2007/08/05

論理と野蛮人

  8月4日に、教育テレビで≪土曜かきこみTVスペシャル~戦争と平和を考えよう。 太平洋戦争のことをどう思う?≫という番組をやっていました。 内容は題名そのままで、戦争と平和に関する中学生数十人の意見を拾ったもの。 まとめてあるわけではなく、バラバラのまま並べていました。 ふだん、こういう番組は見ないんですが、チャンネルを泳がしていたら、ちょこっと見てしまったので、仕方なく、後ろ3分の2ほどを見ました。

  で、感想ですが、「こりゃ駄目だな」と思いましたよ。 いや、何かを期待していたわけではないので、がっかりしたわけではありませんが、「やはり、野蛮人は野蛮人だ」と再認識させられた次第です。 情けなくも興味深いのが、この中学生達が、マスコミや学校教育の影響をモロに受け、他人の受け売りばかり口にしていた点です。 平和派は、平和主義教師から刷り込まれた事をそのまま喋っていますし、戦争派は、ここ数年巷に溢れている、キチガイ戦争論本を忠実にパクっています。 どちらも、その枠から出られないんですな。 それでいて、多くの中学生が、子供の立場から大人批判を繰り広げていましたが、てめえらが大人の意見をパクってたんじゃ、目糞鼻糞だわな。

  なぜ、自分の頭で考えないのか? それはたぶん、能力的に考えられないからでしょう。 物事を考えるには、材料と、それを組み立てる論理が必要ですが、材料の方はともかく、日本人には論理性が決定的に欠けています。 その甚だしさは、「苦手」などという程度の問題ではなく、「全く分からん」という次元の話です。

  ≪論理を理解できるか否か≫というのがどういう事かというと、最も単純なものでは、≪犬が西向きゃ、尾は東≫が分かるかどうかという事です。 単純過ぎて馬鹿馬鹿しいと思うかもしれませんが、日本人同士がやっている≪議論もどき≫を聞いていると、この基本中の基本すら弁えていない輩がうようよいて、仰天且つ失笑してしまいます。 明らかに相手側の言っている事に理があっても、それを認めないんですな。 「相手が正しいと分かっていても、認めたくないから認めない」という場合もありますが、「相手が言っている事が正しいか正しくないか分からないが、とにかく自分の意見と違うから認めない」という、より幼稚な動機の方が多いです。

  ≪論理≫とは、議論を行なう上での基本ルールであり、論理を無視した議論などは、もはや議論とは言えず、単なる言い争いでしかないのですが、日本人のほとんどすべてが、論理の意味すら知らないので(≪論理≫と≪理論≫の区別がつかない、地獄行きの低レベルも珍しくない)、そんな最低限の事にも気付かないのです。 一般人だけでなく、自称識者達も同じ事。 テレビの討論番組を見ても、日本人同士の議論は、議論の態を成していません。 ただ言い合っているだけの、口喧嘩ですな。 また司会も議論のルールなんぞとんと分かっていないので、一見論戦を捌いているかのように見えて、実はただ適当に発言の順番を割り振っているだけです。 民族全体に及ぶ欠陥だから、出演者はもちろん、スタッフも視聴者も誰一人おかしな事をやっている事に気付きません。

  本来、≪議論≫とは、「互いの意見の違いを埋める為に、妥協点を探す」、もしくは、「公の場でそれぞれが意見を言い合い、聴衆の支持が多かったものを結論にする」といった、意思統一を目的として行なわれる社会的手段なのですが、日本人の行なう≪議論もどき≫は、相手を言い負かす事が目的であって、結論など最初から求めていません。 そもそも、日本人は議論で物事を決めたりしないのです。 前にも書きましたが、≪和の心≫という奴で、自分より偉い者・強い者に服従する習性がある為に、下位者が上位者の意見に無条件に従うというのが、日本人の物事の決め方なのです。 学校でも職場でも、身の周りの人間関係を見てみれば、その例をいくらでも発見できると思います。 正しいか間違っているかなど関係なし。 とにかく、上位者が決めた事が最終決定となるのです。

  議論の必要が無かった為に、議論の習慣ができず、議論の基本ルールである論理の概念も発達しなかった。 その結果、こういう、論理を理解できない民族が出来上がったんですな。 いやいや、こういう言い方をすると、論理を理解できないのも発達の結果の一形態と取られそうですから、誤解されないように付け加えておきますが、日本人に限らず、野蛮民族はみんな同じように、論理を理解できません。 ≪長老≫、もしくは、≪勇者≫の言う事が絶対的で、下位者はそれに従います。 民族の内部ではそれで纏まりますが、他民族など、上位下位の序列が通用しない相手と接触すると、どうしていいかわからず、「従うよりは従わせろ」と本能むき出しになり、口より先に手が出ます。 私が日本人を野蛮人だと何度も書いているのは、別に理由も無く罵っているわけではなく、野蛮人としての特徴を保持しているからです。

  ちなみに、≪野蛮≫と≪未開≫は必ずしも一致しません。 未開であっても、論理を理解できる民族は存在します。 彼らは温厚で、他民族との折衝に於いては、まず話し合いをします。 侵略などは、悪い事だと思っているので、最初から考えもしません。 動物と人間の区別も付かず、「弱肉強食」などと抜かして、隙あらば外国を攻めようとする日本人とはイメージが正反対ですな。 即ち、日本人は、「未開ではないが、野蛮である」というわけです。 だけど、こういう細かな分類を理解するのも、野蛮人には荷が重いでしょう。 未開で尚且つ野蛮であれば、開化とともに野蛮性が消えていく期待も出来ますが、野蛮性を残したまま先進国になってしまったのは、悲劇としかいいようがありません。 治らんでよ、マジで。

  論理が分からないと、単に議論が出来ないばかりでなく、自分の頭で考えを組み立てて行く事が出来ません。 日本人に思想家・哲学者がいないのは、そのせいです。 宗教哲学も、神道はベタなアニミズムで、哲学どころか、教義さえありません。 外来宗教も、論理が読み取れないので、まともに理解している者は、ほんの一握りです。 1500年も仏教やってるのに、教義を知らないんだから、凄いよね。 それでいて、外国人に「宗教は何ですか?」と訊かれると、「仏教です」とよどみ無く答えるから、またまた凄い。 「仏教とはどんな宗教ですか?」と訊かれて、ようやく、自分が仏教の教義を何も知らない事に気付くわけですが、そんな経験をせず、知らぬが仏で一生を終える人の方が圧倒的に多いでしょう。

  以前、≪戦争適性ゼロ≫という文で、「日本人は合理的判断ができないので、近代戦争には向かない」と書きましたが、それ以前に、侵略戦争がいい事か悪い事かも判断できないのですから、もうどうしようもないですな。 この欠陥、戦争や外交だけでなく、ありとあらゆる分野で発揮されますから、始末が悪いです。 同じ事を何度も繰り返す、足し算的な努力を続ければいい状況を除き、合理的判断力を要求される重要な場面では、すべて悪い方向に働きます。 世界史を見ると、論理を理解できない野蛮人は、かなり先進化しても、結局は文明国に亡ぼされるか、吸収されるか、もしくは、民族性の根本的変化を余儀なくされます。 日本人も例外ではないでしょう。 論理が理解できない為に、論理が理解できない事を、論理的に理解できないわけで、自力では対策の施しようがないです。


  オマケ。 日本人がネット上でやっている≪議論もどき≫ですが、まず近づかないのが第一。 そんな事やっているのは馬鹿ばかりだと、きっぱり断定して構いません。 馬鹿というより、クズというべきか。 とにかく、近づくと脳味噌の腐敗菌がうつるので、距離を置くに如かずです。 やむなく難癖をふっかけられた場合、無視すると、馬鹿はすぐ付け上がって勝ち誇るので、世直しをするつもりで全力で叩き潰してやりましょう。 方法は簡単です。 相手のいう事を、すべて否定してやれば宜しい。 なにせ、論理が分からないので、屁理屈ばかり並べてきますから、こちらも遠慮する事は無い、屁理屈をドシドシ繰り出して、全部引っ繰り返してやるのです。

  相手は、自分の事をいっぱしの論客だと自惚れていますから、「自分の言う事には、説得力がある」と信じて込んでいます。 それを全部否定してやると、目立ってうろたえます。 不様で面白いですよ。 そんなやり取りを続けていると、相手は痺れを切らして、「この点だけは認めてもらえますよね」などと、部分的に合意を求めてくるので、それも否定します。 とにかく、全部否定しまくって、最後に、「あなたの言っている事は、全て間違っています。 それに、どこかで聞いたような話ばかりですが、何か、ネタ本でも書き写しているのですか?」と図星を指してやりましょう。 そうすると、「これ以上話しても無駄なようですね。 これは、私の最後の書きこみです」などと、利いた風な捨て台詞を残して逃げて行きますから、そのままにせず、「あなたのような間違いだらけの考え方では、誰と話しても無駄だと思いますよ。 自室に篭って壁に独り言でも呟いていた方が世の為になるでしょう」とでも、とどめをさしてやれば、もう二度と来ないし、他人の怖さを思い知って、ネット上で論戦をしようなどと考えなくなるでしょう。 めでたし、めでたし。