水滸伝
今週は六日出勤だったので、著しく疲労しており、本来ならこんなコラムを書くなど以ての外なのですが、ここで一週サボると、サボり癖がついて、ダラダラと堕落していくのが怖いので、ただ更新実績を作る為だけに、ちょこちょこっと読書感想文でも書く事にします。
さて、ここの所読んでいる本というと、≪水滸伝≫です。 誰でも題名は聞いた事がある、中国四大奇書の一つ。 ちなみに、他の三つは、≪三国志演義≫、≪西遊記≫、≪金瓶梅≫。 私は、≪西遊記≫は中学生の時に読破したんですが、その他はいずれも、冒頭部分をちょこっと読んだだけでした。 性分がケチなので、本を買う時には文庫本を真っ先に探すわけですが、長編小説の場合、全十冊などという物がざらで、二冊くらい読むと、次を買う気力が失せてしまうのです。 また、都合の悪い事に、中国の長編小説は、冒頭部は物語全体の≪枕≫に過ぎず、本体部分は回が進んでから徐に始まるので、面白くなる前に挫折してしまうんですな。 ≪紅楼夢≫は全部読みましたが、岩波文庫で12冊もあり、買い揃えるのに一年以上掛かりました。
ちなみに、中国の長編小説で最も面白いのは、≪紅楼夢≫なんですが、これは四大奇書には入っていません。 しごくまっとうな恋愛小説なので、そもそも奇書の内に入れられないんでしょうな。 もひとつちなみに、中国人と話をする場合、題名だけでも四大奇書や≪紅楼夢≫を知っておかないと恥を掻きます。 ≪三国志演義≫と≪三国志≫の区別も出来ないとまずいです。 一方、≪金瓶梅≫は、愛欲小説なので、あまり内容に詳しいと、やはり恥を掻きます。
さて、≪水滸伝≫ですが、これも若い頃に、岩波文庫で二冊だけ購入し読んだのを、それっきりにしてありました。 その頃、岩波文庫のカバーが、半透明の蝋紙から、一般的な艶紙カバーに変更になり、外装を揃えられない事に白けを感じ、三巻以降を買わなかったのです。 今その二冊は押入れの奥で眠っていますが、確か記憶では、第15回までだったと思います。 それから幾星霜、四年ほど前に古本屋で、世界文学全集の一冊と思しき、70回本の≪水滸伝≫を発見し、100円というむちゃくちゃな安値だったので、読む暇もないのに衝動買いしました。 その70回本を今回引っ張り出して、第16回から読み始めたという次第。
元々講談から発達してきた小説なので、頗る名調子で話が進み、非常に面白いです。 凶状持ちどもが登場人物なので、殺伐としていて違和感がある描写も多いのですが、読み始めると止まらなくなります。 70回本は一週間ほどで読み終わり、続きを読む為に図書館で、120回本の≪中≫と≪下≫を借りて来ました。 図書館には、中国文学のコーナーに、≪水滸伝≫の各版がうじゃうじゃ揃っています。 最初から、図書館に行けばよかったんですな。
≪水滸伝≫はもともと南宋から元にかけて講談として発展した物語ですが、それを明初の作家、羅漢中氏(≪三国志演義≫の作者)が小説の形にまとめたのが、最も長いタイプの120回本です。 それを明末清初の文芸批評家、金聖嘆氏が途中で切ってしまったのが70回本。 なぜ切ったかというと、≪梁山泊≫に英雄豪傑達が集まるくだりは70回までで、物語としてはそこまでが最も面白いからという理由。 しかし、120回本も伝わっているのですから、読まない手はありません。
今までに読んだ、≪西遊記≫、≪紅楼夢≫、≪儒林外史≫などと比べても、≪水滸伝≫には独特の雰囲気があります。 話の展開が早く、滅法面白い一方で、「こやつら、本当に英雄なのか?」と思うような常軌を逸した行動が多く見られ、読んでいて、冷汗脂汗が出て来るのです。 恨みがある相手を殺すのは、まあ分かるとして、その家族や使用人までバサバサ切り殺してしまうから、今の感覚では、とてもまともな神経とは思えません。 いや、当時、つまり宋代ですが、その頃の感覚でも、こんな殺人鬼どもが跳梁跋扈していたら、非難されこそすれ、英雄視など到底されなかったでしょう。 北宋末というと900年位前ですが、中国では文明の発展が早かったので、社会の仕組みは日本の江戸時代よりも進んでいて、特に刑法は厳格でした。 ちょっと怪我をさせただけでも流刑にされてしまうのに、何人も殺してそのまま済むわけがありません。 ところが、この物語の登場人物たちは、それを承知で、恨みを晴らす為、仇を討つ為に殺し捲るのです。
序盤に出て来る≪花和尚 魯智深≫が肉屋を殴り殺す場面からして震え上がりますし、≪行者の武松≫の仇討ちも明らかにやり過ぎ。 ≪黒旋風の李逵≫に至っては、登場する前から手の付けられない暴れ者で、野獣と呼んだら野獣が怒るような殺人鬼ですぜ。 ところが、水滸伝のファンの間では、この三人がベスト5に入る人気だというから奇々怪々。 つまり、この物語、常識的な善悪の価値観を引っ繰り返している所に魅力があるようなんですな。 実際にやっている行状に関係なく、お上が悪、それに反逆する者が善という設定になっているのです。 恐ろしい事に、読んでいる内に、そんな登場人物達に慣れてしまい、ただ話の面白さしか感じなくなります。 この辺りは、奇書の奇書たる所以ですな。
山賊の砦、≪梁山泊≫には、108人の頭領達が集まるわけですが、序盤は犯罪者や乱暴者の類が多かったのが、中盤以降は、宋軍の武将が続々と加わるようになって、雰囲気が変わってきます。 梁山泊全体が軍隊になってしまい、ケチな犯罪は行なわれなくなります。 一言で言うと、≪三国志演義≫に近くなってくるのです。 大まか分けて、犯罪者組は歩兵になり、武将組は騎兵になります。 ≪祝家荘の戦い≫以降は完全な≪戦記物≫になり、武将達の戦いぶりに描写の大部分が割かれるので、ある意味、読み易くなりますが、反面、人間ドラマが少なくなって、文学としてはつまらなくなります。
私の好みとして、やはり犯罪者組よりも、武将組の方が好感が持てます。 弓矢の名手≪小李広の花栄≫や、石礫の名人≪没羽箭の張清≫などは、作者が好んで使っているキャラですが、武器といえば槍・刀が主流の中で、飛び道具が使える者はやはりかっこいいですな。 他に、常に騎兵として先陣を切る≪豹子頭の林冲≫や≪霹靂火の秦明≫も捨て難い。 一方、足が速いばかりに、あちこちに行かされる≪神行太保の戴宗≫は使い走りみたいで気の毒ですし、妖術を使う≪入雲竜の公孫勝≫は戦記物として≪掟破り≫という感じがします。 ≪智多星の呉用≫は明らかに、≪諸葛孔明≫のパクリ・キャラ。 ≪呼呆義の宋江≫はただ人望があるというだけの男で、≪劉備玄徳≫のパクリと見ました。
120回まで通して読んだら、金聖嘆氏が70回で切った理由がよく分かりました。 70回までは、宋朝への≪反逆≫がテーマですが、それ以降は、≪恭順≫に変わり、皇帝の飼い犬になって働く事になるので、それを嫌ったのでしょう。 他に、100回本、110回本などもあるようですが、100回本だと、北方民族の≪遼≫を征伐し終わる所までで、これは、「大きな手柄を立てて栄光を手にした」という、≪めでたしめでたし≫の終り方になります。 110回本だと、南方で反乱を起こした≪方蝋≫を征伐する寸前までが描かれます。 ここまでは、梁山泊108人の頭領達全員が生きていますが、110回以降120回までの間に、凄まじい勢いで死んで行くので、それを見たくなかった編者が、110回で切ったのだと思われます。
120回本では、散り散りに別れたほんの30名前後を残して、主だったメンバーは皆死んでしまいます。 終わりの10回で急に死に始める点は少々不自然なものの、やはり、最後まで物語りを続けたこの120回本が最もよく纏まっていると言えます。 前に触れた暴れ者の≪黒旋風の李逵≫ですが、最後の最後に極めて重要な役回りが与えられていて、「あぁあ、これのおかげで、人気が高いのか」と納得しました。 水滸伝は、全般的に言えば≪武侠小説≫なんですが、宋江と李逵が世を去るくだりは、一級の純文学になっていて、胸が熱くなる仕掛けが施されています。 120回全部目を通した読者だけが味わえる特典ですな。
この物語、場所によって、冗長すぎたり、拙速すぎたり、いろいろと欠点があるのも事実なので、バランスよく書き直したら、もっと良くなるんじゃないかと思います。 後半、戦争場面が何度も出てきて、少々くどいので、四回ある征伐を二回に減らし、頭領達の死者も、最初の征伐からポツポツ出るようにすれば、もっと自然な流れになるんじゃないでしょうか。 続編も各種あるようなので、引き続き、そちらも読んでみる事にします。
さて、ここの所読んでいる本というと、≪水滸伝≫です。 誰でも題名は聞いた事がある、中国四大奇書の一つ。 ちなみに、他の三つは、≪三国志演義≫、≪西遊記≫、≪金瓶梅≫。 私は、≪西遊記≫は中学生の時に読破したんですが、その他はいずれも、冒頭部分をちょこっと読んだだけでした。 性分がケチなので、本を買う時には文庫本を真っ先に探すわけですが、長編小説の場合、全十冊などという物がざらで、二冊くらい読むと、次を買う気力が失せてしまうのです。 また、都合の悪い事に、中国の長編小説は、冒頭部は物語全体の≪枕≫に過ぎず、本体部分は回が進んでから徐に始まるので、面白くなる前に挫折してしまうんですな。 ≪紅楼夢≫は全部読みましたが、岩波文庫で12冊もあり、買い揃えるのに一年以上掛かりました。
ちなみに、中国の長編小説で最も面白いのは、≪紅楼夢≫なんですが、これは四大奇書には入っていません。 しごくまっとうな恋愛小説なので、そもそも奇書の内に入れられないんでしょうな。 もひとつちなみに、中国人と話をする場合、題名だけでも四大奇書や≪紅楼夢≫を知っておかないと恥を掻きます。 ≪三国志演義≫と≪三国志≫の区別も出来ないとまずいです。 一方、≪金瓶梅≫は、愛欲小説なので、あまり内容に詳しいと、やはり恥を掻きます。
さて、≪水滸伝≫ですが、これも若い頃に、岩波文庫で二冊だけ購入し読んだのを、それっきりにしてありました。 その頃、岩波文庫のカバーが、半透明の蝋紙から、一般的な艶紙カバーに変更になり、外装を揃えられない事に白けを感じ、三巻以降を買わなかったのです。 今その二冊は押入れの奥で眠っていますが、確か記憶では、第15回までだったと思います。 それから幾星霜、四年ほど前に古本屋で、世界文学全集の一冊と思しき、70回本の≪水滸伝≫を発見し、100円というむちゃくちゃな安値だったので、読む暇もないのに衝動買いしました。 その70回本を今回引っ張り出して、第16回から読み始めたという次第。
元々講談から発達してきた小説なので、頗る名調子で話が進み、非常に面白いです。 凶状持ちどもが登場人物なので、殺伐としていて違和感がある描写も多いのですが、読み始めると止まらなくなります。 70回本は一週間ほどで読み終わり、続きを読む為に図書館で、120回本の≪中≫と≪下≫を借りて来ました。 図書館には、中国文学のコーナーに、≪水滸伝≫の各版がうじゃうじゃ揃っています。 最初から、図書館に行けばよかったんですな。
≪水滸伝≫はもともと南宋から元にかけて講談として発展した物語ですが、それを明初の作家、羅漢中氏(≪三国志演義≫の作者)が小説の形にまとめたのが、最も長いタイプの120回本です。 それを明末清初の文芸批評家、金聖嘆氏が途中で切ってしまったのが70回本。 なぜ切ったかというと、≪梁山泊≫に英雄豪傑達が集まるくだりは70回までで、物語としてはそこまでが最も面白いからという理由。 しかし、120回本も伝わっているのですから、読まない手はありません。
今までに読んだ、≪西遊記≫、≪紅楼夢≫、≪儒林外史≫などと比べても、≪水滸伝≫には独特の雰囲気があります。 話の展開が早く、滅法面白い一方で、「こやつら、本当に英雄なのか?」と思うような常軌を逸した行動が多く見られ、読んでいて、冷汗脂汗が出て来るのです。 恨みがある相手を殺すのは、まあ分かるとして、その家族や使用人までバサバサ切り殺してしまうから、今の感覚では、とてもまともな神経とは思えません。 いや、当時、つまり宋代ですが、その頃の感覚でも、こんな殺人鬼どもが跳梁跋扈していたら、非難されこそすれ、英雄視など到底されなかったでしょう。 北宋末というと900年位前ですが、中国では文明の発展が早かったので、社会の仕組みは日本の江戸時代よりも進んでいて、特に刑法は厳格でした。 ちょっと怪我をさせただけでも流刑にされてしまうのに、何人も殺してそのまま済むわけがありません。 ところが、この物語の登場人物たちは、それを承知で、恨みを晴らす為、仇を討つ為に殺し捲るのです。
序盤に出て来る≪花和尚 魯智深≫が肉屋を殴り殺す場面からして震え上がりますし、≪行者の武松≫の仇討ちも明らかにやり過ぎ。 ≪黒旋風の李逵≫に至っては、登場する前から手の付けられない暴れ者で、野獣と呼んだら野獣が怒るような殺人鬼ですぜ。 ところが、水滸伝のファンの間では、この三人がベスト5に入る人気だというから奇々怪々。 つまり、この物語、常識的な善悪の価値観を引っ繰り返している所に魅力があるようなんですな。 実際にやっている行状に関係なく、お上が悪、それに反逆する者が善という設定になっているのです。 恐ろしい事に、読んでいる内に、そんな登場人物達に慣れてしまい、ただ話の面白さしか感じなくなります。 この辺りは、奇書の奇書たる所以ですな。
山賊の砦、≪梁山泊≫には、108人の頭領達が集まるわけですが、序盤は犯罪者や乱暴者の類が多かったのが、中盤以降は、宋軍の武将が続々と加わるようになって、雰囲気が変わってきます。 梁山泊全体が軍隊になってしまい、ケチな犯罪は行なわれなくなります。 一言で言うと、≪三国志演義≫に近くなってくるのです。 大まか分けて、犯罪者組は歩兵になり、武将組は騎兵になります。 ≪祝家荘の戦い≫以降は完全な≪戦記物≫になり、武将達の戦いぶりに描写の大部分が割かれるので、ある意味、読み易くなりますが、反面、人間ドラマが少なくなって、文学としてはつまらなくなります。
私の好みとして、やはり犯罪者組よりも、武将組の方が好感が持てます。 弓矢の名手≪小李広の花栄≫や、石礫の名人≪没羽箭の張清≫などは、作者が好んで使っているキャラですが、武器といえば槍・刀が主流の中で、飛び道具が使える者はやはりかっこいいですな。 他に、常に騎兵として先陣を切る≪豹子頭の林冲≫や≪霹靂火の秦明≫も捨て難い。 一方、足が速いばかりに、あちこちに行かされる≪神行太保の戴宗≫は使い走りみたいで気の毒ですし、妖術を使う≪入雲竜の公孫勝≫は戦記物として≪掟破り≫という感じがします。 ≪智多星の呉用≫は明らかに、≪諸葛孔明≫のパクリ・キャラ。 ≪呼呆義の宋江≫はただ人望があるというだけの男で、≪劉備玄徳≫のパクリと見ました。
120回まで通して読んだら、金聖嘆氏が70回で切った理由がよく分かりました。 70回までは、宋朝への≪反逆≫がテーマですが、それ以降は、≪恭順≫に変わり、皇帝の飼い犬になって働く事になるので、それを嫌ったのでしょう。 他に、100回本、110回本などもあるようですが、100回本だと、北方民族の≪遼≫を征伐し終わる所までで、これは、「大きな手柄を立てて栄光を手にした」という、≪めでたしめでたし≫の終り方になります。 110回本だと、南方で反乱を起こした≪方蝋≫を征伐する寸前までが描かれます。 ここまでは、梁山泊108人の頭領達全員が生きていますが、110回以降120回までの間に、凄まじい勢いで死んで行くので、それを見たくなかった編者が、110回で切ったのだと思われます。
120回本では、散り散りに別れたほんの30名前後を残して、主だったメンバーは皆死んでしまいます。 終わりの10回で急に死に始める点は少々不自然なものの、やはり、最後まで物語りを続けたこの120回本が最もよく纏まっていると言えます。 前に触れた暴れ者の≪黒旋風の李逵≫ですが、最後の最後に極めて重要な役回りが与えられていて、「あぁあ、これのおかげで、人気が高いのか」と納得しました。 水滸伝は、全般的に言えば≪武侠小説≫なんですが、宋江と李逵が世を去るくだりは、一級の純文学になっていて、胸が熱くなる仕掛けが施されています。 120回全部目を通した読者だけが味わえる特典ですな。
この物語、場所によって、冗長すぎたり、拙速すぎたり、いろいろと欠点があるのも事実なので、バランスよく書き直したら、もっと良くなるんじゃないかと思います。 後半、戦争場面が何度も出てきて、少々くどいので、四回ある征伐を二回に減らし、頭領達の死者も、最初の征伐からポツポツ出るようにすれば、もっと自然な流れになるんじゃないでしょうか。 続編も各種あるようなので、引き続き、そちらも読んでみる事にします。
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