2007/08/12

神社の神様

  歳を取って来ると・・・・というか、人によっては若いうちから・・・・いやいや、子供の頃からそうである人もいると思いますが、神に祈りたくなる事がよくあります。 自分の力ではどうにもならない窮地に陥った時、思わず、「神様、助けて下さい!」という言葉が頭の中に浮かんでくるのです。

  しかし、そういう時に念頭に浮かべる≪神様≫は、非常に漠然としたものです。 ≪神≫のイメージは、これまた人によって全然違うと思いますが、私の場合、基本的にその辺にいる日本人であるところへ加え、幼稚園がプロテスタントの教会だったので、神様というと、神社の神様と、キリスト教の神様の二つが思い浮かびます。 ただ、この両者をはっきり区別しているわけではありません。

  他に、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」を口にする事もあります。 どれを信じているのか自分でもよく分かりません。 どれも信じておらず、「苦しい時の神(仏)頼み」だけしているというのが実情でしょうか。 というわけで、個人的な宗教観について書こうと思うのですが、一遍に全部書くのは大変なので、今回は神道だけを取り上げようと思います。


  神道は多神教なので、神様はたくさんいるわけですが、その中のいずかを特に信仰しているという事はありません。 うちの近所の神社に祀られているのは≪木花之開耶姫≫だそうですが、そんな事を知ったのは、大人になって随分経ってからの事です。 子供の頃に出来上がったイメージというのは強烈なもので、今でも、その神社の神様に、「神様」以外の名前があるという気はしません。 そもそも、私が神社の神様をイメージする時、出てくる姿は、神社の≪建物≫であって、人間の似姿ではありません。 ≪神様=神社≫なのです。

  ちなみに私は、≪さわらぬ神に祟り無し≫という諺を知ってからこっち、よその神社でお参りをした事は一度もありません。 神社の境内は、よそ者でも無許可では入れるありがたい休憩所なので、よく立ち寄りますが、よその神社では、拍手も打ちませんし、賽銭も入れません。 伊勢神宮にも行きましたが、見るだけで帰って来ました。 観光で神社に行くと、必ずお参りする人も多いと思いますが、やめた方がいいです。 多神教の神話に於いては、神様同士は仲が悪い事の方が多いですから、他の神に対する嫉妬から祟られる恐れがあります。 おそろしやおそろしや・・・・。 もっとも、形だけのお参りで、本気で信じてないのなら、話は別ですが。

  うちは三代続いている家なので、神棚があります。 正月には、しめ縄を換え、灯明を上げ、供え物をします。 でも、私が神棚を拝む事はまずありません。 私の父も、仏壇に手を合わせている姿は見ますが、神棚に拍手を打っている姿は一度も見た事がありません。 神棚の小さな社には、≪天照大神≫の札が収められていますが、これまた、具体的なイメージが湧かず、そこが神道最高位の女神様に繋がっている端末であるという気は全くしません。 神棚と神社では格が違うのは明らかで、それが証拠に、家の解体現場に行くと、何の遠慮も無く神棚が壊されているのをよく見ます。 神棚は壊しても構わないものなんですな。

  それに対し、神社となると、ちょっとした祠のような物でも、壊すとなると大掛かりな祭事が必要になります。 逆に言うと、壊せないものは作らない方がいいとも言えます。 ミニ神社である祠は個人の裁量で作る事が可能ですが、作ったが最後、壊せません。 江戸後期に、稲荷信仰がブームになった時、自宅の敷地内に稲荷祠を作る家が膨大な数に上りましたが、今でもそれがそのまま残っているのを見ると、痛々しささえ感じます。 今や、お稲荷さんを信じている人がそんなにいるとは思えませんが、邪魔だと思っても壊せないんですな。 ちなみに、もし稲荷祠が家にあるという人達が、すべてお稲荷さんを篤く信仰しているとして、彼らが政党を作った場合、衆参両院で第一党になる事は間違いありません。 それほど、稲荷祠の数は膨大なものです。


  話を戻しましょう。 神社の神様ですが、私の感覚では、それほど大きな力を持っているような感じがしません。 世界平和を祈るとか、人類文明の発展を願うとか、そんな大きな事柄を、近所の神社に期待する人はあまりいないんじゃないでしょうか? せいぜい、家内安全とか、商売繁盛とか、無病息災とか、そんなところでしょう。 「神社の神様に出来る事は、その程度だろう」とみんな思ってるんですな。 これは、もっと大きな神社でも同じ事で、たとえ伊勢神宮まで行ったとしても、祈りの対象はせいぜい日本の国内止まり。 世界の事を祈る人もいるでしょうが、心のどこかで、お門違いを感じているはずです。 神道の土着性は否定し難いところです。

  そういえば、宇宙ロケットを打ち上げる際に、種子島宇宙センターの近くにある神社に関係者が参っているそうですが、ああいう事をしているのは日本だけだと思います。 宗教を基本的に否定しているソ連や中国はもちろんそんな事はしませんし、ロシア、アメリカ、欧州でも、公の機関が関わる事ですから、特定宗教の施設に祈願に行くという事はしていないと思います。 日本人は、打ち上げ関係者が神社に参っているニュースを見ても、何とも思いませんが、本来、近代科学は神の否定から始まっているので、科学技術の最先端である宇宙ロケットの打ち上げに神頼みをしている光景は、奇怪と言えば奇怪です。 大体、神社の神様では、宇宙は管轄外でしょうが。 参られても苦笑いしかできませんぜ。

  奇妙といえば、最近になって耳にするようになった神道関係の奇妙な説があります。 「日本では、死んだらみんな神になる」という奴です。 首相の某神社参拝が国際問題になった頃に言われ始め、「外国人には分からないだろうが、日本人は死んだらみんな神になるのだから、神社に祀られるのは当然の事だ」という論調で、頻繁に使われていました。 政治家や自称識者達が、まことしやかに、「そんな事、日本では常識」といった口調で言っていたので、「そんなものなのか」と納得してしまった人も多いと思いますが、そんな説は、嘘うそ大鷽なのであって、日本には、「死んだら神になる」なんて習慣は存在しません。 「死んだら、みんな仏になる」なら分かりますが、神にはならないでしょうが! なりませんよ! 勝手に伝統を捏造するなっつーの!

  死んだ後、最寄の神社に行って、神主さんに向かって、「うちの父が亡くなりましたから、神社に祀って下さい」なんて言いますか? 「いやあ、当神社では、そういう事は受け付けておりません」と丁重且つ薄ら笑いを添えて追い返されるのがオチです。 そもそも、日本では、神道は葬儀に関わらないのが普通です。 家が神道しかやっていないという人の場合も、お墓は仏教風に作ります。 神道の墓の事を、≪奥都城(おくつき)≫と言いますが、現物を見た事がある人はほとんどいないんじゃないでしょうか。 私は、火葬場附属の共同墓地で一つだけ見た事がありますが、≪○○家奥都城≫と彫ってあるだけで、他は、墓石、カロート、花立て、線香置きに至るまで、仏教の墓と全く同じでした。 神道に墓の様式の規定が無いので、仏教に倣うしかないのです。

  江戸時代の中頃までは、仏教が伝播していない地域で、墓を神社の境内に作る風習が若干あったらしいですが、この実例を探すのは結構骨だと思います。 また、そういう地域でも、単に他に場所が無いから神社に葬ったに過ぎず、死者が神になると考えていたわけではありませんでした。 もし、死者が神になるのだとすれば、各家庭の神棚に祀られるのは、何よりもまず先祖の神でなければならないはずですが、先祖を神として祀っている家庭など聞いた事がありません。

  自分の身の周りの現実を観察し、自分の頭で判断すれば、「死んだら、みんな神になる」などという習慣が存在しない事はすぐに分かるはずなんですが、なにせ自分で考えるのが嫌いな民族性なので、右倣えで疑いもせずに信じてしまったんですな。 なんでこんな珍説が登場したかというと、恐らく、「死んだら、みんな仏になる」という仏教の説を土台にして、「仏も神も似たようなもの」と日本人らしく適当に混同し、「死んだら、みんな神になる」を捏ね上げてしまったのでしょう。 中には、死んで神になった人間の例として、≪東照大権現・徳川家康≫を持ち出す輩もいましたが、明らかに特殊な例であり、日本の一般的風習とはいえません。 明治以降の政治家・軍人・戦死者の神格化に至っては、政府が軍国主義の政策として誘導したものであって、これまた日本の風習とは言えません。

  今でも、各地の神社に行くと、境内に、異様に巨大な≪忠魂碑≫などが建っていますが、私の目から見ると、神社の神様を土足で足蹴にしているようにしか見えません。 神社は人の霊を祀る場所ではないですし、ましてや、人を神として祀るなど、不遜もいいところです。 ああいう事を思いついた奴らというのは、やはり、神を信じてないから、神罰を怖いと思わなかったんでしょうねえ。


  私は、写真を撮るのが趣味なので、ついでにあちこちの神社を見て回っているんですが、神社の維持管理の状態は、地域によってバラバラです。 観光客が来るほどの大きな神社では、整備が行き届いていますが、氏子が出し合った資金で細々と管理されているような小さな神社は、押し並べて、衰退、崩壊の方向に向かっているように見えます。 無くなりこそしませんが、荒れる一方なのです。 まず、社殿が壊れる。 だから直すんですが、宮大工を頼むと金が掛かるので、トタン波板で直す。 建て替える時は、腐り難いように、鉄筋コンクリートで造る。 入口や窓にはアルミ・サッシを入れる。 氏子当人達は、「立派になった」などと言っていますが、鉄コンの社殿なんざ、歴史も伝統もあったもんじゃありません。 ただの箱ですがな。 そういう私の家の近所の神社も、とうの昔から鉄コンなんですが・・・・。

  「日本人は古来、鎮守の森を守り育ててきた」なんて、真っ赤な大嘘ですぜ。 ざっくざっく切り倒して更地にし、建売住宅建てて分譲しまくってます。 あの行為には、「神社なんて、社殿と参道が残ってりゃ充分だ」という本音が形となって顕れていますな。 つい最近、「木が大きくなりすぎて鬱陶しい」とて、鎮守の森の木を一本残らず丸坊主に刈ってしまった神社を見ましたが、ああなるともはや、神を侮辱するのが目的としか思えません。 いっそ、解体して、全部分譲してしまった方が、さばさばするんじゃないかと思います。 それと、神社の境内を児童公園にするのも、どうかと思いますねえ。 神社で子供が遊ぶ事自体は全く問題ないと思いますが、森を切り開いて遊具を設置したり、野球場を作ってしまったりするのは、やり過ぎでしょう。 もはや、神社とはいえませんな。 子供はそんなもの無くたって、自分で遊びを見つけます。 誰が、ああいう余計な事を思いつくのかねえ?

  これだけ不遜な事をしていながら、神の祟りだけは怖いらしいのは、奇妙な心理ですな。 鳥居や灯篭、狛犬などを新しく作った時、古い物を処分せず、境内の隅にゴロゴロ転がしておくのは、下手に壊して祟られたら嫌だからでしょう。 一体、信じているのか信じていないのか、どっちなんだね? いや、ことこの問題に関しては、私も分からないんですがね。 神社の神様を全く信じていないわけではないんですよ。 でも、身命を投げ打っておすがりするほど信じてはいないんですよ。


  ちょっと、オマケですが、もう15年位前、私の家の隣の賃貸マンションに、夜中まで騒音を立てる住人がいました。 普通の3LDKくらいの部屋を、マルチ商法の事務所に使っていて、勧誘してきた会員の教育セミナーを夜中まで行なうという、メチャクチャな奴らでした。 昔ながらの住宅地で、店一軒無いようなところに、毎夜10人から20人の会員達が集まって来て、車を道路に違法駐車し、部屋の窓を開け放って、深夜までがやがやと騒音を立てるのです。 あまりひどいので、近所中ノイローゼになりつつありました。 大家が意気地の無いド素人で、強い注意が出来ず、半年近くもそんな状態が続きました。 警察に通報する人も出てきましたが、とことんふてぶてしい奴らで、全く効果なし。 私もほとほとうんざりして、「こうなりゃ、神頼みしかないな」と腹を決め、紙に、「○○というマンションの○号室に、近所を騒がしている住人がいます。 どうか追い出して下さい」と書き、500円玉を包んで、近所の神社の賽銭箱に入れて見ました。

  それから一ヶ月くらいでしたかねえ、そいつらが出て行ったのは。 あまり覿面に効果が顕れたので、ちょっと怖かったくらいです。 実際には、私が書いた文面を読んだのは、社務所の管理人だったと思いますが、その人もびっくりしたことでしょう。 普通、神様には、自分が良くなる事を願うもので、他人に祟る事を願う奴はいませんからね。 ただ、あまりにも効いたので、「これはもう、一生分のお願いを使ってしまったな」と思って、それ以降はその種の事はしていません。 やはり、神社の神様には、家内安全、無病息災など、当たり障りの無い事を祈るくらいがちょうどよいと思います。