2024/05/05

濫読筒井作品 ⑮

  久しぶりに、纏めて読んだ、筒井康隆作品の感想文です。 今回で、とりあえず、終わり。 そもそも、この、濫読シリーズは、2006年の初めに、右肩を脱臼して、勤めを休んでいる間、暇潰しに、筒井さんの本を纏めて読んだのが始まりだったのですが、今回も、読書意欲の減退で、何も読む気にならないのを、否が応でも、王が嫌でも読みたくなる、筒井作品に頼って、窮地を切り抜けようとした次第。





≪カーテンコール≫

株式会社新潮社 2023年10月30日 発行
筒井康隆 著


  沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 短編、25作を収録。 全体のページ数は、238ページ。 帯に、「これが わが最後の作品集に なるだろう」との文言あり。 ≪ジャックポット≫の収録作とダブっている、2作の感想は、そちらから、移植して、減筆修正してあります。


【深夜便】 約8ページ

  深夜のバーで酔い潰れて眠っていた男が、かつて、自分の恋人だった女性と結婚した男に揺り起こされる。 自分は、酒に逃げてばかりいる駄目男なのに、その男は、品行方正で、エスタブリッシュメントで、キャリアで、エリートで・・・、しかし・・・、という話。 

  冒頭の、飛行機の部分は、主人公の夢で、別に、飛行機の中にバーが設けられているわけではないです。 小説として、普通に読めますが、話の方は、特に何が言いたいというような種類ではないです。 ちょっと、座りの悪いラストが付いていて、そこに、若干の異化効果が認められます。


【花魁櫛】 約8ページ

  夫の祖先から伝わった遺品である、花魁の櫛。 夫が遊女の子孫である事を恥じる妻は、すぐに処分してしまおうとするが、鑑定者の専門度が上がるたびに、値段が一桁高くなる。 金に目が眩んだ妻は、なかなか、売ろうとしなくなり・・・、という話。

  ラストですが、妻が狂ってしまったのか、はたまた、櫛の値段が上がり過ぎて、お金に替えるよりも、自分自身が使った方が、自分にとって、価値があると考えたのか、二つの解釈が考えられます。


【白蛇姫】 約10ページ

  戦前、白蛇と共に育った、女の子。 蛇はどんどん大きくなり、長じて大変な美女になった娘には、誰も近づけない。 やがて、戦争が始まり、憲兵が娘の家にやって来るが・・・、とい話。

  昔話のモチーフを用いたもの。 同時に、行間から、作者の動物好きが滲み出ている観あり。 女の子に、白蛇に、白装束の少年、もう、それだけで、「いいなあ」と感じ入ります。 なんで、こんなに、いい雰囲気になるんだろう? 不思議不思議。 白い大蛇に跨った美少女の様子など、堪えられませんな。


【川のほとり】 約10ページ

  筒井さん本人が、夢の中で、先に他界した息子さんに出会い、自分の頭で作り出した夢だと承知しながら、ぎこちない会話を交わす話。

  息子の伸輔さんは、画家で、筒井さんが、2012・13年に、朝日新聞に連載した、【聖痕】という小説に、挿絵を描いていたので、作風は、すぐに、ピンと来ます。 食道癌を患い、2020年に、51歳で、亡くなったとの事。

  子供に先立たれた方の心中は、他人には、計り知れないものがあります。 余計な感想は書かず、息子さんのご冥福をお祈りするだけにします。


【官邸前】 約10ページ

  一人の記者が、首相官邸前で、首相を待ち受けて、インタビューするが、首相は、はぐらかしまくって・・・、という話。

  言葉遊びを、ふんだんに盛り込んだ、首相揶揄もの。 小松左京さんの短編に、こういうのが、よくあったなあ。 筒井さんは、筋金入りのノンポリでして、全ての政治勢力、政治家を、茶化して見ているようですが、そういう人は、政治物を、あまり書かない傾向がありますねえ。


【本質】 約10ページ

  学校がインフルエンザで休みになり、預ける先がない息子を連れて出勤した、部長職の母親。 重役会議に、息子を同伴するが、その場で、重役達が交わす会話を聞いた息子が、会議が終わった後に下した感想は・・・、という話。

  食品化学工業会社でして、化学の専門用語が、ドカドカ並びますが、詳しくないので、出鱈目なのか、それぞれの内容が、一見、関係あるように見えて、実は、まるで関係ないところが、面白いのか、よく分かりません。 最後に、息子の一言で、オチになりますが、専門用語が分かっていなくても、思わず、笑ってしまいます。


【羆】 約10ページ

  「親爺」と呼ばれる、凶暴この上ない羆が、集落を襲って来る。 猟友会の面々が出動するが、どうやら、みんな、やられてしまったらしい。 一人残った爺さんが、恐怖の余り、足腰立たなくなり、尿は漏らすわ、便は漏らすわ・・・、という話。

  いやあ、こういうの、好きだなあ。 筒井さんの動物ものなので、そもそも、いい感じなのですが、語り口も面白くて、当の羆が、最後まで、姿を現さず、爺さんの一人称で、恐怖感だけ伝わって来るところが、心憎い演出。

  しかも、 動物もので、スカトロなのだから、驚きます。 こういう組み合わせは、古今、例がないのでは? スカトロが、どういう意味かは、自分で調べて下さい。


【お時さん】 約10ページ

  都会の中に残された森。 近道をしようと奥に入って行くと、かつて、銀座にあったのと同じ、「重松」という名の飲み屋が、その店で働いていた、「お時さん」によって、営まれている。 また来ると言ったのに、なかなか行けず、その後、ようやく、店の前まで行ったが・・・、という話。

  おそらく、夢で見た話が、元になっているのだと思います。 女将の名前、「お時」は、昔の記憶である事を表しているのだと思いますが、店の名前、「重松」は、もしかしたら、ドラマ版、≪孤独のグルメ≫の主演、松重豊さんから来ているのかも。 特に、グルメの話というわけではありませんが。


【楽屋控】 約10ページ

  俳優として、映画の撮影に呼ばれた若手の人気作家が、助監督から、理由もなく睨まれ、事あるごとに嫌がらせ的な注意を受けて、いよいよ、堪忍袋の緒が切れてしまい・・・、という話。

  間違いなく、筒井さん本人がモデルですが、すべてが、実体験というわけではありますまい。 筒井さんが、映画・ドラマに出ていた頃には、もう、文豪待遇が始まっており、助監督が、こんな事をやった日には、すぐさま、監督やプロデューサーに注進が行って、助監督のクビが切られたと思うからです。

  映画撮影で、待ち時間が長くて、辟易するというのは、本当だと思います。 筒井さんの小説の発想方法の一つに、「被害妄想を逞しくして、極端化する」というものがあり、おそらく、出番を待っている間に、妄想がどんどん膨らみ、「すべて、助監督のせいにしてやれ」とて、こんな作品が出来たんじゃないでしょうか。

  終始、不穏な空気が流れていて、読者の方も落ち着きませんが、このリアルさは、俳優兼作家の経験がなければ、書けないものです。


【夢工房】 約10ページ

  ある高齢者施設。 勝手な望みをもった老人達に、なるべく、その望みを叶えてやろうとしているが、噛み合うようで、噛み合わないようで・・・、という話。

  誰が死ぬわけでもなく、長編、【銀齢の果て】よりも、ずっと、マイルドですが、ドタバタである点は変わりません。 80代後半で、こういうドタバタを書けるノリというのは、凄いなあ。


【美食鍋】 約10ページ

  大昔の人間に、現代のグルメを食べさせたら、どういう反応になるかを見たいと考えた男達。 タイム・マシンの使用許可を取って、石器時代から、数人連れて来て、グルメを味わわせたところ・・・、という話。

  SFです。 実験結果は、概ね、予想通りだったものの、事態が悪い方向へ流れ、悲惨な結末になるかと思いきや、オチがあって、主人公、読者共々、救われます。 そんなに平均寿命が短いのでは、大急ぎで、子供を作らなければならないわけだ。


【夜は更けゆく】 約8ページ

  コロナ禍で、夕食後は、家でテレビを見て過ごすしかなくなってしまった、兄と妹。 二人とも、外では、マスクをしているから、交際相手が見つからない。 兄に、「好きな男はいないのか」と訊かれて、妹が、うっかり、口を滑らせたせいで・・・、という話。

  そりゃ、気まずくなるわなあ。 こういう兄妹がいても、不思議はないですが、大抵は、歳が離れているケースですな。 二つ違いくらいの兄妹だと、妹の方が、兄を馬鹿にしてしまって、こんな事には、絶対ならないようです。 妹にとって、歳の近い兄は、男として、頼りなく見えるらしいのです。


【お咲の人生】 約8ページ

  主人公が子供の頃に、家に住み込みで働いていた、女中のお咲。 主人公がいじめられていると、いじめっ子をやっつけてくれた。 家族で海に遊びに行ったが、決して、海に入ろうせず、子供達の見守り役に徹していた。 その理由が、ずっと後になって、お咲が死んでから、分かる話。

  「実話」と言われても、おかしくない、リアリティーに溢れた内容。 純文学の領域ですな。 実話の断片を元にして、心に響く話に纏めたのだと思います。 お涙頂戴にならないように、さらっと締め括ってあるのは、さすが。


【宵興行】 約10ページ

  かつて、人気を集めたアングラ劇団が、数十年ぶりに、興行するというので、昔のファン達が集まって来る。 芝居の内容は、昔のままで、俳優達も、歳を取っていない。 終演後、楽屋へ押しかけようとするが、興行主らしき男の挨拶を聞かされている内に・・・、という話。

  少し、SFっぽいですが、それらしい説明は付いていません。 これも、夢で見た話なのかも知れません。 アングラ劇団の舞台を見た事がある人達なら、そうでない人達より、強い印象を受けると思います。 何もかも、記憶の彼方であればこそ。


【離婚熱】 約10ページ

  離婚調停の場に臨んだ夫が、妻の問題点を、事細かに申し述べる話。

  困った妻ですな。 こういう人がいても、おかしいとは思いませんが。 家の中だと、家族しか知らないような問題行動を、ぶちかましまくっている人がいるんでしょうなあ。

  オチが付いています。 わはははははは! オチが・・・、わはははははは! 失敬失敬。 オチが、わははははははは!! いかん、笑い死にしてしまう! わははははははは! はーっ、はーっ! わははははははははは!!


【武装市民】 約10ページ

  禿げた頭が赤く光る集団が、街を襲って来る。 猟友会経験者を始め、猟銃で武装した市民が、迎え撃とうとするが・・・、という話。

  古典的なSFを、なぞったもの。 もしかすると、夢が元かも。 襲われる側も、脛に傷もつ身で、こんな連中、殺されても構わないような気がするので、あまり、恐怖感が盛り上がりません。 もしかしたら、悪人だけが、集団に取り込まれているのでは? それなら、怖いですが。


【手を振る娘】 約10ページ

  洋服が、次第に普及しつつある時代。 人気作家の家の窓から見える洋装店に、店員の制服を着た若い娘がいて、作家が窓を開けると、手を振って来たので、こちらも振り返す。 しばらく、そんな日が続いたが、作家が数日間の旅行に行き、帰って来たら、娘の形相が恐ろしいものに変わっていて、その後、姿を見せなくなった。 洋装店へ訊きに行って見ると・・・、という話。

  これは、怖い・・・。 ほぼ、ホラーの設え。 ラストだけ、ファンタジー。 時代設定が絶妙で、現代の話にしたら、こんなに怖さが盛り上がらなかったと思います。


【夜来香】 約8ページ

  日本軍の敗戦が間近い上海。 「夜来香」という名の、日本兵相手の飲み屋で、ママとホステス、そして警官らが、兵隊からもらった宝飾品類を山分けする話。

  別に、これといった、ストーリー展開はないです。 「夜来香」というのは、有名な流行歌の名前ですが、この店は、歌が流行する前からあったという設定。 ちなみに、現代中国語では、「ye\lai/xiang ̄」で、日本風に発音すると、「イェ・ライ・シャン」。


【コロナ追分】 約10ページ

  ある飲食店を主な舞台にして、2021年秋頃の、コロナ禍の混乱振りを、揶揄したもの。

  この作品だけ、掲載誌が、「群像」。 ぶっとんだ文体です。 中高年ダジャレ症の、重篤な症例。 


【塩昆布まだか】 約8ページ

  100歳を超えた夫と、90代の妻が、次々と家電が壊れて行く家の中で、近所で起こった火事のニュースを、テレビで、他人事のように見ながら、ドタバタなやりとりをする話。

  会話だけで語られるドタバタ喜劇なんですが、社会的に重大な問題も指摘していまして、高齢者の家庭で、生活必需家電が壊れると、直せなくなってしまうんですな。 街の電器屋さんは、バタバタ、廃業していますし、高齢者だと、ネット環境がないから、通販で買い換えるわけにも行かない。 家電量販店に行くしかないですが、そういう店では、高齢者を見た事がないです。 どうしてるんですかね? テレビもですが、もっと必需なところで、洗濯機や、冷蔵庫なしじゃ、生きて行けないでしょうに。


【横恋慕】 約10ページ

  釣具屋で、変わった疑似餌を買った男。 海で使ってみたら、小さな人魚が釣れた。 男の事が好きだと言うので、家に連れて帰ったが・・・、という話。

  ストーリーの展開が、読ませどころなので、これ以上、書けません。 動物ものに入れるには、ちと、ファンタジック過ぎるか。 「もしも、人魚が、出世魚だったら?」という発想か、もしくは、「磯の鮑の片思い」から膨らませて、尾鰭を付けたのではないかと思います。

  私も、今年、還暦ですが、まさか、この歳になって、人魚と鮑の濡れ場を読む事になるとは、想像だにしませんでした。 ん? どちらも魚介だから、濡れ場と言うのはおかしいかな。 世界広しといえど、貝のラブ・シーンなんて、筒井さんの他に、誰が思いつくのか? これだけでも、イグ・ノーベル文学賞に値する。 そんな賞はないか。 それにしても、つくづく、筒井作品には、驚かされる事よ。


【文士と夜警】 約10ページ

  近所の小料理屋に、夕飯を食べに行っている作家が、書きかけの小説に登場させた夜警を、その後どうするか、構想を練る話。

  話の方は、筋として纏まっていませんが、雰囲気はいいです。 小料理屋の看板娘に案内されて、食後のコーヒーを飲みに、喫茶店に行く件りも、なんとなく、いいですねえ。 もしかしたら、夢で見た情景が元なのかもしれません。


【プレイバック】 約12ページ

  健康診断で、入院中の筒井さんの病室に、代表作の主人公達や、先に他界したSF仲間達が、訪ねて来る話。

  代表作の主人公とは、【時をかける少女】の、芳山和子。 【富豪刑事】の、神戸大助。 【文学部唯野教授】の、唯野仁。 【パプリカ】の、パプリカ/千葉敦子。 【美藝公】の、穂高小四郎。 作品名は知れているけれど、主人公の名前は知れていない人もいます。 火田七瀬が来ないのは、やはり、心を読まれては、困るからでしょうねえ。

  作品の評価についての会話が多く、想像していたより、硬いです。 何歳になっても、作品の評価は気になるんでしょうなあ。 そういう職種だから、致し方ないか。 唯野教授だけは、饒舌に喋りまくります。


【カーテンコール】 約10ページ

  トーキー初期頃の映画俳優や監督、その他、著名人が、入り乱れた会話で、昔話に花を咲かせる話。

  完全に、趣味の世界でして、知識・情報・体験を共有していない者には、全くついて行けません。 私も、その口。 筒井さんは、とことん、この時代の映画が好きなんでしょうなあ。 それだけは、物凄い圧力で伝わって来ます。

  この本の表題作ですが、【カーテンコール】というタイトルと、帯の、「これが わが最後の作品集に なるだろう」とは、全く関係なし。 まだ、執筆活動は続くと思われ、ホッとしました。


【附・山号寺号】 約ページ

  山号寺号の、筒井さん版。

  「山号寺号(さんごうじごう)」というのは、文芸の言葉遊びでして、お寺の名前は、「○○山 ××寺」というパターンになるので、途中に、「さん」、末尾に、「じ」と付く言葉を作って遊ぶのです。

  中高年ダジャレ症に罹っている大文豪で、常人より、言葉の数を桁違いに多く知っている上に、組み合わせのパターンも桁違いに多く思いつく筒井さんの事とて、こういうのは、無数に作り出せるようです。

  どれが好きかで、人間性が暴露されてしまいそうですが・・・。 「ローランサン~」や、「モーパッサン~」は、洒落てる感じ。 「家族離散~」は、凄まじい。 「炭酸~」は、シンプルで語呂がいいです。



  短編集、≪カーテンコール≫の総括ですが、ぶっとんだ文体の作品が少ないので、≪ジャックポット≫より、ずっと、楽しく読めました。 なんで、≪ジャックポット≫に、その種の作品が固まってしまったのか、不思議。 掲載雑誌は、似たようなものなのですが。


  ところで、【楽屋控】の中で、他の者が、主人公を、「~先生」と呼んでいるのに、問題の助監督だけが、「~さん」と呼んでいて、それが、主人公への敵意の表れの一つになっています。 ギクッ!とするではありませんか。 私も、筒井さんの事を、「筒井さん」と書いていますが、敵意は毛頭ないので、誤解しないでいただきたいもの。 ある時期以降、他の作家の事も、「~さん」で統一していますし。

  そもそも、さん付けを始めたのは、「著名作家は、呼び捨てにしてもいい」という習慣に、違和感があったからで、「呼び捨てよりは、さん付けの方が、ずっといいだろう」と、判断したもの。 「他界している作家なら、呼び捨てでもいい」という意見もあると思いますが、文体によりけりですかね。 私のように、地の文を、丁寧語で書いている場合、さん付けにした方が、馴染むようです。

  人によっては、「相手は著名作家なのに、さん付けは、知人みたいで、馴れ馴れしい。 おこがましい」と感じる人もいるでしょうが、妥協の結果の判断なので、御容赦あれ。 もちろん、私は、一読者に過ぎず、一面識もない作家の方々に、馴れ馴れしくする気は、微塵もないです。 筒井さんだけ、「筒井先生」と書いてもいいんですが、連発すると、何だか、「田舎の歓迎会」みたいで、却って、失礼になるような気がするので、やめておきます。




≪活劇映画と家族≫

講談社現代新書 2626
株式会社講談社 2021年7月20日 第1刷発行
筒井康隆 著


  沼津図書館にあった、新書本です。 前書きに相当する分と、あとがきを入れて、約160ページ。 普通の読書力なら、2時間くらいあれば、全ての文字を読み通す事ができるボリュームです。

  1940年代、50年代、60年代を中心に、アメリカの活劇映画に出て来る、家族や、血が繋がっていない擬似家族、俳優や監督らが作り出す、家族的な仲間について、数本の映画を中心に紹介しながら、語る内容。


≪一 「白熱」「血まみれギャング・ママ」「前科者」≫

  専ら、映画のストーリーを紹介していて、感想は、ほんの少しです。

  ≪血まみれギャング・ママ≫は、スチール写真だけ見ても、ママ役の女優さんに、凄い魅力を感じます。 この映画だけが、1970年の公開で、最も新しいです。 そういえば、≪天空の城ラピュタ≫に出て来る、空賊の首領と、その息子達ですが、この映画からいただいているのかも知れませんねえ。


≪二 ハワード・ホークス監督「ハタリ!」の疑似家族≫

  映画のストーリー紹介と、製作裏話の類が、盛り込まれていいます。

  ≪ハタリ!≫は、動物の捕獲を職業とするグループの、1シーズンの活動を描いたもので、思わず、映画そのものを見たくなる内容。 有名俳優を使って、こういう映画を作ろうと思いつく発想が、凄いですな。 もっとも、動物愛護や、自然保護の観点から考えると、現在では、剣呑な映画になってしまっている恐れもありますが。


≪三 ジョン・ヒューストンに始まるボギーの一族≫

  ハンフリー・ボガートさんを中心に、共演者や監督達との、製作裏話が語られます。 この本の中では、この章が、圧巻です。

  筒井さんは、ボガートさんに、心酔している模様。 行間から、「好き! 好き! 好き! 好き! 好き!」と、小さな文字が無数に湧き出ている感あり。 読んでいるこちらまで、つられてしまいます。 この章が面白いのは、俳優の手記などを元にした、楽屋話の情報が豊富で、ストーリーよりも、そちらに、興味を引かれるからだと思います。

  私が見ているのは、≪マルタの鷹≫だけなのが、残念。 ≪アフリカの女王≫は、何度が、見る機会があったのに、見ないままになっていました。 そんなに面白いのなら、見ておけばよかったと、悔やまれるところ。


≪四 西部劇の兄弟≫

  ジョン・ウェインさん出演の西部劇を、ストーリーの紹介を中心に、語ったもの。 同じ、ストーリー紹介中心でも、≪一≫よりは、感想が多く、面白く読めます。 西部劇は、私もかなり見ているから、分かり易いという面もあります。



  とまあ、そういう本なんですが、家族や擬似家族、仕事仲間について、分析のようなものは、ほとんど、加えられていないので、評論を期待していると、肩透かしを食います。 筒井さんが、好きな映画について、好きなように語ったのが、この本なんですな。

  ちなみに、細かく取り上げられている作品は、10作くらいですが、名前だけ引用される作品を含めると、50作くらい出て来ます。 当年、60歳の私でさえ、指を折って数えるくらいしか見ていないわけで、それより若い人達は、特に、この時代の映画を研究している人を除き、もう全然、見た事がないはず。

  自分で、DVDを借りたり、買ったり、積極的に動けば別ですが、「NHK BSに網を張って、放送されるのを待つ」という戦略だと、10年かけても、50作中、10作も見れないと思います。 B級映画は、そもそも、テレビ放送される事が、稀ですし。 ≪マルタの鷹≫と、≪アフリカの女王≫は、一定の間隔で、放送しているかなあ。


  大変、感想が書き難い本でして、なぜかと考えるに、この本自体が、映画の感想なのであって、感想文の感想文を書く事に、心理的な抵抗が発生するからでしょうか。 映画のストーリーを、そのまま書いてある部分は、感想以前なのであって、よく、小中学生の感想文に、教師が、「これは、感想ではない。 あらすじだ」と、ケチをつけるのより、尚悪い。 だって、「あらすじ」ではなく、「全すじ」書いてあるんだものね。

  筒井さんが、何を考えて、こういう本を出そうと思ったのかを推測するに、もう、人生の締め括りの時期に差しかかって来たので、自分が何者なのかを、振り返りたくなったのかも知れませんねえ。 自分が創り出して来た作品ではなく、自分を作り上げたもの、自分の感性に影響を与えたものが何なのか、それを探りたくなったのではないかと・・・。 穿ち過ぎか・・・。

  はたまた、新型肺炎流行以降、人類の文化に輝きが感じられなくなり、世界が色褪せて見えるようになった。 本を読んでも、テレビを見ても、ちっとも、面白くない。 で、かつて、自分を夢中にさせてくれた、懐かしいアメリカ映画の世界に、どっぷり浸り直す事で、文化の素晴らしさを、再発見したいと、一縷の望みを託したのでは? 深読みし過ぎか・・・。




≪不良老人の文学論≫

株式会社新潮社 2018年11月20日 発行
筒井康隆 著


  沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 約286ページ。 一日100ページずつ、三日で読むつもりでいたのですが、三日目に、文学賞の選評にさしかかったら、内容が濃くなったせいか、読み入ってしまい、200ページ以降は、一日約50ページずつになって、計四日で読み終えました。

  「文学論」と言っても、筒井さんが、直接、自論を展開しているわけではなく、他の作家の作品への推薦文や、文学賞の選評などを集めて、間接的に、筒井さんの文学論を表すという形式です。 推薦文の対象になっている作家は、有名なところでは、(以下、敬称略)

大江健三郎
井上ひさし
星新一
小松左京
手塚治虫
蓮實重彦
山田風太郎
今野敏
山下洋輔
野田秀樹
三島由紀夫
アガサ・クリスティー
ウンベルト・エーコ
芥川龍之介
谷崎潤一郎

  といったところ。 推薦文は、短いから、そんなに難しくなる事はなく、割とスイスイ、読めます。 特に、自分が作品を読んだ事がある作家については、読み易いです。


  次に、筒井さんが、選考委員を務めた、「谷崎潤一郎賞」と、「三島由紀夫賞」の選評。 純文学が対象なので、これが、なかなか、手強い。 筒井さんの評論は、批評用語を抑えてあるようで、意味が分からないほど難しくはないですが、深い事は深いので、理解には、それなりの読書経験が要ります。 私のレベルだと、真意まで読み取れないというのが、正直な感想。 もっと上級者なら、底まで分かると思います。

  選評の対象になっている作品を書き留めておいて、読んで行けば、暇潰しになるかな? もっとも、筒井さんが誉めているからといって、私が読んでも面白いかというと、そうでもない事があるから、油断がならぬ。 一般論ですが、作家が評論する、他の作家の作品には、三種類ありまして、

1 その作家自身が、読みたくて、読んだ。
2 無視できない人から薦められた。
3 文学賞の選考委員になり、候補作を読んだ。

  1で、誉めてあったら、本当に面白い。 2で、誉めてあっても、交際上の遠慮が入っている可能性があるので、些か信用できぬ。 3で、誉めてあっても、文学賞主催者の意向が影響している可能性があるから、眉に唾をつける必要がある。

  といったところ。 むしろ、貶してある作品を読んだ方が、どういうところが、筒井さんの逆鱗に触れるのかが覗えて、面白いかも知れませんが、純文学の方では、そもそも、貶してある作品が少ないです。


  それが、同じ選評でも、「山田風太郎賞」になると、景色が変わります。 純文学ではなく、エンターテイメントだから、さんざん、それを書いて来た経歴がある筒井さんの事とて、容赦がない。 滅多斬りして、返り血どっぷり浴びても、まだ斬り足りないという趣き。 「今宵の虎徹は・・・」 おっ、しまった、【わが名はイサミ】の事を忘れていた。 近藤に擬えるのは、まずいな。 それにしても、この、文化的残忍さは、凄まじいなあ。

  筒井さんは、純文学の経歴も長いですが、やはり、より基本的な部分を占めている中間小説の方が、馴染みが強いんでしょうねえ。 自分のホーム・グラウンドを、今時の若手作家に、好き勝手にさせたくないのかも知れません。 誉められた作家はいいとして、貶された作家の方々は、気の毒だけど、まあ、相手は、生きながらにして、雲の上の人だから、名誉と思って、一生の語り草にすれば、損にはならないでしょう。

「俺は、あの神話的大文豪、筒井康隆に、貶された事があるんだぞ」
「へへーっ! (土下座) 畏れ入りましたーっ! (叩頭)」


  最後は、随筆。 【筒井版 大魔神】というシナリオ作品があり、私も、単行本をもっていますが、それを書く事になった経緯(けいい)と、映画がポシャッた経緯(いきさつ)が書いてあります。 映画会社で会議があり、その参加者の意見を全部入れて行ったら、パッとしないものになってしまったのだそうです。 やはり、映画会社というのは、そういう、構造的な失敗をやっていたんですな。 映画関係者は、「作品とは、大勢の人間で作るもの」と思っているから、個人の芸術性を軽視する傾向があるんでしょう。

  随筆の中に、【孫自慢】という作品があります。 タイトル通り、筒井さんのお孫さんを自慢した内容なのですが、これが、ちょっと、いや、ちょっとどころではなく、大名文でして。 誤解を恐れずに言えば、こんな質感の高い随筆は、私小説専業作家でも書けないだろうと思われる、気品と慈愛に満ち溢れた、素晴らしい文章。 ついでに、も一つ、誤解を恐れずに言えば、教科書に載っていても、ちっとも、おかしくありません。 以下、素晴らしい×100。 いや、改めて、素晴らしい! この素晴らしさが分かる自分で良かった。

  【無敵競輪王】は、情報価値的に、面白いです。 自転車には、一応、乗れるそうですが、筒井さんは、車も運転しないし、自分で操る乗り物とは、縁が薄い感じがしますねえ。 そういえば、筒井作品の中では、主人公が車を運転する場面も、非常に少ないです。 それはともかく、こういう随筆を依頼した編集者は、金的ですな。 もし、ここで書いてもらわなければ、筒井さんと自転車の関係なんて、誰も知らないままになるところだったわけですから。

  【日本でも早く安楽死法を通してもらうしかない】ですが、楽に死ぬのを狙うなら、絶食死が一番、楽らしいですよ。 孤独死で、死後、何日も経ってから、遺体が見つかるケースがありますが、もし、体が動かなくなり、食事の用意ができなくなった結果、死んだのなら、一番楽な死に方をしたわけで、全然、憐れんでやる必要はないわけだ。 むしろ、羨むべき。

  おっと、こんな事を書いて、億が一、御本人の目に止まり、実行されてしまうと、まずいな。 そういう場合でも、自殺教唆になってしまうんだろうか? どうも、この種の話題そのものが、剣呑なのだな。




≪文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー≫

株式会社河出書房新社 2018年5月30日 初版発行 2018年10月30日 5刷発行
筒井康隆 著


  沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 本文、約84ページ。 1990年に行なわれた、筒井さんの講演記録から、文章に起こしたものを元に、筒井さん本人が、大幅な加筆修正を加えたもの。 大澤真幸氏による、「補遺」が、44ページ。 計、約128ページ。

  胃潰瘍で入院中、ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガー(1889年~1976年)氏の代表的著作、【存在と時間】を読んだ筒井さんが、「もっと分かり易くできるはず」と考えて、講演の題材にしたようです。 なぜ、最初から、本にしなかったのかは、不明。 副題に、「文学部唯野教授・最終講義」とありますが、当時、【文学部唯野教授】が、話題になっていたので、そちらに、寄せたのかも知れません。

  下司の勘ぐりを逞しくすると、哲学者や、ハイデガー研究者など、その道のプロから、ツッコミを入れられると嫌なので、文章の形で残さないように、計算したのかも。 それが、28年も経ってから、なぜ、本になったのかというと、講演記録を文章に起こした知人がいたのが、きっかけだった模様。 ただし、そういう裏事情は、この本には書いてありません。

  原典、【存在と時間】の内容は、ここでは、書きません。 この本を、直接、読んで下さい。 これ以上、簡単にできないくらい、易しく噛み砕かれているようなので、私ごときが、更に要約など、できるはずがないです。 そこを敢えて、一言で言うと、「人間とは、自分が死ぬ事を知りつつ、生きている存在である」という事ですかね。 「だから、こうすべき」といった、結論はないです。 分析だけで、終わっているようです 

  素朴な疑問として、「動物は、どうなのかな?」と思うのですが、本能的に、危険を避けながら生きているだけなのか、それとも、人間が知りようがないだけで、動物も、自分が死ぬ事を知っているのか・・・。 以前、何かの本で、ゴリラに手話を教えた例を読んだんですが、死とは何か訊いたら、地面を指さしたとか。 分かっているのではないですかね? もしかしたら、人間以上に。

  この本に戻りますが、この講演記録が、どれだけ、分かり易いか、どれだけ、原典の内容を、正確に捉えているかは、原典も読んで、対照する以外ありません。 しかし、私は、それをやる気がありません。 もう、人生の残りが、そんなにある気がしないので、直接興味がない事に、多くの時間を割く事ができないからです。 いやいや、カッコつけるのはやめましょう。 そんな言い分け以前に、私が、【存在と時間】を理解できるような気がしないのです。

  【存在と時間】を理解しても、「死」への恐怖が和らぐ事は、ないと思います。 慰めにすらならない。 そもそも、ハイデガー氏は、そういう目的で、【存在と時間】を書いたわけでもないと思います。 人間とは何か、人間にとって、自分を取り巻く世界とは何か、それを見極めたかったわけですが、最初から、正しい答えがない問いを追い求めた感がなきにしもあらず。 何らかの結論を出したとしても、「それは、一つの考え方に過ぎない」と指摘されれば、否定のしようがありますまい。


  筒井さんによる本文は、純粋に、哲学に限った内容が説明されていますが、大澤真幸氏による、【「誰にもわかるハイデガー」への、わかる人にだけわかる補遺】になると、キリスト教が、出過ぎるほど、前に出て来て、猛烈な違和感を覚えます。 そもそも、なぜ、「補遺」に、こんなにページ数を取っているのかも分からない。 内容も、本文について書かれたものではなく、原典についてのもの。 ズレズレですな。

  ところがねえ。 この補遺が、無視できない重要性を持っているのですよ。 ハイデガー氏のように、ヨーロッパ哲学の伝統を受け継いだ人は、例外なく、キリスト教の影響を受けているのですが、その事を、この補遺が、暗に示しているようなのです。 「救世主が、すでに死んでいる」というのが、他の一神教と違う、キリスト教の奇妙な特徴だ、といった具合に、哲学以前に、宗教もろ出しなんですが、ハイデガー氏も、そういう、キリスト教の影響から逃れられなかったと見るべきだ、と言いたいのでは?

  【存在と時間】を読むのが、キリスト教徒であれば、キリスト教的に読むし、キリスト教徒以外であれば、純粋な哲学書として読む。 しかし、どちらが正しいかと言えば、著作者、つまり、ハイデガー氏と同じ精神的背景を持った、キリスト教徒の読み方の方が、正しいのかも知れません。 キリスト教徒でない読者は、著作者の意図を、くもりガラス越しに、見ているだけなのかも。



  総括ですが、この本、「哲学には縁がないが、全く興味がないわけではないから、もし、理解できそうなら、少しは知っておきたい」という向きには、最も適しています。 私が過去に読んだ哲学書で、面白かったというと、プラトンの、【対話篇】くらいのものですが、一番大きな理由は、「何が書いてあるのか、分かる」という事なのです。

  そもそも、分からないんじゃ、理解のしようがありません。 分からせる努力を怠っている哲学者は、根本で間違っている危険性があります。 まして、難解ぶる為に、わざと、分からないように書いているなどというのは、問題外です。 そんなもの、学問とすら言えぬ。 トイレに籠って、独り言でも言ってなさい。

  プラトンから、ハイデガーでは、歴史的に、端から端ですが、この本は、ちゃんと、分かるように書いてありますから、読む価値はあります。 特殊な用語も使われていますが、意味を見失うほど、特殊でもないので、何とかなると思います。 もっとも、「だから、こうすべき」が欠けている点、人生の参考になるようなものではありませんが、それは、原典の問題であって、この本のせいではありません。




  読んだ期間は、2024年の、

≪カーテンコール≫が、2月9日から、11日まで。
≪活劇映画と家族≫が、2月22日から、24日まで。
≪不良老人の文学論≫が、2月25日から、28日まで。
≪文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー≫が、3月6日から、7日。

  もう一冊、≪駝鳥≫という絵本が、沼津図書館にあるようなのですが、絵本の書架が、50音順になっていなくて、どうしても、見つけられません。 元になった小説の方で読もうかと思って調べたら、なんと、≪欠陥大百科≫所収で、この本は、手に入らなかったんですわ。 仕方がないから、すっぱり、諦めました。