2008/06/29

物語とバランス

  何回目の再放送か分かりませんが、地方局で夕方にやっていた、アニメ・≪フランダースの犬≫を見終わりました。 ラストシーンだけはクイズ番組で見て知っていたのですが、アニメ本体は見た事が無かったのです。 私の年齢だと、小学校高学年の時に本放送していたのですが、その前年の≪アルプスの少女ハイジ≫のあまりの陰鬱さに、「こんなのは漫画ではない!」と子供心に断定した私は、≪世界名作劇場≫に決別し、翌年やった≪フランダースの犬≫も、にべもなくパスしたのです。 よって、≪アルプス≫の方は、ハイジが都会に連れて行かれた辺りまでは見ていたのに対し、≪フランダース≫は、綺麗さっぱり一回も見ませんでした。 今回改めて見てみる気になった理由は、私の家で犬を飼い始めてから、初めての再放送だったからです。 やはり、犬を飼っているか否かは、犬が登場する作品に対する態度に、少なからぬ影響を及ぼすものですな。

  というわけで、以下、≪フランダースの犬≫の感想になりますが、基本的に、すでに見ている人を対象に書く事になります。 よって、これから見るという方は、ここまででストップして下さい。 「見ていないが、今後とも見る予定は無い」という人の為に、あらすじを大雑把に説明しましょうか。 牛乳運びでその日暮しをしている少年ネロとおじいさんが、死にかけで捨てられた犬・パトラッシュを拾います。 看病してパトラッシュを元気な体に戻してやり、しばらく二人と一匹で助け合って暮らすんですが、やがて、おじいさんが病死し、牛乳運びの仕事も失ってしまいます。 更に、風車小屋の火事で放火犯に仕立てられたり、コンクールに出品した絵が落選したりして、絶望したネロは、クリスマスの深夜、教会でパトラッシュとともに凍死するという話です。 詳しく知りたい方は、公式ホームページがありますから、そちらで、各話ごとのあらすじでも読んでくださいな。

  で、録画までして、ほぼ全話つぶさに鑑賞したわけですが、おじいさんが死んだ辺りから見るのがきつくなり、終わった時には、正直ほっとしました。 本当に救われない話ですな。 悲劇といえば筋金入りの悲劇でして、これに比べれば、≪ああ無情≫なんて、どこが無情なのか分からなくなってしまうくらいですが、私としてはやはり、この話を名作と認めたくありません。 善人が爪弾きにされて死に、悪人がぬくぬくと生き残るような物語は、大人の感覚でも許し難いです。 子供向けなら尚の事で、この作品を見て、将来に希望が湧いて来る子供がいたら、会ってみたいものです。 このアニメが発しているメッセージを素直に受け止めると、他人が信用できなくなってしまうんですよ。 世の中、悪人だらけの真っ暗闇みたいな気分になって来るのです。 いくら悲劇とはいえ、何の救いも無いのは、やはりまずいでしょう。

  さんざんネロを苛めていた連中が、終わりの二回で改心する所が、呆れるほど安直。 はらわたの腐った≪小人・コゼツ≫や、性根のねじくれ曲がった≪下司・ハンス≫どもが、落とした金を拾ってもらったくらいで考えを改めるとは到底思えません。 それどころか、奴らなら、「金は落としたのではなく、ネロがこっそり馬から盗んだのだろう。 いかにも拾ったかのように届けに来て、恩を売ろうという魂胆に違いない」と考えるでしょう。 証拠も無いのに、ネロを放火犯に仕立てあげ、仕事を奪って餓死に追い込むような鬼畜どもが、反省などするわけがありません。

  村人も村人で、僅かばかりの金を惜しんで、牛乳運びの仕事を、ネロから野菜売りに乗り換えるなど、現金にも程があります。 奇妙なのは、野菜売りの持ち込んだ論理でして、「農家から野菜を安く売ってもらう代わりに、牛乳をただで運んでやる」というのですが、これを農家側から見ると、牛乳をただで運んでもらう為には、野菜を安く売らなければならず、損得ゼロです。 それなら、ネロの仕事を干してまで、野菜売りに牛乳運びを頼む理由はありますまい。 非常に不自然。 また、この村人達が、小人・コゼツ及び下司・ハンスの口車に乗って、ネロを放火犯扱いするわけですが、仕事を取り上げた上に、犯罪者扱いとは、あまりにもひど過ぎる仕打ち。 すなわち、ネロに対し暗に、「村を出て行け」、もしくは、「飢えて死ね」と言っているようなもので、もはや外道の限りを極めています。

  樵のミシェルおじさんが引き取ってくれる事になっていたのに、コンクールに出した絵が落選したというだけで、世を見限ってしまったネロの態度も解せません。 自分だけならともかく、パトラッシュにも餌を食べさせなければならない立場なのですから、ミシェルおじさんを頼るのが当然選ぶべき道でしょうに。 行動に合理性が見られません。 ミシェルがケガをした時には、親身に看病し、ミシェルの代わりに大木を切り倒すなどして、樵という職業に興味を示していたにも拘らず、いざ樵をやらされる段になって、気後れするというのも変な話です。

  物語の中程で、別の街からアントワープを訪ねて来た貴婦人が、ネロに死んだ息子を面影を見て、何くれとなく良くしてくれるエピソードがありますが、後々また登場して、ネロの窮地に救いの手でも差し伸べてくれるのかと思いきや、最後まで出ずじまい。 おいおい、あれだけ思わせぶりに顔を出しておいて、伏線じゃなかったのかい? 物語には、セオリーというものがあってだなあ・・・・まあ、いいか。 いや、よくないのですが、こんな所でつっかえていると先に進まないので、一先ず目をつぶります。


  あまりにも、不自然な箇所が多いので、原作を読んでみました。 最初、図書館で児童向けのひらがなだらけの本を読んだんですが、「こりゃ、もしかしたら、ダイジェストされているかも知れないな」と疑って、ネット上で、子供向けでない物を読み直しました。 原作が書かれたのが、1870年代という事で、とっくに著作権は切れているので、ネットでただで読めるのはありがたい。

  で、原作とアニメの比較ですが、かなり違いがありました。 原作はちょっと長めの短編か、短めの中編くらいの長さですから、毎週ほぼ一年間放送したアニメの方は大幅に水増ししてあるのです。 概ね、原作の筋立てはバランスが取れていて、不自然な点は少ないです。 ミシェルという樵は、原作では登場せず、アニメ化する際に追加されたキャラでした。 道理で、ネロが最後に頼っていかないわけだ。 頼れる人物がいたら、ネロが死なないわけで、原作とラストが変わってしまうものね。

  野菜売りが引っ越して来るというエピソードも、原作にはありません。 ネロが牛乳運びの仕事を減らされてしまうのは、商売敵が登場したからではなく、村人がネロを嫌うコゼツに圧力をかけられたからでした。 息子を亡くした貴婦人もアニメ側の創作。 つまり、ストーリー上不自然さを感じるような部分は、みんなアニメ化した時に付け足したものだったわけです。 アニメの付け足しで、成功している部分もあります。 ネロの友達になるジョルジュとポールの兄弟は、好感が持てて、陰鬱な話を明るくするのに寄与しています。

  他に、原作とアニメの違いというと、パトラッシュの元の飼い主、金物屋が、原作では酔っ払って喧嘩した挙句、死んだという事になっています。 アニメの方では、一度パトラッシュを連れ戻した後、逃げられしまい、それっきり出てきません。 エピソードを水増しする一方で、元あった部分を削っている点もあるわけですが、何らかの創作上の意図があってやっているのか、ストーリー構成が混乱しているのか、わかりづらいです。

  そうそう、大事な事を忘れていました。 原作では、下司・ハンスが出て来ません。 あまりにも、下司なキャラなので、「ヨーロッパの小説に、こんなに露骨な下司が出るものかなあ?」と首を傾げていたんですが、やはりアニメ・サイドの創作キャラだったんですな。 この下司ぶりは、日本の時代劇の、「越後屋、おぬしも悪よのう」 「お代官様こそ。 ひっひっひ」のあれそのものでして、ヨーロッパの小説では、ほとんど見られないキャラクターです。


  原作とアニメを比較しましたが、では、原作そのままならば、名作と言えるのか? というと、やはり言えないのです。 この作品の問題は、ラストの処理にあり、そこが致命的におかしいのです。 原作もアニメも、ラストは変わらないわけで、同じ欠陥を背負っています。 物語には必ず、≪バランス≫というものがあり、これが取れていないと、鑑賞者に違和感を与えます。 バランスとは、「損をした者は後で得をし、得をした者は後で損をする」、「悪い事をした者には悪い報いがあり、良い事をした者には良い報いがある」 といった事ですな。 昔話から始まり、純文学、推理小説、劇映画など、およそ、ストーリーを持つ作品には、みな、この骨組みが使われています。

  ≪フランダースの犬≫がおかしいのは、主人公は何も悪い事をしていない、それどころか良い事ばかりしているのに、最後が悲劇的な死で終っている点です。 もし、悲劇で終らせたいならば、ネロやパトラッシュには、前以て命で購わなければならないような悪事をさせなければなりません。 しかし、ネロとパトラッシュの本質的特徴である善性を変更するわけには行きませんから、それは無理な相談。 すなわち、この物語は、本来、悲劇で終らせてはいけない話なのです。

  さもなくば、テーマを善悪対立から、報恩物などに変更する必要があります。 たとえば、ラストシーンで、パトラッシュが来てくれたお蔭で、ネロはパトラッシュの体温で凍死せずに済み、パトラッシュだけが死んだというなら、おじいさんとネロに瀕死の所を救って貰ったパトラッシュの恩返しの話として纏める事が出来ます。 そうした方が、パトラッシュが話の中心になって、題名にも合うと思うのですが、なぜか、作者はそうしなかったんですな。

  このウィーダ(本名は、マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー)という作者、大変な犬好きで、それが高じて、晩年は人間不信に陥り、ひどく惨めな死に方をしたらしいです。 それを聞くと、≪フランダースの犬≫で、物語のバランスを崩してまで、ネロとパトラッシュを一緒に死なせた理由が想像できるような気がしてきます。 ネロは作者の分身だと思われるので、飼い主だけが生き残って犬を死なせるなんて話にはしたくなかったんでしょう。 その逆も、もちろん嫌だというわけだ。


  ところで、この≪フランダースの犬≫という話、アニメはもちろん、原作も、日本以外では、ほとんど知られていません。 物語の舞台である、ベルギーのフランドル地方ですら知っている人は珍しいとか。 ちなみに、≪フランダース≫というのは、フランドルの英語読みです。 なんでも、アントワープを訪れた日本人の観光客が、「≪フランダースの犬≫の教会はどこ?」とよく聞くので、「そんな物語があったのか」と再認識したのだとか。 しかし、その後も、別に人気が出たわけではないようで、一部の観光関係者以外は、至って冷めているらしいです。

 「地元の話なのに、なぜ?」と思うかもしれませんが、理由はすぐに察しがつきます。 作者のウィーダという人が、地元の人間ではないのです。 それどころか、ベルギー人ですらなく、イギリスで生まれ育って、イタリアに移住した人で、フランドル地方には、旅行でしか来た事がないという、正真正銘ちゃきちゃきの外国人なのです。 外国人が書いた物語を、いくら舞台になっているからといって、地元の物語と見做す人はいませんわな。 日本人だって、≪蝶々夫人≫あたりを日本の物語とは思わんでしょう?

  おそらく、フランドル地方の人に言わせれば、≪フランダースの犬≫は、かなり問題ある作品だと思うのですよ。 原作を読むと、「この地方では、犬を労働犬として、死ぬまでこき使っている」といったような事を、サラッと書いてあるわけですが、たとえ当時その通りであったとしても、地元の作家なら、こんな敵意に満ちた書き方はしませんわな。 「たかが旅行者の分際で、よく知りもしない事を、勝手放題に書きやがって」と苦々しく感じていると思うのですよ。 しかも、コゼツ始め、村人達は血も涙も無い悪党として描かれているわけで、こんな物語を読んでも、作者への憎悪が燃え上がりこそすれ、愛着など湧くはずがありません。

  フランドル地方の人達だけでなく、他の国でも人気がないのは、たぶん、上述したバランスの悪さのせいだと思います。 近年、アメリカで映画化されたそうですが、原作通りのラストと、ハッピーエンドで終るラストの二種類が作られたらしいです。 むべなるかな。 脚本技術のレベルが高いアメリカの事ですから、このアンバランスなラストは、どうにも受け入れ難かったのでしょう。

  では、なぜ日本人だけが、≪フランダースの犬≫を高く評価しているのか? それはたぶん、日本人が、むちゃくちゃなストーリー展開に慣れているからだと思われます。 というか、バランスのいいストーリーというのが、どんな物なのか分からんのです。 歌舞伎のストーリーが、この種のむちゃくちゃ型でして、悲劇を盛り上げる為だけに、死ななくてもいい人間が死んだりします。 観客は、とにかく泣ければ満足なわけで、ストーリーのバランスなんて知ったこっちゃありません。 この伝統は、日本の映画やドラマにも脈々と受け継がれていて、時折、日本映画の海外上映会などで、泣かせる場面なのに、観客から笑いが起こる事があるらしいですが、そういうのはつまり、ストーリー・セオリーからの逸脱に、日本の監督が気付いていないからなんですな。


  このアニメの≪フランダースの犬≫、どうやったら救われるか考えてみたんですが、ラストはしょうがない、そのままにして、その後に、パトラッシュの子供が生まれたという場面をくっつければいいかもしれませんな。 その為には、母犬になる犬とのエピソードを前以て挿入しておかなければなりませんが、ミシェルおじさんが雌犬を飼っていた事にすれば、そんなに不自然にはならないでしょう。 アロアやジョルジュが、パトラッシュそっくりの仔犬達を分け合うシーンを最後にすれば、ほら、だいぶ救われるでしょう。