2008/11/30

「そんなことで……」?

  「テロだ!テロだ!」と大騒ぎして、分かってみれば、別にテロではなかった≪元厚生次官連続殺傷事件≫ですが、出頭して来た容疑者が口にした動機が、保健所のペット殺処分への恨みと抗議だとか。 事件の凶悪さと比べて、動機に重要性・緊迫性が欠如しているという事で、「信じられない」という意見が多いようです。 あまりにも嘘っぽいので、今後の捜査で、他に何か隠された動機が出て来るかもしれませんな。

  子供の頃に飼っていた犬を父親が保健所に連れて行ってしまったというのは、確かに人格に影響を与えるほどのショックだったと思いますが、恨む相手を間違えているのであって、保健所は定められた業務を行なっているだけ、殺すなら父親を殺すべきでしょう。 また、元厚生官僚を恨むというのも中途半端で、法律を決めたのは国会議員なのですから、議員を殺すべきではありますまいか。 更に遡れば、その国会議員を選出したのは有権者ですから、有権者を全員殺さなければ、本懐は遂げられますまい。


  まあ、事件の真相解明の方は措くとして、ちょいと気にかかったのは、容疑者の動機に対する世間の反応の方です。

「そんなことで……」

  この「そんなこと」という部分には、≪保健所のペット殺処分≫が含まれていると思われますが、もし承知して言っているなら、「毎年50万匹の元ペットが殺されている」という事実を、「そんなこと」の一言で片付けてしまう人間の方が、この事件の犯人より、なんぼか恐ろしいです。

  保健所の職員にしてみれば、恨まれる筋合いなど全く無いのであって、法律が無ければ、ペットを持ち込んでくる連中を全員追い返してやりたいと思っているでしょう。 伝染病に罹った動物ですら、命を絶つとなれば、重大な良心の呵責を感じるというのに、「世話が出来ない」、「吠える」、「糞が近所迷惑」、「子供が生まれちゃったから」などという、それこそ、「そんなことで……」と言いたくなる理由で、ペットを保健所に持ち込む人間が、年に50万人もいるというのですよ。

  まあ、想像してみましょうや。 あなたが、神様に呼び出されたとしましょう。 一方に人間が三人います。 もう一方には、50万匹の犬猫その他の動物がいます。 「人間二人を殺し一人に重傷を負わせるか、50万匹の動物を全部殺すか、どちらかを選べ」と言われたら、どうします?

  50万匹は凄い数ですぜ。 見渡す限り、犬・猫・犬だね。 大江健三郎さんの短編小説に、犬の処分をするアルバイトに応募してしまった若者の心の葛藤を描いた物がありましたが、その小説でも数十匹でしたよ。 50万匹とは、気が遠くなりますな。

  おっと、こんな究極の二択問題に答えを出してくれなくてもいいです。 ほいほい答えを出されちゃ、その方が迷惑だ。 参考までに言うと、私だったら、両方断ります。 「どちらかを選ばなければ、おまえを殺す」と言われたら、自分が殺される事にします。 もっとも、殺される前に、神を思うさま罵り倒しますが。

  だけどねえ、50万匹ペットを殺処分していて、「そんなことで……」は、まずいでしょう。 まともな感覚があったら、「そんなことで……」って言えないでしょう。


  命の問題は、重大でありながら、微妙な選択を求められるという特色がありまして、白か黒かと、簡単に言い切る事は出来ません。 いや、言うだけなら出来ますが、それは危険なのです。 軽々しく判断を下すと、自分自身を狂信徒や怪物に変えてしまう恐れがあります。

  ペット関係のサイトへ行くと、掲示板で時々、「飼えなくなったペットをどうするか?」という話題が出ます。 ペット・サイトという場所柄、ほとんどの答えは、「飼ってくれる人を探すべきだ」という事になります。 それ以外の答えを許してくれない雰囲気があるのです。 それで、実際にネット上で、引き取り手を捜すわけですが、これがなかなか見つからないんだわ。 そもそも、自分で決めて飼い始めたのに、途中で飼えなくなってしまったなんていうのは、恥且つ、罪ですから、そんな奴の為に、負担を引き受けようなんて人間は少ないんですな。

  希少動物の場合、逆に欲しがり手が多くて困るというケースもありますが、そういう種類を欲しがるのは、例外なく、≪コレクター≫ですから、近づかない方がいいです。 無生物のコレクターでも充分に病的ですが、生物のコレクターというのは、生き物を物体としか見ていない人間でして、非の打ち所の無い異常人格者です。 そういう連中と会話をしていると、「今いるのが死んだら、それを飼います」とか、「どうせ死ぬから、5匹くらい買っておけば、1匹くらいは残ると思います」などと、背筋が凍るような事を平気で口にするので、震え上がります。 こういう奴らにペットを譲るのは、殺すのと大差ありません。 同じ種類で、もっと外観が良い個体が手に入ったら、今まで飼っていたものを、生きたままゴミに出したり、肉食動物の餌にしたり、そんな事、何とも思っていないのですから。

  ゴミで思い出しましたが、昔、≪マリリンに逢いたい≫という日本映画がありました。 犬が海を泳いで渡るシーンがクライマックスの動物感動物で、そこそこ話題になりました。 ところが、その映画の冒頭に、犬をゴミ捨て場に捨てるシーンがあって、仰天しました。 ゴミ捨て場といっても、粗大ゴミ置き場とかそういう所ではないですよ、普通の燃えるゴミの収集所なのです。 そんな所に犬を捨てて、ゴミ回収車が来たら、どうなるか、想像しただけでも、頭がクラクラして来ます。 誰がそんな設定を考えたのか? もう決まってます。 生き物を物体としか見ていない人間以外考えられません。 そういう人間はたくさんいるんですよ。

  映画で思い出しましたが、その昔、時代劇では、金魚を殺すシーンがしょっちゅう出て来ました。 飲食物に毒が入っているかどうかを調べる為、金魚鉢に流し込むと、金魚が腹を上にして、プカ~っと浮いてくるという絵面を撮るためだけにです。 映像関係者は、金魚の命なんて何とも思っていなかったんですな。 で、この連中、家に帰れば、子供も孫もいたと思うんですが、その子らが金魚を殺して遊んでいたら、何と言って叱るんでしょうね? 「馬鹿! 可哀想な事をするな!」と、言えるのかどうか。 もしかしたら、一緒になって殺して遊ぶのかな?

  話を戻しますが、犬などの場合、むしろ、「引き取ります」と言ってくる奴の方が信用できません。 「一匹飼ってるから、もう一匹増えても、大して変わらない」などと鷹揚ぶった口を利きますが、とんでもない話です! 一匹が二匹になれば、飼う手間は倍です。 大体、どうやって、散歩へ連れて行くつもりなのか。 登録費用や予防注射の代金を払い続けられるのか。 三匹目・四匹目などとなれば、その種の義務を無視する魂胆なのは見え見えで、人間として全く信用できません。

  よく大学生などで、「ペット・レスキューを始めました」などと書いている奴がいますが、若気の至りというか、青臭くて鼻を摘みたくなるというか、呆れて物が言えません。 捨てられた犬を引き取って、貰い手が見つかるまで世話をするという行為ですが、はっきり言って、学生風情に出来る事ではないのです。 散歩が不要なほど広い土地を持っていて、財産があり、しかも、社会的地位もあって、友人知人がたくさんいるという条件が揃わなければ、飼う事も、貰い手を探す事も出来ないではありませんか。 自分自身が親に養われていて、独自の収入はせいぜいアルバイト代くらいなんて奴は、はなから資格外なのですよ。 まず、自分をレスキューせよ。

  実際、それを始めて、最初の内は社会的正義感に燃えまくっていた奴が、三ヶ月もするとパタッと姿を消しますが、ああ、もう決まってます。 体力的・経済的に破綻したのです。 犬を飼うのがどれだけ大変か、全然分かっとらんのよ。 よく、何十匹も犬を飼っていて、悪臭・騒音など近所迷惑が甚だしく、結局、無登録&注射義務違反で逮捕されるオッサンがいますが、ああいう人も、基本的には、「殺される犬を助けてやりたい」という気持ちからスタートしているのであって、レスキュー学生と同類です。 自分の限界を知らない為に起こす悲劇ですな。

  ま、およそ、ペット関連の社会活動をしているなんて連中に、まともな人間は少ないです。 よくても変人、悪ければ狂人。 動物好きが昂じて、人間社会のルールを軽視するようになってしまったんでしょう。 奇妙な事ですが、動物好きが行き過ぎて、くるっと一回りして、動物を物体としか見なくなるケースもあります。 ペット・ショップの店長などが典型例で、最初は動物が好きでその職業を選んだわけですが、毎日毎日、動物を売り買いしている内に、感情が摩滅して、個々の区別などなくなってしまい、収入を得る為の商品としか見れなくなってしまうんですな。

  ペット・サイトの掲示板には、時々明らかに、「こいつ、動物好きでも何でもないな」と思われる、部外者が入ってくる事があります。

「ペットを捨てるのは許せない。 貰い手を探せないなら、保健所に連れて行くのが、飼い主の義務だ」

  ちょっと聞くと、正論のように感じますよね。 実際、そう判断した人達が、続々と保健所へペットを持ち込んで、50万匹なんて数になっているわけです。 だけどねえ、保健所へ持ち込めば、ほぼ確実に殺されるわけですよ。 それが分かっていて、持って行く人というのは、動物の命をどういう風に捉えているんですかね?

  確かに、社会的には、ルールに則った行為で、何ら罰せられる事はありませんが、倫理的には、明らかに、×でしょう? ×だよ、×。 それまで家族同様に飼っていたペットを、殺されると分かっている施設へ持って行く心理って、どういうのよ? もし、動物でなく、自分の親や子供だったら、それが出来るかね? そんな事を平気でしていたら、心が壊れてしまいますよ。 自分が何者なのか、分からなくなってしまいますよ。

  私だったら、保健所へ持って行くくらいなら、むしろ捨てます。 まだ生き残る可能性が高いからです。 法律や条令より、まともな生命感覚を維持する事の方が大事だと思うからです。 だけど、その前提として、飼えなくなる可能性があるものは、飼わないように自分を戒めるようにしています。 できれば、何も飼わないのが一番ですな。 つくづく、そう思います。 食玩フィギュアのコレクションでもしていた方が、桁違いに罪が少ないです。

  もっと、恐ろしい奴もいます。

「保健所へ持って行くくらいなら、自分の手で殺すべきだ」

  こういうのを極論と言います。 口にするのは、完璧なキチガイですから、接近無用です。 ペットを自分の手で殺すようになったら、もう人間をやめた方がいいでしょう。 明らかに、自分が死んだ方が良いです。 世の中の為にも、当人の為にもなります。 この種の極端な表現には、麻薬的な影響力があり、真に受けて、実行する者もいます。 そして、他人に告白するのです。

「俺は、飼い主の義務として、自分の手で始末したよ」

  狂ってます。 そして、狂人の常として自分が狂っていることに気付いていません。 接近厳禁ですな。 だけどねえ、本当に、こういう人間はいるんですよ。 恐ろしい事に。


  今年、≪ブタがいた教室≫という映画が公開されました。 小学校のクラスでブタを育てて、最後に食べるという、実際にあった授業を元にした話だそうです。 食べるか食べないかで、クラスの意見が半分に分かれたそうですが、私が驚いたのは、半数もの児童が、「食べる」を選択したという事実です。 つまり、彼らにとって、そのブタは、ペットではなく、物体に近かったんでしょうな。

  この授業、子供に命の大切さを教えるのが目的だったらしいですが、許可する前に、まず、それを考えた教師本人で試すべきだったでしょう。 その教師に学校の敷地で一人でブタを飼わせ、最後に殺せるかどうか観察するのです。 もちろん、殺す場合は、全児童全教師注視の中、公開でやらせます。 殺せなければ問題なしですが、殺す方を選んだら、その教師、「人間性が欠如している」と見做され、ほどなく失職する事になるでしょう。 学校のウサギ小屋で生まれた仔ウサギを、「世話が大変になるから」という理由で生き埋めにしたキチガイ教師と、どこが違うねん?

  食肉用の動物の命をどう考えるかは、ペット以上に微妙な問題で、大人でさえ思考停止させている者がほとんどです。 子供に判断を押し付けるような、単純な問題ではありますまい。