濫読筒井作品⑨
私は別に筒井さんのファンクラブに入っているわけではないので、新作の出版情報に疎く、新聞に書評が出てから大慌てで本を探し始めるというパターンを、いつも繰り返しています。 何度か言っているように、私は小説は買わない主義なので、今回も図書館の本です。 いつもなら、筒井さんの新作は、書架に並ぶと同時に予約が行列し、何ヶ月も姿を拝めないのですが、今回は奇跡的に、誰も借りていない内に私が発見する事が出来ました。 新しすぎて、図書館のネット・データに入力される前だったようです。 幸運、幸運。
≪ダンシング・ヴァニティ≫ 2007年
この≪ダンシング・ヴァニティ≫という題名、たぶん、≪ダンシング・バニティー≫と発音するのだと思います。 ちょっと考えれば分かると思いますが、母音が長音の「ティー」と、短音の「ティ」では、発音が違うわけですな。 でも、日本人でこの事に気付いている人は信じられないほど少なく、大抵の人は、≪ティ≫と書いてあっても、それが単語の末尾であれば、「ティー」と読んでいます。 私としては、≪ティ≫を「ティー」と読む人に向かって、じゃあ、「ティ」はどう書くんだ?と詰問してみたいのですが・・・・・まあ、そんな事はどうでも宜しい。 感想文、感想文。
いや、ちょっと待った! ≪ヴァ≫を忘れてた! だーから、≪ヴァ≫って書いてあったって、日本人の99%は、「バ」としか発音しませんし、たとえ、「va」と発音している人でも、耳には、「バ」としか聞こえていないんだから、わざわざ、≪ヴァ≫なんて書いたって意味無いっつーのよ。 字数が増えるだけ、無駄。 大体、≪ウ≫に濁点を付けたって、≪v≫の音には絶対なりません。 母音は元々有声音だから、濁点を付けても音は変わりませんし、≪v≫は歯唇音というれっきとした子音なんだから、母音をどう弄くったって、子音になるわけないのです。 私としては、≪v≫に≪ヴ≫を当てる人に向かって、じゃあ、≪of≫も≪オヴ≫と書くのかい?と詰問してみたいのですが・・・・・まあ、そんな事はどうでも宜しい。 感想文、感想文。
新聞の書評では、「同じ場面が繰り返されながら、少しずつ変わっていくという実験小説」と書いてあって、筒井さんの実験小説というと、≪残像に口紅を≫の悪夢がイの一番思い出される私としては、大いにうろたえたものです。 筒井作品ファンであればあるほど、実験小説は怖い。 作者の目論見が外れていると、ほんっとうにつまらないからです。 信じられないですよ、「筒井さんの作品なのに、つまらない」などという事態が現出する事は。 ただ、実験小説でも、面白い場合があるので、そちらであってくれと願いつつ、表紙をめくったわけです。
で、読み終わったんですが、杞憂で済みました。 オッケー、オッケー、この作品は面白いです。 最初の方、繰り返しパターンが三回目くらいになると、読んでいて鬱陶しくなり、「飛ばし読みするか」という誘惑に駆られますが、半ばくらいまで進むと、同じ繰り返しパターンでも、ズレの振幅が大きくなって来るので、違いを楽しむゆとりが生まれてきます。 こうなれば、こっちのもので、「どうなる?どうなる?」で、ページを捲る手がどんどん進むというもの。 さらに先へ行くと、それまでに出て来た繰り返しパターンが混線し始め、「おお、なるほど! これが、この実験の狙い目なのかも知れない。 闇雲に繰り返しパターンを続けていただけではないのだな」と恐れ入る事になります。
ストーリーの本体は、ある美術評論家の人生を描いたもので、サクセス・ストーリーとも、家族物とも取れる内容です。 筒井さんの家族物は、登場人物を突き放して客観視しきれないのが特徴で、本当の家族をモデルにしているような独特の雰囲気がありますが、この作品のそれも同様で、相当猛々しい話でありながら、家族愛だけは伝わってくるという、一種異様な生暖かさを感じます。 一方で、江戸時代や戦場、夢の中、ネット上の場面など、ファンタジックな要素もふんだんに盛り込まれているのですが、それでいて、荒唐無稽で捉え所が無い話という感じが全くしないのは、やはり作者が今までに築き上げてきた、多種多様な作品世界の分厚い蓄積が物を言っているのでしょう。
あまり細かく書いてしまうと、これから読む人の邪魔になるので控えますが、とにかく、読んで損はしないだけの面白さは充分ありますから、繰り返しパターンの煩わしさにめげず、先へ進んで下さい。 フクロウやコロス(妖精的コーラス・グループ)、古い家に取り残された家具達、といった、愛すべきキャラクターも出て来るので、お楽しみに。 特にフクロウがグッド。 ふだん、物陰から顔半分だけ出して主人公の様子を覗っているのに、狐の子を宿した女が出産する場面で、好奇心を抑えきれずに出て来てしまうという所が、実におかしいです。
さて、ここまでは、普通の感想。 ここからは少し穿った見方になります。
ちょっと気になる暴力シーンが多いです。 主人公は美術評論家で、痩せても枯れても文化人の端くれなのですが、その割には暴力志向が異様に強いのです。 賞を欲しがる日本画家達に命懸けの勝負をさせたり、家に忍び込んだ青年達をステッキで殴りつけたり、孫を苛めた同級生の頭蓋骨をかちわろうとしたり、血生臭い事この上ない。 これが、ヤクザ物や、残酷SFであれば、別におかしいとも思わないのですが、主人公のモデルが、筒井さん本人をかなりの部分写しているように書かれているので、「あれ? 筒井さん、ふだん、こんなに激怒しながら暮らしているのかな?」と穿って見てしまうのです。 もちろん、これは創作作品であって、実話ではないわけですが、暴力シーンがあまりにも真に迫っているので、ふだんから頭の中で、この種の想像を膨らませていないと書けないのではないかと思われるのです。
実は私、二年ほど前に、つまらん短編小説を一つ書いていたのですが、暴力シーンになると、自制が利かなくなるくらいエスカレートしてしまい、ストーリー展開を阻害するほどひどくなったので、やむなく打ち切った経験があります。 あの時は、「こんな恐ろしい事ばかり考えていたのか・・・」と自分自身に震え上がりました。 この≪ダンシング・バニティ≫に出てくる主人公の暴力性にも、その時の自分と同じ恐ろしさを感じるのです。 筒井さんは以前、「現実では出来ない事を、小説の中でやっている」と書いていましたが、たとえ実行しなくても、こういう事を普段ふつふつと考えているというだけで、相当恐ろしいのではありますまいか?
もし、娘と姪を目当てに家に侵入して来る若僧がいたら、私もステッキでぶん殴りたいですし、孫娘を苛めるクソガキがいたら、殺しても飽き足りないくらい憎むのも疑いないです。 しかし、その種の感情は、徹底的に抑えておかなければ、どんどん憎悪の対象範囲が広がってしまって、際限がなくなるのは目に見えています。 最終的には、「他人は全員敵だ。 いいや、家族でさえ俺の人生の邪魔をしている」という境地にまで至って、路上で人を無差別に刺し殺したり、何の恨みも無い人物を駅のフォームから突き落としたりと、もはや人間でもなければ、動物ですらない、化け物としか言いようがない存在に堕してしまいます。
何年か前にアメリカの作家で、あまりにも暴力的な内容の小説を発表してしまった為に、読者や批評家から猛烈な批判を受け、「これは作品であって、自分でこういう事をやったわけではない」という弁明をした人がいましたが、たぶん、その時の読者達も、今の私と同じような違和感を覚えていたのでしょう。 「やったわけではない」ことを承知の上でも、「やってみたい」と思った事が無ければ、真に迫った描写など出来ないわけで、その「やってみたい」と思った事があるという点だけでも、読者に恐ろしさを感じさせるのに充分だというのです。 作家が作品に暴力シーンを書きこむ場合、自分がモデルになっていると思わせるような設定は避けた方が無難という事でしょうか。
このように、暴力的な想像がどんどん膨張していってしまう場合、精神状態が危険な領域に入り込んでいる可能性が高いと思います。 最近の無差別殺人事件の犯人がよく口にする、「誰でもいいから殺したかった」というセリフをみても分かりますが、自分以外の人間の存在価値を、すべて否定してしまっているんですな。 さて、どういう時に、そういう精神状態になるのか? 周囲と協調する事の大切さを説く時に、「人間は一人では生きていけない」とよく言いますが、この言葉は引っ繰り返すと、「生きて行くつもりがなければ、他の人間は必要ない」という事になります。 すなわち、人生に絶望し、未来に一切の希望を感じられなくなった時、人は往々にして、「他人なんぞ、皆殺しにしてしまっても構わない」という考えに陥るようなのです。
ちなみに、想像の世界でだけなら、私もしょっちゅう、そういう考えに囚われる事があります。 なにせ、絶望ばかりしている人生なので・・・・。 失敗者の体験談になってしまいますが、やっぱり、人間というのは、恋愛して、結婚して、子供を育てて、その子供が結婚して、孫が生まれて・・・・といった、人並みの幸福ポイントを通過しながら生きて行かないと、容易且つ頻繁に、お先真っ暗な気分に取り付かれてしまうものなんですな。
もっとも、筒井さんの場合、明らかに成功した人生だと思うので、そんな精神状態に陥る事はないような気がするんですが、人の欲望には限りがないから、もしかしたら、現状に幸福を感じていないのかも知れません。 人生の勝者か敗者かなどに関係なく、じわじわと寄る年波に追い詰められて、単に高齢から来る絶望感に打ちひしがれている可能性も否定できません。
しっかし、これだけのボリュームとインパクトがある作品を書ける人が世を去ってしまったら、日本の文学界はもう崩壊ですな。 昔話にあるように、寿命が蝋燭の長さで決まるなら、そこいらの生きてても死んでも大差ないような、クソ小僧・キチガイ娘どもの蝋燭をもぎ取って来て、あと百年分くらい、筒井さんの蝋燭に継ぎ足してやりたいくらいです。
・・・・ああ、こういう発想こそが、暴力的なのだな。 いかんいかん。
≪ダンシング・ヴァニティ≫ 2007年
この≪ダンシング・ヴァニティ≫という題名、たぶん、≪ダンシング・バニティー≫と発音するのだと思います。 ちょっと考えれば分かると思いますが、母音が長音の「ティー」と、短音の「ティ」では、発音が違うわけですな。 でも、日本人でこの事に気付いている人は信じられないほど少なく、大抵の人は、≪ティ≫と書いてあっても、それが単語の末尾であれば、「ティー」と読んでいます。 私としては、≪ティ≫を「ティー」と読む人に向かって、じゃあ、「ティ」はどう書くんだ?と詰問してみたいのですが・・・・・まあ、そんな事はどうでも宜しい。 感想文、感想文。
いや、ちょっと待った! ≪ヴァ≫を忘れてた! だーから、≪ヴァ≫って書いてあったって、日本人の99%は、「バ」としか発音しませんし、たとえ、「va」と発音している人でも、耳には、「バ」としか聞こえていないんだから、わざわざ、≪ヴァ≫なんて書いたって意味無いっつーのよ。 字数が増えるだけ、無駄。 大体、≪ウ≫に濁点を付けたって、≪v≫の音には絶対なりません。 母音は元々有声音だから、濁点を付けても音は変わりませんし、≪v≫は歯唇音というれっきとした子音なんだから、母音をどう弄くったって、子音になるわけないのです。 私としては、≪v≫に≪ヴ≫を当てる人に向かって、じゃあ、≪of≫も≪オヴ≫と書くのかい?と詰問してみたいのですが・・・・・まあ、そんな事はどうでも宜しい。 感想文、感想文。
新聞の書評では、「同じ場面が繰り返されながら、少しずつ変わっていくという実験小説」と書いてあって、筒井さんの実験小説というと、≪残像に口紅を≫の悪夢がイの一番思い出される私としては、大いにうろたえたものです。 筒井作品ファンであればあるほど、実験小説は怖い。 作者の目論見が外れていると、ほんっとうにつまらないからです。 信じられないですよ、「筒井さんの作品なのに、つまらない」などという事態が現出する事は。 ただ、実験小説でも、面白い場合があるので、そちらであってくれと願いつつ、表紙をめくったわけです。
で、読み終わったんですが、杞憂で済みました。 オッケー、オッケー、この作品は面白いです。 最初の方、繰り返しパターンが三回目くらいになると、読んでいて鬱陶しくなり、「飛ばし読みするか」という誘惑に駆られますが、半ばくらいまで進むと、同じ繰り返しパターンでも、ズレの振幅が大きくなって来るので、違いを楽しむゆとりが生まれてきます。 こうなれば、こっちのもので、「どうなる?どうなる?」で、ページを捲る手がどんどん進むというもの。 さらに先へ行くと、それまでに出て来た繰り返しパターンが混線し始め、「おお、なるほど! これが、この実験の狙い目なのかも知れない。 闇雲に繰り返しパターンを続けていただけではないのだな」と恐れ入る事になります。
ストーリーの本体は、ある美術評論家の人生を描いたもので、サクセス・ストーリーとも、家族物とも取れる内容です。 筒井さんの家族物は、登場人物を突き放して客観視しきれないのが特徴で、本当の家族をモデルにしているような独特の雰囲気がありますが、この作品のそれも同様で、相当猛々しい話でありながら、家族愛だけは伝わってくるという、一種異様な生暖かさを感じます。 一方で、江戸時代や戦場、夢の中、ネット上の場面など、ファンタジックな要素もふんだんに盛り込まれているのですが、それでいて、荒唐無稽で捉え所が無い話という感じが全くしないのは、やはり作者が今までに築き上げてきた、多種多様な作品世界の分厚い蓄積が物を言っているのでしょう。
あまり細かく書いてしまうと、これから読む人の邪魔になるので控えますが、とにかく、読んで損はしないだけの面白さは充分ありますから、繰り返しパターンの煩わしさにめげず、先へ進んで下さい。 フクロウやコロス(妖精的コーラス・グループ)、古い家に取り残された家具達、といった、愛すべきキャラクターも出て来るので、お楽しみに。 特にフクロウがグッド。 ふだん、物陰から顔半分だけ出して主人公の様子を覗っているのに、狐の子を宿した女が出産する場面で、好奇心を抑えきれずに出て来てしまうという所が、実におかしいです。
さて、ここまでは、普通の感想。 ここからは少し穿った見方になります。
ちょっと気になる暴力シーンが多いです。 主人公は美術評論家で、痩せても枯れても文化人の端くれなのですが、その割には暴力志向が異様に強いのです。 賞を欲しがる日本画家達に命懸けの勝負をさせたり、家に忍び込んだ青年達をステッキで殴りつけたり、孫を苛めた同級生の頭蓋骨をかちわろうとしたり、血生臭い事この上ない。 これが、ヤクザ物や、残酷SFであれば、別におかしいとも思わないのですが、主人公のモデルが、筒井さん本人をかなりの部分写しているように書かれているので、「あれ? 筒井さん、ふだん、こんなに激怒しながら暮らしているのかな?」と穿って見てしまうのです。 もちろん、これは創作作品であって、実話ではないわけですが、暴力シーンがあまりにも真に迫っているので、ふだんから頭の中で、この種の想像を膨らませていないと書けないのではないかと思われるのです。
実は私、二年ほど前に、つまらん短編小説を一つ書いていたのですが、暴力シーンになると、自制が利かなくなるくらいエスカレートしてしまい、ストーリー展開を阻害するほどひどくなったので、やむなく打ち切った経験があります。 あの時は、「こんな恐ろしい事ばかり考えていたのか・・・」と自分自身に震え上がりました。 この≪ダンシング・バニティ≫に出てくる主人公の暴力性にも、その時の自分と同じ恐ろしさを感じるのです。 筒井さんは以前、「現実では出来ない事を、小説の中でやっている」と書いていましたが、たとえ実行しなくても、こういう事を普段ふつふつと考えているというだけで、相当恐ろしいのではありますまいか?
もし、娘と姪を目当てに家に侵入して来る若僧がいたら、私もステッキでぶん殴りたいですし、孫娘を苛めるクソガキがいたら、殺しても飽き足りないくらい憎むのも疑いないです。 しかし、その種の感情は、徹底的に抑えておかなければ、どんどん憎悪の対象範囲が広がってしまって、際限がなくなるのは目に見えています。 最終的には、「他人は全員敵だ。 いいや、家族でさえ俺の人生の邪魔をしている」という境地にまで至って、路上で人を無差別に刺し殺したり、何の恨みも無い人物を駅のフォームから突き落としたりと、もはや人間でもなければ、動物ですらない、化け物としか言いようがない存在に堕してしまいます。
何年か前にアメリカの作家で、あまりにも暴力的な内容の小説を発表してしまった為に、読者や批評家から猛烈な批判を受け、「これは作品であって、自分でこういう事をやったわけではない」という弁明をした人がいましたが、たぶん、その時の読者達も、今の私と同じような違和感を覚えていたのでしょう。 「やったわけではない」ことを承知の上でも、「やってみたい」と思った事が無ければ、真に迫った描写など出来ないわけで、その「やってみたい」と思った事があるという点だけでも、読者に恐ろしさを感じさせるのに充分だというのです。 作家が作品に暴力シーンを書きこむ場合、自分がモデルになっていると思わせるような設定は避けた方が無難という事でしょうか。
このように、暴力的な想像がどんどん膨張していってしまう場合、精神状態が危険な領域に入り込んでいる可能性が高いと思います。 最近の無差別殺人事件の犯人がよく口にする、「誰でもいいから殺したかった」というセリフをみても分かりますが、自分以外の人間の存在価値を、すべて否定してしまっているんですな。 さて、どういう時に、そういう精神状態になるのか? 周囲と協調する事の大切さを説く時に、「人間は一人では生きていけない」とよく言いますが、この言葉は引っ繰り返すと、「生きて行くつもりがなければ、他の人間は必要ない」という事になります。 すなわち、人生に絶望し、未来に一切の希望を感じられなくなった時、人は往々にして、「他人なんぞ、皆殺しにしてしまっても構わない」という考えに陥るようなのです。
ちなみに、想像の世界でだけなら、私もしょっちゅう、そういう考えに囚われる事があります。 なにせ、絶望ばかりしている人生なので・・・・。 失敗者の体験談になってしまいますが、やっぱり、人間というのは、恋愛して、結婚して、子供を育てて、その子供が結婚して、孫が生まれて・・・・といった、人並みの幸福ポイントを通過しながら生きて行かないと、容易且つ頻繁に、お先真っ暗な気分に取り付かれてしまうものなんですな。
もっとも、筒井さんの場合、明らかに成功した人生だと思うので、そんな精神状態に陥る事はないような気がするんですが、人の欲望には限りがないから、もしかしたら、現状に幸福を感じていないのかも知れません。 人生の勝者か敗者かなどに関係なく、じわじわと寄る年波に追い詰められて、単に高齢から来る絶望感に打ちひしがれている可能性も否定できません。
しっかし、これだけのボリュームとインパクトがある作品を書ける人が世を去ってしまったら、日本の文学界はもう崩壊ですな。 昔話にあるように、寿命が蝋燭の長さで決まるなら、そこいらの生きてても死んでも大差ないような、クソ小僧・キチガイ娘どもの蝋燭をもぎ取って来て、あと百年分くらい、筒井さんの蝋燭に継ぎ足してやりたいくらいです。
・・・・ああ、こういう発想こそが、暴力的なのだな。 いかんいかん。
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