トイレの一夜
12月23日・・・・。 忘れもしない、去年の12月23日は、一生の記憶に残る日になりました。 応援先の岩手から帰ってきた日なんですが、交通費をケチって、新幹線分出ていた帰宅旅費を、半額で抑えようと、普通列車で帰ろうとしたのが、間違いの始まり始まり・・・。
12月23日で岩手での仕事が終わる事が分かったのは、2週間くらい前です。 私の直は、23日は前直だったので、仕事が終わるのは、午後4時5分。 寮には、仕事が済んだ後も、数日間いられるのですが、一刻も早く帰りたいと思っていた私は、「その日の内に、電車に乗ってしまい、行ける所まで行って、終電になったら、その駅の待合室で夜明かしし、翌朝、始発に乗って先に進む」という、些か無理のある計画を立てました。
新幹線だと、18000円くらい掛かるのですが、普通列車なら、9000円で済む事が分かると、ケチな私の事ですから、後者を選ばずにいられません。 ちなみに、所要時間は、新幹線なら4時間、普通列車は、12時間くらいです。 しかし、9000円も浮くのなら、時間が3倍掛かるくらい、物の数ではありません。 吝嗇道とは、そういうものです。
図書館で地図を借りて来て、停車駅を書き出したり、時刻表が置いてある駅で関係ページを写真に撮って来たりして、乗り継ぎ計画を練りました。 乗り換え駅は、一関、仙台、福島、郡山、白河、黒磯、宇都宮、上野、東京、熱海の予定。 決心が鈍らないように、前の週の日曜に、沼津までの通しの切符を買ってしまいました。 長距離切符なので、途中下車が可能です。
最終日は、仕事が終わるなり、岩手在住の先輩に、車で最寄りの駅まで送ってもらいました。 持つべきものは、良い先輩ですな。 5時半頃の電車で出発。 3ヶ月住んだ土地を後にする事に、これといった感慨は無し。 それほど、きつい応援だったという事です。
出発した時、すでに暗くなりかけていたので、窓の外は、すぐに真っ暗になり、景色は全然見れませんでした。 時間帯的にも、通勤客用の編成になっていて、向かい合わせシートだったので、外を見れるような環境ではなかったのです。 一関、仙台、福島、郡山・・・と、下調べした通り、順調に乗り換えて行ったんですが、その日の終着駅となる白河駅で、大番狂わせが待っていました。
電車から下り、始発を待つために、ホームの待合室へ向かおうと思ったら、電車の中にいる車掌に呼び止められ、「この駅は、夜間は閉鎖しますから、いられませんよ」と言われました。 癌の宣告並みのショック! 最も重大な所で予定が狂い、顔面蒼白です。 「じゃあ、どうすればいいんですか!」と、縋るように訊くと、「駅前にビジネス・ホテルがあるから、そこに行くか、さもなきゃ、コンビニで粘るしかないですね」と、他人事のような答えが返って来ました。 まあ、事実、他人事なんですが。
冗談じゃないですよ。 そもそも、交通費を節約するために、普通列車にしたのに、ホテルなんかに泊まったら、浮いた分のお金が消し飛んでしまうじゃありませんか。 コンビニで粘るぅ? 馬鹿こくでねえよ。 その時点で、深夜0時、始発は、朝の5時ですぜ。 5時間も粘ってたら、警察を呼ばれてしまいますがな。 かくして、車掌のアドバイスは、両方とも、瞬殺で、没!
いや、没はいいんですが、朝5時までは、どこかにいなければならないわけで、第三の道を、否が応でも、王が嫌でも、見つけ出さなければなりません。 12時半頃までは、駅の改札を出た所にあったベンチに座っていたんですが、そこへも駅員がやって来て、「もう、閉めますから、出て貰えますか」と、冷たく告げに来ました。 ベンチに座りながら、「荷物だけでも、コイン・ロッカーに入れておこうか・・」などと迷っていたんですが、そんな事を実行する暇も無く、追い立てられるように、屋外へ出されてしまいました。
外は、12月下旬の東北の事とて、震えも停まるような、厳寒です。 雪こそ降っていませんでしたが、雨がポツポツ降っており、、大きな荷物二つの内、一つは紙袋でしたから、濡れて把手が取れてしまわないかと、ヒヤヒヤです。 とりあえず、コンビニに身を寄せようと思っても、白河駅前はかなりの広さで、視界の中に、コンビニらしき灯りは見当たりません。 もう、絶望の縁ですな。 朝まで4時間半、どうやれば過ごせるのか、神がいるなら、膝詰めで訊いてみたい心境。
駅の前にぼっ立っていても、何も解決しないので、とりあえず、移動しようと思って、向かって右側に歩き出したら、駅の横に、公衆トイレがある事に気付きました。 その、更に向こうには、交番があります。 駅前交番だから、24時間営業だと思いますが、交番に行ったら、「ホテルへ行け」と言われるに決まっています。 お金が無いわけではないので、「朝までいさせてくれ」とも言えません。 下手をしたら、会社に連絡されてしまう恐れもあります。 家に電話されるのは別に構いませんが、会社に知れると非常にまずい事になるのは、勤め人なら誰でも分かってくれるでしょう。
で、単純な消去法で、とりあえず、公衆トイレに入る事にしました。 結構大きなトイレです。 駅が閉まっても、やっているという事は、駅の附属トイレではなく、市営か公営なのでしょう。 個室に入り、鍵をかけ、幸いにも上面面積が広かったタンクの上に、荷物を置きました。 しかし、落ち着くには、程遠い有様です。 寒いし、狭いし、そこそこ臭いし、こんな所に、4時間半もいると思うと、頭がくらくらして来ます。
でも、そこを出たところで、他に行く当てはありません。 「もう、腰を据えて、ここで、朝を待つしかないのだ!」と悟るまで、10分くらい掛かりましたかねえ。 いやあ、惨めの極みですなあ。 若い頃ならいざ知らず、この歳になって、こんな目に遭うとは、想像もしませんでした。 逆に考えると、この期に及んでも、まだ、ホテルに泊まろうとせず、トイレに籠城する方を選んだ私は、気だけは若いという事でしょうか。 大人になりきれていないだけ、という見方も出来ますが。
寒い、狭い、臭いの三点セットの他に、問題がもう一つありました。 そのトイレ、照明が、人感センサー付きでして、天井に着けられたセンサーが、人間の動きを感知して、自動的に灯りをオンにするのです。 これは、密かに籠城している者にとっては、甚だ迷惑な機構です。 上述した通り、トイレの近くには、交番があるのでありまして、トイレには窓がありますから、トイレの灯りがつくと、交番から視認されてしまう危険性が、極めて高い。 夜通し、点いたり消えたりしていたのでは、不審を感じた警官が、踏み込んで来ないとも限りません。
冗談じゃないですよ。 そんな事になったら、絶対、会社に連絡されてしまいます。
「もしもし、こちら、福島県警の白河駅前交番ですが、お宅の社員だという男が、駅前のトイレに籠っているのを発見しまして。 何でも、交通費を節約したくて、新幹線を鈍行に変えて、終列車でこちらまで来たはいいが、当てにしていた駅の待合室から締め出されて、トイレで夜明かししようとしていたようなんですよ。 笑っちゃうじゃありませんか。 こんな馬鹿がいるんですねえ。 わはははは!」
最悪だ! それは、何より一等、最悪だ! 想像するだに、身震いがする! 何が何でも、蟹が噛んでも、それだけは、避けなければ!
で、人感センサーが反応しないように、じっと身を固くしているんですが、何せ、寒いので、足踏みくらいしていないと、凍傷になってしまいます。 ところが、どんなに小刻みに足踏みしても、センサーが目敏く見つけて、パッと灯りを点けてしまうのです。 あの時ほど、ハイテクを呪った事はありませんな。 うーむ、惨めさが盛り上がる。 これは、神の与え給うた試練なのか? 試練なら、試練らしく、もそっと、絵になるものにしていただきたい。 トイレで人感センサーと戦う姿なんて、人様にゃ見せられないね。
いい加減、疲れてきた頃、荷物の中に傘が入っている事に気付きました。 で、それを開いて、個室の仕切りの壁の上に引っ掛けてみました。 すると、どうでしょう、人感センサーが反応しなくなったじゃありませんか。 「やった! センサーに勝った!」 今にして思うと、サイテーの勝利だと思いますが、その時は、そんな事でも、泣くほど嬉しかったのです。 これで、遠慮なく、足踏みができるというもの。 もっとも、動けるのは傘の下だけなので、狭い個室が、ますます狭くなってしまったわけですけど。
これで、照明の問題は解決しましたが、警官に踏み込まれる危険性が、ゼロになったわけではありません。 誰か、トイレに入って来た利用者が、個室の上に傘が掛かっている事に不審を感じ、交番に通報しないとも限らないからです。 人が入ってこない事を、一心に祈りました。
最初の内は、「とても、とーても、こんな事は続けられない」と思っていましたが、1時間過ぎると、「2時間くらいなら、いられるかもしれない」と思うようになり、2時間過ぎると、「もしかしたら、3時間くらい粘れるかもしれない」と、少しずつ、希望の光が大きくなっていきました。 トイレで、希望の光が輝いても、あまり神々しくはありませんが、惨めな情況であればこそ、希望がありがたく感じられるのも、また事実。
途中、持っていたバター・ロールを食べたり、会社で貰ったリポビタンDを飲んだりしました。 なに、そんな寒い所で、リポDなんか飲んだら、小便が近くなって困るだろうって? いや、その点は大丈夫です。 だって、トイレの中ですから、いつでも、したい放題です。 むしろ、小便をしている時は、本来の利用方法を取っているわけで、警官に踏み込まれても、堂々と言い訳できると思って、ホッとしていました。
寒い、狭い、臭いの三拍子揃った環境で、4時間半ですよ。 個室からは、一度も外へ出ませんでした。 下手に出て、他の人間と顔を合わせてしまったら、格好だけでも、一旦はトイレから出て行かなければならなくなりますから、それを恐れたのです。 音だけで、外の様子を窺っていたわけですが、私が籠っていた間に、トイレに入って来たのは、3人で、全て、小の方でした。 誰も個室の方へ来なかったのは、運が良かったとしかいいようがありません。
その公衆トイレの個室は、ドアが閉まった状態が平常態だったので、中に人がいるかどうかは、ドアを押してみないと分からないのです。 もし、押されていたら、傘にも気付かれていたでしょう。 実に運が良かった。 もっとも、言うまでもなく、こんな惨めな情況に陥ったこと自体は、最悪に不運だったのですが。
4時間半、何を考えていたのというと、世界の国名を思い出していました。 若い頃に、世界地図を見ながら、丸暗記したのですが、今でも、95パーセントくらいは覚えていて、約200カ国ありますから、一巡するだけでも、かなりの時間が潰せるのです。 世界の首都名もやりました。 そちらは、70パーくらいしか覚えていなかったのですが、記憶の糸を手繰るだけで、結構気が紛れるものですな。
で、とうとう4時50分になりました。 もう、出てもいいでしょう。 個室を出られた時の、私の晴れ晴れとした気分が、想像できますか? 刑務所から出た人の気持ちが分かるような気がしましたよ。 生きているというのは、素晴らしい!
外は、まだ、真っ暗です。 雨は私がトイレにいる間中、降ったりやんだりしていましたが、外に出た時には、上がっていました。 駅に行くと、もう入り口が開いています。 改札には誰もいませんでしたが、始発の時間が迫っていたので、そのまま通りました。 ホームに出ると、前夜、私を待合室から追い立てた車掌がいて、始発電車を待っていました。 「こいつ、どこに泊まりやがったんだ?」という顔をしていましたよ。 ふふふ、まさか、4時間半も、トイレで過ごしたとは、お釈迦様でも気がつくまい。
間も無く、黒磯行きの始発電車が入って来ました。 中に入ると、暖房が効いて、ホカホカと暖かいこと、暖かいこと! 「ああっ、生き返った~・・・」と思いました。 「これで、沼津に帰れる・・・・」と、感動しました。 生きていて、良かったです。 人生は素晴らしい。
あれから、もう一年経つんですねえ。 こうして思い出していると、昨日の事のように、感じられるのですが・・・。
12月23日で岩手での仕事が終わる事が分かったのは、2週間くらい前です。 私の直は、23日は前直だったので、仕事が終わるのは、午後4時5分。 寮には、仕事が済んだ後も、数日間いられるのですが、一刻も早く帰りたいと思っていた私は、「その日の内に、電車に乗ってしまい、行ける所まで行って、終電になったら、その駅の待合室で夜明かしし、翌朝、始発に乗って先に進む」という、些か無理のある計画を立てました。
新幹線だと、18000円くらい掛かるのですが、普通列車なら、9000円で済む事が分かると、ケチな私の事ですから、後者を選ばずにいられません。 ちなみに、所要時間は、新幹線なら4時間、普通列車は、12時間くらいです。 しかし、9000円も浮くのなら、時間が3倍掛かるくらい、物の数ではありません。 吝嗇道とは、そういうものです。
図書館で地図を借りて来て、停車駅を書き出したり、時刻表が置いてある駅で関係ページを写真に撮って来たりして、乗り継ぎ計画を練りました。 乗り換え駅は、一関、仙台、福島、郡山、白河、黒磯、宇都宮、上野、東京、熱海の予定。 決心が鈍らないように、前の週の日曜に、沼津までの通しの切符を買ってしまいました。 長距離切符なので、途中下車が可能です。
最終日は、仕事が終わるなり、岩手在住の先輩に、車で最寄りの駅まで送ってもらいました。 持つべきものは、良い先輩ですな。 5時半頃の電車で出発。 3ヶ月住んだ土地を後にする事に、これといった感慨は無し。 それほど、きつい応援だったという事です。
出発した時、すでに暗くなりかけていたので、窓の外は、すぐに真っ暗になり、景色は全然見れませんでした。 時間帯的にも、通勤客用の編成になっていて、向かい合わせシートだったので、外を見れるような環境ではなかったのです。 一関、仙台、福島、郡山・・・と、下調べした通り、順調に乗り換えて行ったんですが、その日の終着駅となる白河駅で、大番狂わせが待っていました。
電車から下り、始発を待つために、ホームの待合室へ向かおうと思ったら、電車の中にいる車掌に呼び止められ、「この駅は、夜間は閉鎖しますから、いられませんよ」と言われました。 癌の宣告並みのショック! 最も重大な所で予定が狂い、顔面蒼白です。 「じゃあ、どうすればいいんですか!」と、縋るように訊くと、「駅前にビジネス・ホテルがあるから、そこに行くか、さもなきゃ、コンビニで粘るしかないですね」と、他人事のような答えが返って来ました。 まあ、事実、他人事なんですが。
冗談じゃないですよ。 そもそも、交通費を節約するために、普通列車にしたのに、ホテルなんかに泊まったら、浮いた分のお金が消し飛んでしまうじゃありませんか。 コンビニで粘るぅ? 馬鹿こくでねえよ。 その時点で、深夜0時、始発は、朝の5時ですぜ。 5時間も粘ってたら、警察を呼ばれてしまいますがな。 かくして、車掌のアドバイスは、両方とも、瞬殺で、没!
いや、没はいいんですが、朝5時までは、どこかにいなければならないわけで、第三の道を、否が応でも、王が嫌でも、見つけ出さなければなりません。 12時半頃までは、駅の改札を出た所にあったベンチに座っていたんですが、そこへも駅員がやって来て、「もう、閉めますから、出て貰えますか」と、冷たく告げに来ました。 ベンチに座りながら、「荷物だけでも、コイン・ロッカーに入れておこうか・・」などと迷っていたんですが、そんな事を実行する暇も無く、追い立てられるように、屋外へ出されてしまいました。
外は、12月下旬の東北の事とて、震えも停まるような、厳寒です。 雪こそ降っていませんでしたが、雨がポツポツ降っており、、大きな荷物二つの内、一つは紙袋でしたから、濡れて把手が取れてしまわないかと、ヒヤヒヤです。 とりあえず、コンビニに身を寄せようと思っても、白河駅前はかなりの広さで、視界の中に、コンビニらしき灯りは見当たりません。 もう、絶望の縁ですな。 朝まで4時間半、どうやれば過ごせるのか、神がいるなら、膝詰めで訊いてみたい心境。
駅の前にぼっ立っていても、何も解決しないので、とりあえず、移動しようと思って、向かって右側に歩き出したら、駅の横に、公衆トイレがある事に気付きました。 その、更に向こうには、交番があります。 駅前交番だから、24時間営業だと思いますが、交番に行ったら、「ホテルへ行け」と言われるに決まっています。 お金が無いわけではないので、「朝までいさせてくれ」とも言えません。 下手をしたら、会社に連絡されてしまう恐れもあります。 家に電話されるのは別に構いませんが、会社に知れると非常にまずい事になるのは、勤め人なら誰でも分かってくれるでしょう。
で、単純な消去法で、とりあえず、公衆トイレに入る事にしました。 結構大きなトイレです。 駅が閉まっても、やっているという事は、駅の附属トイレではなく、市営か公営なのでしょう。 個室に入り、鍵をかけ、幸いにも上面面積が広かったタンクの上に、荷物を置きました。 しかし、落ち着くには、程遠い有様です。 寒いし、狭いし、そこそこ臭いし、こんな所に、4時間半もいると思うと、頭がくらくらして来ます。
でも、そこを出たところで、他に行く当てはありません。 「もう、腰を据えて、ここで、朝を待つしかないのだ!」と悟るまで、10分くらい掛かりましたかねえ。 いやあ、惨めの極みですなあ。 若い頃ならいざ知らず、この歳になって、こんな目に遭うとは、想像もしませんでした。 逆に考えると、この期に及んでも、まだ、ホテルに泊まろうとせず、トイレに籠城する方を選んだ私は、気だけは若いという事でしょうか。 大人になりきれていないだけ、という見方も出来ますが。
寒い、狭い、臭いの三点セットの他に、問題がもう一つありました。 そのトイレ、照明が、人感センサー付きでして、天井に着けられたセンサーが、人間の動きを感知して、自動的に灯りをオンにするのです。 これは、密かに籠城している者にとっては、甚だ迷惑な機構です。 上述した通り、トイレの近くには、交番があるのでありまして、トイレには窓がありますから、トイレの灯りがつくと、交番から視認されてしまう危険性が、極めて高い。 夜通し、点いたり消えたりしていたのでは、不審を感じた警官が、踏み込んで来ないとも限りません。
冗談じゃないですよ。 そんな事になったら、絶対、会社に連絡されてしまいます。
「もしもし、こちら、福島県警の白河駅前交番ですが、お宅の社員だという男が、駅前のトイレに籠っているのを発見しまして。 何でも、交通費を節約したくて、新幹線を鈍行に変えて、終列車でこちらまで来たはいいが、当てにしていた駅の待合室から締め出されて、トイレで夜明かししようとしていたようなんですよ。 笑っちゃうじゃありませんか。 こんな馬鹿がいるんですねえ。 わはははは!」
最悪だ! それは、何より一等、最悪だ! 想像するだに、身震いがする! 何が何でも、蟹が噛んでも、それだけは、避けなければ!
で、人感センサーが反応しないように、じっと身を固くしているんですが、何せ、寒いので、足踏みくらいしていないと、凍傷になってしまいます。 ところが、どんなに小刻みに足踏みしても、センサーが目敏く見つけて、パッと灯りを点けてしまうのです。 あの時ほど、ハイテクを呪った事はありませんな。 うーむ、惨めさが盛り上がる。 これは、神の与え給うた試練なのか? 試練なら、試練らしく、もそっと、絵になるものにしていただきたい。 トイレで人感センサーと戦う姿なんて、人様にゃ見せられないね。
いい加減、疲れてきた頃、荷物の中に傘が入っている事に気付きました。 で、それを開いて、個室の仕切りの壁の上に引っ掛けてみました。 すると、どうでしょう、人感センサーが反応しなくなったじゃありませんか。 「やった! センサーに勝った!」 今にして思うと、サイテーの勝利だと思いますが、その時は、そんな事でも、泣くほど嬉しかったのです。 これで、遠慮なく、足踏みができるというもの。 もっとも、動けるのは傘の下だけなので、狭い個室が、ますます狭くなってしまったわけですけど。
これで、照明の問題は解決しましたが、警官に踏み込まれる危険性が、ゼロになったわけではありません。 誰か、トイレに入って来た利用者が、個室の上に傘が掛かっている事に不審を感じ、交番に通報しないとも限らないからです。 人が入ってこない事を、一心に祈りました。
最初の内は、「とても、とーても、こんな事は続けられない」と思っていましたが、1時間過ぎると、「2時間くらいなら、いられるかもしれない」と思うようになり、2時間過ぎると、「もしかしたら、3時間くらい粘れるかもしれない」と、少しずつ、希望の光が大きくなっていきました。 トイレで、希望の光が輝いても、あまり神々しくはありませんが、惨めな情況であればこそ、希望がありがたく感じられるのも、また事実。
途中、持っていたバター・ロールを食べたり、会社で貰ったリポビタンDを飲んだりしました。 なに、そんな寒い所で、リポDなんか飲んだら、小便が近くなって困るだろうって? いや、その点は大丈夫です。 だって、トイレの中ですから、いつでも、したい放題です。 むしろ、小便をしている時は、本来の利用方法を取っているわけで、警官に踏み込まれても、堂々と言い訳できると思って、ホッとしていました。
寒い、狭い、臭いの三拍子揃った環境で、4時間半ですよ。 個室からは、一度も外へ出ませんでした。 下手に出て、他の人間と顔を合わせてしまったら、格好だけでも、一旦はトイレから出て行かなければならなくなりますから、それを恐れたのです。 音だけで、外の様子を窺っていたわけですが、私が籠っていた間に、トイレに入って来たのは、3人で、全て、小の方でした。 誰も個室の方へ来なかったのは、運が良かったとしかいいようがありません。
その公衆トイレの個室は、ドアが閉まった状態が平常態だったので、中に人がいるかどうかは、ドアを押してみないと分からないのです。 もし、押されていたら、傘にも気付かれていたでしょう。 実に運が良かった。 もっとも、言うまでもなく、こんな惨めな情況に陥ったこと自体は、最悪に不運だったのですが。
4時間半、何を考えていたのというと、世界の国名を思い出していました。 若い頃に、世界地図を見ながら、丸暗記したのですが、今でも、95パーセントくらいは覚えていて、約200カ国ありますから、一巡するだけでも、かなりの時間が潰せるのです。 世界の首都名もやりました。 そちらは、70パーくらいしか覚えていなかったのですが、記憶の糸を手繰るだけで、結構気が紛れるものですな。
で、とうとう4時50分になりました。 もう、出てもいいでしょう。 個室を出られた時の、私の晴れ晴れとした気分が、想像できますか? 刑務所から出た人の気持ちが分かるような気がしましたよ。 生きているというのは、素晴らしい!
外は、まだ、真っ暗です。 雨は私がトイレにいる間中、降ったりやんだりしていましたが、外に出た時には、上がっていました。 駅に行くと、もう入り口が開いています。 改札には誰もいませんでしたが、始発の時間が迫っていたので、そのまま通りました。 ホームに出ると、前夜、私を待合室から追い立てた車掌がいて、始発電車を待っていました。 「こいつ、どこに泊まりやがったんだ?」という顔をしていましたよ。 ふふふ、まさか、4時間半も、トイレで過ごしたとは、お釈迦様でも気がつくまい。
間も無く、黒磯行きの始発電車が入って来ました。 中に入ると、暖房が効いて、ホカホカと暖かいこと、暖かいこと! 「ああっ、生き返った~・・・」と思いました。 「これで、沼津に帰れる・・・・」と、感動しました。 生きていて、良かったです。 人生は素晴らしい。
あれから、もう一年経つんですねえ。 こうして思い出していると、昨日の事のように、感じられるのですが・・・。
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