2008/07/13

全知全能

  突然思い出しましたが、私的宗教観の第三部を書かないままでいましたな。 ちなみに、第一部が≪神社の神様≫、第二部が≪出家とそのダシ≫だったわけですが、最後の全知全能の唯一神についても書いておかなければ、バランスが取れますまい。

  あくまで、個人にとっての話ですが、神や仏など、絶対的な存在がいるかいないかは、重大な問題だと思います。 科学的立場に身を置いて、「んなもんいるか、ボケ!」と言ってしまえば、大変サバサバしますが、人間弱いもので、病気や怪我で激痛に襲われたりすると、自然と、「神様助けて」という言葉が口の端からこぼれ出るものです。

  多神教の神は、現代ではあまり信じられていません。 多神教の神には、それぞれ得意とする分野があり、たとえば、大黒天を祀ってある神社で、「メタボが治りますように」などとお願いしても、「嫌味か、この罰当たりが! おととい来やがれ!」と、米俵を投げつけられるのがオチでしょう。 同じく、恵比寿さまへ詣でて、「メタボが治りますように」とお願いしても、「どの口でそういう嫌味を抜かす! この口か?」と、唇に釣り針を引っ掛けられるのがオチ。 願いを聞いて欲しかったら、ご利益それぞれに担当の神様を選ばなければなりません。

  だけどねえ、初詣なんかで近所の神社に行く時、そこにどんな神様が祀ってあるかなんて、気にしてる人ほとんどいないでしょう? 人によっては、お門違いな願いを毎年繰り返しているケースもあると思いますが、誰も気にしない。 つまり、バチが当たるなんて全く思っていないわけですよ。 それはね、とりも直さず、その神を信じていないという事の証明なんですな。 信じていないから、神様を怒らせる事をちっとも怖がらないのです。 八幡さまに行って、「世界が平和でありますように」なんて願ってる人がようけおると思いますが、アホけっつーのよ。 戦争の神様やがな。

  かくのごとく、多神教の信仰心は相当いい加減なわけですが、一神教の場合、人と神との関係はずっと厳格になります。 なぜなら、相手は、≪全知全能≫だからです。 「あらゆる事を知っていて、何でもできる」わけですな。 悪い事をすれば、すべて筒抜け。 神罰を逃れようとしても、相手には出来ない事はないわけですから、無駄な抵抗に終ります。 また唯一神ですから、多神教のように、「この神様は都合が悪いから、他の神様に乗り換えよう」というわけにはいきません。 こうなると、神との関係も真剣に考えざるを得ないというわけです。

  多神教にも、≪最高神≫というのがいて、「神様の中で一番偉いんだから、一神教の神様と同じようなもんだろう」と思いがちですが、そんな事はないのであって、多神教では最高神と言えど、能力に限界があります。 天照大神にせよ、ゼウスにせよ、単なる神話の登場人物に過ぎず、時に呆れるような醜態も曝し、全知全能には似ても似つきません。

  全知全能の唯一神について書かれた文章を読むと、キリスト教やイスラム教の神の関係を説明して、それでおしまいにしている物が圧倒的に多いですが、全知全能の唯一神と、これら特定の宗教には、直接の関係はありません。 極端に言えば、今あなたが、ふと思いついて、全知全能の唯一神を想定し、それを信じ始めたとしても、それはキリスト教やイスラム教と価値において何ら変わる所の無い、独自の一神教という事になります。 むしろ、預言者を間に挟んでいないだけ、神とダイレクトに繋がっているわけで、より純粋度が高いともいえる。

  余談ですが、「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、本来は同じ神だ」という薀蓄を、いかにも訳知り顔に話す人がいて、私はそれを聞かされる度に、「またか~・・・」と、首筋が痒くなるのですが、重箱の隅を突付かせてもらえば、その説明は正確ではありません。 三教の神を同じだと思っているのは、イスラム教徒だけです。 キリスト教徒は、「ユダヤ教とキリスト教の神は同じだが、イスラム教の神なんか知らん」と思っていますし、ユダヤ教徒は、「神というのはユダヤの神がいるだけで、キリスト教やイスラム教の神なんか知らん」と思っています。 後から出て来た宗教を、前からあった宗教が認めないのは当然ですな。 この事が分かっていないと、アラブやヨーロッパで、宗教に関わる戦争が絶えない理由が理解できますまい。

  全知全能の唯一神を更に突き詰めた、≪汎神論≫という考え方があります。 「宇宙全体が神である」というか、「宇宙という存在全体を、神という名で呼ぼう」という考え。 ここまで来ると、個別の宗教から脱却する事が出来るので、無宗教な日本人には、むしろ受け入れ易いかもしれません。 ただし、汎神論を取ってしまうと、自分も宇宙の中に含まれますから、自分自身が神の一部だという事になってしまい、「神様にお願い」するという行為が自家撞着になってしまいます。 また、「この世界に起こる出来事は、予めすべて決まっている」という、≪運命論≫にも近づく為、「お願い」がますます無意味になってきます。

  ≪汎神論≫が、いかに分かり易いとはいえ、「お願い」が出来ないのでは、神様を想定する意味がありません。 ここは、少しバックして、「神は宇宙とは別に存在し、宇宙で起こる事に対し、全知全能である」という事にしておきましょう。

  さて、そういう、全知全能の唯一神を心の中に想定するとして、果たして、本当に信じて良いものか、常に悩み続ける事になります。 必死に神の名を唱えて、「お願い」を繰り返したとして、実際にそれが叶うかというと、大いに疑問。 というか、叶うわけないような気がするのです。 よしんば、願った通りの結果になったとしても、偶然たまたま折り良く、そうなっただけとも考えられるわけで、神様の信用度というのは、どこまで行っても微妙な域を出ないんですな。 まして、願いが叶わなかった場合は、もう神なんて全然信用できなくなるわけで、「馬鹿馬鹿しい。 祈って損した」と、非科学的な行動を取った自分に腹が立つ始末。

  ちなみに、イスラム教徒は、願いが叶わなかった場合、「自分の祈り方が足りなかったのだ」と考えるそうです。 さすが大宗教だけあって、細かい所までよく設定してある。 「それじゃあ、物心ついてから死ぬまで、一瞬の隙もなく祈り続けていたら、当然願いは全て叶うんだろうな」などと、ひねくれてみたくなりますが、ご安心あれ、願いを考える間は祈っていないのだから、隙は必ずあります。 それより何より、常識的に考えて、そんなに祈ってばかりいる人間は、この世にいません。 ふふふ、大宗教はとことんうまく出来てるんですよ。

  しかし、私はイスラム教徒ではないので、やはり、素朴な葛藤から逃れられません。 果たして、神はいるのかどうか? 「神なんか、いなくたっていいじゃないか」と思う人も多かろうと思いますが、神がいないとなると困る事もチラホラあるのです。 たとえば、車で道路を走っている時、荒っぽい運転をする車を目にしたとします。 急な車線変更をする、前の車を煽り立てる、信号無視など屁の河童、ブレーキ・ランプを白に変えていてブレーキだかバックだか分からない、違法を承知でケータイで喋りながら運転する、窓からタバコの吸殻を捨てる、ついでにタバコの箱も捨てる、ご丁寧に包装フィルムまで捨てる。 そういう奴を見た時、「この馬鹿が。 とっとと死ね」と、誰でも願うと思います。 そう、願うのです。 一体誰に? そりゃ、神様でしょう。 ほーれ見た事か、神様が必要じゃありませんか!

  なぜ、神様にそんな事を願うのか? 別に私的欲望で他人を呪い殺したいから、手伝ってくれというわけではありません。 「自分は正しい生き方をしているのに、一方で、間違った生き方をして悪びれもしない人間がいる。 こんな不正が許されていいはずがない。 悪人には、当然、神罰が下ってしかるべきだ」と考えるからです。 人間社会には法律というシステムがありますが、あれは穴だらけの網みたいなものでして、法律では取り締まれない悪人はウジャラコうじゃらこいます。 そういう悪の処断を神様にお願いしたいわけです。

  あくまで私の場合ですが、私的欲望で神様を引っ張り出すことは、ほとんどありません。 たとえば、「宝くじが当たりますように」といったお願いは、全くしません。 そんな事を神に願ったら、逆に自分に罰が当たるような気がするからです。 「悪い目に遭わないように」とは願っても、「良い事がありますように」とは祈らないのです。 ただし、これには、確実に個人差があると思います。 私の場合、神への期待度が低く、多くを望まないように自制をかけているからかもしれません。 期待度が低いという事は、必ずしも信用度が低いというわけではなく、信用しているからこそ図々しいお願いはしないのだという見方も出来ますが、私の場合、やはりあまり信用していないから、期待もしないのだという感じがします。

  あまり信用しすぎて、人と話している時にまで、「神様がさあ・・・」などといった言い回しが漏れるようになると、それはそれで、人間関係上問題がありますし。 ちなみに、精神科医に言わせると、「神様にお願いしている」と言っている内は正常だけど、「神様の言葉が聞こえる」と言い出すと、やばいらしいです。 特に、現代日本社会では、神仏の存在は、公的な場では否定しておいた方が無難ですな。 「神様が見てるよ」とか、「バチが当たる」とか、「閻魔様に舌を抜かれる」とか、そういう事を真顔で言うと、「あれっ? この人、本気でそんな事信じてるの? ちょっとやばい人?」と思われてしまいます。 口には出さなくても、腹の底でそう思われています。

  私もねえ、何の問題も起きずに、平穏な日々を送っている時には、「神様なんて、いるわけない」と思っているんですよ。 一応、科学的思考法を習いましたから。 神様が入用になるのは、困った時だけなんですな。 それらの困り事のほとんどは、神様に祈っても解決しないわけですが、それでもいいんです。 つらい時に、心の中で縋る対象があるというだけで、精神状態を正常に維持するのに、大変有効なのです。 大抵の困り事は、時間の経過が解決してくれるので、その内危機を脱して、「ああ、楽になりました。 神様ありがとうございました」で、三本締めのシャンしゃんシャンという事になるのです。


  まあ、私的・便宜的にはそれでいいとして、実際の所、全知全能の神というのは、いるんですかねえ? 少なくとも、人格神としては、想像の限界を超えますな。 全能どころか、全知すらありえないです。 人間なんて、自分の体ですら、知らない事は無数にあるでしょう? 自分の髪の毛が何本あるか、知ってます? それを、全知全能の神は、全宇宙に存在する全ての物事について、細部に至るまで、その全てを知っているというのですよ。 七人の相手と同時に話をする聖徳太子どころの話ではないのであって、もはやバケモノですな。 人格神ではなく、機械神なら、ありえるかな? コンピューターの情報システムを無限に拡大していけば、理論的には全知に近づけそうです。

  ただし、全能は、そこから更に遥けく遠いような気がしますねえ。 何でも出来なきゃならならんのよ。 そりゃ、無理でしょう。 また、たとえ出来ても、やってくれないのでは意味がありません。 よく、一神教の信者がひどい目に遭うと、「神が試練を与えているのだ」と言いますが、本当に試練なんだか、助ける能力が無いから助けてくれないのか、どちらとも決められますまい。 もし、全知全能なら、全宇宙のあらゆる事をうまく処理して、何の問題も起きないようにしてくれそうなものですが、現実の世界は、その正反対の状態にあります。 もしかしたら、全知全能だけど、何もする気はないのかもしれません。 何だか、ふざけた野郎だという気がして来ますな。 何もしてくれないのなら、全知全能など何のありがたみもない事です。