読書感想文・蔵出し (128)

≪墳墓記≫
株式会社 新潮社
2025年3月25日 発行
高村薫 著
沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 長編1作を収録。 一段組みで、約176ページ。 元は、「新潮」の、2021年4月号から、2024年7月号まで、飛び飛びに掲載されたもの。 単行本化に当たり、加筆修正が施されたとの事。
祖父と父が能楽師だったが、父への反発から、それを継がずに、裁判所の速記官になった男が、外傷性ショックで、瀕死の状態となり、救急車で病院へ運ばれる。 生と死の境を彷徨いながら、藤原定家を中心に、飛鳥、奈良、平安、鎌倉の時代を生きた、皇族、公家、武士らの、考え方、感じ方に、思いを馳せる話。
何が原因で、そうなったのかは、よく分かりませんが、とにかく、死にかけた状態である事だけは分かります。 娘が、「自由落下を求めて」、飛び降り自殺したらしいので、もしかしたら、主人公も、それに倣ったのかも。 主人公の祖父も自殺しており、狂気の遺伝子を受け継いでいると、父親も言っているように、堅実、且つ、地味に暮らす事ができない血統である事は、暗示されています。
覚醒していない脳で、こんなに膨大な知識を記憶野から引き出すのは、到底、不可能だと思いますが、もしかしたら、高村さんクラスの頭脳になると、そういう事ができるのかも知れません。 毎朝、寝覚めの夢の中で、小難しい学術的問題を、脳が勝手に演算しているとか。 高村さんの知能は、私より、数倍、いや、数十倍、上を行くと思われ、下からでは、上の頭の構造を窺い知る事ができないのです。
古典からの引用や、擬古文が、これでもかというくらい出て来るので、推理小説方面から、高村さんの作品を手に取り始めた読者は、十人中九人が、何ページも進まない内に、音を上げると思います。 無理無理! 読めるものかね! 目が文字にくっついて行ってくれませんわな。 もしかしたら、高村さんは、未だに自分の事を推理作家と見做している読者に、うんざりしていて、わざと、こういう作品を書いて、そういう輩に引導を渡そうと目論んだのでは? もっとも、このレベルになると、よほどの古典好きは別として、一般小説や純文学の読者でも、ついて行けないような気がしますが・・・。
筒井さんの、【聖痕】に、擬古文が使われていましたが、あれは、実験的に、異化効果を狙ったもの。 一方、この作品では、古典引用や擬古文が、あまりにも多過ぎて、異化効果を通り越してしまっています。 もはや、小説というより、古典を対象にした、論考と言うべき。 こーれなあ、新人が書いて、新人賞に応募したり、編集部に持ち込んだりしたら、凄い顔されるでしょうねえ。 野次馬心理的には、編集者の引き攣った表情を見てみたいもの。 十二分に名前が売れている、高村さんだから、雑誌掲載も、単行本化も、可能だったわけで。
古典引用や擬古文を、飛ばし読みしようとすると、何が言いたいのか、さっぱり分からなくなってしまうので、辛くても、全ての文字を読むしかありません。 セルフ拷問になると思いますが、この本を買っちゃった、もしくは、借りちゃった、己が運命を呪うしかありませんな。 【源氏物語】を、部分的にでも、原文で読んだ経験がある人なら、割とスイスイ、進むと思いますが、上にも書いたように、小説というよりは、論考なので、話の展開に、ワクワクするような事はないです。
≪晴子情歌 上・下≫
株式会社 新潮社
上下巻共 2002年5月30日 発行
高村薫 著
沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 上下巻二冊で、長編1作を収録。 一段組みで、上下巻の合計ページ数は、約718ページ。 1997年末から、2002年春までの間に執筆されたもの。
青森県の名士の家系に生まれた青年は、大学卒業後、遠洋漁船に乗り組む道を選ぶ。 寄港先に届く、母の長い手紙を何通も読んで、祖父母の人生、母の人生、母の弟・妹達の人生、名目上の父の人生、実の父の人生、父の一族の人生などを詳しく知り、それらを通して、母がどんな人間だったのかを知る話。
主人公は、青年なのか、母なのか、判別し難いところ。 母の手紙(旧仮名遣ひ)の部分は、一人称で、完全に、母が視点人物です。 現在進行の地の部分は、三人称で、青年が視点人物。 現在、といっても、「ロッキード事件」が、日本を揺るがしていた、1970年代ですけど。 両部分の配分は、文章量は、地の方が多いですが、内容的には、半々くらい。
高村さんと言ったら、犯罪を題材にした作品が多いですが、これは、完全に、純文学でして、推理小説方面から入って来た読者は、全く歯が立たない、と言うか、読むだけは読めても、面白さを感じられるのは、ほんの僅かの人に限られると思います。 5パーセント以下である事は、確実。 そもそも、この作品を読んで、純文の醍醐味が分かるようなら、先に推理小説に嵌まる事はないと言うのよ。
母の手紙の、旧仮名遣ひだけでも、読む気が失せてしまうのではないでしょうか。 目が文字について行きますまい。 いや、分かるぞ、その気持ち。 私も、新仮名しか教わらなかった世代ですから、旧仮名を読むのは、きついです。 ただ、私の母が学生時代に買った文庫本に、旧仮名のものがあり、それを何冊か読んだ経験があったから、何とか読めるというだけで。
恐らく、高村さんも親の世代の蔵書を読んでいて、旧仮名を読み書きできるようになったのではないでしょうか。 もっとも、私と高村さんとでは、読書量が、二桁くらい違っていると思いますが。 もちろん、高村さんの方が、遥かに、上です。 背中が全く見えないくらい、離れています。
純文の中でも、大河小説と呼ばれる部類です。 トルストイ作、【戦争と平和】が典型ですが、複数の中心的人物と、その周辺の人々の生き様を書き込んで行って、一つの時代、もしくは、時代の変化を描き出すというもの。 必ずしも、作品の長さは関係なくて、同じ高村作品で、同じくらいの長さでも、今までに読んだものの中には、大河を感じさせるものはありませんでした。
ちなみに、私は先に、【太陽を曳く馬】の方を読んでしまいましたが、そちらに出て来る、変わり者の僧侶の若い頃が、この作品の、青年に当たります。 この作品では、仏教との関わりには、深入りしておらず、伏線が張られている程度。 とはいえ、この作品にしてからが、「オウム真理教事件」の後に書かれたものですから、【太陽を曳く馬】まで繋がって行く構想は、当初からあったんでしょうなあ。
同じ大河小説でも、日本が舞台で、戦前の描写が多いと、こうも暗い話になるものか。 戦前・戦中の日本文学がもつ、暗さ、重さが、全開になっています。 結核が出て来ないのが、せめてもの救い。 これで、結核患者が出て来たら、私は途中で放り出していたでしょう。 あれは、いかんわ。 悲劇のモチーフとして、あまりにも安直に使われ過ぎています。 高村さんも、そう思って、敢えて、避けたのかも知れません。
私が過去に読んだ小説の中で、この作品に近いというと、北杜夫さんの、【楡家の人々】ですかね。 同じ、北さんの作品に、【遥かな国遠い国】というのがありますが、遠洋漁船の件りは、それに似ています。 あくまで、雰囲気が、というレベルで、こちらの方が、遥かに精緻ですけど。 労働運動も、モチーフとして出て来ますが、小林多喜二作、【蟹工船】ほど、大型漁船上の仕事を、厳しく描いてはいません。 もっとも、現役時代、肉体労働者だった私でも、こういう仕事は、とても務まりませんが。
この作品で、一番 記憶に残るのは、「母」の結婚相手が決まる場面です。 その前に知り合った青年がいて、住む場所は離れても、手紙のやり取りを続けているのですが、突然、別の人物から結婚を決められ、驚いた事に、「母」が、それを拒もうとしないのです。 どうも、手紙のやり取りをしていた青年とは、特に結婚を意識していたわけではない様子。 しかし、その事について、「母」の心理描写がなされていないので、読者側は、「なぜ、拒まない? あっちの青年は、どうするのだ?」と、思ってしまうわけです。
ただ、ディケンズ作、【荒涼館】で、主人公エスタの結婚相手が明らかになった場面ほど、大きな違和感を覚えないのは、この作品の「母」が、現代日本人から見て、外国人であるエスタよりも、ずっと遠い存在だからでしょうか。 同じ日本でも、戦前・戦中と、戦後では、社会が様変わりして、価値観がまるで違っているので、戦前の日本文学全般が分かり難いように、この作品に出て来る、「母」も、戦後生まれの私の目には、理解の限度を超える存在に映るのでしょう。 最初から、理解できない事が分かっているから、違和感も半分くらいなわけだ。
理解できないところを、無理やり、理解しようと試みるに、この時代の女性は、独立して働く職場がなくて、どこかしらの家族に属していなければ、生きて行けなかったから、その家で、自分より上の立場にいる者が決めた事には、逆らうという選択肢がなかったのも知れませんな。 結婚も、「親決め婚」が普通の時代ですから、戦後のそれほど、相手に拘らなかったのかも知れません。 「見合い婚」すら廃れて、「恋愛婚」もしくは、「紹介婚」だけになっている、現代の感覚では、やはり、理解できませんけど。
≪新リア王 上・下≫
株式会社 新潮社
上下巻共 2005年10月25日 発行
高村薫 著
沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 上下巻二冊で、長編1作を収録。 一段組みで、上下巻の合計ページ数は、約857ページ。 たぶん、書き下ろしだと思います。
青森県の名士、福澤家に生まれ、国会議員を何期も続けて、「王国」を築いて来た、福澤榮が、70代半ばにして、公の場から姿を消し、青森県の、みすぼらしい草庵を訪ねる。 そこには、戦時中、榮が、出征した弟の妻に産ませ、長じて出家した息子、彰之が住んでいて、榮が知らなかった孫、秋道もいる事も知る。 それまで、話をした事がなかった彰之を相手に、政治の事、原発誘致関連の事、福澤一族の事、一年前に自殺した秘書の事、仏教の事、彰之の妻子の事などを語り合う話。
【晴子情歌】の続編ですが、この作品は、大河小説ではありません。 むしろ、この作品の続編に当たる、【太陽を曳く馬】に近くて、小説の形を借りた、論考と言うべき。 対象になっているのは、政治が大半で、仏教が少々、残りは、彰之親子の家族史。 政治と宗教に興味がなければ、この本を読む意味は、ほとんど、ありません。
とりわけ、政治関係の部分は、興味がない者にとっては、ただの文字の羅列に過ぎず、全く頭に入って来ないか、入った端から出て行くかのどちらか。 様々な、「仕組み」に興味がある、高村さんの事だから、複雑怪奇な政界の仕組みに惹かれても、不思議はないとは思うものの、正直、民主政治の腐臭全開という感じで、とても、真剣に読めたものではありません。 脳味噌が腐る心地ぞする。 何でも、詳しく調べて、細々と書けばいいというわけでもないようです。
小説の形式を借りていると書きましたが、小説の形式と言うより、物語の形式と言うべきか。 一番近いのが、【千一夜物語】で、榮と彰之が、語りまくるわけですか、長さ的にも、内容的にも、語り過ぎでしょう。 特に、何年も前に起こった事を、何ページ分にも渡って、語り続けるというのは、記憶力・表現力の限界を超えますし、聞かされる方も、忍耐の限界を超えてしまいます。 それこそ、「その話、今じゃなきゃ、駄目?」というセリフが出てしまうのでは。
現実には、こんな会話は、ありえないのであって、それは、作者も承知しているはず。 しかし、この膨大なボリュームの内容を、自然体の小説作法で書こうとしたら、長さが10倍くらいになってしまうから、リアリティーを犠牲にしても、物語の形式を選んだのだと思います。
「リア王」は、シェークスピア作の悲劇ですが、日本で最も知られている翻案作品というと、黒澤明監督の、≪乱≫でしょうか。 ああいうストーリーです。 榮には、彰之の他に、本妻との間に出来た息子が二人いて、政治的に、彼らの裏切りに遭う点、リア王に近いのですが、彰之も、父親の味方・理解者とは、到底言えない点、リア王より、更に救いがない。
しかし、だから、榮が気の毒とは、全く思いません。 だって、政治家なんだものね。 同情に値するような職種ではありますまい。 権力を握る為に、他の全てを犠牲にしてもいいという考え方なのだから、こういう末路になっても、致し方ないではありませんか。 それが嫌なら、最初から、政治家にならなければ良かったのです。
実在の政党名や、実在した政治家の名前が、ごろごろ出て来ますが、福澤榮と、その一族、青森県知事などは、架空のものです。 どこまでが現実で、どこからが虚構なのか、政治に興味がない者には、境目が判別できません。 特に、若い読者は、虚構の部分を、知識として、頭に入れないように、気をつける必要があります。 青森県民相手に、「福澤家は、凄いよね」などと言った日には、恥を掻くだけ。
≪四人組がいた。≫
株式会社 文藝春秋
2014年8月10日 発行
高村薫 著
沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 短編、12作を収録。 全体のページ数は、約273ページ。 「オール読物」に、2008年2月から、2014年1月まで、不定期に掲載されたもの。
市町村合併で名前がなくなった山奥の村。 毎日、郵便局に集まるのは、元村長、元助役、現役郵便局長の三人のジジイと、野菜売りのおばさんの、四人組。 いずれ劣らぬ、可愛気の微塵もないすれっからしで、金儲けの話にだけは、敏感に食指が動く。 村に起こる、様々な超常現象的事件に、興味本意と、悪乗りで対処して行く話。
超常現象と言っても、SFではなく、御伽噺に近いです。 「大人の童話」と言ったら、形容矛盾ですが、そんな感じ。 一応、12話に分かれていて、短編集という形になっていますが、12章という取り方をして、全体で一つの作品と見た方が、適切かも。 宇宙人や、化け狸、野菜のお化け、雪男、背後霊、閻魔大王など、漫画・アニメの超常現象もので、よく取り上げられる題材を扱っており、その点、既視感が強いです。
高村さんが作者ですから、現代社会の習俗も多く取り入れていて、御伽噺と混ぜ込んでいます。 つくづく、高村さんは、その方面の感性が優れている。 だけど、あと、30年経ったら、この作品に出て来る習俗は、ほとんど、分からなくなるでしょうなあ。 逆に考えると、分からなくなってしまうからこそ、詳細に書き留める事に意義があるとも言えます。
と、ここまでは、高村さんに敬意を表した、抑えた感想。 ここからは、辛くなりますが、正直言って、声を出して笑うところまで行きません。 せいぜい、ニヤける程度。 作者の知性が高過ぎて、馬鹿になりきれないと言うか、品性があり過ぎて、下品になりきれないと言うか、笑いのツボを外してしまっているのです。
帯の宣伝文句には、「ブラック・ユーモア」という言葉がありますが、ブラックを羅列し過ぎたせいで、一つ一つのギャグが、月並みな印象になってしまっている観が否めません。 ストーリー性が低いのは、高村さんの長編にも共通しますが、長編なら、どんな構成にしても、「こういう語り方なのだ」で、済ませられるのに対し、短編の場合、特に、御伽噺的な短編の場合、起承転結をはっきりさせないと、何が言いたいのか分かり難くなってしまいます。
とはいえ、こういう、「気のおけない仲間と、ワイワイやる雰囲気が好き」という読者も、少なからず いるでしょうねえ。 話の内容なんて、大した意味はない。 その点、ライト・ノベルのファンは、入り易く、受け入れ易く、嵌まり易いんじゃないでしょうか。 高村作品ですが、これに限っては、難しい事は書かれていないので、頭が痛くなって、途中で放り出す事もないでしょう。
以上、4冊です。 読んだ期間は、2025年の、
≪墳墓記≫が、5月30日から、6月1日。
≪晴子情歌 上・下≫が、6月5日から、10日。
≪新リア王 上・下≫が、6月13日から、19日。
≪四人組がいた。≫が、6月21から、5月23日。
高村さんは、犯罪を題材にした作品が多いですが、≪晴子情歌≫は、純文学です。 しかし、もし、高村さんが、純文学でデビューしようとしたら、どうだったかと考えると、まるっきり、注目を浴びなかった可能性が高いですねえ。 こういう暗い話を、80年代以降の編集者が、好んだとは思えませんから。 犯罪小説・推理小説の世界からデビューして、名声を確立したからこそ、純文学作品も出せるようになったわけだ。
<< Home