日記の醍醐味
確か、小学5年生の頃だったと思いますが、先生が、「日記をつけている人は?」と質問した時があり、クラスで二人ばかりが手を挙げました。 その内の一人は、一年生くらいの時から、ずっとつけているとかで、「へええ、そういうマメな人もいるのか」と、感心というか、素朴に驚いた記憶があります。 小学一年生が自主的に日記をつけ始めるとは思えませんから、おそらく親の勧めに従っての事だと思いますが、今にして思うと、その親は大変な財産を子供に残していたんですねえ。 この世で何に価値があるといって、日記ほど価値が高いものもありません。 特に子供の頃の日記は、値千金、いや、何億何兆積んだ所で、人から買う事ができない、個人にとっての≪至宝≫と言えるのではないかと思います。
私は子供の頃は、日記を全くつけず、親が何回か日記帳を買って来てくれたにも拘らず、すべて三日坊主で終わり、その三日分しか書いていない日記帳ですら、とうの昔に捨ててしまって、表紙のデザインも覚えていない始末です。 つっくづく、勿体ない事をしたもんです。 箇条書きのメモ程度の文なら、小学一年の頃からでも書けたのですから、一日に一行、いや、一週間に一行でも書き残しておけば、今読み返してどれだけ面白かったか分からないものを。
日記をつけていない人は経験が無いので分からず、日記をつけている人は当然過ぎて普段余り意識しない事ですが、日記というのは、書く時には、ほとんど価値がありません。 時間は取られるし、文章は練らなければならないし、面倒なだけです。 日記が真価を発揮するのは、何を書いたかすっかり忘れてしまった後で、読み返す時なんですな。 もう、滅茶苦茶面白いです。 昔読んだ小説や漫画を読み返すよりも、遥かに面白い。 なぜかというと、小説や漫画は、名作であればあるほど記憶が残り易く、読み返しても新たな感動が起こりにくいものですが、日記の場合、完全に忘れてしまっているが故に、「おおうっ! こんな事があったのか!」と、新鮮な驚きに満ち満ちているからです。 しかも、書いてある内容がすべて自分自身に関わる事だという点が味噌。 人間というのは、結局自己中心的なものですから、自分の事に一番興味があるんですな。
若い頃は、人生が始まったばかりという意識が強くて、過去を振り返る事など滅多に無く、むしろ、済んだ事を思い出してばかりいるような大人を軽蔑しているものです。 私も子供の頃には、昔の写真を引っ張り出して、何時間も見入っている母の姿が惨めったらしく見えて、嫌だったものです。 しかし、自分自身が30代半ばを過ぎた辺りから、過去の記憶というのが如何に貴重な財産であるかをひしひしと痛感するようになりました。 なぜ、大事なのかというと、過去の記憶は、自分の人生の存在そのものだからです。 自分の事を覚えているのは自分だけなんですよ。 一人暮らしで天涯孤独という人なら、実感としてよく分かると思いますが、他の誰も、自分の事なんて覚えていてくれません。 自分が覚えていなければ、自分の過去は存在しなくなってしまうのです。
自分が死んでしまえば、自分という存在そのものが消えてしまうので、日記にも価値がなくなりますが、問題は生きている間の事でして、寿命が尽きるその瞬間までは、自分の日記は自分にとってのみ、最高の価値を有するのです。 歳を取ってから、昔の自分の存在を確認したくなって、母校に卒業アルバムや卒業文集を閲覧しに行く人がいるようですが、あんな大雑把な物を見て、何が分かるものですか。 自分が手元でつけていた日記に比べれば、一万分の一の情報量もありゃしません。 幼友達に会ったり、クラス会に出かけて、昔の思い出話をした時に間々起こる事ですが、同じ事柄に関する記憶であっても、人それぞれに捉え方が違っていたり、場合によっては、事実そのものが歪められて記憶されている事があります。 昔の友人達の思い出話だけから、自分の過去を再現すると、人間のクズとしか思えないような子供にされてしまっている事さえあります。 他人の記憶というのは、そんなもんなんですな。
「親ならば、割と正確に自分の事を覚えていてくれているだろう」と思うでしょう。 ところがねえ、親というのは、子供の事をほとんど知らないものなんですよ。 学校や職場で何が起こったかなんて、情報そのものを知りませんし、家で起こる事件なんて、パーセンテージは知れています。 また、親というのは、自分の子供を自分の分身だと見做していて、何かにつけ、贔屓目で見る傾向があります。 よく、凶悪事件が起こると、「あの子は、そんな恐ろしい事ができる子じゃないんです」と頑なに言い張る親がいますが、自分の子供の行状など、一日にほんの二三時間分しか見ていないくせに、よくもまあ、自信たっぷりに言い切れるものです。 「いや、あんたの子供はそういう恐ろしい人間だったんだよ。 あんたが知らなかっただけで・・・・」
そうそう、余談ですが、子供が事件に関わった時に、学校の校長がインタビューに答える事が恒例化してますが、ありゃ、爆笑だよねえ。 「とても明るく、まじめな子で・・・・」 何言ってやがる! 校長が個々の生徒の性格なんて知ってるわけねーだろ。 まったく、いーから加減な奴らだぜ。 どの口から、そーゆー出任せが出る? 恥を知れ恥を! おっと、余談にしても脱線し過ぎました。 日記だ日記だ。
でねー、結局、自分の事は自分で記録しておくしかないんですよ。 記憶力によほど自信があっても、十年以上前の出来事になると、ほんの半行くらいの走り書きのメモよりも、内容があやふやになってきます。 「こんな事あったっけ?」とか、「こんな事を考えていたのか?」とか、読み返して驚愕すること請け合い。 いや、ほんとだって! 記憶力なんてものが如何に頼りにならないものか、痛感しますから。
さて、日記をつける場合の注意点ですが、なによりも続ける事が優先課題なので、無理をしてはいけません。 その点、手書きよりは、キーボードで打つ方が、継続率はずっと高くなります。 私自身、日記が続くようになったのは、ワープロを入手してからでした。 今なら、否が応でもパソコンという事になりますが。 デスクトップに、≪日記≫のテキストを用意して、すぐに開けるようにしておけば、他の作業の後に、「ちょっと書いておくか」という軽いノリで対応できます。 まあ、こんな事は日記をつけるつもりがあれば、誰でも思いつくことですな。
ちょっと要注意なのは、公開する日記と、本物の日記を一緒にしてしまわない事です。 ≪パソコン=ネット≫だと思っている人も多いと思いますが、ネットに公開する事を前提にしている場合、家庭内の事情や個人的秘密、財産管理記録など、他人に知られたくない事は書けませんから、どうしても内容の幅が狭くなります。 もし、サイトやブログで日記に近いものを書いているのなら、それとは別に、非公開の本物の日記をつけておいた方がよいでしょう。 私の場合、本物の日記の代わりに、サイトで日記まがいのものだけ書いて済ませていた時期があるのですが、後で読み返すと、映画やドラマの批評ばかりで、私生活についてほとんど触れておらず、その間の過去の再現が困難になってしまいました。 後悔先に立たず。 ネットが大事か、私的な記録が大事かと問われれば、今なら断言できますが、後者の方が一億倍大事です。 だーから、他人なんか、自分にほとんど興味を持ってないってーのよ。 社交辞令でつきあってるだけなんだって。
続けるコツですが、毎日書く事に拘らないことです。 「日記というのは、毎日書くから日記なんじゃないのかい?」と、ニヤニヤしている人もいるでしょうが、そういう杓子定規な考え方をしていると、およそ続かないのです。 「毎日つけなければいけない」という強迫観念に取り付かれていると、一日でも書き漏らしたが最後、「ああ、もう駄目だ。 気分悪い。 もう放っとけ!」となってしまいます。 週に一回、いや、月に一回でも良いのです。 何の記録も残さないよりは、遥かにマシなのですから。 だけどねえ、パソコンでしょっちゅう文章を打っている人なら、週一くらいのペースは維持できると思いますよ。 大抵の人は、週末の夜には、平日とは違うパターンの過ごし方をしますから、その変則を利用して、ちょこっと書いておけばいいのです。 繰り返しますが、たとえ、一行でも、何も無いよりは、ずっと価値があるのです。
書く内容ですが、読み返す時のニーズから優先順位をつけると、
1・ 起こった事。
2・ 考えていた事。
3・ 体調の記録。
4・ 買った物の記録。
5・ 鑑賞作品の感想。
6・ 食べた物の記録。
7・ 街の変遷の記録。
といった所でしょうか。 もちろん、どれか一つだけでも、何も書かないよりはずっと良いです。
≪考えていた事≫というのは、そのまんまの意味で、その頃考えていた事ですな。 一方、≪起こった事≫というのは、朝何時に起きて、家の中で何をしたか、どこへ行ったか、誰と何を話したかといったような事で、「そんなつまらん事を、どうして書き残す必要があるねんな?」と思うでしょうが、歳月が経ってから過去を再現する時、その種の細々した記録が非常に役に立つのです。 この種の記録は、ネット上に公開するようなものではないので、ブログを日記代わりにしていると、書かずじまいになってしまいがちです。 だからこそ、わざわざ配慮して残す必要があるのです。
≪体調の記録≫は、病気をした事がある人なら、価値が分かると思います。 入院・手術するような大病であっても、時間が経つと、病状や治療の経過を忘れてしまいますから、再発する場合の事も顧慮して、詳細な記録を取っておくに越した事はありません。 ≪鑑賞作品の記録≫は、映画・ドラマ・小説・漫画・絵画などの感想の事で、これは、みなさんネット上で普通にやっていると思うので、説明いらないでしょう。
私の場合、≪買った物の記録≫は、手書きでノートにつけていて、日付・曜日・品名・サイズ・店・値段を記録してあります。 これが、壊れた物を買い直す時などに、結構役に立つのです。 ≪食べた物の記録≫など、馬鹿馬鹿しいようですが、どうしてどうして、毎日食卓の写真を撮り続けて、イグ・ノーベル賞を貰った人もいるくらいで、後々読み返せば、滅法面白くなるのです。 ≪食べた物≫や、≪街の変遷≫などは、写真の方が価値は高いですが、それは相応の手間がかかります。 日記にちょこっと書いておくのなら、ずっと簡単です。
ところで、書いておいた方がいい事もあれば、書かない方がいい事もあります。 分類すると、≪考えていた事≫の中に含まれますが、考えが纏まっていない内に、あれこれ悩んでいる経過を日記に書いてしまう事があります。 何かを買おうとしている時に、あれがいいかこれがいいかと検討しているような状況ですな。 一見、「文章を書きながら考えを纏めている」かのように見えますが、こういう文章を後で読み返すと、ただただダラダラと長いだけで、何ともとりとめがなく、うんざりしてしまうのです。 読むのが嫌になるようだと、日記そのものの価値が減じてしまうので、こういうのは避けて、書きながら考えを纏めたいのなら、別の場所で行ない、日記には、簡単な思考経過と出た結論だけを記した方がよいと思います。
もう一つ。 「日記なんかつけていると、事故で突然死などした場合、家族に読まれてしまって恥かしい」と案じる方も多いでしょう。 その心配はもっともだと思います。 いくら、≪考えていた事≫を書き残すといっても、やはり制限はあるのであって、性的欲望や犯罪志向などを書くのは、避けた方が良いでしょう。 まあ、死んでしまえば、恥もクソも無いという考えもありますが、なかなかそこまで割り切れるものではありません。
私は子供の頃は、日記を全くつけず、親が何回か日記帳を買って来てくれたにも拘らず、すべて三日坊主で終わり、その三日分しか書いていない日記帳ですら、とうの昔に捨ててしまって、表紙のデザインも覚えていない始末です。 つっくづく、勿体ない事をしたもんです。 箇条書きのメモ程度の文なら、小学一年の頃からでも書けたのですから、一日に一行、いや、一週間に一行でも書き残しておけば、今読み返してどれだけ面白かったか分からないものを。
日記をつけていない人は経験が無いので分からず、日記をつけている人は当然過ぎて普段余り意識しない事ですが、日記というのは、書く時には、ほとんど価値がありません。 時間は取られるし、文章は練らなければならないし、面倒なだけです。 日記が真価を発揮するのは、何を書いたかすっかり忘れてしまった後で、読み返す時なんですな。 もう、滅茶苦茶面白いです。 昔読んだ小説や漫画を読み返すよりも、遥かに面白い。 なぜかというと、小説や漫画は、名作であればあるほど記憶が残り易く、読み返しても新たな感動が起こりにくいものですが、日記の場合、完全に忘れてしまっているが故に、「おおうっ! こんな事があったのか!」と、新鮮な驚きに満ち満ちているからです。 しかも、書いてある内容がすべて自分自身に関わる事だという点が味噌。 人間というのは、結局自己中心的なものですから、自分の事に一番興味があるんですな。
若い頃は、人生が始まったばかりという意識が強くて、過去を振り返る事など滅多に無く、むしろ、済んだ事を思い出してばかりいるような大人を軽蔑しているものです。 私も子供の頃には、昔の写真を引っ張り出して、何時間も見入っている母の姿が惨めったらしく見えて、嫌だったものです。 しかし、自分自身が30代半ばを過ぎた辺りから、過去の記憶というのが如何に貴重な財産であるかをひしひしと痛感するようになりました。 なぜ、大事なのかというと、過去の記憶は、自分の人生の存在そのものだからです。 自分の事を覚えているのは自分だけなんですよ。 一人暮らしで天涯孤独という人なら、実感としてよく分かると思いますが、他の誰も、自分の事なんて覚えていてくれません。 自分が覚えていなければ、自分の過去は存在しなくなってしまうのです。
自分が死んでしまえば、自分という存在そのものが消えてしまうので、日記にも価値がなくなりますが、問題は生きている間の事でして、寿命が尽きるその瞬間までは、自分の日記は自分にとってのみ、最高の価値を有するのです。 歳を取ってから、昔の自分の存在を確認したくなって、母校に卒業アルバムや卒業文集を閲覧しに行く人がいるようですが、あんな大雑把な物を見て、何が分かるものですか。 自分が手元でつけていた日記に比べれば、一万分の一の情報量もありゃしません。 幼友達に会ったり、クラス会に出かけて、昔の思い出話をした時に間々起こる事ですが、同じ事柄に関する記憶であっても、人それぞれに捉え方が違っていたり、場合によっては、事実そのものが歪められて記憶されている事があります。 昔の友人達の思い出話だけから、自分の過去を再現すると、人間のクズとしか思えないような子供にされてしまっている事さえあります。 他人の記憶というのは、そんなもんなんですな。
「親ならば、割と正確に自分の事を覚えていてくれているだろう」と思うでしょう。 ところがねえ、親というのは、子供の事をほとんど知らないものなんですよ。 学校や職場で何が起こったかなんて、情報そのものを知りませんし、家で起こる事件なんて、パーセンテージは知れています。 また、親というのは、自分の子供を自分の分身だと見做していて、何かにつけ、贔屓目で見る傾向があります。 よく、凶悪事件が起こると、「あの子は、そんな恐ろしい事ができる子じゃないんです」と頑なに言い張る親がいますが、自分の子供の行状など、一日にほんの二三時間分しか見ていないくせに、よくもまあ、自信たっぷりに言い切れるものです。 「いや、あんたの子供はそういう恐ろしい人間だったんだよ。 あんたが知らなかっただけで・・・・」
そうそう、余談ですが、子供が事件に関わった時に、学校の校長がインタビューに答える事が恒例化してますが、ありゃ、爆笑だよねえ。 「とても明るく、まじめな子で・・・・」 何言ってやがる! 校長が個々の生徒の性格なんて知ってるわけねーだろ。 まったく、いーから加減な奴らだぜ。 どの口から、そーゆー出任せが出る? 恥を知れ恥を! おっと、余談にしても脱線し過ぎました。 日記だ日記だ。
でねー、結局、自分の事は自分で記録しておくしかないんですよ。 記憶力によほど自信があっても、十年以上前の出来事になると、ほんの半行くらいの走り書きのメモよりも、内容があやふやになってきます。 「こんな事あったっけ?」とか、「こんな事を考えていたのか?」とか、読み返して驚愕すること請け合い。 いや、ほんとだって! 記憶力なんてものが如何に頼りにならないものか、痛感しますから。
さて、日記をつける場合の注意点ですが、なによりも続ける事が優先課題なので、無理をしてはいけません。 その点、手書きよりは、キーボードで打つ方が、継続率はずっと高くなります。 私自身、日記が続くようになったのは、ワープロを入手してからでした。 今なら、否が応でもパソコンという事になりますが。 デスクトップに、≪日記≫のテキストを用意して、すぐに開けるようにしておけば、他の作業の後に、「ちょっと書いておくか」という軽いノリで対応できます。 まあ、こんな事は日記をつけるつもりがあれば、誰でも思いつくことですな。
ちょっと要注意なのは、公開する日記と、本物の日記を一緒にしてしまわない事です。 ≪パソコン=ネット≫だと思っている人も多いと思いますが、ネットに公開する事を前提にしている場合、家庭内の事情や個人的秘密、財産管理記録など、他人に知られたくない事は書けませんから、どうしても内容の幅が狭くなります。 もし、サイトやブログで日記に近いものを書いているのなら、それとは別に、非公開の本物の日記をつけておいた方がよいでしょう。 私の場合、本物の日記の代わりに、サイトで日記まがいのものだけ書いて済ませていた時期があるのですが、後で読み返すと、映画やドラマの批評ばかりで、私生活についてほとんど触れておらず、その間の過去の再現が困難になってしまいました。 後悔先に立たず。 ネットが大事か、私的な記録が大事かと問われれば、今なら断言できますが、後者の方が一億倍大事です。 だーから、他人なんか、自分にほとんど興味を持ってないってーのよ。 社交辞令でつきあってるだけなんだって。
続けるコツですが、毎日書く事に拘らないことです。 「日記というのは、毎日書くから日記なんじゃないのかい?」と、ニヤニヤしている人もいるでしょうが、そういう杓子定規な考え方をしていると、およそ続かないのです。 「毎日つけなければいけない」という強迫観念に取り付かれていると、一日でも書き漏らしたが最後、「ああ、もう駄目だ。 気分悪い。 もう放っとけ!」となってしまいます。 週に一回、いや、月に一回でも良いのです。 何の記録も残さないよりは、遥かにマシなのですから。 だけどねえ、パソコンでしょっちゅう文章を打っている人なら、週一くらいのペースは維持できると思いますよ。 大抵の人は、週末の夜には、平日とは違うパターンの過ごし方をしますから、その変則を利用して、ちょこっと書いておけばいいのです。 繰り返しますが、たとえ、一行でも、何も無いよりは、ずっと価値があるのです。
書く内容ですが、読み返す時のニーズから優先順位をつけると、
1・ 起こった事。
2・ 考えていた事。
3・ 体調の記録。
4・ 買った物の記録。
5・ 鑑賞作品の感想。
6・ 食べた物の記録。
7・ 街の変遷の記録。
といった所でしょうか。 もちろん、どれか一つだけでも、何も書かないよりはずっと良いです。
≪考えていた事≫というのは、そのまんまの意味で、その頃考えていた事ですな。 一方、≪起こった事≫というのは、朝何時に起きて、家の中で何をしたか、どこへ行ったか、誰と何を話したかといったような事で、「そんなつまらん事を、どうして書き残す必要があるねんな?」と思うでしょうが、歳月が経ってから過去を再現する時、その種の細々した記録が非常に役に立つのです。 この種の記録は、ネット上に公開するようなものではないので、ブログを日記代わりにしていると、書かずじまいになってしまいがちです。 だからこそ、わざわざ配慮して残す必要があるのです。
≪体調の記録≫は、病気をした事がある人なら、価値が分かると思います。 入院・手術するような大病であっても、時間が経つと、病状や治療の経過を忘れてしまいますから、再発する場合の事も顧慮して、詳細な記録を取っておくに越した事はありません。 ≪鑑賞作品の記録≫は、映画・ドラマ・小説・漫画・絵画などの感想の事で、これは、みなさんネット上で普通にやっていると思うので、説明いらないでしょう。
私の場合、≪買った物の記録≫は、手書きでノートにつけていて、日付・曜日・品名・サイズ・店・値段を記録してあります。 これが、壊れた物を買い直す時などに、結構役に立つのです。 ≪食べた物の記録≫など、馬鹿馬鹿しいようですが、どうしてどうして、毎日食卓の写真を撮り続けて、イグ・ノーベル賞を貰った人もいるくらいで、後々読み返せば、滅法面白くなるのです。 ≪食べた物≫や、≪街の変遷≫などは、写真の方が価値は高いですが、それは相応の手間がかかります。 日記にちょこっと書いておくのなら、ずっと簡単です。
ところで、書いておいた方がいい事もあれば、書かない方がいい事もあります。 分類すると、≪考えていた事≫の中に含まれますが、考えが纏まっていない内に、あれこれ悩んでいる経過を日記に書いてしまう事があります。 何かを買おうとしている時に、あれがいいかこれがいいかと検討しているような状況ですな。 一見、「文章を書きながら考えを纏めている」かのように見えますが、こういう文章を後で読み返すと、ただただダラダラと長いだけで、何ともとりとめがなく、うんざりしてしまうのです。 読むのが嫌になるようだと、日記そのものの価値が減じてしまうので、こういうのは避けて、書きながら考えを纏めたいのなら、別の場所で行ない、日記には、簡単な思考経過と出た結論だけを記した方がよいと思います。
もう一つ。 「日記なんかつけていると、事故で突然死などした場合、家族に読まれてしまって恥かしい」と案じる方も多いでしょう。 その心配はもっともだと思います。 いくら、≪考えていた事≫を書き残すといっても、やはり制限はあるのであって、性的欲望や犯罪志向などを書くのは、避けた方が良いでしょう。 まあ、死んでしまえば、恥もクソも無いという考えもありますが、なかなかそこまで割り切れるものではありません。
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