出家とそのダシ
さて、私的宗教観の第二段、仏教です。 日本人の大多数が、「あなたの宗教は何か?」と訊ねられると、「仏教です」と答える、あの仏教です。
前に書いたように、私はよく、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」という言葉を唱えるのですが、実はそれは、親兄弟を初めとする周辺環境によって子供の頃から刷り込まれた習慣に過ぎず、それらの言葉によって自分が救われるとは考えていません。 私はある時期、≪原始仏教≫の経典をかなり読んだのですが、知れば知るほど、自分の身の周りに存在する仏教的習慣に≪嘘≫が多い事に気付き、愕然としました。
と書いて来ても、仏教がどういう宗教なのか、一般的な日本人はほとんど知りませんから、まずそこから説明しなければなりませんな。 やれやれ、日本の歴史は仏教の伝来とほぼ同時に始まり、1500年もの長きに渡って信仰され続けて来たのですが、肝腎の教義が伝わっていないというのは驚くべき事実ですな。 つまり、1500年間、≪真似事≫をし続けてきたわけです。
仏教は、ゴータマ・シッダールタという人物が、紀元前6世紀頃にインド北部で始めた宗教です。 特徴は、≪生きる事は苦しみである≫と規定し、その苦しみから≪自力で≫逃れる事を目的としている事。 つまり、生きる事を楽しいと思っている人間には、最初から無縁の宗教で、無理に行なうようなものではありません。 また、他の宗教のように、神や超越者を崇め祈る事によって≪救って貰おう≫という考え方はとらず、自分で問題を克服し、苦しみから脱出する事も重要な点です。 ≪生きる事は苦しみ≫という人生観を認めさせた上で、その克服方法を教えているのが、仏教なわけです。
苦しみから最終的に解放される事を≪解脱≫といいます。 解脱した人間の事を、≪仏≫または≪釈迦≫と呼びます。 仏とは、特定の個人に与えられた称号ではなく、解脱した人間全てが仏になります。 すなわち、ゴータマ・シッダールタは、最初の仏という位置づけになります。 自分が解脱に成功したから、「他の人にも方法を教えてやろう」という発想で、仏教は広められたわけです。
≪生きる事は苦しみ≫なので、当然、≪死ぬ事は、苦しみからの解放≫になります。 日本では、「死ねば、みんな仏になる」という言葉が、説明抜きで流布していますが、これは別に日本人特有の虫のいい解釈というわけではなく、仏教の真理を述べた言葉です。 もちろん、ゴータマ・シッダールタのように、生きている間に解脱できれば、よりよいわけで、信者はそれを目指して精神修養します。
仏教では、人生に苦しみを齎す様々な問題の原因は、その本人の考え方の中にあると捉え、それを≪煩悩≫と呼びます。 煩悩を一つ一つ取り除いて行けば、最終的に苦しみは無くなり、解脱に至るというわけです。 「問題は外部にある」という考え方は最初からしません。 実際に外部に問題があったとしても、その外部を変えるのではなく、外部を見る自分の意識を変える事で、問題を解消しようとします。
最もよく見られる解決方法が、≪比較≫です。 原始仏教の経典を読むと、宇宙の広大さや時間の無限さについて延々と述べているものが多いですが、大きなものと比較対照する事によって、自分の身辺に起こる問題を矮小化し、問題を問題でなくしてしまうという方法です。 たとえば、持病で苦しんでいる人が、「俺は確かに苦しいが、この世の中には俺なんかよりもっと重い病気を患っている人がごまんといる。 それと比較すれば、俺の苦しみなど大した問題ではない」と考えれば、随分気が楽になるという理屈。 ちなみに、この考え方、基本的には≪老子・荘子≫と同じものです。
書店で、≪仏教入門≫といった類の本を開くと、真っ先に≪四聖諦・八正道≫といった言葉が出てくると思います。 これは、解脱する為の方法を細かく述べたものなんですが、実は私、この≪四聖諦・八正道≫が、本当にゴータマ・シッダールタの教えかどうか疑問を抱いています。 ゴータマ・シッダールタ本人は著作を残しておらず、原始仏教の経典はすべて弟子達が書き記したものなので、中には偽物も含まれている可能性があるわけですが、これもその類ではないかと思うのです。 ほとんどの経典が、宇宙や時間の無限について、とてつもなくスケールの大きい話で埋められているのに、解脱の為の細かい方法論などといったチマチマした事をゴータマ・シッダールタが言いのこすとは、どうにも思えないのです。 ≪四≫に≪八≫と倍数を並べるなど、如何にも頭でっかちの書生が考えた感じがしませんか? 仏教の教えは、≪生きる事は苦しみ≫と、≪比較による問題解決≫の二つで充分に分かるのであって、それ以上は、蛇足というものでしょう。
人が何度も生まれ変わるという意味の≪輪廻≫という言葉は、日本人が好む言葉で、仏教用語だと思っている人がほとんどです。 実際にはインドの古代宗教で普遍的に用いられていた用語で、仏教でも使いますが、≪輪廻≫そのものは仏教の目的ではないので、そこの所に注意が必要です。 仏教では、≪生きる事は苦しみ≫なのですから、何度も生まれ変わったのでは、苦しみがいつまでたっても終わりません。 ≪輪廻≫は仏教に於いては悪い事なのです。 「輪廻を断ち切る」という言い方は正しい用法で、生まれ変わらなくなって、初めて解脱できるわけです。 日本人の中は、「何度も生まれ変わって人生を楽しめるのだから、いい事ではないか」と思っている人が多いですが、とんだ思い違いをやらかしているわけですな。 そもそも、そういう人は、生きる事を苦しみだと思っていないのですから、はなから仏教をやる必要がありません。
とまあ、仏教の基本はこんな所でしょうか。 ここまで読んで来て、日本で身近に見られる仏教と重なる所が少ない事に驚いた方も多いのではありますまいか? 無理もないです。 以上に書いてきたのは、原始仏教の話でして、ゴータマ・シッダールタの死後、仏教は、全く違う宗教に変化してしまうのです。 一言で言うと、≪多神教≫になってしまいます。 ゴータマ・シッダールタの死後、仏教の教団が残されたわけですが、中心軸を失った教団は、組織を維持する為に信者を増やさなければなりませんでした。 その為には、仏教を≪個人的な精神修養の教え≫から、≪集団で信仰する宗教≫に改変させる必要がありました。 そこで、ゴータマ・シッダールタを神格化した上に、他の宗教からも伝統的な神をどしどし取り入れ、あれよあれよという間に多神教に作り変えてしまったのです。
原始仏教の根本的特徴を否定して、他の宗教と同じにしてしまったわけで、その粗暴さには呆れる外ありません。 ただ、原始仏教の教えを全て否定したわけではなく、信者を≪出家≫と≪在家≫に分け、出家信者の間でだけ原始仏教の教えを伝承しました。 「在家信者は特別な修行をする必要は無い。 ただ出家信者の生活を助け、あとは仏を拝んでいれば、それで救われる」と説いたわけです。 ただし、言うまでもなく、ゴータマ・シッダールタは、そんな事を一言も言ってませんから、これはよく言えば方便、悪く言えば大嘘です。 教団を維持する為に、在家信者を騙して、経済支援させたのです。
ここまでがインドで行なわれ、そのままの形で中国に伝わり、更に日本にもコピーされました。 もう、インドにあった時点で、ゴータマ・シッダールタの教えは捻じ曲げられていたわけで、それを二度三度とコピーしたのですから、まともに伝わるわけがありません。 日本仏教の各宗派も、ゴータマ・シッダールタの教えとは何の関係もなく、在家信者を騙して金を巻き上げ、教団を維持する為に存在しています。 新興宗教には胡散臭いイメージがありますが、平安時代から続いているような大宗派でも、在家信者を騙している事に何の変わりもないのです。
典型的な詐欺行為が、葬式です。 戒名料を始め、様々な料金をぼったくられますが、ゴータマ・シッダールタは葬式の作法について何の規定も残していませんから、あれは後世の人間が勝手に作った習慣なんですな。 ゴータマ・シッダールタの教えに基づくなら、戒名なんてつけなくたって、死ねば仏です。 葬式なんか挙げなくたって、死ねば仏です。 他になりようがないのです。 野垂れ死にしようが、殺されようが、自殺しようが、生きる苦しみから逃れられるのですから、やはり仏になります。
出家信者である僧侶の仕事というと、霊前でお経を上げる事が代表的ですが、あれほど馬鹿げた光景はありません。 お経を聞いて、意味が分かりますか? 日本で上げられるお経のほとんどは、千年から五百年前の中国語の方言で書かれていて、また読み方もそれに準じていますが、聞いている在家信者は誰もその意味が分かりません。 「分からないから、ありがたい」などと考えるのは、野蛮人が物の怪を崇めるのと一分の差も無いのであって、お経というのは、意味が分かってこそ、意義があるのです。 だって、もともと、教えを伝える為に書かれた物なのですから! 分からない言葉で、お経を聞いたって、犬の遠吠えや蝉の鳴き声を聞いているのと何の変わりもありゃしません。
改めて考えると、吃驚仰天・顔面蒼白な話ですが、そんな馬鹿げた事を、日本では仏教伝来からこっち、延々と続けて来たのです。 もう、情けないったらありゃしない。 意味が分からないお経を1500年も聞かされて、誰もおかしいと思わなかったんだから、ある意味凄い。 昔話に、≪愚か村の人々≫というモチーフがありますが、さしづめ、≪愚か国の人々≫というべきですな。 「仏教はどんな宗教ですか?」と外国人に訊かれて、何も答えられないのも無理はない。 だって、お経の意味がわかんないんだものねえ。 あははははは! アホか?
「悪い事をすると地獄に堕ちる」などと言われていますが、もちろん嘘です。 ゴータマ・シッダールタは地獄の存在について、一言も触れてません。 だーからよー、教祖が口にしなかった事を捏造して、信者に吹き込むのはよせっつーんだ、この詐欺師どもが! 死ねばみんな仏なんだから、地獄なんかあるわけねえっぺよ! 当然の事ながら、極楽もありません。 浄土教系統の宗派などは、極楽が無いとなると困ってしまうわけですが、勝手に困りなさい。 大法螺吹き続けてきた報いです。
それでいて、呆れる事に、どの宗派でも、出家信者、つまり僧侶ですが、彼らは原始仏教の経典を直接勉強していますから、「死ねばそれで終わりで、その後は何も無い。 もちろん、地獄も極楽も無い」という事を知っているのです。 ただ、それを在家信者には教えないんですな。 詐欺がバレるとまずいから。 どこまではらわたが腐っているのか、それこそ仏罰覿面ではありますまいか? もっとも、ゴータマ・シッダールタも他の解脱者達も仏になってますから、どんな悪人が相手であっても罰を与えたりしませんがね。
「死んだら、三途の川を渡って、お花畑を通り、様々な世界を経巡った後、生まれ変わる」といった俗説も、ゴータマ・シッダールタの教えとは一切関係ありません。 死ぬ事そのものが苦しみからの解放なのですから、死後の世界など元々想定されていないのです。 幽霊なども想定していません。 肉体が滅んだ後も精神が生き残るのでは、輪廻が断ち切れないじゃありませんか。 幽霊なんぞいてもらっては困るのです。
死後に霊魂が残らないという事は、自動的に≪法事≫も無意味という事になります。 四十九日だ、一周忌だ、三回忌だ、七回忌だと何回やらされるか分かりませんが、そもそも、霊魂が無いのですから、誰の為に法事をするのか分からないではありませんか。 大体、生きている人間ですら意味が分からないお経を、死んだ人間に聞かせて何とする? アホか、うぬりゃ? 耳も脳もとっくに焼き場で灰になっているというのに、どうやって、お経を聞くんじゃい?
仏像を拝むのも馬鹿馬鹿しい事です。 あれはもう、完全に多神教の習慣ですな。 僧侶達は、仏像なんぞただの人形に過ぎない事を知っていますから、大事に保管していたとしても、それは美術品として扱っているのであって、仏像そのものに魂があるなどとは思ってません。 そんな戯言を本気で口にする坊主がいたら、そいつは原始仏教を理解できないほど頭が弱いのです。 そういえば、十年くらい前に、テレビによく出る霊感坊主がいましたな。 「自縛霊を飛ばす」とか言って、スタジオで派手なパフォーマンスをかましていましたが、あの人にしても、本気で幽霊を信じていたわけではないと思いますぜ。 だって、原始仏教の基本も知らないような人間が、住職になれるわけないものね。
ボロクソに言って来ましたが、今までに歴史上に登場した各種の仏教教団が、ゴータマ・シッダールタの教えをダシにして、在家信者を騙してきた悪行の罪深さに比べれば、この程度の批判は、お上品過ぎると言うべきでしょう。 教祖の教えをまるっきり無視しているくせに、仏教を名乗っているのもおこがましい。 地獄など無いので、地獄へ堕ちるとは言いませんが、人を騙しているような人間が、生きている間に解脱できないのは疑いありません。 まあ、そんな奴らでも、死ねば仏になれるのが仏教のありがたい所なんですがね。
さて、私の事ですが、本気で仏教を信仰する気になれないのは、≪生きる事は苦しみ≫と思っていないからです。 ≪楽しみがあるから、生きている≫という考え方をしています。 すなわち、仏教の信者としての要件を満たしていないんですな。 ただ、これはあくまでも現時点での話。 今後歳をとるに連れて、楽しみが減り、苦しみばかり増えて来れば、仏教的な考え方に救いを求めるかもしれません。 ただし、そうなったとしても、帰依する対象は原始仏教であって、仏教教団なんぞには、ビタ一文払う気はありません。 意味の分からないお経なんぞ、あげてくれなくて結構。 自分で知る事も出来ない戒名も要りません。 そんなもの無くても、仏にはなれるのですから。
前に書いたように、私はよく、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」という言葉を唱えるのですが、実はそれは、親兄弟を初めとする周辺環境によって子供の頃から刷り込まれた習慣に過ぎず、それらの言葉によって自分が救われるとは考えていません。 私はある時期、≪原始仏教≫の経典をかなり読んだのですが、知れば知るほど、自分の身の周りに存在する仏教的習慣に≪嘘≫が多い事に気付き、愕然としました。
と書いて来ても、仏教がどういう宗教なのか、一般的な日本人はほとんど知りませんから、まずそこから説明しなければなりませんな。 やれやれ、日本の歴史は仏教の伝来とほぼ同時に始まり、1500年もの長きに渡って信仰され続けて来たのですが、肝腎の教義が伝わっていないというのは驚くべき事実ですな。 つまり、1500年間、≪真似事≫をし続けてきたわけです。
仏教は、ゴータマ・シッダールタという人物が、紀元前6世紀頃にインド北部で始めた宗教です。 特徴は、≪生きる事は苦しみである≫と規定し、その苦しみから≪自力で≫逃れる事を目的としている事。 つまり、生きる事を楽しいと思っている人間には、最初から無縁の宗教で、無理に行なうようなものではありません。 また、他の宗教のように、神や超越者を崇め祈る事によって≪救って貰おう≫という考え方はとらず、自分で問題を克服し、苦しみから脱出する事も重要な点です。 ≪生きる事は苦しみ≫という人生観を認めさせた上で、その克服方法を教えているのが、仏教なわけです。
苦しみから最終的に解放される事を≪解脱≫といいます。 解脱した人間の事を、≪仏≫または≪釈迦≫と呼びます。 仏とは、特定の個人に与えられた称号ではなく、解脱した人間全てが仏になります。 すなわち、ゴータマ・シッダールタは、最初の仏という位置づけになります。 自分が解脱に成功したから、「他の人にも方法を教えてやろう」という発想で、仏教は広められたわけです。
≪生きる事は苦しみ≫なので、当然、≪死ぬ事は、苦しみからの解放≫になります。 日本では、「死ねば、みんな仏になる」という言葉が、説明抜きで流布していますが、これは別に日本人特有の虫のいい解釈というわけではなく、仏教の真理を述べた言葉です。 もちろん、ゴータマ・シッダールタのように、生きている間に解脱できれば、よりよいわけで、信者はそれを目指して精神修養します。
仏教では、人生に苦しみを齎す様々な問題の原因は、その本人の考え方の中にあると捉え、それを≪煩悩≫と呼びます。 煩悩を一つ一つ取り除いて行けば、最終的に苦しみは無くなり、解脱に至るというわけです。 「問題は外部にある」という考え方は最初からしません。 実際に外部に問題があったとしても、その外部を変えるのではなく、外部を見る自分の意識を変える事で、問題を解消しようとします。
最もよく見られる解決方法が、≪比較≫です。 原始仏教の経典を読むと、宇宙の広大さや時間の無限さについて延々と述べているものが多いですが、大きなものと比較対照する事によって、自分の身辺に起こる問題を矮小化し、問題を問題でなくしてしまうという方法です。 たとえば、持病で苦しんでいる人が、「俺は確かに苦しいが、この世の中には俺なんかよりもっと重い病気を患っている人がごまんといる。 それと比較すれば、俺の苦しみなど大した問題ではない」と考えれば、随分気が楽になるという理屈。 ちなみに、この考え方、基本的には≪老子・荘子≫と同じものです。
書店で、≪仏教入門≫といった類の本を開くと、真っ先に≪四聖諦・八正道≫といった言葉が出てくると思います。 これは、解脱する為の方法を細かく述べたものなんですが、実は私、この≪四聖諦・八正道≫が、本当にゴータマ・シッダールタの教えかどうか疑問を抱いています。 ゴータマ・シッダールタ本人は著作を残しておらず、原始仏教の経典はすべて弟子達が書き記したものなので、中には偽物も含まれている可能性があるわけですが、これもその類ではないかと思うのです。 ほとんどの経典が、宇宙や時間の無限について、とてつもなくスケールの大きい話で埋められているのに、解脱の為の細かい方法論などといったチマチマした事をゴータマ・シッダールタが言いのこすとは、どうにも思えないのです。 ≪四≫に≪八≫と倍数を並べるなど、如何にも頭でっかちの書生が考えた感じがしませんか? 仏教の教えは、≪生きる事は苦しみ≫と、≪比較による問題解決≫の二つで充分に分かるのであって、それ以上は、蛇足というものでしょう。
人が何度も生まれ変わるという意味の≪輪廻≫という言葉は、日本人が好む言葉で、仏教用語だと思っている人がほとんどです。 実際にはインドの古代宗教で普遍的に用いられていた用語で、仏教でも使いますが、≪輪廻≫そのものは仏教の目的ではないので、そこの所に注意が必要です。 仏教では、≪生きる事は苦しみ≫なのですから、何度も生まれ変わったのでは、苦しみがいつまでたっても終わりません。 ≪輪廻≫は仏教に於いては悪い事なのです。 「輪廻を断ち切る」という言い方は正しい用法で、生まれ変わらなくなって、初めて解脱できるわけです。 日本人の中は、「何度も生まれ変わって人生を楽しめるのだから、いい事ではないか」と思っている人が多いですが、とんだ思い違いをやらかしているわけですな。 そもそも、そういう人は、生きる事を苦しみだと思っていないのですから、はなから仏教をやる必要がありません。
とまあ、仏教の基本はこんな所でしょうか。 ここまで読んで来て、日本で身近に見られる仏教と重なる所が少ない事に驚いた方も多いのではありますまいか? 無理もないです。 以上に書いてきたのは、原始仏教の話でして、ゴータマ・シッダールタの死後、仏教は、全く違う宗教に変化してしまうのです。 一言で言うと、≪多神教≫になってしまいます。 ゴータマ・シッダールタの死後、仏教の教団が残されたわけですが、中心軸を失った教団は、組織を維持する為に信者を増やさなければなりませんでした。 その為には、仏教を≪個人的な精神修養の教え≫から、≪集団で信仰する宗教≫に改変させる必要がありました。 そこで、ゴータマ・シッダールタを神格化した上に、他の宗教からも伝統的な神をどしどし取り入れ、あれよあれよという間に多神教に作り変えてしまったのです。
原始仏教の根本的特徴を否定して、他の宗教と同じにしてしまったわけで、その粗暴さには呆れる外ありません。 ただ、原始仏教の教えを全て否定したわけではなく、信者を≪出家≫と≪在家≫に分け、出家信者の間でだけ原始仏教の教えを伝承しました。 「在家信者は特別な修行をする必要は無い。 ただ出家信者の生活を助け、あとは仏を拝んでいれば、それで救われる」と説いたわけです。 ただし、言うまでもなく、ゴータマ・シッダールタは、そんな事を一言も言ってませんから、これはよく言えば方便、悪く言えば大嘘です。 教団を維持する為に、在家信者を騙して、経済支援させたのです。
ここまでがインドで行なわれ、そのままの形で中国に伝わり、更に日本にもコピーされました。 もう、インドにあった時点で、ゴータマ・シッダールタの教えは捻じ曲げられていたわけで、それを二度三度とコピーしたのですから、まともに伝わるわけがありません。 日本仏教の各宗派も、ゴータマ・シッダールタの教えとは何の関係もなく、在家信者を騙して金を巻き上げ、教団を維持する為に存在しています。 新興宗教には胡散臭いイメージがありますが、平安時代から続いているような大宗派でも、在家信者を騙している事に何の変わりもないのです。
典型的な詐欺行為が、葬式です。 戒名料を始め、様々な料金をぼったくられますが、ゴータマ・シッダールタは葬式の作法について何の規定も残していませんから、あれは後世の人間が勝手に作った習慣なんですな。 ゴータマ・シッダールタの教えに基づくなら、戒名なんてつけなくたって、死ねば仏です。 葬式なんか挙げなくたって、死ねば仏です。 他になりようがないのです。 野垂れ死にしようが、殺されようが、自殺しようが、生きる苦しみから逃れられるのですから、やはり仏になります。
出家信者である僧侶の仕事というと、霊前でお経を上げる事が代表的ですが、あれほど馬鹿げた光景はありません。 お経を聞いて、意味が分かりますか? 日本で上げられるお経のほとんどは、千年から五百年前の中国語の方言で書かれていて、また読み方もそれに準じていますが、聞いている在家信者は誰もその意味が分かりません。 「分からないから、ありがたい」などと考えるのは、野蛮人が物の怪を崇めるのと一分の差も無いのであって、お経というのは、意味が分かってこそ、意義があるのです。 だって、もともと、教えを伝える為に書かれた物なのですから! 分からない言葉で、お経を聞いたって、犬の遠吠えや蝉の鳴き声を聞いているのと何の変わりもありゃしません。
改めて考えると、吃驚仰天・顔面蒼白な話ですが、そんな馬鹿げた事を、日本では仏教伝来からこっち、延々と続けて来たのです。 もう、情けないったらありゃしない。 意味が分からないお経を1500年も聞かされて、誰もおかしいと思わなかったんだから、ある意味凄い。 昔話に、≪愚か村の人々≫というモチーフがありますが、さしづめ、≪愚か国の人々≫というべきですな。 「仏教はどんな宗教ですか?」と外国人に訊かれて、何も答えられないのも無理はない。 だって、お経の意味がわかんないんだものねえ。 あははははは! アホか?
「悪い事をすると地獄に堕ちる」などと言われていますが、もちろん嘘です。 ゴータマ・シッダールタは地獄の存在について、一言も触れてません。 だーからよー、教祖が口にしなかった事を捏造して、信者に吹き込むのはよせっつーんだ、この詐欺師どもが! 死ねばみんな仏なんだから、地獄なんかあるわけねえっぺよ! 当然の事ながら、極楽もありません。 浄土教系統の宗派などは、極楽が無いとなると困ってしまうわけですが、勝手に困りなさい。 大法螺吹き続けてきた報いです。
それでいて、呆れる事に、どの宗派でも、出家信者、つまり僧侶ですが、彼らは原始仏教の経典を直接勉強していますから、「死ねばそれで終わりで、その後は何も無い。 もちろん、地獄も極楽も無い」という事を知っているのです。 ただ、それを在家信者には教えないんですな。 詐欺がバレるとまずいから。 どこまではらわたが腐っているのか、それこそ仏罰覿面ではありますまいか? もっとも、ゴータマ・シッダールタも他の解脱者達も仏になってますから、どんな悪人が相手であっても罰を与えたりしませんがね。
「死んだら、三途の川を渡って、お花畑を通り、様々な世界を経巡った後、生まれ変わる」といった俗説も、ゴータマ・シッダールタの教えとは一切関係ありません。 死ぬ事そのものが苦しみからの解放なのですから、死後の世界など元々想定されていないのです。 幽霊なども想定していません。 肉体が滅んだ後も精神が生き残るのでは、輪廻が断ち切れないじゃありませんか。 幽霊なんぞいてもらっては困るのです。
死後に霊魂が残らないという事は、自動的に≪法事≫も無意味という事になります。 四十九日だ、一周忌だ、三回忌だ、七回忌だと何回やらされるか分かりませんが、そもそも、霊魂が無いのですから、誰の為に法事をするのか分からないではありませんか。 大体、生きている人間ですら意味が分からないお経を、死んだ人間に聞かせて何とする? アホか、うぬりゃ? 耳も脳もとっくに焼き場で灰になっているというのに、どうやって、お経を聞くんじゃい?
仏像を拝むのも馬鹿馬鹿しい事です。 あれはもう、完全に多神教の習慣ですな。 僧侶達は、仏像なんぞただの人形に過ぎない事を知っていますから、大事に保管していたとしても、それは美術品として扱っているのであって、仏像そのものに魂があるなどとは思ってません。 そんな戯言を本気で口にする坊主がいたら、そいつは原始仏教を理解できないほど頭が弱いのです。 そういえば、十年くらい前に、テレビによく出る霊感坊主がいましたな。 「自縛霊を飛ばす」とか言って、スタジオで派手なパフォーマンスをかましていましたが、あの人にしても、本気で幽霊を信じていたわけではないと思いますぜ。 だって、原始仏教の基本も知らないような人間が、住職になれるわけないものね。
ボロクソに言って来ましたが、今までに歴史上に登場した各種の仏教教団が、ゴータマ・シッダールタの教えをダシにして、在家信者を騙してきた悪行の罪深さに比べれば、この程度の批判は、お上品過ぎると言うべきでしょう。 教祖の教えをまるっきり無視しているくせに、仏教を名乗っているのもおこがましい。 地獄など無いので、地獄へ堕ちるとは言いませんが、人を騙しているような人間が、生きている間に解脱できないのは疑いありません。 まあ、そんな奴らでも、死ねば仏になれるのが仏教のありがたい所なんですがね。
さて、私の事ですが、本気で仏教を信仰する気になれないのは、≪生きる事は苦しみ≫と思っていないからです。 ≪楽しみがあるから、生きている≫という考え方をしています。 すなわち、仏教の信者としての要件を満たしていないんですな。 ただ、これはあくまでも現時点での話。 今後歳をとるに連れて、楽しみが減り、苦しみばかり増えて来れば、仏教的な考え方に救いを求めるかもしれません。 ただし、そうなったとしても、帰依する対象は原始仏教であって、仏教教団なんぞには、ビタ一文払う気はありません。 意味の分からないお経なんぞ、あげてくれなくて結構。 自分で知る事も出来ない戒名も要りません。 そんなもの無くても、仏にはなれるのですから。
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