2024/02/18

実話風小説 (25) 【雨具店の娘】

  「実話風小説」の25作目です。 12月下旬後半に書いたもの。 短い話にしようと、努力はしているんですが、どうしても、長くなってしまいます。 申し訳ない。




【雨具店の娘】

  女Aは、現在、30代後半の女性である。 独身で、地方都市の賃貸マンションに、一人暮らしをしている。 郷里に両親が健在だが、兄夫婦と同居しており、Aは、盆暮に帰省して、夕食だけ食べて、日帰りするくらいの関わりだった。 

  40歳近くになるまで、独身なのには、わけがある。 26歳の時に、婚約寸前まで行った男性と、別れていて、それ以来、恋愛が苦手になっていたのだ。

  別れたのには、わけがある。 ある人物から、「うまくいかないだろう」と言われたのである。 大学時代に、学生寮の同室だった、女Bである。 Bは、変わり者で、友人は作らず、Aとも、共同生活に必要な、最低限の打ち合わせくらいしかしなかった。 世間話も、滅多にしない。 生活態度は、至って真面目で、食事当番や、掃除当番などは、きちっとやった。 友人がいないから、突然、用事が出来て、当番をスッポかす事もなかった。

  Aは、Bの事を、面白みのない女だと思っていたが、社会人になってから、別の女友達と同居してみて、その我が儘放題ぶりに、さんざん振り回され、Bが、いかに、ありがたい同居人であったかを、思い知る事になった。 夫婦や親子が、正にそうだが、同居人というのは、別に、心を割って何でも相談できる相手である必要はないのだ。 そんな事より、当番を守り、きちんと家事をこなしてくれる人間の方が、遥かに、頼りになるのである。

  A自身、どちらかというと、だらしがない方で、親元にいる時には、全て、母親任せで、やってもらっていた。 Bと暮らしていた時には、対抗心から、Bと同じ分量の家事をこなしていたが、それは、Bから、いい影響を受けていたという事なのだろう。 社会人になってからは、また、だらしがない性格に戻ってしまった。

  Aは、大学卒業後、ある地方都市の企業に勤めた。 特に有能というわけではないが、格別、無能というわけでもない。 平均的に、仕事をするだけ。 出世意欲はなくて、給与・賞与さえもらっていれば、特に不満はない、という生活だった。

  一方、Bは、大学卒業後、実家の雨具店を継ぐ事になった。 父親が、脳卒中をやって、不自由な体になってしまい、母親一人で、介助と店をこなすのは厳しいというので、呼び戻されたのである。 Bは、成績優秀で、指導教授から、大学院へ進むように、強く薦められていたのだが、当人は、そんな欲はなかったようで、涼しい顔で、実家へ戻ってしまった。


  さて、26歳のAである。 同じ会社の別部署で働く、28歳の男Cと、交際が始まったのが、半年前。 ほぼ、毎週末に、一緒に遊びに行くようになり、平日の夜にも、食事に行くようになり、いずれ、結婚する事になるだろうと、本人たちも、周囲の者たちも、思っていた。 Aにしてみると、年齢的に考えて、求婚されて、断る理由はなかった。 しかし、そういう時期というのは、心が揺れ動くもので、断る理由を、わざわざ、探したりするものである。 人生の方向性が決まってしまうのを、恐れるからであろうか。

  そんな、ある時、Aは、ふっと、思いついた。

「もし、Bだったら、Cについて、何と言うだろう?」

  Bを思い出したのには、わけがある。 一緒に暮らしていた大学時代の事だが、滅多に話をしないBが、珍しく、自分から、話し始めた事があった。 ある雨の宵の事。 二人で、近所のスーパーへ食料品の買い出しに行った帰り、同じ学生寮の別室に住む、女Dが、寮の玄関で、庇の下に立っているのを見かけた。 訊くと、彼氏と待ち合わせだと言う。

  すぐに、エンジン音がして、Dの彼氏らしい男が、玄関前に、オートバイを停めた。 AとBは、ちらっと、彼氏を見たが、Dとは、親しいわけではなく、紹介されたりすると、お互い、面倒だと思って、そのまま、中に入った。 ちなみに、Dの彼氏は、寮の駐輪場にオートバイを置き、Dと二人で、傘をさして、出かけて行った。

  部屋に戻ると、Aは言った。

「雨降ってるのに、お盛んだよね」
「うん」
「でも、ちょっと、羨ましいね」
「うぅん」

  Bの答えは、「うん」と、「ううん」の中間くらいの長さだった。 Aは、訊き直した。 

「ううん?」
「うん」
「どっちなの?」
「別に、羨ましくはないって事。 ああいうタイプの男ならね」

  Bが、男の品定めをするのは、珍しいというより、初めて聞いた。 Aは、俄然、興味を掻き立てられた。

「なになに? Dの彼氏の事、知ってるの?」
「知らない」
「じゃあ、どうして、分かるの?」

  Bは、ぼそりと言った。

「合羽を着てたでしょ」
「うん」
「合羽の上から、デイ・パックを背負ってたでしょ」
「うんうん」
「デイ・パックは、びしょ濡れだったでしょ」
「それが?」
「合羽の中に背負えば、デイ・パックを濡らさないで済むのに、そうしないのは、カッコつけようっていう、見栄っ張りな証拠。 合理的な判断より、見栄を優先するようじゃ、先々、ろくな大人にならないでしょ。 たぶん、歳を重ねるごとに、見栄っ張りの度が増して行くと思うね」
「ああ~、なるほど・・・」

  「なるほど」と言ったもの、Aは、Bの言葉を真に受けたわけではない。 Bが、キャラに似合わない、男話なんかし始めたので、一通り、聞いてみただけだった。 デイ・パックを、合羽の中に背負うか、外に背負うか、そんな事で、人間の中身が分かるとは、思えなかった。

  その件は、すっかり、忘れていたのだが、社会人になってから、たまたま、Dと会う事があり、その後、オートバイの彼氏と、どうなったのか訊いてみたところ・・・、

「オートバイの彼氏? ああ、アレ。 別れた別れた! ダーメだ、あんな男! 学生の頃から、ブランド物ばっかり買っちゃって、親からの仕送り以外に、バイトもしてたくせに、お金のゆとりが、全然ないの。 あたしに、タカって来んだよ。 就職先も、有名なところばっか受けて、落ちまくって、カッコがつかなくなって、地元へ帰っちゃった」
「・・・・・」
「深い関係にならなくて、良かった。 あんたも、見栄っ張りな男には、気をつけなよ」

  おっと、ビックリ! Bの読んだ通りになったではないか。 その時点で、Bとは、3年も会っていなかった。 Bの実家がある地方都市は、電車で30分くらいで、行こうと思えば、すぐ行ける距離だが、ただ単に、Dの彼氏の話をする為だけに訪ねて行くほど、親しい仲ではなかった。 合理的なBの事だから、その程度の用事で訪ねて行くと、迷惑がられる恐れもあった。


  さて、26歳のAである。 男Cと交際中で、いつプロポーズされてもおかしくない状況にいる、Aである。 

「もし、Bだったら、Cについて、何と言うだろう?」

  一旦、それを思いつくと、気になって気になって、夜も眠れないという状態になった。 Bを訪ねて行くのは簡単だ。 雨具店だから、土日は、店にいるだろう。 そんなに混んでいるわけがないから、少し、話をするくらいは、自然にできるはずだ。 しかし、どうやって、Cの為人を説明するのだ? 写真を見せる? そんなんでは、人格まで分からないだろう。

  A自身、痘痕も笑窪で、間近で見ていても、Cがどんな人間か分からなくなっているのだ。 況や、Cに会った事もないBに、どうやって伝える? C本人を連れて行く? それは、不自然だ。 彼氏を自慢しに来たと思われるのは、避けたい。 知的なBに、軽蔑されに行くようなものではないか。

  あれこれ悩んだが、いい考えが浮かばないので、とりあえず、一度、会いに行ってみる事にした。 Cの話は、次の機会でもいい事だし。


  年賀状をやりとりしていたので、Bの実家の住所は分かっていた。 年賀状と言っても、店の宣伝用に印刷したものである。 傘のイラストは変わらず、文字だけ年毎に変わって、「濡れていいのは、春雨だけ」とか、「健康の為、雨に濡れるのは避けましょう」といった、ちょっと古臭いというか、押し付けがましいというか、そんな文句が書いてあった。 おそらく、印刷部分は、Bではなく、両親のどちらかが考えているのだろう。

  Aから出す年賀状は、裏面を手書きしていて、それとバランスを取るつもりなのか、Bからの年賀状には、余白に、Bの筆跡で、「元気です。 何とか、やってます」といった短い文が、書いてあった。

  地方都市Z市は、人口、15万人。 都会の衛星都市なので、住宅は多く、電車通勤している人たちが、駅前の商店街を利用する。 Bの実家の雨具店は、駅前にあったお陰で、何とか、経営が成り立っていた。 今時、郊外では、わざわざ、雨具を買いに専門店に行く人はいない。

  駅舎は、鉄道の高架を、両側から挟むような形になっていて、駅の前には、段数が多く、幅の広い階段が造られていた。 手すりが、5箇所に付いている。 エレベーターもあるが、そちらは、一般の客は使わない。

  Aは、初めて降りたZ駅の様子を、キョロキョロ見回しながら、バス・ターミナルを迂回し、商店街の入口に出た。 すぐそこに、「B雨具店」の看板が見えた。 看板は新しいが、店は昔ながらの造りで、店内は、暗ぼったかった。 Bが、カウンターの向こうに座って、帳簿を見ていた。 髪型も、服装の雰囲気も、学生時代と、全く変わっていない。 他の客がいない事を確認してから、Aは、恐る恐る、声をかけた。

「こんにちは~・・・」

  Aの顔を見たBは、一瞬、きょとんとした表情を見せた。 Aは、その一瞬で、Bに、今日来た目的を全て見抜かれたような気がして、心臓が高鳴るのを感じた。 Bは、すぐに、薄い笑顔に切り替えて、言った。

「おお。 Aじゃん。 久しぶり。 どうしたの?」
「近くに来たからね~」

  もちろん、嘘である。 そんな嘘は、Bには通じないと分かっているのだが、かといって、正直に、男の相談に来たとも言えぬ。 卒業以来なので、話す事は、そこそこ、あった。 Aが気をつけたのは、会社勤めを、自慢しない事だった。 Bは、自営業なので、もしかしたら、気楽な勤め人に対して、癇に障るところがあるかも知れないと思ったのだ。 しかし、しばらく、話すと、それは杞憂だと分かった。

「見ての通り、閑な商売なんだよ。 傘、合羽、長靴、レイン・シューズ、扱ってる品目が少ないから、勉強する程の事もないし」

  Bは、顔も、体も、健康そうだった。 悩みがある人間は、こうはならない。 

「お父さんは?」
「んー・・・、去年、他界した」
「えっ! でも、年賀状が・・・」
「死んだのが、暮れで、喪中はがきが間に合わなかったんだよ。 だからといって、Aは、電話して、通夜や葬式に来てもらうような関係じゃないし。 で、父さんの死は、A向けには、なかった事にしたわけ」

  なるほど、合理的だ。 Bらしい。 もし、Aの方から訪ねて来なければ、Bの父親の死は、ずっと知らないままだったろう。 それでも、何の問題もなかったのだ。

  天気予報では、「午後から雨」との事だったが、当たったようで、外で、雨が降り始めた。 休みの日でも、鉄道を利用する人は多い。 そろそろ、帰って来る時間帯で、雨具店に、客が入り始めた。 Bは、接客に忙しくなり、Aは、店の奥の座敷に上げられた。 Bが言った。

「茶箪笥に入ってるのは、全部、お客用だから、どれか、湯呑みを出して、お茶を飲んでて。 そこのドラ焼きも食べていいから」

  Aは、遠慮なく、言われた通りにした。 急須には、すでに、一度出した茶葉が入っていた。 電気ポットから、湯を注ぎ、湯呑みに注いで、飲む。 うまいお茶だ。 ドラ焼きも食べる。 遠慮する気にならないのは、Bと同じ部屋で暮らしていた時期があったからだ。 決して、ベタベタと仲がいい間柄ではなかったが、そうであるが故に、家族感覚が育まれていたのである。

  店の様子を見ていると、売れるのは、ビニール傘ばかりである。 もっと駅に近い所に、コンビニがあり、そちらでも、ビニール傘は売っていたが、B雨具店の方が安かったので、こちらまで来る客が多かった。 雨が本降りだった、30分ほどの間に、二十数本のビニール傘が売れた。 そして、雨が上がると、客脚が、ピタッと途絶えた。

「まあ、こういう、お天気任せの商売なわけよ」
「なるほどね~・・・」

  話す事がなくなった。 元々、べらべら会話を交わすような仲ではないのだ。 しかし、不思議と、話さずにいても、間が悪くなるような事はない。 これも、同居期間があった故の、擬似家族的な意識が働いているのだろう。

  駅の正面階段の方を見ていたBが、ぼそっと言った。

「いるいる。 お子ちゃまが・・・」
「お子ちゃま?」
「ほら。 今、駅の階段の中ほどにいる、オジサン」
「知ってる人?」
「ううん」
「なんで、お子ちゃまなの?」
「傘を振り回してるじゃん」
「ああ、そうだね」

  歳の頃、50代半ばくらいの男が、左手に鞄、右手に畳んだ傘を持っているのだが、足取り軽く、階段を下りながら、時折り、右手の傘を、くるっと、一回転させるのである。

「何か、いい事があったんじゃない」
「いやあ。 いい事があっても、大人は、あんな事しないよ。 周りに迷惑だって分からないから、アレをやるわけよ。 精神年齢が、10歳くらいで停まっているんでしょうよ」
「・・・・・」

  Aは、自分の頭に雷が落ちたような衝撃を受けた。 ここここれは、Bによる、示唆なのではあるまいか。 なぜ、そう思うのか。 それは、Aが交際している男Cが、傘を振り回す癖があるからなのだ。 これまでの会話で、男Cの事は、全く口にしていないのだが、Bは、持ち前の洞察力で、それを見抜いたのかも知れぬ。 Aは、恐る恐る、しかし、さりげなく、訊いた。

「精神年齢が10歳のままの男と結婚すると、女は苦労すると思う?」
「うーん。 女側の人格によるね。 世話焼きタイプの女なら、そういう男と合うと思うけど、世話焼かれタイプの女が、お子ちゃまタイプの男と結婚したら、家庭が成り立たなくなるんじゃないかねえ」
「やっぱり・・・・?」
「離婚の原因で多いのは、『性格の不一致』とか、よく言われるけど、もっと、生活に直結する原因があると思うね。 一緒に暮らすんだから、両方がしっかりしているか、最低限、どっちかがしっかりしてないと、家族なんか、すぐに、崩壊しちゃうよ。 若い内に、別れている連中なんか、みんな、両方、いい加減だからなんじゃないの。 どっちも掃除しなきゃ、ゴミ屋敷だし、洗濯物も溜まる一方。 毎日、外食じゃ、たちまち、破産ってわけよ」
「もし・・・、もしもの話だけど、私が、お子ちゃまタイプの男と結婚したら、うまく行くかな?」

 Bは、振り返って、Aを見た。

「Aが、学生時代と変わっていないのなら、やめといた方がいいかもね」
「・・・・・」
「Aは、私と暮らしてた頃、私と合わせようと思って、一生懸命、家事をやってたけど、本当は、典型的な、世話焼かれタイプでしょ。 お子ちゃまタイプの男と結婚したら、Aが、家族の舵取りをしなきゃなんなくなるよ。 子供が出来たら、自分以外、全員 子供で、A一人で、家族みんなの面倒みてやんなきゃならなくなるわけだ。 そんな事、できるかね?」

  A自身は、気づかなかったが、顔色が真っ青になっていた。 Bが、また、駅の階段を見ながら言った。

「あれあれ!」
「なになに?」

  階段を上がって行く、30歳くらいの男がいた。 スーツをパリッと着こなして、いかにも、仕事ができそうなキビキビした動きである。 右手に鞄を持ち、左手に傘を持っている。 傘は畳んで、水平にし、中程を握っている。

「あの傘の持ち方。 武士が刀を持つような持ち方。 あのまま、階段を登って行くよ。 危ないったらない。 今は、人が少ないけど、癖になっているから、たぶん、人混みでも、ああやってるんでしょ。 後ろの人の目でも突ついたら、どうするつもりなのかねえ」
「・・・・・」

  Aは、自分の頭に雷が落ちたような衝撃を受けた。 なぜというに、Aが交際している男Cが、正に、傘を刀持ちするのである。 それを、カッコいいと思っていると、本人の口から聞いた事がある。 Aは、Bに、恐る恐る、訊いた。

「そそそそれも、精神年齢の低さと関係があるの?」
「お子ちゃまタイプというより、傍若無人タイプだね。 他人の迷惑なんか、何とも思ってないのよ。 そんな事、考えた事もないんでしょうよ。 そういう男と結婚すると、大変だわ。 会社でも、近所でも、敵だらけ。 だって、人を人とも思ってないんだから」
「・・・・・」

  Aは、絶句してしまった。 まずい。 これでは、男Cとの結婚など、問題外ではないか。 Aは、何が苦手と言って、他人との悶着が、一番、苦手なのだ。 極力、衝突を避け、気楽に生きたいのである。 男Cが、敵ばかり作って、その始末が自分に回って来ると思うと、ゾーーッとする。

  そこへ、お客が来た。 40歳くらいの男。 店内を回している。 Bが、接客に立った。

「いらっしゃいませ。 何かお探しですか?」
「あっのっさぁ・・・」
「はい」
「パーティーとか、結婚式とか、そーゆーとこへ持ってける傘、見して」
「それでしたら」

  Bは、箱入りの品をいくつか出して、その中から、一本を選ばせた。 Bが、傘の箱を包装紙で包もうとすると、男が止めた。

「あー、紙はいい! 余計な事すんな!」

  傘の箱を抱えて、男は、帰って行った。

「今のお客・・・」
「なになに?」
「最初から、タメ口、というか、見下し口だったでしょ。 初めて、この店に来た、全くの赤の他人なのにね。 丁寧語を喋れたとしても、たぶん、会社の上司くらいにしか、使わないんでしょ。 ああいうタイプは、普段、10人以下くらいの、狭いつきあいしかしてないんだよ。 その10人だけが、世界の全て。 その外にいる人間なんか、敵か、虫ケラとしか思ってないんだわ。 戦って倒すべき敵か、無視していい虫ケラか。 あの男にとって、私は、虫ケラなんだよ。 ちょっと、常識的な人間には、信じられないよね。 初めて会った、赤の他人を、虫ケラだと思ってるなんて。 でも、そういう男は、決して、少数派じゃないよ」

  やられた! Aは、雷に、体を真っ二つにされてしまった! なぜというに、Aが交際している男Cは、初めて入った店で、店員相手に、丁寧語を使った事など、ただの一度もなかったからだ。 A自身、Cの態度に違和感を覚えていたにはいたが、こう、はっきり、言われてしまうと、なるほど、その通りだ。 Cは、会社の同僚数人以外と、全くつきあいがない。 それ以外の人間は、敵か、虫ケラなのである。

  真っ青になっているAに、Bが声をかけた。

「A・・・」
「・・・・、え? なに?」
「そういう男とは、別れるしかないよ。 私は、本人を見た事がないけど、全部に該当するんじゃ、話にならないよ。 そういう男に合う女もいるかもしれないけど、Aは違う。 それは、分かるよ。 みすみす、不幸になると分かってて、正直に指摘しないのも、どうかと思うから、言うんだけどね」
「・・・・・」

  Aは、B雨具店を辞した。 萎れていた。 Bとは、それ以来、会っていない。 人間離れしたBの洞察力に、関わるのが怖くなったのである。


  Aが、男Cと別れるのに、半年以上かかった。 一応、Cの欠点を矯正できないか、努力してみたが、何の効果もなかった。 恋愛感情というのは、一旦、冷めると、相手の悪いところばかり見え始める。 Bの指摘に沿って、Cを観察すると、ガキのまんま、精神年齢10歳、傍若無人、つきあいが異様に狭く、周囲の数人以外とは、まともに話ができない、といった問題点が、ありあり、見て取れた。 こんなの、治せんわ。 ロボトミー並みの改造が必要になってしまう。

  うまい事に、問題点をCに指摘し始めたら、Cが、Aを鬱陶しがるようになった。 最初は、「もう、女房気取りでいやがる」などと、笑っていたが、Aが本気で、Cを矯正しようとしている事に気づくと、会う回数が減って行った。 週に三度だったのが、一度になり、半月に一度になり、月に一度になると、もう、交際しているとは言えない。 ごく自然に、別れる事ができた。

  Cは、Aと別れて すぐ、友人の紹介で、別の女と交際を始め、半年後には結婚した。 子供も出来たが、いい家庭ではなかったようだ。 子供は、中学生で、グレて、家出し、その後、音信不通。 夫婦は、喧嘩が絶えず、Cが40歳になる前に、別居、離婚。 Cは、離婚した後、まだ、独身のままでいた、Aに近づこうとしたが、Aは、呆れ顔で、突き放した。


  Aは、40代を目前にして、理想的な男性と出会った。 社内で、部署の異動があり、新たな職場で上司になった、男Eである。 すでに、50歳を過ぎていたが、前妻を病気で亡くしていて、子供もいない。 お互い、惹かれあうものがあり、知り合って、ひと月もしない内に、食事に誘われて、即答で、OKした。

  Aの目に、Eは、文句のつけようがない、大人に見えた。 喋り方も落ち着いているし、仕事はしっかりするし、職場で人望もあった。 ある時、雨上がりに、Eと一緒に歩く機会があった。 Eは、畳んだ傘を、提げて持っていた。 刀持ちもしなければ、振り回したりもしなかった。 出先で、初めての店に入ると、Eは、店員に、丁寧語で話しかけた。

  Aは、目頭に涙が浮かぶほど、感動した。 やっと、大人の男に出会えたのだ。 早まって、Cなんかと結婚しなくて、本当に良かった。 Eは、運命の人だった。 赤い糸で結ばれているのだ。 年齢的に考えて、子供を作るとしたら、これが、最後の機会である。 Aは、Eと交際を続けながら、プロポーズされる日を待った。


  しかし、その日は、来なかった。 Eが、突然、死んでしまったのである。 風邪をこじらせ、肺炎になり、見る見る悪化して、呆気なく、息を引き取ってしまったのだ。 Aは、Eの両親には会った事がなく、会社で、他の社員と一緒に、Eの上司から、それを聞かされた。 ジョギングで、雨に濡れたのが、風邪を引いた原因だと言っていた。 目の前が真っ暗になった。

「なんで、風邪なんかで・・・」

  Aは、ある事に思い当たり、雷に打たれたように、体を強張らせた。 Eは、文句のつけようがない大人の男だっが、Aが違和感を覚える事が一つだけあった。 少々の雨だと、傘を持っていても、さそうとしないのだ。 傘を持っていない時には、雨宿りしようとは考えず、濡れて歩くのを厭わなかった。

「人間、雨くらいじゃ、死にゃあしないよ。 紙じゃないんだから。 わはははは!」

  Aは、Bから来る年賀状の、文面を思い浮かべていた。

「濡れていいのは、春雨だけ」
「健康の為、雨に濡れるのは避けましょう」

  陳腐な言葉だと思っていたが、真理だったのだ。 雨の中を濡れて歩けば、どうなるか? 風邪を引く可能性が高い。 そして、「風邪は、万病の元」と言うではないか。 現に、Eは、風邪から、肺炎になって、死んでしまった。

  Eは、傘を振り回さないし、刀持ちもしない。 初対面の相手でも、丁寧語で喋る。 しかし、もっと、根本的なところで、常識が欠けていた。 Bにしてみれば、雨に濡れないなんて事は、当然以前の事で、わざわざ、男の欠点として指摘するまでもない事だったのに違いない。

  こんな事は、Bには言えなかった。 よーく、呆れられてしまう。 Aは、結婚を諦め、生涯独身で通した。 Bとの、年賀状のやり取りは、死ぬまで続いた。 Bから来るのは、相変わらず、傘のイラストに、雨具を勧める文句。 そして、余白に、「元気です」だった。