係り結びの法則
ここ一ヶ月ばかり、擬古文に凝っています。 擬古文というのは、古文に似せた文章の事です。 手っ取り早く、実例を見せますと、
≪このひと月ほど、擬古文にしこりはべりたり。 擬古文たるは、古文になずらひたる文章のことにはべり。≫
というような具合に作っていくわけです。 今ふっと、「古文と擬古文は違うのか?」と思ったあなた、良い所に気付きました。 違うのです。 ≪古文≫というのは、実際に古い時代に書かれた文章の事だけを指すのであって、現代の人間が古文を真似て書いたものは、古文とは言いません。 そういう物を特別に指す為に、≪擬古文≫という言葉があるわけです。 私見ですが、擬古文には、広義と狭義があると考えられます。 広義の擬古文とは、古文風に書かれた文章全てを指し、狭義の擬古文とは、善意悪意は別にして、実際に古い時代に書かれたかのように装った文章の事を指すというわけです。
日本人なら大概の人は、高校時代に古文を習っているはずです。 ただし、古文の授業では、古典を読むのが目的で、書き方までは教えません。 実は、書けるようになれば、読む能力も上がるので、書き方を教えてしまった方が、学習効率が良いのですが、なぜやらないかというと、おそらく、教師のレベルが低くて、書き方を教えられないのでしょう。 教師だけでなく、学者ですら古文の文法が分かっていない者が多く、テケトーな記述でごまかしてある参考書がうじゃうじゃ見受けられるのは、英文法のそれと似た状況です。
たとえば、誰でも名前だけは聞いた事がある、≪係り結びの法則≫ですが、参考書を開くと、「【ぞ・なむ・や・か】が係った時には、文末の用言は連体形で結び、【こそ】が係った時には、已然形で結ぶ。 意味は≪強意≫で、現代語訳する時には、特に訳さなくてもいい」などと書いてあります。 凄いですねえ。 テストの問題に出すくらいだから、さぞや重要な法則かと思いきや、「訳さなくてもいい」というから、解せない話ではありませんか。 これでは、係り結びの説明になっていません。 書き手にしてみれば、わざわざ係り結びを使ったのは、何かしら普通の文とは違う事を表現したかったからだ、とは思いませんか?
と、ここまで書いてしまった行き掛かり上、私が係り結びについて説明しないと、「自分も分かってないくせに、他人を批難している」と思われるのが癪なので、ちょいと書いておきましょう。
まず、係り結びの意味が、≪強意≫である点は、正しいと思います。 ≪強意≫というのは、「意味を強める事」で、≪強調≫と言ってもいいです。 現代文でたとえると、「絵が描けない」は普通の文ですが、これを強意にすると、「絵も描けない」となり、更に強意度を高めると、「絵すら描けない」とか、「絵さえも描けない」とか、いろいろと言い換えて行けるようになっています。 これと同じ機能の表現が古文にもあるわけで、その中の一つの方法として、係り結びが使われるのです。
さて、一口に係助詞と言っても、【ぞ・なむ・や・か】と、【こそ】はカテゴリーが違います。 結びの形が違う点から見ても、それは分かると思います。
まず、【ぞ・なむ・や・か】から行きましょう。 この四つ、見て分かるように、文末にも付ける事が出来ます。 それもそのはず、もともとは終助詞なのです。 大雑把に言って、【ぞ】は「~だ」、【なむ】は「~だろう」、【や】と【か】は「~か」という意味です。
代表して、【ぞ】で説明します。 「峠を越ゆ」が普通の文章だとすると、「峠ぞ越ゆる」が係り結びです。 動詞が終止形から連体形に変わってますね。 なぜ、連体形なのかに着目します。 古文では、連体形で終っている場合、後ろに、「の」または、「もの」が省略されているのが普通です。 現代語では、終止形と連体形の形が同じなので省略できないんですが、古文では、活用形の多数を占める上二段活用と下二段活用で、終止形と連体形の形が違いますから、幾分強引に略してしまっているんですな。 つまり、現代文に訳す場合には、「の」、または「もの」を入れなければならないわけです。 入れて、現代文に訳してみると、「峠だ、越えるの」になります。 つまりですな、もとは、「越えるのは峠だ」と言う所を、「峠」を強調する為に、前方に出して、「峠だ、越えるのは」と言っているわけです。 現代文の表現方法で、≪倒置法≫というのを聞いた事があると思いますが、古文の係り結びとは、正にその倒置法なわけです。
【なむ】と【や】【か】も、原理は一緒です。 「峠なむ越ゆる」は、「峠だろう、越えるのは」ですし、「峠や越ゆる」は、「峠か、越えるのは」になります。 【か】は疑問代名詞とセットで使われます。 「誰か越ゆる」という具合に使って、現代語訳すると、「誰だ、越えるのは」になります。
さて、別格の【こそ】ですが、これだけは、倒置法ではありません。 これも、なぜ結びが已然形なのかに着目します。 已然形の後に来る助詞と言えば、「~ば」と、「~ども」だけです。 「~ば」は「~だから」という意味、「~ども」は、「~だけれど」という意味です。 かたや順接、かたや逆接で、意味が正反対になりますが、それは大した問題ではありません。 【こそ】の意味は、現代語の「こそ」と同じです。 現代語と古語がゴチャゴチャになって、意味が捉え難い場合は、「~さえ」に置き換えてみると分かり易くなります。 「峠こそ越ゆれ」の元の形が、「峠こそ越ゆれば」ならば、「峠さえ、越えれば」になり、「峠こそ越ゆれども」なら、「峠さえ、越えたけれど」になります。 どちらになるかは、前後の文脈で判断します。
【こそ】は倒置法ではないと書きましたが、それは、「その文の中では」という話でして、もう一段上の段階で見ると、倒置法による強調である点は同じです。 現代文でも、「峠まで越えたけれど、結局彼を見つけられなかった」という文を、「結局彼を見つけられなかった。 峠まで越えたけれど」という具合に、主文と従文を引っ繰り返して、強調効果を出す事がありますが、【こそ】を使った係り結びの文もそれと同じです。 つまり、探せば、前後のどこかに主文があるはずです。 ただし、それはあくまで原則でして、主文が略されていて、【こそ】の入った従文だけで用いられる場合も多いです。
係り結びについて、何となく、掴めて来ましたか? 「えーっ! そうだったのーっ!」と今更ながらに驚いている人も大勢おる事でしょう。 だって、古文の先生はそんな説明してくれないし、教科書にも参考書にも載っていないものね。 なんで、このように教えないのかというと、実は、上に書いたような事は、あくまで原則でして、古文に出てくる係り結びの用例すべてが、この解釈で説明できるわけではないからです。 係り結びそのものは、奈良時代以前からあったらしく、仮名文が書き始められた頃には、すでに原則が忘れられつつあったようなのです。
最古の物語である、≪竹取物語≫ですら、当て嵌まらない用法が多いから厄介です。 たとえば、冒頭部にある、「名をば讃岐造麿となむいひける」ですが、こんな文、わざわざ、≪強意≫にする必要は無いのに、【なむ】が使われています。 無理やり原則に当て嵌めて訳せば、「名を讃岐造麿とだろう、言ったのは」という事になりますが、意味は辛うじて取れるものの、およそ収まりが悪いでしょう。
このズレをどう解釈すればいいのかというと、この頃にはすでに係り結びの原則が忘れられて、単に語調を整える為の道具として使われるようになっていたんですな。 係り結びを使うと文末の形が変わるので、ちょこちょこ挟めば、文章のリズムを整えるのに都合がいいのです。 これは、自分で擬古文を書いてみると、如実に分かります。 物語の文体では、「~けり」で終わる文が圧倒的に多いですが、「~けり。 ~けり。 ~けり。」と、同じ文末ばかり続くと単調になります。 そこで、係り結びの文を挟んで、「~けり。 ~ける。 ~けり。」とすれば、文章が締まるという寸法です。
ただ、こういう用法をやられちゃうと、原則なんて、すっとんじゃうんですわ。 つまる所、どこにでも挟まれるわけですから。 ≪強意≫の意味すら失われてきます。 というわけで、古文の先生も、国語学者も、お手上げになり、「特に訳さなくてもいい」と逃げたわけです。 もし現役の高校生で古文の授業を受けている方や、大学受験の勉強をしている方がいたら、ご注意あれ。 今回、私が説明した係り結びの原則解釈を、テストなどで、そのまま使うと、×になります。 ○を貰いたかったら、訳してはいけないのです。
強いて訳すとすれば、「は」ですかねえ。 「峠ぞ越ゆる」ならば、「峠は越える」になりますし、「名をば讃岐造麿となむ言ひける」ならば、「名を讃岐造麿とは言った」となります。 「は」は、現代文で、≪強意≫にも使える助詞なんですよ。 「ちょっと面倒な仕事ではある」のように使われます。 この「は」の用法、三流雑誌の記者とか、文章の書き方を覚え始めたばかりの少年などが好んで使うので、私は恥かしくて使えないんですがね。 だけど、これもあくまで、強いて訳せばの話ですから、テストでは使ってはいけません。 古文の先生と、この事について、話し合ってみるのはいいかもしれませんが。
いやはや、一応、一通りの解釈はしたけれど、結局、結論は、「訳さなくてもいい」になってしまいましたな。 面目ない。 言語学には、原則と派生の問題が必ずついて回るので、いい加減な事を書かないようにしようと思うと、あまり思い切った説を展開できないのですよ。 係り結びが、どういう経緯で生まれたかが分かればいいんですが、たぶん日本に文字が入る以前の話だと思うので、記録があるわけが無く、それは無理な相談というもの。 真相は、神のみぞ知る。(これも係り結び。 原則で解釈できるので、お試しあれ)
≪このひと月ほど、擬古文にしこりはべりたり。 擬古文たるは、古文になずらひたる文章のことにはべり。≫
というような具合に作っていくわけです。 今ふっと、「古文と擬古文は違うのか?」と思ったあなた、良い所に気付きました。 違うのです。 ≪古文≫というのは、実際に古い時代に書かれた文章の事だけを指すのであって、現代の人間が古文を真似て書いたものは、古文とは言いません。 そういう物を特別に指す為に、≪擬古文≫という言葉があるわけです。 私見ですが、擬古文には、広義と狭義があると考えられます。 広義の擬古文とは、古文風に書かれた文章全てを指し、狭義の擬古文とは、善意悪意は別にして、実際に古い時代に書かれたかのように装った文章の事を指すというわけです。
日本人なら大概の人は、高校時代に古文を習っているはずです。 ただし、古文の授業では、古典を読むのが目的で、書き方までは教えません。 実は、書けるようになれば、読む能力も上がるので、書き方を教えてしまった方が、学習効率が良いのですが、なぜやらないかというと、おそらく、教師のレベルが低くて、書き方を教えられないのでしょう。 教師だけでなく、学者ですら古文の文法が分かっていない者が多く、テケトーな記述でごまかしてある参考書がうじゃうじゃ見受けられるのは、英文法のそれと似た状況です。
たとえば、誰でも名前だけは聞いた事がある、≪係り結びの法則≫ですが、参考書を開くと、「【ぞ・なむ・や・か】が係った時には、文末の用言は連体形で結び、【こそ】が係った時には、已然形で結ぶ。 意味は≪強意≫で、現代語訳する時には、特に訳さなくてもいい」などと書いてあります。 凄いですねえ。 テストの問題に出すくらいだから、さぞや重要な法則かと思いきや、「訳さなくてもいい」というから、解せない話ではありませんか。 これでは、係り結びの説明になっていません。 書き手にしてみれば、わざわざ係り結びを使ったのは、何かしら普通の文とは違う事を表現したかったからだ、とは思いませんか?
と、ここまで書いてしまった行き掛かり上、私が係り結びについて説明しないと、「自分も分かってないくせに、他人を批難している」と思われるのが癪なので、ちょいと書いておきましょう。
まず、係り結びの意味が、≪強意≫である点は、正しいと思います。 ≪強意≫というのは、「意味を強める事」で、≪強調≫と言ってもいいです。 現代文でたとえると、「絵が描けない」は普通の文ですが、これを強意にすると、「絵も描けない」となり、更に強意度を高めると、「絵すら描けない」とか、「絵さえも描けない」とか、いろいろと言い換えて行けるようになっています。 これと同じ機能の表現が古文にもあるわけで、その中の一つの方法として、係り結びが使われるのです。
さて、一口に係助詞と言っても、【ぞ・なむ・や・か】と、【こそ】はカテゴリーが違います。 結びの形が違う点から見ても、それは分かると思います。
まず、【ぞ・なむ・や・か】から行きましょう。 この四つ、見て分かるように、文末にも付ける事が出来ます。 それもそのはず、もともとは終助詞なのです。 大雑把に言って、【ぞ】は「~だ」、【なむ】は「~だろう」、【や】と【か】は「~か」という意味です。
代表して、【ぞ】で説明します。 「峠を越ゆ」が普通の文章だとすると、「峠ぞ越ゆる」が係り結びです。 動詞が終止形から連体形に変わってますね。 なぜ、連体形なのかに着目します。 古文では、連体形で終っている場合、後ろに、「の」または、「もの」が省略されているのが普通です。 現代語では、終止形と連体形の形が同じなので省略できないんですが、古文では、活用形の多数を占める上二段活用と下二段活用で、終止形と連体形の形が違いますから、幾分強引に略してしまっているんですな。 つまり、現代文に訳す場合には、「の」、または「もの」を入れなければならないわけです。 入れて、現代文に訳してみると、「峠だ、越えるの」になります。 つまりですな、もとは、「越えるのは峠だ」と言う所を、「峠」を強調する為に、前方に出して、「峠だ、越えるのは」と言っているわけです。 現代文の表現方法で、≪倒置法≫というのを聞いた事があると思いますが、古文の係り結びとは、正にその倒置法なわけです。
【なむ】と【や】【か】も、原理は一緒です。 「峠なむ越ゆる」は、「峠だろう、越えるのは」ですし、「峠や越ゆる」は、「峠か、越えるのは」になります。 【か】は疑問代名詞とセットで使われます。 「誰か越ゆる」という具合に使って、現代語訳すると、「誰だ、越えるのは」になります。
さて、別格の【こそ】ですが、これだけは、倒置法ではありません。 これも、なぜ結びが已然形なのかに着目します。 已然形の後に来る助詞と言えば、「~ば」と、「~ども」だけです。 「~ば」は「~だから」という意味、「~ども」は、「~だけれど」という意味です。 かたや順接、かたや逆接で、意味が正反対になりますが、それは大した問題ではありません。 【こそ】の意味は、現代語の「こそ」と同じです。 現代語と古語がゴチャゴチャになって、意味が捉え難い場合は、「~さえ」に置き換えてみると分かり易くなります。 「峠こそ越ゆれ」の元の形が、「峠こそ越ゆれば」ならば、「峠さえ、越えれば」になり、「峠こそ越ゆれども」なら、「峠さえ、越えたけれど」になります。 どちらになるかは、前後の文脈で判断します。
【こそ】は倒置法ではないと書きましたが、それは、「その文の中では」という話でして、もう一段上の段階で見ると、倒置法による強調である点は同じです。 現代文でも、「峠まで越えたけれど、結局彼を見つけられなかった」という文を、「結局彼を見つけられなかった。 峠まで越えたけれど」という具合に、主文と従文を引っ繰り返して、強調効果を出す事がありますが、【こそ】を使った係り結びの文もそれと同じです。 つまり、探せば、前後のどこかに主文があるはずです。 ただし、それはあくまで原則でして、主文が略されていて、【こそ】の入った従文だけで用いられる場合も多いです。
係り結びについて、何となく、掴めて来ましたか? 「えーっ! そうだったのーっ!」と今更ながらに驚いている人も大勢おる事でしょう。 だって、古文の先生はそんな説明してくれないし、教科書にも参考書にも載っていないものね。 なんで、このように教えないのかというと、実は、上に書いたような事は、あくまで原則でして、古文に出てくる係り結びの用例すべてが、この解釈で説明できるわけではないからです。 係り結びそのものは、奈良時代以前からあったらしく、仮名文が書き始められた頃には、すでに原則が忘れられつつあったようなのです。
最古の物語である、≪竹取物語≫ですら、当て嵌まらない用法が多いから厄介です。 たとえば、冒頭部にある、「名をば讃岐造麿となむいひける」ですが、こんな文、わざわざ、≪強意≫にする必要は無いのに、【なむ】が使われています。 無理やり原則に当て嵌めて訳せば、「名を讃岐造麿とだろう、言ったのは」という事になりますが、意味は辛うじて取れるものの、およそ収まりが悪いでしょう。
このズレをどう解釈すればいいのかというと、この頃にはすでに係り結びの原則が忘れられて、単に語調を整える為の道具として使われるようになっていたんですな。 係り結びを使うと文末の形が変わるので、ちょこちょこ挟めば、文章のリズムを整えるのに都合がいいのです。 これは、自分で擬古文を書いてみると、如実に分かります。 物語の文体では、「~けり」で終わる文が圧倒的に多いですが、「~けり。 ~けり。 ~けり。」と、同じ文末ばかり続くと単調になります。 そこで、係り結びの文を挟んで、「~けり。 ~ける。 ~けり。」とすれば、文章が締まるという寸法です。
ただ、こういう用法をやられちゃうと、原則なんて、すっとんじゃうんですわ。 つまる所、どこにでも挟まれるわけですから。 ≪強意≫の意味すら失われてきます。 というわけで、古文の先生も、国語学者も、お手上げになり、「特に訳さなくてもいい」と逃げたわけです。 もし現役の高校生で古文の授業を受けている方や、大学受験の勉強をしている方がいたら、ご注意あれ。 今回、私が説明した係り結びの原則解釈を、テストなどで、そのまま使うと、×になります。 ○を貰いたかったら、訳してはいけないのです。
強いて訳すとすれば、「は」ですかねえ。 「峠ぞ越ゆる」ならば、「峠は越える」になりますし、「名をば讃岐造麿となむ言ひける」ならば、「名を讃岐造麿とは言った」となります。 「は」は、現代文で、≪強意≫にも使える助詞なんですよ。 「ちょっと面倒な仕事ではある」のように使われます。 この「は」の用法、三流雑誌の記者とか、文章の書き方を覚え始めたばかりの少年などが好んで使うので、私は恥かしくて使えないんですがね。 だけど、これもあくまで、強いて訳せばの話ですから、テストでは使ってはいけません。 古文の先生と、この事について、話し合ってみるのはいいかもしれませんが。
いやはや、一応、一通りの解釈はしたけれど、結局、結論は、「訳さなくてもいい」になってしまいましたな。 面目ない。 言語学には、原則と派生の問題が必ずついて回るので、いい加減な事を書かないようにしようと思うと、あまり思い切った説を展開できないのですよ。 係り結びが、どういう経緯で生まれたかが分かればいいんですが、たぶん日本に文字が入る以前の話だと思うので、記録があるわけが無く、それは無理な相談というもの。 真相は、神のみぞ知る。(これも係り結び。 原則で解釈できるので、お試しあれ)
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