2008/05/11

古文の過去と完了

  さて、現代日本語に過去形が無いのは、前回で納得したとして、問題は、古文にいやらしくも存在する過去の助動詞をどう扱うかです。 英語と同じように、過去の文すべてに、過去の助動詞がつくかというと、日本語古文の場合、そうではないんですな。 古文でも現代日本語同様、作者の時間軸移動が行なわれるので、過去の助動詞がつかない文がうじゃうじゃ出て来ます。 また、古文に於いても、完了が過去の代用をする傾向があり、大概、完了で間に合ってしまっているものですから、どういう条件の時に、過去の助動詞が使われるのかが、はっきりしません。 こんなもの無くてもいいと思うんですが、古典を読むと、ちらりほらりを顔を出すから頭に来る。 お前は一体、何者なんだ! 参考書を読むと、【き】と【けり】の違いについては書いてあるんですが、どちらを選ぶかという以前に、そもそも、それらをどこへ入れたらいいのかが分からないのだから、手の施しようがないではありませんか。

  私の悩みの原因になっているものの一つに、古文の文法への不信感があります。 古文の文法研究というのは、江戸時代末期から始まったものですが、それですら、相当にはいい加減。 まして、それ以前の時代には、文法書はおろか、助動詞活用表一枚すら無かったのであって、文を書く人達はみんな、原典をたくさん読んで、その中から自分なりに文の書き方を習得していました。 みんながみんな、原典から正しい法則を読み取る能力があるわけではありませんから、誤用が起こるのは避けられません。 口語上失われてしまった単語などは、修正のしようが無い為に、だんだん元の意味からズレて来ます。 現在、古語辞典に載っている解説は、江戸時代末期以降の人間が、古典を分析して、「たぶん、こういう意味であろう」と復元したものなんですな。

  ううむ、なんて、胡散臭いんだ! 清少納言先生あたりを、タイムマシンで連れて来て、古語辞典を見せたら、一読大爆笑の渦に巻き込まれ、悶絶・失神なさるかもしれません。

≪めちゃくちゃなるもの。 千年後の古語辞典、参考書。 かかるものを頼みて、古文を読まむ学生こそいたましけれ。≫

  冗談は抜きにしても、めちゃくちゃでないと言い切れないから怖い。 なにせ、誰も正解を知らないのですから。 たとえば、≪源氏物語≫の現代語訳は、何種類かあるわけですが、読み比べてみると、訳が全然違う部分があって、かなりとまどいます。 更に、どれが正しい訳なのか、誰もはっきりした事は言えないのだという事に気付くと、何ともいえない不安な気分に襲われます。 国文学界の権威と見做されている人の意見ですら、タイムマシンでお出でいただいた紫式部先生の前では、素人の戯言として一蹴されてしまう可能性があるのです。

  ま、そういう世界なんですよ、古文というのは。 逆に言えば、タイムマシンなんざ出来るわけが無いから、正解を知っている者が現われっこないのをいい事に、テケトーな学説を、言いたい放題に発表し捲っているとも見れます。 相対的にしか、正しさが決められない、このもどかしさよ。


  具体的な話に戻します。 そもそも、【き】と【けり】が過去で、【たり】【り】【つ】【ぬ】が完了だという分類にしてからが怪しい。 現代日本語人は、過去と完了の区別がつかないのに、どうやって見分けたのか? 私の推測ですが、これらの助動詞が組み合わさって使われる事があるんですよ。 「~にき」とか、「~たりけり」といったように。 「その際、前にしか来ないのが、完了の助動詞で、後ろにしか来ないのが、過去の助動詞だ」という具合に分けたんじゃないでしょうか? 他に、手掛かりが考えられないですから。 つまり、「同じ意味の助動詞を二つ並べても意味が無いのだから、二つ並んでいる時は、一方が過去で、一方が完了であるに違いない」と判断したわけですな、きっと。

  ところがどっこい! そうは烏賊の禁治産者でして、同じ意味の助動詞が二つ並ぶ例が、現代日本語にあるっつのよ! 「~てあった」がまさにそれです。 「~た」というのは、「~たり」が縮まったもので、更に元を辿れば、「~てあり」が源流です。 という事は、「~てあった」をもともとの形に直すと、「~てありてあり」になるわけです。 全く同じ物が、二つ並んでいるんですな。 そして、重大な点は、その前後どちらもが、過去を表わしているわけではないという事です。

「台所へ行ったら、誰かが、お湯を沸かしてあった」

  という場合、前回の例で説明したように、「沸かしてある」までは、他動詞に「~てある」がついたもので、≪結果≫を表わします。 問題は後ろの「た」が、何を表わしているかでして、≪過去≫と考えたくなるのが人情ですが、実は、≪過去≫ではないのです。 それが証拠に、未来に使うことが出来ます。

「台所へ行って、お湯が沸かしてあったら、ポットごと取って来て」

  未来の仮定ですわな。 もし、後ろの「た」が、≪過去≫を表わすのであれば、こんな用法が成立するはずが無いんですよ。 じゃあ、一体何なのかというと、≪発見≫とでも呼ぶべき相なんですわ。 ちょっと深入りしますが、≪発見≫の「た」は、形容詞・形容動詞や、状態を表わす動詞にくっついて、「その事に気付いた」というニュアンスを表わします。

「ひどい恥を掻いて、鏡を見たら、耳まで赤かった」

  別に、過去の事ではなく、今現在、鏡を見ていても、「赤かった」は「赤かった」です。

「ケータイに気を取られていて、ふと見たら、信号が黄色だった」

  これも同じ。 過去のことではありません。 それが証拠に、これらは、仮定形にすれば、未来の事にも使えます。

  ≪状態を表わす動詞≫というのは、「~てある」・「~ている」がくっついた動詞の事です。 日本語の動詞は、そのままだと全て、動作を表わします。 「~てある」・「~ている」をつけないと、状態を表わせないのです。 英語で、「have」を、「持つ」ではなく、「持っている」と訳したり、「love」を「愛する」ではなく、「愛している」と訳さないと、うまく処理できない事がありますよね。 あれは、英語には、「have」や「love」のように、動作と状態を両方表わす動詞があるのに対し、日本語の動詞は動作専門なので、「~てある」・「~ている」をくっつけないと、状態を表わせない事から起こる軋轢です。 こういう事、英語の先生、説明しないんだよなあ。 たぶん、知らないから。

  で、「沸かしてある」も、「~てある」がくっついて、状態を表わしているわけです。 状態を表わすという事は、形容詞・形容動詞と同じ働きをする事になります。 ゆえに、「沸かしてあった」は、沸かしてある事に気付いた事を表わす、≪発見≫相なのです。 ゆめゆめ、≪過去≫ではありません。

  長い説明になりましたが、要するに、「~てあった」は、≪過去≫など含んでいないと言いたいわけです。 それを踏まえて、古文に戻りましょう。 「≪完了≫と組み合わさっているから、もう一つは、≪過去≫だろう」という考え方は、日本語というより、英語の文法ですな。 古文の、「~にき」や「~たりけり」も、後ろが、≪過去≫だと証明する事はできません。 また、厄介な事に、≪過去≫ではないと証明する事も難しいです。 なにせ、現代語と違って、誰も正解を知らない世界ですから。

  でねー、面白いんですが、過去の助動詞とされている、【き】と【けり】ですが、辞書の解説の、後ろの方の項目を見ると、なんと、「動作の存続を表わす」などと、こっそり書いてあるのです。 をゐをゐ、それは、≪結果≫相ですぜ。 それじゃあ、完了の助動詞の、【たり】【り】【つ】【ぬ】と同じになってしまうではありませんか。 つまり、古文を読んでいくと、どう考えても、≪過去≫では説明できない、【き】や【けり】が出て来るので、学生を混乱させない為に、こういう項目を入れているのでしょう。 だけど、それじゃあ、分類もクソもありませんぜ。

  すなわち、分かっているのは、「【き】と【けり】は、【たり】【り】【つ】【ぬ】と組み合わさる時に、後ろに来る」という事だけで、≪過去≫を表わす証拠など、何も無いのです。 六種すべてを、≪完了≫として、【き】と【けり】だけに、用法上の違いがあるという事にしても、別段不都合はありません。 日本語では、現代語同様、古文にも、過去を表わす助動詞なんて、無いんじゃないでしょうか?


  ああ、自分で書いている内に、ますます分からなくなってきました。 いや、分析には自信がありますが、擬古文を書く時に、【き】と【けり】をどこに入れればいいか、ますます分からなくなったというのです。 藤原道綱母様、和泉式部様、清少納言様、紫式部様、菅原孝標女様、後深草二条様、どなたでも宜しいですから、私の夢枕に立って、古文の文法を手解きしていただけますまいか。

  なに、「女ばかりじゃないか、このスケベエ野郎が!」ですと? あのなあ、仮名文というのは、平安時代に女性の手によって発展した表現形式なんだよ。 彼女らがいなければ、現代の漢字かな混じり文も存在しなかったの。 そんな事も知らんのか!

  なに、「後深草二条は、鎌倉末期だから、仮名文の発展とは関係ないんじゃないの?」ですと? ぬぬっ、つまらない事を知っている。 いや、二条様に関しては、ただ、どんなお顔をしていらっしゃったのか、拝見したいと思いまして。

「やっぱり、スケベエではないか!」

  うむ、ごもっとも。 でもねえ、見たいと思いますよ、二条さんは。 よっぽど魅力が無ければ、ああはモテないでしょう。 なんで、リアルな映画を作らないのか、不思議不思議。