2024/04/07

濫読筒井作品 ⑭

  前回、このシリーズをやったのは、2016年の4月で、えらい、間が開いてしまいました。 2021年の12月に、「読書感想文・蔵出し (81)」で、家にあった本、≪筒井順慶≫の感想を出していますが、新作ではないですし、それからでも、2年以上、経ってしまいました。 今回、図書館にあった8冊を、纏めて読んだので、2回に分けて、感想を出します。





≪ジャックポット≫

株式会社新潮社 2021年2月25日 初版
筒井康隆 著

  沼津図書館にあった、単行本です。 短編14作を収録。 一段組み。 全体のページ数は、274ページ。


【漸然山脈】 約24ページ

  一人称の主人公が、世界を彷徨する話。

  いや、実は、話になっていません。 世界地図を見ながら、思いついた単語や、言い回しを、誤変換させながら、書き連ねたもの。 「書き連ねただけ」と書かないのは、こんな芸当は、普通の人間には、できないからです。 一回 読んだだけでは、「なんじゃ、こりゃ?」ですが、何回か読み返すと、読者側の頭の中で、分析が進んで、意味、というか、元ネタが分かる部分が出て来ます。


【コロキタイマイ】 約28ページ

  漫才の形式を借りて、フランス文学について、連鎖的に批評を加えた、言葉遊びをふんだんに含む話。

  話という話ではないですが、小説は、作家本人が、「小説だ」と言ってしまえば、どんな形式でも、小説になるので、この作品も、小説と言えます。 認めない人は多そうですが。 一度 読んだだけでは分からないが、読み返すと、分かる部分が出て来るのは、【漸然山脈】と同じ。 内容が文学論なので、こちらの方が、ずっと、分かり易いです。

  書き散らされている観が強いですが、出て来る作家名や作品名を書き留めておいて、片っ端から読めば、それ自体、少々、時代遅れではあるものの、フランス文学の勉強になるのは、間違いないです。 筒井さん本人は、当然、これらを読んでいるのであって、すっごい読書量をこなしている事が分かります。

  「どの作家の、どの作品から、パクッて、自分のどの作品に使った」といった、告白まで含まれています。 パクリ作品を発表しても、フランス文学を研究していた人達は、筒井作品を読んでいないから、指摘もしなかったわけだ。 そもそも、研究者、批評家といった類いの文学者は、自分の井戸の中から出て来ないから、世間に名前が知られておらず、何か告発しても、聞いてくれる者がいないわけですが。


【白笑疑】(はくしょうぎ) 約20ページ

  地球規模で、食糧難と、人口減少に見舞われている未来。 一つ目の少女と出会った高齢男性が、独り言のように、文明批評を語る話。

  この作品には、ストーリーがあります。 半分くらい。 しかし、目的は、文明批評の方なので、ストーリーは、オマケのようなもの。 荒れつつある未来の街で、自分を頼りにする少女と出会うというのは、高齢男性の願望でしょうなあ。 まだ、人から頼られる程度の力があるが、歳を取っているのも事実だから、女の方を、一つ目にして、バランスを取っているのでしょう。


【ダークナイト・ミッドナイト】 約22ページ

  ラジオ・パーソナリティーのお喋りの形式を借りて、ハイデガーの哲学に触れつつ、「死」についての考えを語る話。 

  星新一さんが、「早死に」というイメージはなかったのですが、少し若いだけで、ほぼ同年代の筒井さんは、まだ存命なわけだから、比較すると、確かに、早死にだったんですな。 大きな仕事を成し遂げた後であれば、いつ亡くなっても、周囲から、地団駄踏むほど、惜しまれる事はないのであって、ただただ、深く感謝されるわけですが。

  「死」に関する哲学について、ハイデガーさんの、≪存在と時間≫の解説に、そこそこの行数が割かれています。 この作品だけでは、分かり難いので、筒井さんの講演記録、≪誰にもわかるハイデガー 文学部唯野教授・最終講義≫を、その内、読んでみようと思っています。


【蒙霧升降】(ふかききりまとう) 約18ページ

  筒井さん本人が、過去に担当だった編集者を相手に、戦後日本の世相を思い出しながら、批評する話。

  この形式でも、小説なんですなあ。 これから、小説家になりたいという人は、出版界に世話になるなら、真似ないように。 筒井さんのような、ウルトラ大御所様だから、許されるのであって、新人が書いたら、編集者が、青筋立てて激怒するのは、必定。 ネット上で、無料で発表するのであれば、むしろ、歓迎されるかも知れませんが。

  筒井さんが司会をやっていたという、「23時ショー」が、そういう番組だったとは知らなかった。 「クイズ100人に聞きました」は、見ていましたが、言われてみると、確かに、その通りで、ただのアンケート結果が解答というのは、カルト・クイズより、尚、価値が低いかも知れませんな。 そんな事知らなくたって、どうでもいいわけですから。


【ニューシネマ「バブルの塔」】 約22ページ

  詐欺師的小説家が、ロシアから仕事を始め、アメリカで外国作品を盗作して大文豪になり、日本まで来て、仲間を吟味する話。

  批評的な要素が少なく、さりとて、確固としたストーリーがあるわけではなく、スパイ小説のパロディーにしても、ボリュームが少ないし、何とも、評しかねる内容。  まあ、いいか。 筒井さんなら、何でも、許されるのだから。 こういう、やっつけな内容で、22ページ分も書けるというのが、凄いな。


【レダ】 約22ページ

  長男の社長と、次男の副社長が争ってばかりいる会社。 会長である父親が、長男・次男に見切りをつけ、世話をしてくれる若い女性との間に生まれた卵から、新たな息子が生まれて来るのを心待ちしているが、長男・次男が、そうはさせじと・・・、という話。

  梗概だけ読むと、普通の小説のようですが、さにあらず。 これも、語り口がぶっとんでいて、読み難いです。 これといって、言いたい事もないようですが、こういうぶっとんだ語り口には、内容がない方が、合っているような感じもします。


【南蛮狭隘族】 約22ページ

  太平洋戦争で死んだ、日米兵の亡霊が一体となって、双方の残虐行為を語る話。

  この作品も、語り口がぶっとんでいて、読み難いですが、内容は、歴史上の逸話なので、割と、理解し易いです。 全て、実際に起こった事なら、こんな恐ろしい事はない。 嘘が混じっているとしても、こんな嘘を平気で口にする人間がいるというのが、また恐ろしい。 「所詮、人間なんて、猿の延長なのであって、残忍な殺し合いをしても、ちっとも不思議ではない」とでも考えない限り、救われません。 もっとも、猿は、こんなに残忍ではないと思いますが。


【縁側の人】 約22ページ

  ある高齢男性が、縁側で、若い者を捉まえ、過去に日本で流行った、「詩」と、「詩人」、それらに関する事を、語る話。

  ヨーロッパの詩人も多く出て来ますが、あくまで、日本で流行ったものに限定しているので、世界的な広がりは感じません。 詩に興味がある人は限られており、一般読者には、これでも、情報が多過ぎて、アップアップすると思います。 私なんか、詩に全然興味がないから、すぐに、沈没してしまいました。


【一九五五年二十歳】 約18ページ

  筒井さん本人が、同志社大学時代に、演劇にのめりこんでいた頃の事を回想した話。

  たぶん、全て、実話。 小説というより、回想記、もしくは、期間を区切った、自伝なのですが、まあ、分類が何かは、どうでもいいか。 当時、同大学で、演劇に関わっていた人達なら、懐かしさを感じると思いますが、その方たちも、すでに、80代なわけで、高齢者施設に入っていても、おかしくない年齢。 この本を手にする機会はないかなあ。


【花魁櫛】(おいらんぐし) 約8ページ

  夫の祖先から伝わった遺品である、花魁の櫛。 夫が遊女の子孫である事を恥じる妻は、すぐに処分してしまおうとするが、鑑定者の専門度が上がるたびに、値段が一桁高くなる。 金に目が眩んだ妻は、なかなか、売ろうとしなくなり・・・、という話。

  この短編集の中では、唯一、ストーリーがある話。 他が、読み難いせいか、相対的に、大変、読み易く、面白く感じられます。 まあ、8ページだから、ささやかな掌編作品ですけど。

  ラストですが、妻が狂ってしまったのか、はたまた、櫛の値段が上がり過ぎて、お金に替えるよりも、自分自身が使った方が、自分にとって、価値があると考えたのか、二つの解釈が考えられます。


【ジャックポット】 約24ページ

  新型肺炎(コロナ)禍、ごく初期と、少し経ってからの、混乱ぶりを語ったもの。

  発表が、2020年8月なので、その時点での、途中経過のようなもの。 世界の混乱ぶりを、作者自身も混乱しながら、ぶっとんだ文体で語っているから、もう、グチャグチャです。 今から振り返ると、20年8月では、流行は、まだ、初期の内でして、何も分かっていなかったと言っても、過言ではない時期。 まだ、終息したわけではないから、未だに分かっていないとも言えますが。

  全世界で、何百万人、死んだ事か。 日本国内でも、確実なところで、7万人以上。 超過死亡数だと、13万人以上、死んだわけですが、犠牲者が多過ぎて、洒落にならないところがないでもなし。 パロディーに分厚い実績がある筒井さんだから、こういう作品を書いても許されるわけで、他の作家が書いたら、「不謹慎!」の一言で、業界から抹殺されると思います。


【ダンシングオールナイト】 約16ページ

  筒井さん本人が、若い頃の、音楽・社交ダンス遍歴を語ったもの。

  音楽の方は、やはり、ジャズが中心です。 社交ダンスが得意だったとは、初耳ですが、踊っている姿を見てみたかったですねえ。 1996年の映画、≪Shall we ダンス?≫に、役がなくて出そびれたそうですが、周防監督よ、なぜ、役を作ってでも出てもらわなかったのだ。 筒井さんの読者が、映画館に押しかけただけでなく、大変貴重な映像になったに違いないのに。


【川のほとり】 約8ページ

  筒井さん本人が、夢の中で、先に他界した息子さんに出会い、自分の頭で作り出した夢だと承知しながら、ぎこちない会話を交わす話。

  息子の伸輔さんは、画家で、筒井さんが、2012・13年に、朝日新聞に連載した、【聖痕】という小説に、挿絵を描いていたので、作風は、すぐに、ピンと来ます。 食道癌を患い、2020年に、51歳で、亡くなったとの事。 この単行本、≪ジャックポット≫の装画も、伸輔さんの作品。

  偉大な父親の七光りを当てにせず、別の分野で、芸術家として一本立ちしたのも凄いけれど、作品を見れば、「これぞ、本物の美術!」という、大変な迫力。 全身全霊を傾けて、取り組んでいたんでしょうねえ。 惜しい方を亡くしました。

  子供に先立たれた方の心中は、他人には、計り知れないものがあります。 余計な感想は書かず、息子さんのご冥福をお祈りするだけにします。



  短編集、≪ジャックポット≫の総括ですが、【川のほとり】は別扱いとして、大抵の読者は、【花魁櫛】しか分からないと思います。 私も、どちらかというと、その口ですが、それはさておき。 【花魁櫛】だけ、「ものがたり by mercary」で、他の、ぶっとんだ文体の作品は、純文学雑誌に掲載されたものです。

  ぶっとんだ作品の中で、ダジャレが連発されるので、「筒井先生、そこらのオッサンによく見られる、『中高年ダジャレ症』に罹っているのでは?」と思う人もいるかと思いますが、こ、こ、こらっ! 失敬な事を言うな! 「地上に舞い降りた、最後の文豪」と讃えられている筒井大先生に向かって、何たる雑言!

  君は、文芸批評に疎い人だねえ。 ダジャレなどという下賎なものでは、断じて、ない! 「二重含意」と言うのだ! 二重含意をふんだんに鏤めた作品を読んだら、「ジョイスの本歌取り」と賞賛するのが、前衛文学界の高雅な礼節とされている。 恥を掻きたくなかったら、覚えておきたまえ。

「そのジョイスさんとやらも、中高年ダジャレ症だったんじゃないの?」

  ぶ、ぶ、ぶ、無礼な! 君は、分析能力の低い人だねえ。 脳の中で、同じメカニズムで作り出される言葉であっても、そこらのオッサンが口にするのは、ダジャレに過ぎないのに対し、文学者としての業績を認められた人が書けば、二重含意となるのだ。 同じ行為でも、行為者が誰かによって、意味合いが変わって来るのは、人殺しを、個人がやれば、犯罪であるのに対し、国家がやれば、法の執行になるのと同様だ。

「はあ。 そーゆーもんすかねえ」

  分かれば、宜しい。 君のように若い人達は、中高年ダジャレ症の辛さを、実感として理解できないだろう。 知っている語彙が豊富なほど、脳髄の奥から噴泉の如く湧き出ずるダジャレの奔流に、いいように翻弄されてしまうのだ。 自分が喋る言葉だけでなく、話し相手の言葉まで、ダジャレに聞こえてしまうのだぞ。 「ありません」が、全て、「有馬温泉」に聞こえてしまう悲痛を想像できるか?

  患者が文筆業者で、転んでもタダでは起きない性格の場合、「勿体ないから、これで、ひと儲けしてやろう」と、作品に盛り込みたくなるのも、無理からぬ事。 もっとも、それが許されるには、編集者に有無を言わせない、作家としての「格」が必要とされるわけなのだが。




≪老人の美学≫

新潮新書 835
株式会社新潮社 2019年10月20日 初版
筒井康隆 著

  沼津図書館にあった、新書本です。 「はじめに」と、「後記」を含めて、155ページ。


  80代以降になって、ようやく、老境に至った事を感じ始めた作者が、老いについて、前向きに語る内容。

  小説ではないから、梗概は、不要か。 非常に、読み易い本で、普通の読書家なら、3時間もあれば、飛ばし読みなしで、読み切れると思います。 新書と言っても、80年代までの、学術入門書とは違って、90年代以降は、ずっと、砕けたものになっており、執筆者も、特に学者というわけではなし。 読み易いのも当然か。 ≪アホの壁≫を読んでいれば、ほぼ、同じノリで読めます。

  筒井さんの、少し若い頃の作品、【敵】、【わたしのグランパ】、【愛のひだりがわ】、【銀齢の果て】など、老人が出て来る小説を題材に取りつつ、語って行くのですが、些か、違和感あり。 どうも、筒井さんが考える老人は、美化され過ぎているのではないかと思うのです。

  【わたしのグランパ】の、五代謙三は、明らかに、カッコ良過ぎで、「こんな老人は、いないだろう」と思ったものですが、なんと、筒井さんの身内に、実在のモデルがいたとの事。 モデルがいるんじゃ、否定のしようがありませんが、少なくとも、現代では、いないと思いますねえ。 いるとしても、刑務所に入ったり出たりしているでしょう。 「老人の美学」というより、「ヤクザ者の美学」と言うべき。

  【敵】の、渡辺儀助は、ずっと、現実感がありますが、それでも、まだ、美化し過ぎている。 元大学教授で、時々、講演をしているというのが、もう、一般的ではないです。 どうも、筒井さん、老人を登場人物にする時には、自分自身、もしくは、自分の一部分をモデルにしているから、カッコ良くなってしまうようですな。 実際の一般的な老人は、もっとずっと、カッコのつかない、醜い存在です。

  おそらく、筒井さん自身が、何歳になっても、周囲の人々から、価値を認められているから、「老人は醜い」という考え方を受け入れられないんでしょう。 現実の老人は、「いない方がいい」と思われているものでして、それは、引退者すべてに言える事。 80代どころか、引退している人間は、20代でも、醜いです。 引きこもり青年を見ると、如実に、それが分かります。

  私は、現在、59歳ですが、50歳で引退してから、すぐに、それを悟り、極力、人前に出ないように生きて来ました。 買い物や、銀行、図書館くらいは行きますが、他人と交流しようなんて気は、微塵も持っていません。 新型肺炎流行以降は、マスクをしていても、誰も何とも思わないから、むしろ、好都合な世の中になったと言えます。

  つまりその、筒井さんは、何歳になっても、「醜い老人」と見てもらえないんですよ。 もともと、イケメンである上に、小説家として、余人に真似のできない、偉大な業績を積み上げており、そんな人を、「醜い」なんて、誰も思いません。 「存在の醜さ」の対象になりえないのです。 そういう「醜い老人ライセンス」を持っていない人が、こういう本を書くのは、ちと、無理があるのではないかと思います。

  まだ、若くて、「老いについて、考えた事が、ほとんどない」という読者なら、こんな感想を抱かないと思いますが、そういう人達は、「読み易いな」とは思っても、この本の内容が、ほとんど、頭に残らないと思います。 何せ、老いに興味がないから。

  美しい老人である為のアドバイスが、幾つか書かれていますが、化粧や演技のように、一般の男性高齢者では、できない事が多いので、あまり、参考になりません。 筒井さんは、俳優もやっていたから、特別なのです。 どうも、この著作そのものが、作者の遠回しな、「自慢」なのではないかと疑いたくなるところですが、それは、穿ち過ぎか・・・。

  一般論ですが、とにかく、「もはや、自分は、世の中に要らない人間である」と悟ったら、人目を避ける事ですな。 他に、生きて行く方法がないです。 毎日、散歩に出るだけなら、誰も文句は言いませんが、折返し地点で、縁もゆかりもない月極駐車場の空きスペースに腰を下ろし、弁当を広げたり、煙草を吸ったり、駐車場の隅で、立ち小便したりしたら、周囲の家の人達から、「死ね! ジジイ!」と思われない方がおかしい。 それでいて、本人は、「散歩を楽しんでいる、悠々自適のおじいちゃん」くらいに思われていると思っているのだから、始末に負えぬ。

  話を、感想に戻しますが、私が個人的に、大変、興味深く読んだのが、「八 美しい老後は伴侶との融和にあり」の章です。 仲がいい夫婦の実例として、筒井さんと、奥さんの事が書かれているのですが、「事実は小説より奇なり」を、地で行くような内容。 これは、一般的な例とは言えないような気もしますが、仲がいい夫婦の一例である事は、確かでしょう。

  実際には仲が良くないのに、外ヅラだけ、仲がいいフリをする夫婦がいますし、知能の高い人は、戦略的に嘘をつく事が、よくありますが、筒井さん御夫婦の、この例は、妙にリアリティーがあり、想像で作り上げたものとは思えません。 「夫婦」は、「親子」と並んで、人間関係の基本であり、互いの信頼が第一というのは、こういう事なのでしょう。

  性格が、夫婦で、正反対というのも、面白い。 とりわけ、食器を落として割った時の反応は極端で、筒井さんの反応で、爆笑し、奥さんの反応で、大爆笑します。 あまりにも面白いので、この部分だけは、創作ではないにしろ、脚色が入っているのではないかと思うくらいに。




≪笑犬楼 VS. 偽伯爵≫

株式会社新潮社 2022年12月25日 発行
筒井康隆 蓮實重彦

  沼津図書館にあった、ソフト・カバーの単行本です。 168ページ。


  筒井康隆さんと、文芸評論家の蓮實重彦さんの、「対談」、「評論」、「往復書簡」を収めたもの。


  「対談」は、大江健三郎さんをテーマにしたものです。 お二方とも、大江作品についても、大江さん本人についても、褒めちぎり。 ほとんど、読んでいるからこそ、できる事であって、大江作品を多くは読んでいない、もしくは、全く読んでいない人は、何の話をしているのか、全く興味を引かれないと思います。 理の当然か。

  大江さんの読者なら、分かるは分かるでしょうが、その反面、異論・反論も、多い事でしょうなあ。 難解な作品は、様々な解釈を許し易く、「自分だけが、大江作品の、真の理解者である」と思っている人が多いと思いますから。


  「評論」は、互いの作品を、一作ずつ、取り上げたもの。 蓮實さんは、小説も書いていて、その作品が、筒井さんによる評論の対象になっていますが、私は、読んでいないので、ピンと来ません。 筒井作品の方は、【時をかける少女】が対象で、読んでいる人が多いから、蓮實さんによる評論も、分かり易いと思います。

  蓮實さんは、【時をかける少女】をベタ誉めしているのですが、筒井さん本人が、同作を、「自分らしくない」と思っている事も承知している様子。 それでも、敢えて、同作を取り上げたのは、筒井さんに対してではなく、この本を読むであろう、筒井ファンに対して、受けの良さを狙ったのではないかと思います。 そういうところに、蓮實さんの頭の良さが窺えます。 筒井さんも、頭の良さに関しては、日本屈指なので、見抜いていると思いますが、どの作品であっても、高名な評論家から誉められて、不満は覚えないでしょう。


  「往復書簡」は、お二方が、子供の頃から、若い頃にかけて見た、映画の話が多いです。 ちなみに、筒井さんの方が、蓮實さんより、2歳年上。  私は、まるまる、一世代違うので、映画のタイトルを見ても、ほとんど、分かりません。 分かるのは、現在、80代後半の世代という事になりますが、それに該当する人達は、もう、本を読んでいないでしょう。


  知性、知識、教養、情報、いずれにも長けた方々のやりとりは、大変、知的で、好ましい雰囲気がありますが、それを楽しめる読者が、すでに失われているのは、寂しい事ですな。 蓮實さんが、「今の若者は、本なんて読まない」と書いていますが、正にその通りで、紙の本のみならず、たぶん、スマホでも、読んでいないと思います。 そんな時間があったら、動画を見る方に回すでしょう。

  お二方とも、出版物で食って来た人生なので、本を読む人間がいなくなると、困るわけですが、年齢を考えると、もう、逃げ切ったと言ってもいいですかね。 文芸文化の一番、おいしい時期を、食べて行ったわけだ。




≪筒井康隆、自作を語る≫

早川書房 2018年9月25日 発行
筒井康隆 著
日下三蔵 編

  沼津図書館にあった、ソフト・カバーの単行本です。 巻末の、全著作リストも入れて、233ページ。


  第一部は、2014、15、16、17年と、四回に分けて、聴衆を入れたトーク・イベントで、日下三蔵さんが、筒井さん本人と、筒井さんの著作について、語り合った様子を、文章に起こしたもの。 日下さんは、聞き手、筒井さんは、答え手なので、対談とは、趣きが異なります。 インタビュー対談とでも言うべきか。

  第二部は、徳間文庫の、自選短編集6冊の解題にする為に、2002年に行われた、同様のインタビュー対談を、纏めて収録したもの。

  そして、巻末に、全著作リスト。 巻末と言っても、40ページくらいあるので、侮れません。 ざっと目を通すくらいが関の山で、全て読む人はいないと思います。 研究資料なんですな。

  第一部の方が、第二部より、時間的に後になるので、より詳しいです。 同じ作品が取り上げられた場合、内容に、重複もありますが、それは、致し方ない。 第二部の方が、筒井さんの記憶が確かなのは、聴衆がいない場だったから、下調べが利いていたのでは?

  第一部では、記憶違いを、御自身で告白する場面が何ヵ所か出て来ますが、70年近い年月に渡る、膨大な数の作品の記憶ですから、その程度の記憶違いしか起こさないというのが、凄い事。 やはり、常人とは、脳の構造が違うわけですな。

  日下三蔵さんは、ミステリ・SF評論家で、作家の書誌編纂も仕事の内。 横溝正史作品に、中島河太郎さんが果たした役割と、同じような関係でしょうか。 作家のかたは、自分の作品について、自分より詳しい者の存在を、あまり、快く思わないのではないかと思いますが、この本のインタビュー対談は、第一部も第二部も、和気藹々と進んでいて、読んでいて、ヒヤヒヤするような場面はありません。

  若い頃に噂になった事を、高齢になってから、「あれは、嘘です」と、否定している場面が、ちょこちょこ出て来ますが、筒井さんは、俳優でもあるので、真顔で演じられてしまうと、本当か嘘か、周囲には分かりません。 作家も人気商売ですから、若い頃は、話題作りの為に、わざと、奇矯な人物を演じていたのが、後年、文豪と見做されるようになってから、文豪に相応しく見られるように、イメージを変更したという事も考えられます。

  常人では、そんな事は、とてもできないと思うところですが、知能の高い人には、不可能ではないんでしょうな。 筒井さんが、同じ天才でも、狂人型の天才と明白に違うのは、自分の頭の良さを、自分で制御できる点でして、優れた知能を、これだけ、うまく使いこなした人も、古今東西、稀だと思います。 コンピューターに譬えれば、狂人型の天才は、メモリーだけ、常人より一桁多くて、CPUは、むしろ、一桁能力が低いのに対し、筒井さんは、メモリーも、CPUも、常人より一桁二桁 上なわけだ。

  それにしても、長い作家生活ですなあ。 しかも、全期間に渡って、名作・傑作が、目白押し。 ひとたび、売れっ子になるや、ずっと、第一線、というか、別格、断トツで走り抜けて来たのだから、途轍もない人もあったもんだ。 「文豪」程度では、言葉が足りぬ。 「大文豪」でも、まだ、足りぬ。 日本文化への貢献度という尺度で測ると、鴎外級、漱石級を遥かに凌ぎ、紫式部級との間に、筒井康隆級を新設しなければならないほどです。

  ・・・・、誉め過ぎかな? いや、そんな事はない。 私が、筒井さんについて書くのも、私の健康状態から考えて、いつ最後になるか分からないので、この場で、大盤振る舞いしておきましょう。

  私は、筒井さんが、どんな賞をもらっても、ちっとも不思議だと思いません。 村上春樹さんが、ノーベル文学賞をもらったら、「選考基準が変わったのかな?」と、首を傾げるところですが、筒井さんなら、何の意外性も感じません。 相応しい作品を山ほど書いているからです。

  そもそも、ノーベル文学賞でも、筒井さんには、賞の価値が不足でして、もらう側より、やる側に回るべきかと。 ここはやはり、日本の出版界で基金を用意して、「筒井康隆賞」を設けるべきでしょう。 全世界から、推薦させて、筒井作品的な際立った特徴を備えた小説に、授与するわけです。 もちろん、面白くなければ、もらう資格がないわけで、真に筒井さんクラスとなると、該当作が、100年くらい出ない恐れもありますが・・・。

  ・・・・、誉め過ぎかな? いや、まだ、足りないかも知れぬ。 それほど、偉大な人物なんだわ、筒井さんは。




  読んだ期間は、

≪ジャックポット≫が、2023年12月19日から、21日まで。
≪老人の美学≫が、2024年1月2日から、3日まで。
≪笑犬楼 VS. 偽伯爵≫が、1月14日。
≪筒井康隆、自作を語る≫が、1月30日から、2月4日。

  読書意欲が減退していて、一回に借りる数が、一冊になってしまっていたので、やたらと、間隔が開いています。 そんな状態でも、筒井さんの本は、面白かったです。 若い頃から読んでいるので、慣れている点が大きいのだと思います。