2007/08/26

濫読筒井作品 ⑧

  図書館に予約を入れていた、≪巨船ベラス・レトラス≫が手に入りました。 長編という話でしたが、実際には中編程度の長さで、二日で読み終わりました。 うーむ、書くのは大変だと思いますが、読むのはあっという間ですな。 というわけで、今回は他の二冊の感想も含めて、少し長くなります。

≪悪と異端者≫ 95年
  発行は95年ですが、収録されている文章は89年から93年にかけて書かれた物。 小説ではなく、短い評論や随筆を集めたものです。 文学賞の選考委員をした時の書評も含まれています。 題名がギラギラとしているので、毒舌を期待してしまいますが、至って真面目な文章ばかりで、さほど面白くはありません。

  私はこの本を、恐らく、発行された直後頃に読んでいると思うんですが、内容をすっかり忘れていて、また借りて来てしまいました。 前にも書いたように、筒井さんの作品は、小説が面白すぎる為に、随筆や評論などは、どうしても一段落ちます。 書評に至っては、対象になっている作品を読んでいなければ理解できないので、もうお手上げです。

  これは筒井さんの書評に限りませんが、自分の好きな作家が誉めている作品だからといって、読んでみて面白いかというと、そうでない事の方が多いから、警戒が必要ですな。 得てして、人から勧められた本というのは、爆睡を誘うほどつまらない事が多いのは、誰でも経験があるのではないでしょうか。 ただ、現在、文学少年・文学青年をやっていて、勉強中だというのであれば、とにかく片っ端から読んでみるのは悪くないと思います。 つまらん作品はつまらん作品で、なぜつまらないのかという研究資料になりますから。


≪夢の木坂分岐点≫ 87年
  これも、十年位前に一度借りてきたんですが、半分くらい読んだところで、返却期限が来てしまい、それっきりになっていたもの。 確か、落ちぶれて食べ物も買えなくなった主人公が、同じ長屋に住む侏儒レスラーから赤飯を貰って貪り食う所まで読んだ記憶があります。 実験臭さがぷんぷんしている作品でした。 今回は最後まで読みましたが、「やはり、これは実験小説だなあ」と再認識しました。

  分かった風なふりをするのは癪なので正直に書きますが、この小説、ストーリーを追って読んでいると、すぐに何が何だか分からなくなります。 現実の世界と夢の世界が入り乱れ、更に夢の世界が幾通りもあるので、どれが本筋なのかはさっばり分かりません。 主人公を含む登場人物達の名前が変化していくのと共に、主人公の境遇もガラリと変わるんですが、何の前触れもなしにスイッチされるので、「今度は誰だ!」と仰天させられます。 いわゆる、「メモを取りながら読む」べき小説で、図式に書き出してみれば、もっとすっきり理解できると思うんですが、借りてきている本では、さすがにそこまで時間は割けません。

  常識的な小説ばかり読んで来た人がこの作品を読むと、頭がキリキリとねじ上げられ、途中で放り出したくなると思います。 その点、≪虚人たち≫に近いと言えますが、こちらは、「ああ、夢の話なんだな」と思えば、グジャグジャした世界に何となく納得できるので、≪虚人たち≫よりは、分かり易いかもしれません。

  筒井さんの小説でよく取り上げられる、巨大な日本家屋が、この作品の中でも頻繁に出てきます。 おそらく、筒井さん自身が、巨大な日本家屋の中を彷徨する夢をよく見るんでしょうな。 私はそういう夢を見ないのですが、これは世代の違いでしょうか。 ちなみに私は、生まれてこの方、日本家屋に住んでいるので、日本家屋に懐かしさを感じるという事はあまりありません。 むしろ、薄汚さ、暗ぼったさ、粗末さといった、マイナスのイメージが強いです。 おそらく、筒井さんの書く巨大日本家屋に対して抱く印象は、読者の世代によって、個人の経験によって、全く違うのでしょう。

  もしかしたら、この小説、「メモを取りながら」読むよりも、「夢を見るように」読んだ方が正解なのかもしれません。 たとえ、ストーリーの構成がはっきり分かった所で、さして重大な意味は無いと思われるからです。 夢というのは、本来こういう取り止めがないものですから、取り止めないままに受け取っても、問題ないでしょう。 もし、夢のように読む事が許されるのなら、この小説は大変面白いといえます。


≪巨船ベラス・レトラス≫ 07年
  筒井康隆さんの最新刊。 といっても、発行は今年の三月だそうで、出ていた事を私が知らなかっただけでした。 書下ろしではなく、05年から06年にかけて、雑誌に連載された物のようです。

  この作品、まぎれもなく小説なんですが、ストーリー主体ではなく、作者の主張を登場人物たちに代弁させるのが目的で書かれた小説です。 実験的な所もありますが、筒井さんが昔やっていた実験小説に比べるとおとなしいもので、普通の小説のように読んでも、さほど差し障りはありません。 終りの方が、ちょっと尻切れとんぼのような感じがしますが、実験小説だと思えば、それも問題にならないでしょう 

  内容は、昨今、混迷及び衰退著しい、文学界・出版界の事情を皮肉ったもの。 しかし、批判というほど痛烈なものではありません。 筒井さんの作品で≪毒≫が足りないというのは、ちょっと意外ですが、作者自身が、業界の中にいるので、特定の同業者や出版社を書きたい放題に扱き下ろすわけにも行かないのではないかと思われます。

  問題は面白いかどうかですが、業界話なので、文学や出版に興味がない人には楽しめないと思います。 しかも、取材や下調べなど、入念な準備をして書き始めた小説ではなく、作者の頭に入っている範囲内の情報で書き飛ばしている為、≪業界の裏事情≫というほど詳細を究めてはいません。 とはいえ、筒井さんがノって書いている文章ですから、面白くないという事は無いです。 いやあ、我ながら、苦しい批評ですな。 つまり、べた誉めするほど面白くは無く、貶すほどつまらなくもないのです。

  最大の収穫は、前半に出てくる、七尾霊兆という詩の大家が書いた前衛詩ですな。 これは面白いです。 面白過ぎて、爆笑なしに通過する事は何人にも不可能でしょう。 この詩を読む為だけでも、この小説を繙く価値はあります。 そして、この詩の面白さを100%堪能する為には、全編を読んで七尾氏の人と為りを知る必要があるのです。 うーむ、ふだん、言葉の力など大した事は無いと思っている私ですが、こういう詩を目にすると、認識を改めざるを得ませんな。 恐るべし、は行音・・・・・。


  あと、感想ではありませんが、作中に現在の文芸出版業界の新人の扱いに対する観察が出ていたので、それに関して少々。 数年前に、日本国内で最も有名な文学賞を、十代の女性が受賞するという出来事がありましたが、やはり、あれは、≪話題性≫が欲しかった出版業界側の都合で求められた事のようですな。 それ以降、若年の新人ばかり珍重される傾向が続いています。 ≪ケータイ小説≫などという、何の意味があるのかよく分からない代物まで登場しましたが、あれも、同じ都合で捻り出されたものでしょう。

  どの文学賞でも審査員は著名な作家達が務めるわけですが、賞の主催者である出版業界側から、「文芸市場を活性化して、読者の裾野を広げる為には、世間にインパクトを与える必要がある。 作品の質もさる事ながら、話題性がある人物に賞を出せないか」と要請されれば、審査員達も文芸市場から収入を得ている人達ですから、断れません。 そこで、少女作家だの、ケータイ作家だのが登場する事になったわけです。 これは、小説家を目指して何十年も努力してきた人達にとっては由々しき傾向で、「作品の出来よりも、作者にまつわる話題性の方が重視されるのでは、努力・研鑽など全く意味がなくなってしまうではないか!」と激怒するのは無理からぬ事。

  一方、出版業界側にしてみれば、作品の質より話題性の方が金になるとなれば、そちらを優先するのは、営利組織として当然の事です。 金が入らなければ、会社が潰れてしまうわけですから。 実際に少女作家の○○賞受賞は大変な話題になり、作品は前例ない数が売れたわけで、出版業界としては、≪話題性作戦≫は、久々に当てた大金星となったわけです。

  立場的には、出版社あっての作家ですから、出版業界側が、「今後も、話題性重視で行く」と決めれば、作家側は従うしかないわけですが、この方針、事によったら、文芸市場を破滅させてしまう危険性も孕んでいます。 現在の所、話題性重視といっても、質の方もそんなに悪いわけではなく、平均以上の水準を保っていますが、「話題性、話題性」と傾斜していけば、いずれ作品の質が劣化して行くのは目に見えています。 いくら話題性があっても、つまらない小説に金を払う読者などいないわけで、「なんだ、また少女小説家か。 今度は小学生? 人をなめるのも大概にしろよ」とて、小説全体が見限られてしまう恐れがあります。

  小説家を目指して努力している方々には身の毛もよだつ話だと思いますが、「顔が良くないとデビューできない」というのも、否定し難い事実のようです。 ≪巨船ベラス・レトラス≫の中にも、美少女の新人作家が、雑誌に写真が公表された途端に、引っ張り凧の売れっ子になるくだりが出てきますが、外見の良さも、≪話題性≫の重大な要素になっているという事でしょう。 ○本○張さんや、○上○さしさんなどは、現代だったら、どんなに優れた作品を書こうがデビューできなかった可能性あり。 しかし、そんな下らない理由で、実力満々の人達が世に出られなかったとしたら、それは業界全体の損失としか言いようがありますまい。

  思うに、≪話題性≫というのは、出版業界の最後の切り札だったのかもしれませんな。 切ってしまえば、もう後は無いのです。 現状を見ると、話題性が無い新人が世に出る余地はどんどん無くなっているわけですが、大急ぎで舵を切り直さないと、先に待っているのは業界全体の沈没だけではないかと思います。 とどのつまり、小説なんぞ無ければ無いで別段生活に支障は無いわけで、このまま行けば、日本に於いて小説という芸術ジャンルがそっくり消えてしまう事もありえます。

  オマケ。 ≪ケータイ小説≫の珍妙さについて、ちょっと補足しましょう。 「ケータイで小説を読む」というなら、技術革新の結果、新しい読書スタイルが生まれたわけですから、社会現象の一つとして評価できます。 ところが、≪ケータイ小説≫というのは、「ケータイで書いた小説」の事でして、それは作家個人の執筆様式に過ぎず、作品の質とは何の関係もありません。 「ケータイで小説が書ける」というのは、単なる≪特技≫であり、しかも、何ら注目するに当たらない、つまらない特技です。 「ビール瓶の栓を歯で抜く」とか、「蝋燭の火を鼻息で吹き消す」というのと、同レベル。 いや、基本的に根気さえあれば誰にでも真似が出来る事なので、それ以下ですな。 まあ、普通、キーボードが打てる人間なら、ケータイで小説を打ち込もうなんて迂遠な事は考えませんわなあ。 そんな事ですら、話題性になるのだから、程度の低さが分かろうというものです。