言語は進化しない
久しぶりに言語の事でも書きましょうか。 最近、というか、ここ一二年もですが、言語への興味が随分冷めたような気がします。 語学の方は依然として続けていますが、言語学と語学は、通じているようで、その実まるっきり別の物なので、語学をいくらやっても、言語学には近づかないのです。 そういえば、外国語を、読み書き・聞き喋り全部こなすほど究めた人が、言語学の基礎知識すら持っていない例をよく見ますが、両者に直接の関連が無い事の証左ですな。
言語に興味がなくなった最大の理由は、「言語によって世界が変わる事はない」と悟ったからです。 言語は所詮、文明の道具に過ぎず、文明そのものどころか、そのパーツですらありません。 道具ですから、無くては困るのですが、それ自体が文明の目標ではないという事です。
よく、生半可に言語に興味を持った人が、「言語は進化している」といった言い方をしますが、それは安易に落ち込み易い勘違いでして、言語は進化などしていません。 なぜ進化しないのかというと、人間の言語能力が進化していないからです。 音声を聞き分ける能力や発し分ける能力が、もう何十万年も停滞したままなのは、生物としての機能上、限界に達しているからです。 超音波でも聞き取れるようになれば、また新しい次元に進むかもしれませんが、現状からは想像もできない夢物語ですな。 文法や単語の構造は、もっと限界がはっきり分かっていて、現在存在している言語より効率が良い構造というのはありえません。 より効率が悪いものなら考えられますが、そんなのは考えるだけ時間の無駄です。
英語を習った後にフランス語を習うと、「ああ、英語はフランス語が進化したものなんだな」と思い、更に中国語を習うと、「英語が進化すると中国語のようになるんだな」とは、誰もが感じる事です。 専ら文法の単純化の程度によって、進化の進み具合が違うと判断するわけですな。 しかし、この三言語の違いを進化の差と考えるのは間違いです。 ≪進化≫ではなく、≪変化≫に過ぎないと見るべきです。 言語の変化のスピードは地質学的年代に比せられるほど緩慢なものなので、気づきにくいのですが、中国語のように一旦単純化の極に達した言語も、徐々に変化して、また複雑化して行く傾向が見られます。
≪進化≫が直線上を一方向に進むようなものであるのに対し、言語の≪変化≫は大きな円の上を回っているようなものだといえば、イメージし易いでしょうか。 時計の文字盤に譬えると、フランス語が1時の位置ならば、英語は2時、中国語は3時の位置にいます。 日本語や韓国朝鮮語は8時くらいの位置にいると考えてもいいです。 位置の違いは、進んでいる・遅れているという意味ではなく、単に特徴の違いを示しているだけです。 非常に長い時間をかけてぐるぐる回っているので、いずれ日本語が英語そっくりの特徴を持つようになるという事も起こり得ます。 ただ、何と言っても時間がかかるので、その頃には日本語だの英語だのといった分類が無意味になっている可能性が甚だ高いです。
ここ500年ほどの間に、英語が中国語に急速に近づいた事は、文献上も証明されています。 シェークスピアの頃の英語は、他のヨーロッパ系言語にずっと近く、格変化も残していたようですが、今では代名詞を除いて各変化は無くなってしまい、語順と前置詞のみで格を示す、完全な中国語方式に変わってしまいました。 動詞の活用も、三人称単数現在の≪~s≫にだけ痕跡が残っていますが、これもいずれ消滅するのは疑いない所です。 500年前といえば大航海時代の幕開けで、イギリスの船が東南アジア方面で中国文明と接触した頃なので、「中国語から直接に影響を受けたのでは?」という推測も出来ますが、それはロマンチシズムというもの。 一部の船乗りや商人が中国語に接したからといって、英語すべてに影響が及ぶとは考えられません。 英語が自律的に変化して、単純化が進んだのでしょう。 スペイン人やポルトガル人は、もっと早くから中国語に接触していましたが、何の影響も受けていない点から見ても、それは言えます。
日本語についてちょっと書きますと、日本語は決して覚え難い言語ではありません。 単純化している事を言語の習得のし易さの基準にするなら、日本語はそこそこの位置にいるといっていいです。 「名詞に性が無い」、「単数複数が無い」、「格変化を後置助詞で統一している」など、単純化の特徴を豊富に獲得しています。 ただ、それはあくまで口頭語の話。 読み書きとなると、文字の種類が多く、読み方も多過ぎて、習得難易度は世界最低レベルまで落ち込みます。 ほぼ同じ文法を持つ韓国朝鮮語は、文字の問題が無いので、日本語よりずっと覚え易いです。
日本語や韓国朝鮮語の語順は、≪主語→目的語→動詞≫、且つ、≪修飾語→被修飾語≫で、常に修飾要素が中心要素の前に来て、文末に動詞が置かれるタイプです。 この≪動詞文末型≫の語順は、言語の語順としては、一方の極に位置します。 日本語の古文を見ると、平安時代から1200年間も全く語順が変わっていないのが分かりますが、これは一方の極にある為に安定性が高く、変化が起こり難いからです。 ≪動詞文末型≫の対極にある語順として、≪動詞→目的語→主語≫、つまり、≪動詞文頭型≫というタイプが考えられますが、恐らくそのタイプでも安定度は高いはずです。
これに対し、中国語の語順は、≪主語→動詞→目的語≫+≪修飾語→被修飾語≫。 英語は、修飾語が被修飾語の前に来る場合と後ろに来る場合があり、フランス語では、英語よりも、修飾語が被修飾語の後ろへ回る比率が高くなります。 中国語やヨーロッパ系言語は、動詞を中心にして修飾要素が前後に配分される、≪動詞中間型≫と言えます。 これらのタイプの言語は語順の変化が激しく、数百年で様変わりしてしまう事もあります。 ちなみに中国語では現在、前置詞が前後置詞に移行する傾向が見られます。 たとえば、「今日から」という言葉の場合、本来、前置詞≪従≫をつけて、「従今天」と言っていたのが、現在は「従今天起」と≪従~起≫の二文字で前後を挟む形になっています。 更に時間が経てば、≪従≫が脱落して、「今天起」だけになる可能性があり、そうなるともはや後置助詞タイプの言語になってしまい、日本語や韓国朝鮮語に近くなります。 ≪動詞中間型≫の言語は、かくのごとく性質が流動的なのです。
言語の変化は何が原因で起こるかというと、音声の融合、脱落、音便化などいろいろありますが、文法方面で最も影響が大きいのは、単語の新陳代謝です。 社会の変化に伴って新しい単語が増え、使わなくなった単語が消えていくのは避けられない事ですが、新しい単語が出てくると、同音異義語や、紛らわしい単語が増えてきて、それまでの文法では単語が使い難くなって来ます。 伝わり易いように、他の表現で言い換えをするようになると、それがいつの間にか固定して、文法に変化を来すようになります。 単語が変わっていく限り、言語の変化は止まらないわけですな。
今後の話ですが、「世界を制する言語は、英語になるか、中国語になるか」といった予測は、人類文明全体を視野に入れて考えると、あまり意味がありません。 英語は綴りと発音がズレ過ぎ、中国語は漢字の種類が多すぎと、どれも一長一短あります。 中国語をハングルで書けば、理論的には最も効率が良い言語が出来上がりますが、漢字は文化として魅力が高いので、なかなか効率優先で変えるというわけには行かないでしょう。
そもそも、効率を優先してしまっていいのかどうかも、現在の言語学では断定しかねるデリケートな問題なのです。 人為的に手を入れて高効率言語を作るより、自然に任せておくのが一番という感じもします。 言語を変えても、人間の脳が変わるわけではありませんから、どのみち効率性の追求には限界があるのです。 譬えて言えば、パソコンのキーボードをブラインド・タッチで打てるようになったとしても、文章を考えるのが遅ければ、全く意味が無いというのに似ています
言語は変化するので、一時的に一つの言語が世界を制したとしても、数百年後には同じ言語とは思えないほど変わってしまう可能性があります。 そのベースが英語だろうが中国語だろうが、文明の本質的意義とは無関係な事であり、大した問題ではありません。
ただ、世界の人々の意思疎通を円滑にする為に、これから新しく登場する単語を世界中で統一するくらいの事なら、人為的に調整してもいいかも知れませんな。 新陳代謝が進めば、やがて世界共通の単語だけが残る事になり、自然に世界言語が出来るという寸法です。 EUがとっているような≪多言語政策≫は、各民族の独自性を保障するという点や、文化の多様性を維持するという点で有効ですが、何百年もそのままというのも不自然な感じがします。
そうそう、エスペラントという人工言語がありますが、あれはあまり買い被らない方がいいです。 そんなに覚え易いわけでもないですし、効率性が高いというわけでもありません。 エスペラントを作ったのは、ザメンホフというユダヤ系ポーランド人ですが、120年前の世界情勢を背景にして、語彙のほとんどがヨーロッパ系言語から取られています。 当時のヨーロッパ人にとって、≪世界≫とは、欧米とその植民地の事だったんですな。 現在の感覚で見ると著しく偏っているので、≪世界語≫の称号を与えるのには明らかに無理があります。 そもそも、人工言語というのは、作ろうと思えば無数に作れるのであって、そんなにありがたがるような物ではないです。
言語に興味がなくなった最大の理由は、「言語によって世界が変わる事はない」と悟ったからです。 言語は所詮、文明の道具に過ぎず、文明そのものどころか、そのパーツですらありません。 道具ですから、無くては困るのですが、それ自体が文明の目標ではないという事です。
よく、生半可に言語に興味を持った人が、「言語は進化している」といった言い方をしますが、それは安易に落ち込み易い勘違いでして、言語は進化などしていません。 なぜ進化しないのかというと、人間の言語能力が進化していないからです。 音声を聞き分ける能力や発し分ける能力が、もう何十万年も停滞したままなのは、生物としての機能上、限界に達しているからです。 超音波でも聞き取れるようになれば、また新しい次元に進むかもしれませんが、現状からは想像もできない夢物語ですな。 文法や単語の構造は、もっと限界がはっきり分かっていて、現在存在している言語より効率が良い構造というのはありえません。 より効率が悪いものなら考えられますが、そんなのは考えるだけ時間の無駄です。
英語を習った後にフランス語を習うと、「ああ、英語はフランス語が進化したものなんだな」と思い、更に中国語を習うと、「英語が進化すると中国語のようになるんだな」とは、誰もが感じる事です。 専ら文法の単純化の程度によって、進化の進み具合が違うと判断するわけですな。 しかし、この三言語の違いを進化の差と考えるのは間違いです。 ≪進化≫ではなく、≪変化≫に過ぎないと見るべきです。 言語の変化のスピードは地質学的年代に比せられるほど緩慢なものなので、気づきにくいのですが、中国語のように一旦単純化の極に達した言語も、徐々に変化して、また複雑化して行く傾向が見られます。
≪進化≫が直線上を一方向に進むようなものであるのに対し、言語の≪変化≫は大きな円の上を回っているようなものだといえば、イメージし易いでしょうか。 時計の文字盤に譬えると、フランス語が1時の位置ならば、英語は2時、中国語は3時の位置にいます。 日本語や韓国朝鮮語は8時くらいの位置にいると考えてもいいです。 位置の違いは、進んでいる・遅れているという意味ではなく、単に特徴の違いを示しているだけです。 非常に長い時間をかけてぐるぐる回っているので、いずれ日本語が英語そっくりの特徴を持つようになるという事も起こり得ます。 ただ、何と言っても時間がかかるので、その頃には日本語だの英語だのといった分類が無意味になっている可能性が甚だ高いです。
ここ500年ほどの間に、英語が中国語に急速に近づいた事は、文献上も証明されています。 シェークスピアの頃の英語は、他のヨーロッパ系言語にずっと近く、格変化も残していたようですが、今では代名詞を除いて各変化は無くなってしまい、語順と前置詞のみで格を示す、完全な中国語方式に変わってしまいました。 動詞の活用も、三人称単数現在の≪~s≫にだけ痕跡が残っていますが、これもいずれ消滅するのは疑いない所です。 500年前といえば大航海時代の幕開けで、イギリスの船が東南アジア方面で中国文明と接触した頃なので、「中国語から直接に影響を受けたのでは?」という推測も出来ますが、それはロマンチシズムというもの。 一部の船乗りや商人が中国語に接したからといって、英語すべてに影響が及ぶとは考えられません。 英語が自律的に変化して、単純化が進んだのでしょう。 スペイン人やポルトガル人は、もっと早くから中国語に接触していましたが、何の影響も受けていない点から見ても、それは言えます。
日本語についてちょっと書きますと、日本語は決して覚え難い言語ではありません。 単純化している事を言語の習得のし易さの基準にするなら、日本語はそこそこの位置にいるといっていいです。 「名詞に性が無い」、「単数複数が無い」、「格変化を後置助詞で統一している」など、単純化の特徴を豊富に獲得しています。 ただ、それはあくまで口頭語の話。 読み書きとなると、文字の種類が多く、読み方も多過ぎて、習得難易度は世界最低レベルまで落ち込みます。 ほぼ同じ文法を持つ韓国朝鮮語は、文字の問題が無いので、日本語よりずっと覚え易いです。
日本語や韓国朝鮮語の語順は、≪主語→目的語→動詞≫、且つ、≪修飾語→被修飾語≫で、常に修飾要素が中心要素の前に来て、文末に動詞が置かれるタイプです。 この≪動詞文末型≫の語順は、言語の語順としては、一方の極に位置します。 日本語の古文を見ると、平安時代から1200年間も全く語順が変わっていないのが分かりますが、これは一方の極にある為に安定性が高く、変化が起こり難いからです。 ≪動詞文末型≫の対極にある語順として、≪動詞→目的語→主語≫、つまり、≪動詞文頭型≫というタイプが考えられますが、恐らくそのタイプでも安定度は高いはずです。
これに対し、中国語の語順は、≪主語→動詞→目的語≫+≪修飾語→被修飾語≫。 英語は、修飾語が被修飾語の前に来る場合と後ろに来る場合があり、フランス語では、英語よりも、修飾語が被修飾語の後ろへ回る比率が高くなります。 中国語やヨーロッパ系言語は、動詞を中心にして修飾要素が前後に配分される、≪動詞中間型≫と言えます。 これらのタイプの言語は語順の変化が激しく、数百年で様変わりしてしまう事もあります。 ちなみに中国語では現在、前置詞が前後置詞に移行する傾向が見られます。 たとえば、「今日から」という言葉の場合、本来、前置詞≪従≫をつけて、「従今天」と言っていたのが、現在は「従今天起」と≪従~起≫の二文字で前後を挟む形になっています。 更に時間が経てば、≪従≫が脱落して、「今天起」だけになる可能性があり、そうなるともはや後置助詞タイプの言語になってしまい、日本語や韓国朝鮮語に近くなります。 ≪動詞中間型≫の言語は、かくのごとく性質が流動的なのです。
言語の変化は何が原因で起こるかというと、音声の融合、脱落、音便化などいろいろありますが、文法方面で最も影響が大きいのは、単語の新陳代謝です。 社会の変化に伴って新しい単語が増え、使わなくなった単語が消えていくのは避けられない事ですが、新しい単語が出てくると、同音異義語や、紛らわしい単語が増えてきて、それまでの文法では単語が使い難くなって来ます。 伝わり易いように、他の表現で言い換えをするようになると、それがいつの間にか固定して、文法に変化を来すようになります。 単語が変わっていく限り、言語の変化は止まらないわけですな。
今後の話ですが、「世界を制する言語は、英語になるか、中国語になるか」といった予測は、人類文明全体を視野に入れて考えると、あまり意味がありません。 英語は綴りと発音がズレ過ぎ、中国語は漢字の種類が多すぎと、どれも一長一短あります。 中国語をハングルで書けば、理論的には最も効率が良い言語が出来上がりますが、漢字は文化として魅力が高いので、なかなか効率優先で変えるというわけには行かないでしょう。
そもそも、効率を優先してしまっていいのかどうかも、現在の言語学では断定しかねるデリケートな問題なのです。 人為的に手を入れて高効率言語を作るより、自然に任せておくのが一番という感じもします。 言語を変えても、人間の脳が変わるわけではありませんから、どのみち効率性の追求には限界があるのです。 譬えて言えば、パソコンのキーボードをブラインド・タッチで打てるようになったとしても、文章を考えるのが遅ければ、全く意味が無いというのに似ています
言語は変化するので、一時的に一つの言語が世界を制したとしても、数百年後には同じ言語とは思えないほど変わってしまう可能性があります。 そのベースが英語だろうが中国語だろうが、文明の本質的意義とは無関係な事であり、大した問題ではありません。
ただ、世界の人々の意思疎通を円滑にする為に、これから新しく登場する単語を世界中で統一するくらいの事なら、人為的に調整してもいいかも知れませんな。 新陳代謝が進めば、やがて世界共通の単語だけが残る事になり、自然に世界言語が出来るという寸法です。 EUがとっているような≪多言語政策≫は、各民族の独自性を保障するという点や、文化の多様性を維持するという点で有効ですが、何百年もそのままというのも不自然な感じがします。
そうそう、エスペラントという人工言語がありますが、あれはあまり買い被らない方がいいです。 そんなに覚え易いわけでもないですし、効率性が高いというわけでもありません。 エスペラントを作ったのは、ザメンホフというユダヤ系ポーランド人ですが、120年前の世界情勢を背景にして、語彙のほとんどがヨーロッパ系言語から取られています。 当時のヨーロッパ人にとって、≪世界≫とは、欧米とその植民地の事だったんですな。 現在の感覚で見ると著しく偏っているので、≪世界語≫の称号を与えるのには明らかに無理があります。 そもそも、人工言語というのは、作ろうと思えば無数に作れるのであって、そんなにありがたがるような物ではないです。
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