閑居問題
景気悪化の影響で、業界事情柄、休みの日が増え、閑を持て余すようになりました。 忙しい時なら、休みが増えれば泣くほど嬉しいものですが、閑の上に閑が重なると、やる事がなくて、却って心身に不調を来たします。 やれやれ、生きる事とは、因果な営みじゃて。
最近ほとほと、やりたい事が見つかりません。 原因は幾つか考えられます。 第一に、歳を取った事。 今までに、やりたいと思った事はほとんどやってしまったので、趣味の発展する余地がなくなってしまったんですな。 言語学は己の理解力が届く限界までやったし、語学にもさんざん時間を費やした。 車も乗ったし、バイクで全国ツーリングもやった。 自転車も買ったし、登山もしてる。 写真も撮ったし、絵も描いた。 小説も書いた事があるし、読む方に至っては習慣化している。 音楽もそこそこ聴いたし、リコーダーも吹いた。 アニメも見てるし、映画も見てる。
もうやめてしまった事と、まだ続いている事がありますが、どちらにも共通するのは、もはや、何をやっても、ちっとも楽しいと思わない点です。 映画などは、受け身の趣味ですし、次から次に新しい作品が出てくるわけですから、飽きる事などないように思うでしょうが、いやいや、たとえ良く出来た映画であっても、歳を取って来ると、若い頃のように素直に反応しなくなって来るのですよ。 なぜというに、映画の主人公には、はっきりした目標や、将来への希望があるのに対し、見ているこちらは、それらを失っているので、感覚にズレが生じて、話の中に入りづらくなるからです。
たとえば、≪ハリー・ポッター≫ですが、子供の観客の場合、「自分が魔法学校へ入ったら、どんなに楽しいだろう」と思いながら見るでしょう。 しかし、人生折り返してしまった私が見る場合、「自分とは永遠に縁がない、遠い世界の赤の他人の物語」に過ぎません。 主人公が窮地に陥ろうが、それを辛くも脱しようが、そんな事は、私にとってどうでもいい事なのです。
もっと対象年齢の高い映画もあるわけですが、私がその世界に入り込んでいけない事に変わりはありません。 人生の意義について問いかける映画があったとしましょう。 しかし、そういう映画の主人公達の人生と、私の人生は、大きく掛け離れています。 彼らの人生が善きにつけ悪しきにつけ、≪特殊≫であるのに対し、私の人生は善くも悪くも、≪ありふれて≫います。 この差は、単に大きいだけでなく、根本的な性質の違いを含んでいます。 逆に考えて、もし私の人生を、映画やドラマ、小説などにしようとしても、超がつくような駄作にしかならないでしょう。
「自分の人生と違うからこそ、物語は憧れの対象になるんじゃないか」と思うでしょうが、それは若い内の話でして、心のどこかに、「いつか自分にも、こんなめくるめく体験をする時が来るかもしれない」と期待しているから、楽しめるのです。 歳を取るにつれ、「来るかもしれない」が、「来ないかもしれない」に変わり、やがて、「来るはずがない」、「来てたまるか」、「アホ臭い。 そんな事思いもしない」という所へ落ち込んで行くんですな。
次に考えられる原因は、結婚しておらず、子供もいない事。 これが結構大きいんじゃないかと思います。 結婚して子供がいる人に言わせれば、「独身の方が休みは楽しいに決まっている。 結婚は地獄だ。 自分の時間なんか無くなってしまう」と言うでしょう。 しかし、それはそれで、悪い事ではありません。 たとえ、やりたい事が出来なくても、やらなければならい事があるだけで、幸福だと言えるからです。 独身者にとって大問題なのは、やらなければならない事が存在せず、やリたい事はやりつくしてしまい、最終的に、やる事が何もなくってしまう事なのです。 虚無感ほど、やりきれないものはないです。
もちろん、部屋の掃除とか、布団干しとか、その手の雑事なら、やらなければならない事はあるわけですが、そんな事をしても面白くも何ともありません。 子供と一緒にレジャーに出かける事は、子供の成長に寄与する点で未来に繋がっていますが、布団を干す事に未来への希望を見出すのは、筋金入りのひねくれ者でも困難でしょう。 子供でなくても、何かを育てるという事は、未来を作るという点で、楽しみを齎します。 それは、犬やハムスターなど、動物であっても同じなわけですが、動物の成長には、時間的な制約があります。 成長している間は楽しいのですが、成体になってしまって、後は老化するだけなのが分かると、急に未来が閉ざされたような気分になるのです。 ただエサをやるだけ、ただ散歩に連れて行くだけ、それは楽しみというより、ただの作業です。
次の原因。 世界情勢や世の中の動きに興味がなくなった。 そういう事には、若い頃から人並み以上に首を突っ込んで来ましたが、これまた歳を取り、自分の人生の発展性が少なくなるに連れ、徐々に興味が薄れてきました。 どんな凶悪事件が起ころうが、国際情勢がどう流れようが、「そんな事、自分の人生には関係ないんだから、どうでもいいじゃないか」と感じる心がどんどん大きくなって来たのです。 何か、理不尽な事件が起これば、怒りはします。 憤りは感じる。 しかし、一方で、「そういう事があるのが、この世の中さ」と冷め切っている自分がいるのです。
私が何を考えようが、ブログで何を訴えようが、世の中がよくなるような感じがしない。 たとえ、小さな変化を起こす事が出来たとしても、それが私に対して、映画一本ほどのささやかな感動も与えてくれはしないのが分かっています。 そもそも、世の中が良くなるとは、どういう状態の事を言うのでしょうか? 犯罪が少なくなれば、確かに良い事でしょうが、犯罪を減らすためには、不満を抱く人間を減らさなければならず、全ての人間に不満のない人生を用意するのは、神であっても出来ない事です。
他人に影響を与える事は、罪深い事でもあります。 たとえば、ブログに政府を批判する文章を書いたとして、それを読んで、大いに共感した人間が、政府要人を殺害したりしたら、そんな気にさせた方も、犯行を唆した罪を免れないでしょう。 世の中をよくしようとして、実は悪くしているのかもしれず、自信を持って、「自分は良い事だけをしている!」と断言できる人はいないと思います。 もしいたとしたら、悪い事は言わないから、ちょいと精神科に通った方が宜しい。
「悪い事を無くして行けば、良い事だけが残るだろう」という論理で、欠陥潰しをして行く事は出来ますが、悪い事と良い事が表裏の関係になっていて、悪い事を潰せば、良い事も同時に消えてしまうケースが、非常に多い事に、歳を取れば取るほど気付くようになったのです。 ある人にとって良い事が、他の人にとっては悪い事という利害の対立は随所に見られ、単純な正義感や倫理観では、到底、世の中の事象をザクザク裁定して行く事など出来ません。 あまりにも乱暴すぎる。
善悪の基準すら曖昧なのでは、自信を持って、社会の為に何かをする事などできません。 タイムリーな事例として、現在同時に発生している、環境問題と経済危機の関係を見れば、どちらか一方を推し進めて解決する問題でない事が、よく分かると思います。 昨日まで、「環境が大事だ」と言っていた人も、経済危機で自分が失業すれば、「環境より雇用が大事だ」と言うに違いありません。 何とも自分勝手で、節操の無いことよ。 そんなのは信念とは言いますまい。 信念がないのなら、社会に対してああだこうだと意見するのは、やめた方がいいです。
そして、私にも、その厳密な意味での信念がないのではないかと、自分自身で疑っているのです。 若い頃には確かにありましたが、歳を取るにつれて、それを信じられなくなりつつあるのです。 少なくとも、他人に悪影響を与えてまで貫くような信念は、今や持ち合わせていません。 自分が他人から迷惑を被らないように、「○○するな」とは言えても、世の中の為に、「○○しろ」とは言えないのです。
こんな考えに至ったのは、私がもはや、社会の中心的な世代から外れつつある事から来ているのかもしれません。 まだ老人というには程遠い年齢ですが、社会の主役から外れてしまえば、40代だろうが80代だろうが、脇役、端役である事に変わりはありません。 脇役や端役が、主役の妨害をするのはよくないと思うのですよ。 また、許される事でもありますまい。
さて、どうしたものか・・・・。 これでは、生きる目標を見失ったのも同然ですな。 かといって、死ぬ気など髪の毛の先ほどもありません。 面白い事に、人間というのは生きる目標がなくても、積極的に死ぬ気にならなければ、決して自ら命を断ったりしないんですな。 生物の本能という奴でしょうか。 くだらん、やる事がなくなったくらいで、わざわざ死ねるか。 そんなの、面倒じゃないか。
世の中には、お金で解決できる事も多いですが、お金で得られる享楽は、金の切れ目が縁の切れ目でして、資産家でない我が身には、長期間持続不能である事が分かりきっています。 死ぬ気がない以上、寿命がある間は生き続けなければならず、その為には、お金を無駄遣いするわけには行きません。 結局、図書館に通って、読書で閑を潰すしかないんですかねえ。
最近ほとほと、やりたい事が見つかりません。 原因は幾つか考えられます。 第一に、歳を取った事。 今までに、やりたいと思った事はほとんどやってしまったので、趣味の発展する余地がなくなってしまったんですな。 言語学は己の理解力が届く限界までやったし、語学にもさんざん時間を費やした。 車も乗ったし、バイクで全国ツーリングもやった。 自転車も買ったし、登山もしてる。 写真も撮ったし、絵も描いた。 小説も書いた事があるし、読む方に至っては習慣化している。 音楽もそこそこ聴いたし、リコーダーも吹いた。 アニメも見てるし、映画も見てる。
もうやめてしまった事と、まだ続いている事がありますが、どちらにも共通するのは、もはや、何をやっても、ちっとも楽しいと思わない点です。 映画などは、受け身の趣味ですし、次から次に新しい作品が出てくるわけですから、飽きる事などないように思うでしょうが、いやいや、たとえ良く出来た映画であっても、歳を取って来ると、若い頃のように素直に反応しなくなって来るのですよ。 なぜというに、映画の主人公には、はっきりした目標や、将来への希望があるのに対し、見ているこちらは、それらを失っているので、感覚にズレが生じて、話の中に入りづらくなるからです。
たとえば、≪ハリー・ポッター≫ですが、子供の観客の場合、「自分が魔法学校へ入ったら、どんなに楽しいだろう」と思いながら見るでしょう。 しかし、人生折り返してしまった私が見る場合、「自分とは永遠に縁がない、遠い世界の赤の他人の物語」に過ぎません。 主人公が窮地に陥ろうが、それを辛くも脱しようが、そんな事は、私にとってどうでもいい事なのです。
もっと対象年齢の高い映画もあるわけですが、私がその世界に入り込んでいけない事に変わりはありません。 人生の意義について問いかける映画があったとしましょう。 しかし、そういう映画の主人公達の人生と、私の人生は、大きく掛け離れています。 彼らの人生が善きにつけ悪しきにつけ、≪特殊≫であるのに対し、私の人生は善くも悪くも、≪ありふれて≫います。 この差は、単に大きいだけでなく、根本的な性質の違いを含んでいます。 逆に考えて、もし私の人生を、映画やドラマ、小説などにしようとしても、超がつくような駄作にしかならないでしょう。
「自分の人生と違うからこそ、物語は憧れの対象になるんじゃないか」と思うでしょうが、それは若い内の話でして、心のどこかに、「いつか自分にも、こんなめくるめく体験をする時が来るかもしれない」と期待しているから、楽しめるのです。 歳を取るにつれ、「来るかもしれない」が、「来ないかもしれない」に変わり、やがて、「来るはずがない」、「来てたまるか」、「アホ臭い。 そんな事思いもしない」という所へ落ち込んで行くんですな。
次に考えられる原因は、結婚しておらず、子供もいない事。 これが結構大きいんじゃないかと思います。 結婚して子供がいる人に言わせれば、「独身の方が休みは楽しいに決まっている。 結婚は地獄だ。 自分の時間なんか無くなってしまう」と言うでしょう。 しかし、それはそれで、悪い事ではありません。 たとえ、やりたい事が出来なくても、やらなければならい事があるだけで、幸福だと言えるからです。 独身者にとって大問題なのは、やらなければならない事が存在せず、やリたい事はやりつくしてしまい、最終的に、やる事が何もなくってしまう事なのです。 虚無感ほど、やりきれないものはないです。
もちろん、部屋の掃除とか、布団干しとか、その手の雑事なら、やらなければならない事はあるわけですが、そんな事をしても面白くも何ともありません。 子供と一緒にレジャーに出かける事は、子供の成長に寄与する点で未来に繋がっていますが、布団を干す事に未来への希望を見出すのは、筋金入りのひねくれ者でも困難でしょう。 子供でなくても、何かを育てるという事は、未来を作るという点で、楽しみを齎します。 それは、犬やハムスターなど、動物であっても同じなわけですが、動物の成長には、時間的な制約があります。 成長している間は楽しいのですが、成体になってしまって、後は老化するだけなのが分かると、急に未来が閉ざされたような気分になるのです。 ただエサをやるだけ、ただ散歩に連れて行くだけ、それは楽しみというより、ただの作業です。
次の原因。 世界情勢や世の中の動きに興味がなくなった。 そういう事には、若い頃から人並み以上に首を突っ込んで来ましたが、これまた歳を取り、自分の人生の発展性が少なくなるに連れ、徐々に興味が薄れてきました。 どんな凶悪事件が起ころうが、国際情勢がどう流れようが、「そんな事、自分の人生には関係ないんだから、どうでもいいじゃないか」と感じる心がどんどん大きくなって来たのです。 何か、理不尽な事件が起これば、怒りはします。 憤りは感じる。 しかし、一方で、「そういう事があるのが、この世の中さ」と冷め切っている自分がいるのです。
私が何を考えようが、ブログで何を訴えようが、世の中がよくなるような感じがしない。 たとえ、小さな変化を起こす事が出来たとしても、それが私に対して、映画一本ほどのささやかな感動も与えてくれはしないのが分かっています。 そもそも、世の中が良くなるとは、どういう状態の事を言うのでしょうか? 犯罪が少なくなれば、確かに良い事でしょうが、犯罪を減らすためには、不満を抱く人間を減らさなければならず、全ての人間に不満のない人生を用意するのは、神であっても出来ない事です。
他人に影響を与える事は、罪深い事でもあります。 たとえば、ブログに政府を批判する文章を書いたとして、それを読んで、大いに共感した人間が、政府要人を殺害したりしたら、そんな気にさせた方も、犯行を唆した罪を免れないでしょう。 世の中をよくしようとして、実は悪くしているのかもしれず、自信を持って、「自分は良い事だけをしている!」と断言できる人はいないと思います。 もしいたとしたら、悪い事は言わないから、ちょいと精神科に通った方が宜しい。
「悪い事を無くして行けば、良い事だけが残るだろう」という論理で、欠陥潰しをして行く事は出来ますが、悪い事と良い事が表裏の関係になっていて、悪い事を潰せば、良い事も同時に消えてしまうケースが、非常に多い事に、歳を取れば取るほど気付くようになったのです。 ある人にとって良い事が、他の人にとっては悪い事という利害の対立は随所に見られ、単純な正義感や倫理観では、到底、世の中の事象をザクザク裁定して行く事など出来ません。 あまりにも乱暴すぎる。
善悪の基準すら曖昧なのでは、自信を持って、社会の為に何かをする事などできません。 タイムリーな事例として、現在同時に発生している、環境問題と経済危機の関係を見れば、どちらか一方を推し進めて解決する問題でない事が、よく分かると思います。 昨日まで、「環境が大事だ」と言っていた人も、経済危機で自分が失業すれば、「環境より雇用が大事だ」と言うに違いありません。 何とも自分勝手で、節操の無いことよ。 そんなのは信念とは言いますまい。 信念がないのなら、社会に対してああだこうだと意見するのは、やめた方がいいです。
そして、私にも、その厳密な意味での信念がないのではないかと、自分自身で疑っているのです。 若い頃には確かにありましたが、歳を取るにつれて、それを信じられなくなりつつあるのです。 少なくとも、他人に悪影響を与えてまで貫くような信念は、今や持ち合わせていません。 自分が他人から迷惑を被らないように、「○○するな」とは言えても、世の中の為に、「○○しろ」とは言えないのです。
こんな考えに至ったのは、私がもはや、社会の中心的な世代から外れつつある事から来ているのかもしれません。 まだ老人というには程遠い年齢ですが、社会の主役から外れてしまえば、40代だろうが80代だろうが、脇役、端役である事に変わりはありません。 脇役や端役が、主役の妨害をするのはよくないと思うのですよ。 また、許される事でもありますまい。
さて、どうしたものか・・・・。 これでは、生きる目標を見失ったのも同然ですな。 かといって、死ぬ気など髪の毛の先ほどもありません。 面白い事に、人間というのは生きる目標がなくても、積極的に死ぬ気にならなければ、決して自ら命を断ったりしないんですな。 生物の本能という奴でしょうか。 くだらん、やる事がなくなったくらいで、わざわざ死ねるか。 そんなの、面倒じゃないか。
世の中には、お金で解決できる事も多いですが、お金で得られる享楽は、金の切れ目が縁の切れ目でして、資産家でない我が身には、長期間持続不能である事が分かりきっています。 死ぬ気がない以上、寿命がある間は生き続けなければならず、その為には、お金を無駄遣いするわけには行きません。 結局、図書館に通って、読書で閑を潰すしかないんですかねえ。
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