2008/07/06

高嶺の第一作

  ≪源氏物語≫の現代語訳を、一ヵ月半かかって、ようやく読み終わりました。 講談社文庫版で、今泉忠義という学者が訳したもの。 いやはや、長いとは承知していましたが、本当に長い。 かれこれ20年近く前に、原文で、≪須磨≫まで読んだ事があったんですが、須磨までなんて、全体の四分の一程度だったんですな。 あまり長いので、最初の方を忘れてしまいました。 全帖に亘って、明細な記憶を残す為には、永遠の再読を続けなければならないのかもしれません。 金門橋のペンキ塗りかいな。

  講談社文庫版ですが、最寄の図書館には新旧の二種類が置いてありました。 旧版は細分されていて全20冊、新版は7冊ですが、一冊のページ数が、500~600くらいあります。 新版の第一巻を他の人が借りていたので、やむなく旧版の方から借りて、例の如く、仕事の合間に、チマチマと読んで行きました。 始業前、10時休憩、昼休み、3時休憩、5時休憩、各10分ずつで、10分では10ページくらいしか読めませんから、一日あたり50ページ前後の進捗となります。 思い出すだに、気が遠くなる。 途中から、図書館に新版の第一巻が戻って来たんですが、第二巻以降を借りる様子が見られないので、しめしめと新版の方に乗り換えました。 たぶん、その人、第一巻を読んでいる内に、あまりの長さに音を上げてしまったんでしょう。 いや、分かるぞ、その気持ちは。


  感想を一言で言えば、≪傑作≫です。 「世界最古の長編小説としては、」という限定を付けなくても、≪傑作≫だと思います。 私、あまり自分の国の産物は誉めたくないんですが、本当に傑作なのだから、もう誉める以外に態度の取りようがないですな。 ついでに言えば、≪源氏物語≫は傑作だけど、それ以降、日本でこの作品を越える長編小説は出現していないと思います。 長編小説第一作が、あまりにも高いレベルだった為に、それを超えられなくなってしまったのでしょう。 ≪エヴァンゲリオン≫の後、他のSFアニメがパクリばかりになってしまったのよりも尚極端で、パクリすら出来ないほど、落差が大きかったのです。

  とにかく長いので、現代語訳であっても、読める人は限られて来ると思います。 なるほど、高校で、≪桐壺≫の冒頭しか教えないわけだよ。 「内容が学校教材として不適切」とか何とか言う前に、読みきれる学生がいねーっつーの。 「読みきったら偉い!」と薦めるのさえ憚られます。 貴重な青春時代を、長編小説なんぞに費やしたのでは惜しい。 下手すりゃ、三ヶ月くらいかかってしまうわけですが、高校時代の三ヶ月は勿体ないですわ。 もっとも、一度読んでおけば、少なくとも、≪源氏物語≫に関しては、その後の人生で、相当大きな口が叩けますけど。 しかし、厄介なのは長さだけで、現代語訳に限って言えば、難しい文章というわけではないので、時間と根気さえあれば、誰でも読めます。

  内容に関しては、これから読む人もいると思うので、細かく書きません。 推理小説のような、ガチガチの結構が組まれているわけではないので、予めあらすじを知っていても別段問題は無いのですが、あらすじを知っても意味がない作品なのです。 古典小説とは思えないほど、心理描写がきめ細かいので、まずそこが読みどころ。 千年前の人の考えが、まるで自分の事のように伝わってくるのは、驚きの一語です。 次に、王朝絵巻なので、その華麗な雰囲気に酔うのが、もう一つの楽しみどころ。 あらすじなんか、三の次、四の次なんですよ。 特に、源氏が中心の序盤・中盤は、その傾向が強いです。 薫が中心になる、≪宇治十帖≫は、少し雰囲気が変わっていて、いわゆる物語っぽくなるので、あらすじの妙味が出てきますが。

  大雑把に言えば、光源氏を筆頭に、夕霧、柏木、薫、匂宮といった、顔良し、姿良し、頭良し、香り良し、生まれ良し、育ち良しと、全拍子揃った貴公子達が、女をくどく話です。 とにかく、くどく場面はくどくどくどくど、くどいくらいに繰り返されます。 なんで、そんなに繰り返すのかというと、ヒット率が低いからでして、実に半分以上のケースで、つっぱねられています。 光源氏というと、「希代の色男で、この世の女はすべて、いとも容易に靡く」かのようなイメージがありますが、実際には、ふられまくっているんですな。 しまいにゃ、女房を寝取られて、他の男の子供を認知させられる羽目に陥るという悲惨さ。 とはいえ、この滑稽なスコアのおかげで、光源氏のキャラクターは相当救われています。 男の目から見ても、嫌な奴という感じがしないのです。 主人公の性格設定一つ見ても、作者の力量が分かろうというものです。

  夕霧や薫は、どちらかというと不器用な男で、涙ぐましい努力をするのに、とんと報われません。 外見がいいのに、思うように女性に近づけないというキャラは大変好ましい。 一方、一人どうにも好きになれないのが、匂宮でして、親友の愛人を寝取っておきながら、「こんなにいい女を俺に隠していた」といって、その親友を逆恨みするという好かんタコ野郎なのです。 帝の子という立場を利用して、いい女と見れば片っ端から言い寄り、言う事を聞かなければ強姦してでも自分のものにするという、唾棄すべき男。 もはや、≪チンチン・オバケ≫としか形容のしようがありません。 だけど、≪とはずがたり≫などを読むと、こういう人物は実際にいたようですな。 政治に直接タッチしていない皇族は、やる事がないので、学問・技芸に耽るか、女の尻を追い掛け回す以外に生きる目的が無かったらしいのです。

  光源氏の話は、一応彼が他界するまで書かれていますが、≪宇治十帖≫の方は、尻切れで終っています。 あまりにも不自然な切れ方なので、本来は続きがあったのが伝わらなかったか、続きを書く予定でいたのが、何らかの理由で書かれなかったのかのどちらかでしょう。 続きがあれば、たぶん、全60帖くらいまで伸びたんじゃないかと思います。 作者の慎重な筆使いから見て、そんなに急転直下に話を終らせられたとは思えませんから。 紫式部という人、平井和正さんと同じで、話を引き伸ばす分には、いくらでも引き伸ばせるタイプの作家だったのでしょう。

  光源氏の他界を暗示していると言われる≪雲隠≫の帖は、題名だけで中身の文章が欠けているのですが、これも、心理描写に無類のマメさを発揮しているこの作者にしては、極端な洒落っ気のような気がします。 真面目な性格の作家ってねえ、こういう風に、読者に肩透かしをくれるような遊びはしない、いや、出来ないものなんですよ。 たぶん、これも、元は内容があったものが、何らかの理由で、伝わらなかったのでしょう。 ≪雲隠≫の中身を想像するのはそんなに難しくありません。 おそらく、淡々と源氏の最期の様子を書き綴ってあったと思いますよ。

  ≪紅楼夢≫もそうですが、良い長編小説というのは、細部を丁寧に書き込んである事が必須条件です。 そういう折り目正しい文章が書ける作家は、ストーリーの破綻も嫌いで、セオリー通りの、おとなしい筋立ての話を書くものです。 ところが、読者の中には、そういう真面目さが気に食わないという者が必ずいます。 「芸術は爆発だ! どうして、もっと劇的な展開にしないのだ! よーし、私が書き直してやる!」 とまあ、そういう連中が、うぞろうぞろ出て来るわけですよ。 昔の事ですから、手で書き写して行く内に、ストーリーが異なる≪異本≫がいろいろ現れて、作者が死んでしまうと、もはやどれが本物か分からなくなり、結局、共通している部分だけが残り、世に伝えられたわけですな。

 「≪宇治十帖≫自体が、別人の書いたものなのではないのか?」という説がありますが、読んでみると、確かに雰囲気が違うので、その疑念は分かるような気がします。 ただし、それは、ストーリー展開に限って言えばの話です。 表現の仕方に着目すれば、別人の筆とは到底思えません。 もし、別人だとしたら、紫式部と同時代に天才的な作家が、もう一人いた事になってしまいますな。 当時の他の作家の作品が、比較するのも憚られるほど低次元である事を考えれば、その可能性は低いと見做さざるを得ません。


  今回、現代語訳ながら、一通り読んでみて、よーく分かりました。 ≪源氏物語≫は、日本文学を代表する作品と断言して差し支えないと思います。 それ以前はもちろん、それ以後も、これを超える作品は見当たらないからです。 世界レベルではどうかというと、やはり、トップ・クラスに入れていいと思います。 ≪金瓶梅≫、≪紅楼夢≫など、中国文学の精華と並べても見劣りしませんし、フランス文学やロシア文学と比較しても、人間の本質を描いている点で、充分肩を並べられると思います。 とにかく、世界最古のくせに、心理描写が現代的なのは、圧倒的な強味だよねえ。 

  ただし、この種の高い評価は、通して読んだ人間だけが、口に出来るものです。 読んでもいないくせに、「日本には、≪源氏物語≫があります」などと自慢するのは、恥をかくだけなので、厳に慎みましょう。 質問されて、夕霧と夕顔の区別がつかなかったりしたら、困るでしょ?