと申します」

  A氏は、B氏の妻が、高校時代に、自分が片思いしていた女子とは、別人である事を知って、ホッとした。 それにしても、若々しい魅力を感じさせる、美しい女性だった。 自分の妻と比較しても、10歳は若く見える。
 
  久しぶりに会いはしたものの、元々、ただの同級生で、友人というわけではなかったので、積もる話があるわけではない。 A氏は、B氏と自分を繋ぐ唯一の話題である、車の話に持って行った。

「この車、懐かしい型だね」
「おお、分かる? そーなんだよ。 俺が子供の頃に、叔父さんが同じ車種に乗ってて、それに、憧れててさあ。 ずーっと前から、欲しかったんだけど、5年前に、やっと、状態がいいのを見つけて、買ったんだよ。 目下、俺の、最高の宝物だね」
「結構、高かったの?」
「100万はいかなかったけど、軽の旧車としては、かなり、高い口だったよ」
「ふーん・・・」

  A氏は、恐る恐る、しかし、極力さりげなく、訊いた。

「これの前は、何に乗ってたの?」
「えーと・・・・、」

  B氏は、思い出し思い出し、10台ほどの車種名を挙げた。 それを聞く内、A氏は、ますます、奇妙な気分になった。

「全部、軽自動車なんだね」
「うん。 俺、軽しか買った事ないよ。 若い頃から、いや、高校の頃から、いや、もっと前だな。 叔父さんが、これと同じのに乗っていた頃から、ずっと、軽のファンだから」
「・・・・・」

  A氏、顔には出さないように、必死の努力をしていたが、内心、愕然としていた。 そして、高校卒業直前に、B氏が、A氏に言った言葉を、正確に思い出そうとしていた。

「なになに? Aって、車買うの? 軽?」

  A氏は、てっきり、からかわれた、馬鹿にされたと思っていた。 しかし、違ったのではないか? 途轍もない誤解をしていたのではないか? Bは、自分が軽自動車のファンだから、仲間を探すようなつもりで、「軽?」と訊いたのではないか? 今聞かされた、Bの話では、そう考える方が自然である。 40年以上、間違った解釈をして来たのだ。 これが、顔色真っ青にならずにいられようか。 高級車に拘り続けたせいで、家庭崩壊まで引き起こしてしまったというのに・・・。

「Aは、今日は、車で来てないの?」  
「車だけど・・・、町のスタッフ側だから、ここには置けないんだ。 第3駐車場の方に停めてある」
「何に乗ってるの?」
「いやあ・・・」 不自然な間が開いた。 「・・・普通の車だよ。 そんなに、拘りがないから・・・」

  妻や息子が聞いたら、噴飯物の大嘘である。 くどいようだが、繰り返せば、車に拘り過ぎて、家庭崩壊したのだ。 この日、この瞬間の為に、40年以上、多大な犠牲を払って維持して来た高級車を、結局、自慢できなかったのは、天に見放されているとしか言いようがない。

「そうか。 その方が正解だろうな。 俺は、趣味で、好きな軽ばかり乗っているから、家族に評判悪くてね」
「そう。 じゃあね。 元気で暮らしてください」
「うん。 Aも、お元気で」

  それ以上、話をするほど、親しい関係ではないのである。 A氏は、顔色真っ青なまま、足早に、その場を離れた。 今夜は、眠れないのではないかと思った。


  A氏は、数日間というもの、自分の気が狂うのではないかと、恐れて暮らした。 こんな不様な誤解があるだろうか? 自分の人生のほとんどを占める期間、勝手に誤解したB氏の言葉に振り回され、人生そのものを踏み外してしまったのだ。 A氏には、到底、その現実を受け入れられなかった。 そして、B氏の事を、嘘つきだと思う事によって、辛うじて、自分を保った。

「あいつは、嘘を言ったんだ。 軽ばかり乗り継いで来たというのも、嘘だろう。 やっぱり、あいつは、俺をからかったんだ」

  その後、A氏が、B氏に会う事はなかったので、この解釈は、かなり、長もちした。

  高級車は、あっさり、処分した。 B氏が、嘘つきであるか否かに拘らず、今現在、軽に乗っている事は確かであり、もはや、A氏が対抗して、高級車を維持する理由はなくなったからである。 家庭崩壊の原因は取り除かれたわけだが、妻からは、愛想を尽かされており、夫婦仲が元に戻る事はなく、結局は、離婚する事になった。 息子とは、音信不通である。


  10年が経ったが、A氏は、まだ、シルバー人材センターに所属して、自治体の仕事をしていた。 もう、年金受給者になっていたものの、貯金ができるほどではなかったし、体を動かしていた方が健康にいいので、働ける限りは働くつもりでいた。

  ある時、町立病院の病棟の引っ越しを手伝う仕事に回された。 昼休みに、入院病棟を歩いていたら、大部屋に一人で入っている患者を見つけた。 仕切りのカーテンが開かれていて、顔が良く見えた。 なんと、高校時代の同級生ではないか。 B氏ではなく、別の男、C氏である。 1・2年の時の同級で、3年では別のクラスだった。

「おい! Cだろう! 俺だ俺! Aだよ!」
「おお。 Aか。 懐かしいな」

  C氏は、だいぶ、調子が悪いようで、かすれた声で応えた。

「肝臓をやられちゃってな・・・。 そっちは、誰かの見舞い?」
「いやあ、町の仕事をしてるんだが、病棟の引っ越しの手伝いで来てるんだ」 

  この二人は、高校時代、そこそこ仲のいい友人同士だった。 一方が病気なので、話が弾むというほどではなかったが、今までどんな暮らしをして来たかを語るだけでも、30分は、すぐに過ぎた。 高校時代、C氏は、B氏と、クラブが同じで、B氏とも、よく行動を共にしていたので、A氏は、10年前に、B氏に会った事を、裏事情は省いて話した。 すると、C氏は、こんな事を言った。

「Bの奴は、昔から、軽自動車が好きだったからな。 俺も、大人になってから、4回は会っているけど、あいつ、いつも、軽に乗ってたな。 それも、古いのに。 よっぽど、好きなんだろう」
「・・・、そうなのか?」
「うん。 ああ、そうそう。 Bといえば、あの、お前が好きだった女の子。 あの子と、Bがつきあってるなんて噂があったけど、ありゃ、違うぞ」
「なに?」
「噂の元を、俺は知ってるんだよ。 3年の文化祭の時に、Bと俺が歩いてたら、たまたま、あの女の子がいて、どこかのクラブの展示室に行きたいって、場所を訊いて来たんだ。 で、Bが知ってたんだけど、分かり難い所だったんで、案内して行ったんだよ。 その後、すぐに、つきあってるなんて噂が出て来たんだが、誰かが、二人が一緒に歩いているところを見たってだけの話だったんだろう。 俺の知っている限りじゃ、高校時代のBは、女の子とつきあうようなタイプじゃなかったな」

  A氏、10年経って、また、愕然である。 これでは、誤解だけで、人生を終わってしまったようなものではないか。 A氏が、B氏に、からかわれた事実もなければ、A氏にとって、B氏は、恋敵でもなかったのだ。 せめてのもの救いは、A氏が、B氏に、直接、恨み言を言ったり、喧嘩を吹っかけたりしなかった事である。 B氏の方では、A氏がどう思っていたかを知らないわけだ。

  C氏は、悪意はなかったが、A氏に追い討ちをかけるような事を言った。

「Bは、お前の事を、良く言ってたな。 仲良くなる機会がなかったけど、お前みたいなタイプが、友人として好ましいって、俺の事を、羨んでたよ」
「・・・・・」

  なぜ、同じクラスだったのに、仲良くする機会がなかったのか? その理由は、A氏が知っていた。 恋敵だと思っていたから、A氏の方で、B氏を避けていたのだ。 A氏は、またまた、愕然とした。

「なんて、馬鹿な事をしたのか・・・」

  つい、口に出してしまったが、C氏は、いつの間にか、眠りに落ちていて、その言葉を聞いていなかった。