2012/05/20

閉じ行く可能性

  初めて、パソコンを買って、かれこれ11年。 その間、ずっと、インターネットには、無限の可能性があるような気がしていたんですが・・・、ふること幾星霜、あれこれ考え、感じた末、それはどうも、錯覚だったのではないかと思えて来ました。

  何かを調べたり、商品を安く買ったりするのには有効だと思うので、一足飛びに、「無くてもいい物」とまでは言いたくないのですが、「無ければ無いで、どうにかなるだろう」と言われれば、それを否定する事は困難ですし、「いっそ、無い方が、せいせいするのではないか?」と指摘されたら、図星を指されたような気分に陥るのも、隠しようのない事実。

  便利な点の筆頭は、ネットが無かった時代には、調べようが無かった事を、いとも用意に調べられるようになった事です。 テレビや紙媒体の情報と違って、その時に欲しい情報を、こちらから能動的に調べに行けるところが、合理的です。 ネット前は、何か高い物を買う時には、総合カタログが載った雑誌を買って来なければなりませんでしたが、ネット後は、遥かに詳細な情報が、自室にいながらにして手に入るようになり、雑誌という物を、およそ、買わなくなりました。

  ついでに、本屋にも行かなくなりました。 この11年間に本屋で買った物と言うと、合計しても、1万円にもならないと思いますが、ネット前だったら、考えられない事ですな。 総額も僅かですが、その中に、雑誌は、一冊も含まれていません。 そういえば、雑誌業界は、廃刊が相次ぐ危機的状況が、延々と続いているようですが、それも、むべなるかな。 逆に、こちらから質問させてもらうなら、「今時、誰が、何の目的で、雑誌を買っているのですか?」という感じです。 そういう人達は、ネットを、やってないんですかね?

  雑誌の良くないところは、特定個人にとって、不要な情報の方が多い事です。 200ページあったら、読みたいところは、10ページくらいが、いいとこでしょう。 あとの190ページは、自分向けでない情報のために、無駄金払っているわけで、馬鹿馬鹿しいやら、勿体無いやら、エコノミー的にも、エコロジー的にも、居ても立ってもいられません。 雑誌を買う事を生活スタイルにしている方々、悪い事は言わぬ、即刻、そんな陋習は断ち切って、ネットに切り替えるべし。 部屋の中が、驚くほど、すっきりするぞ。

  おっと、脱線しとるではないか。 ネットの問題点を指摘したかったのに、誉めてどうする? 勧めて何とする?


  確かに、ネットは、何かを調べるのには、役に立つ。 ただねえ、お金もかかるんですよ。 通信費だけで、年に5万円くらいは払うわけで、一人で払っていると、結構、厳しいですな。 携帯を持っていれば、通信費が二重払いになってしまい、もはや、洒落になりません。 一人暮らしで、携帯を優先し、パソコンによるネットはやらないという人も多いのではありますまいか。 パソコンしかやっていない私から見ると、携帯オンリーの人というのは、「情報量、少ないだろうなあ」と思えるのですが。

  ここ数年、目が悪くなって、近くに焦点が合わなくなったせいもあり、携帯のあの小さな画面を覗き込む気になれません。 それは、スマート・フォンでも大差無し。 タブレット端末くらいになれば、まずまず見れそうですが、あんな大きな物を、持ち歩く人の気が知れませんし、家でのみ使うのなら、デスク・トップのパソコンの方が、遥かに使い易いです。 結局、私は、携帯端末には縁が無いわけですな。

  そうそう、タブレット端末と言えば、こないだ、ふと思い出したのですが、≪機動戦士ガンダム F91≫という劇場版アニメの中に、タブレット端末としか思えない道具が、ちらっと出て来ます。 軍の高官の息子で、外見はいいが、ちょっとオタクっぽい少年が持っていて、避難する途中、仲間に向かって、地図を表示して見せて、「ほら、僕の記憶に間違いは無いよ」というような台詞を口にします。 演出意図的には、空気が読めない金持ちのボンボンが、高いオモチャを見せびらかす様子を、皮肉っている感じでした。

  ≪F91≫は、1991年の公開ですから、作られたのは、それ以前で、タブレット端末どころか、インターネットも無い頃です。 そう思うと、「未来の道具を予言していたんだねえ」と感心しそうになりますが、よくよく考えると、それは買い被りなのであって、外見がタブレット端末に似ているというだけで、たぶん、ネット接続は念頭に置いてなかったと思われます。

  ちなみに、SF業界が、ネットや携帯の出現を予測できなかったのは、世界的な現象でして、アメリカの大作映画でも、日本のアニメでも、現物が出回る時代まで、それらしき物は、まったく姿を見せませんでした。 日本のSF作家が、世間から一目置かれなくなり、ファンを急激に減らしてしまった最大の原因は、ネットや携帯の登場を予測できなかった大失態にあると、私は見ています。 テレビ電話なんて、おっよそ使えない物は、早々と登場させていたのにねえ。 無様なほどに、貧困な想像力だったことよ。

  そういえば、≪ドラえもん≫の道具も、ほとんど、実現していませんねえ。 逆に、ネットや携帯を、ドラえもんがポケットから出したとして、それで、ストーリーが出来るかと考えると、結構、皮肉が利いた話が作れそうですな。 90年以前に発表していればの話ですが。

  まーた、脱線しとるのう。 何とかせねば。


  ネットのもう一つの便利さは、商品を安く買える事です。 特に、ここ数年は、送料無料のショップが増えたおかげで、俄然、買い易くなりました。 同じ商品なのに、実店舗より、2・3割安いのですから、ネットで買うなという方が無体です。 電気製品の場合、以前は、「実店舗で買っておいた方が、故障した時、簡単に持っていける」という利点があったのですが、経験的に、「家電製品は、保障期間内には、壊れないように出来ているらしい」と分かって来たせいで、いつしか、ネットで買う事に、抵抗が無くなって来たのです。 保障期間を過ぎた後の故障は、どの店へ持って行っても、同じですから。

  ネット通販の、最後の問題点は、千円以下の商品の送料を無くせるかどうかですな。 実店舗で800円の品が、ネットで300円で売っているのを見つけても、送料を500円以上取られるので、得になりません。 何か、高い物を買う時に、一緒に買うという手もありますが、家電製品では、なぜか、それを禁じているショップもあります。 今でも、封筒に入れられる大きさなら、ほとんど気にならない額の送料で買う事ができますが、それを、嵩張る物にも広げられないものか。 500円以下の商品の場合、出す気になる送料は、せいぜい、200円まででしょう。


  ただ・・・、ネットでは、買い易いがゆえに、必要無い物まで買ってしまう弊害が、常に付き纏います。 「そもそも、そんな製品がある事を知ったのが、ネット上だった」という場合、ネットをやっていなければ、そんな買い物をしなくても済んだわけです。 買わないで済めば、それより安い物はありゃしません。 ネットのおかげで、得をしたのか、損をしたのか、判別し難いところ。

  もし、一切、ネットをやっていなかった場合、通信費がまるまる浮くわけですが、「果たして、ネットでの買い物で、年に5万円分も得をしているのか?」と計算すると、とても、そんなところまでは達していません。 私が、この11年間に払った55万円の通信費は、それに見合う利益を、私に齎したのでしょうか? 大いに、疑問です。


  これは、調べ物についても、同じ事が言えるわけで、「知らぬが仏」という金言もあるように、何でも、知っていれば幸福というわけではありません。 たとえば、胸糞悪いニュースなどは、知らないまま過ごしてしまえば、知った場合よりも、確実に、精神衛生に良い影響を与えると思います。 試しに、ネットで得た情報で、いい気分になった事と、悪い気分になった事を、正の字書いて記録して行ったら、圧倒的に、悪い方が多いのではないでしょうか。

  社会問題や国際問題に興味がある事を売りにしている人達は、日々、ネットの情報に噛り付いて暮らしているものと思われますが、そんな事を続けてたら、24時間年中無休で、気分がムカムカしてしょうがないでしょう。 自分に直接関係無い事なのに、「許せん!」だの、「看過できぬ!」だのと憤って、机を拳で叩いたり、柱に額を打ち付けたりしてたら、身が持ちませんぜ。 許す許さんの前に、そんな、どーでもいー情報は、そもそも、頭に入れなきゃいいんですよ。 簡単且つ確実な対策ではありませんか。


  さて、ネットの最大の問題点に、話を移しましょう。 何かって? それは、赤の他人と知り合いになれる事です。

「それは、最大の利点なのでは?」

  いやいやいやいや、いやいやいやいや・・・、私も、長い間、そう思っていたのです。 そう思っていたからこそ、ネットを続けて来たわけです。 だけどねえ、時代は変わりましたよ。 もう、赤の他人と、ネットでお友達になるような御時世ではないのです。 悲しくも寂しい事にね。

  ネット社交は、パソコン通信の時代を別にすると、チャット、公共掲示板、個人サイトの掲示板、ブログ・コメント、ツイッター、フェイスブックと、移行してきたわけですが、あくまで、移行であって、発展ではありませんでした。

  チャットの忙しなさが嫌われて、公共掲示板に移り、公共掲示板の殺伐とした雰囲気が避けられて、個人サイトの掲示板に移り、個人サイトの掲示板のネタ切れや、長文書き込みの負担が疎まれて、ブログ・コメントに移り、ブログ・コメントでもまだ長過ぎると言って、ツイッターに移ったものの、結局、ツイッターも、赤の他人を相手にしなければならない事に変わりが無く、「他人にゃ、もう懲りた」というわけで、現実世界の知り合いのみを相手にする、フェイス・ブックに逃げ込んだというのが、現況でしょう。

  つまり、ネットに於ける他人との交友は、全世界的に、失敗に終わったのです。 これは、非常に重大な意味を持つ結果です。 ネットの持つ可能性レースに於いて、最も有力だった候補が、脱落してしまったわけですから。 背骨が抜けて、肋骨や腰骨だけ残っているという感じ。


「昨日まで、全然知らなかった人とも、すぐに友達になれる」

  ああ、懐かしい謳い文句ですねえ。 だけど、全て、錯覚だったんですなあ。 本当に、友達になれましたか? オフ会で顔を合わせるところまで行っても、結局、知り合い止まりだったんじゃありませんか? そして、最後に話をしてから、すでに何年も経っていて、「そういえば、あの人、どうしてるかなあ」などと、遠い目をして、思い出しているわけだ。 もちろん、かつて、会話を交わしていた掲示板は、とうの昔に閉鎖されているか、廃墟になっているかのどちらか。 うーむ、万骨枯る・・・。


  仔細に思い出すと、私がネットを始めた2001年には、公共掲示板が猖獗を極めていて、「誹謗中傷が目白押し」だの、「自殺を幇助している」だの、何かと社会問題化していました。 自分の事を、まともな人間だと思っていたら、そんな所に近づきはしないのですが、「ネット、イコール、公共掲示板の事」と勘違いした人達が、止せばいいのに関わって、ボロクソに吊し上げられて、心的外傷ストレスを喰らい、江戸の敵を長崎で討つべく、個人サイトの掲示板にまで、悪意に満ちた書き込みをして、顰蹙を買っていたものです。


  2003年頃には、すでに、個人サイトの掲示板は、回転が悪くなっていて、管理人がレスを書くのが嫌になって逃亡したり、誰も彼もが自分のサイトを立ち上げたせいで、客不足になり、一日一件の書き込みが、週に一件、月に一件、年に一件と減って行き、(言い回しの冗談ではなく、実際に、無数に発生した事)、誰にも知られないまま閉鎖される掲示板が相次ぎました。

  オフ会の弊害が問題になったのも、この頃でしたか。 礼儀を弁えて、楽しくやっていたのは最初だけ。 現実世界での交際を申し込まれたり、変な物を買わされたり、「お土産」と称して、要らない物をを押し付けられたり、家に押しかけられたり、まーあ、考えられるような事は、みんな、起こったようですな。

  特に、全然うまく行かなかったのは、男女間の交際です。 ネットでは、意気投合していても、実際に会うと、「顔が問題外」という事が多いため、「オフ会の直後から、掲示板に来なくなった」という人がうじゃうじゃ出る始末。 そりゃ、そうだよ。 現実世界でモテる人は、そもそも、ネットで交友しようなんて、思わないって。 味噌っ粕ばっかりが集まって、慰め合っているのがネットなのよ。

  ネットで知り合って、現実に交際し、結婚まで漕ぎ付けたなんて人は、どれだけいるやら。 ゼロとは言いませんが、相当には、稀なケースだと思いますよ。 「人は見た目が9割」というのは、嘘じゃないんです。 ネットで築いた関係を壊したくなかったら、現実世界では、決して顔を合わせない事ですな。

  掲示板が衰えると、個人サイト自体も、新規立ち上げが激減し始めました。 まあ、カテゴリーには限りがあるんだから、当たり前といえば当たり前ですな。 すでに、他の人がしっかりしたサイトを作っていると、後発組には、入り込む隙がありません。 真似をしても、客が来ないので、その内、飽きてしまって、放置や閉鎖という結末になるのです。


  で、2004年頃から、ブログが出て来て、 新たにネットを始めた人達は、ブログから入っていったわけですが、ブログも、個人サイトと同じ問題を抱える事になります。 あまりにも簡単に作れるため、全体数が多くなりすぎて、やはり、客不足に陥ったのです。 ブログで、真っ当に繁盛している所というと、有名人ブログくらいのものでしょう。 一般人の所は、まーあ、人が寄り付かないね。 「開設して一年経ったが、打たれたコメントは、一件だけ。 しかも、宣伝だった」なんてーのは、ザラです。

  で、考える事はみんな同じで、自分の所にコメントを打って貰いたいだけの目的で、別に興味も無い人のブログに、コメントを打ちに行くわけだ。 返礼で、来てくれると思ってね。 みっともないというか、虚しくならんかね? 私ゃ、すぐに、嫌になっちゃいましたよ。 エネルギーの無駄だね。

  また、ブログのコメントというのは、記事ごとに付くもんだから、同じ記事に打たれるコメントは、みんな、内容がそっくり。 レスの内容も、そっくり。 一つの記事に、コメントが20件ついていると、最初の10件は、似たような内容の書き込みで、後の10件は、似たような内容のレスなのであって、読む気も起こりません。 そんなの、交友ではないですよ。 ただの、機械的・義理的な作業に過ぎません。


  ブログのコメントでも、まだ長ったらしいという事で、登場して来たのが、ツイッターです。 これは、読むほどのボリュームは端から無いのですが、内容がスカスカ過ぎて、単に見る気にさえなりません。 確かに、呟いた程度の内容なら、文字にするのも簡単でしょうが、内容が無いんじゃ、面白くも何ともありますまい。

  現実世界に於いて、独り言をぶつぶつ言い続ける人というのがいて、別に害は無いものの、「あー、この人、ちょっと、心が病気なんだなー」と思いつつ、聞こえなかったふりをして、そっと、傍を離れるわけですが、ツイッターでは、その独り言を、他人に聞かせる事を前提に公表しているのだから、書いている方も、読んでる方も、たっぷり、病的です。

  なんで、こんなものが流行ったのか、首を傾げすぎて、ムチ打ちになりそうですが、考えられる説明としては、「他人と話がしたい。 だけど、長い文章を読み書きするのは、面倒臭い」という、その一心で、飛びついたという事でしょうか。 でもねー、呟き程度の情報量では、人間の思考の、ほんの表層だけしか伝え合えないと思いますよ。 わざわざ、手足を縛って競争しているようなもので、奇妙奇天烈でしょうに。


  さて、全てが行き詰った後、彗星の如く現れたのが、フェイス・ブックだったわけですが、これがまた、本末転倒を具現化したような代物でして、額に脂汗、背筋に冷汗、もはや、ネット交友の歴史に幕を下ろすために登場して来たとしか思えません。

  なーにーぃ? 現実世界の友人知人と、ネット交友するーぅ? アホけ、われーっ! 現実世界で会ってるなら、口で話さんかい! なんで、わざわざ、ネットを通さんならんねん! そんなの、糸電話で遊んどるガキどもと、どー違うねん!

  いやいやいやいや、実はねえ。 こういうシステムが流行る素地はあったんですよ。 個人サイトの掲示板が衰え始めた頃、何ヵ所かで見たんですが、掲示板に書き込んでいる人間が、管理人の現実世界の知り合いばかりなのです。 取り上げられる話題も、「今日は楽しかったね」とか、「今度、どこそこに行くけど、一緒にどう?」とか、現実世界の行為に関する事ばかり。 たまに、全然知らないゲストが入って来ると、管理人に動揺が走り、他のゲストからは、暗に邪魔者扱いされます。

  こういう、身内だけで話したいという人達は、確かに、以前からいたのです。 他人を嫌う理由は、簡単に推測できます。 公共掲示板を餌場にしているキチガイどもほどでないにしても、一面識も無い他人というのは、信用できないのであって、できる事なら、一切付き合いたくない。 しかし、ネットを使った交友はしたい。 そこで、身内オンリーの、超がつくほど狭いネットワークを作って、そこに立て籠もろうという算段なのです。

  しっかしねー、そりゃあもう、ネット交友の全否定に近いですよ。 他人と知り合いになれるからこそ、現実世界の交友との違いが出て来るのであって、身内と話すツールに限定してしまったのでは、携帯でメールを打ち合っているのと、選ぶところがありますまい。 わざわざ、パソコン用に通信費を払うだけ無駄ではありませんか。 「ネット? うん、やってるよ」と自慢したいためだけに、通信費払ってるんですか?


  フェイス・ブックには、実名登録という、もう一つの奇妙な面があります。 こちらも、首を傾げないでいられませんなあ。 もう、ムチ打ちどころの話ではなく、エクソシストばりに360度回ってしまいますよ。 なに、エクソシストなんて、知らん? 名作映画です。 見ておきなさい。 それはともかく、実名登録です。 何考えてんだ、おんどれら! ネットで、実名を曝すなんて、怖いもの知らずの無防備にも限度があろうというもの! 個人情報を何に悪用されるか、分かったもんじゃありません。 マジで、正気か?

「実名公開のおかげで、子供の頃の友達の消息を、何十年ぶりかで、知る事ができました」

  いやいやいやいや、そんな、くっだらない事のために、個人情報を露出させてしまうなど、まったく、引き合わない事だと思いますぜ。 昔の知り合いと連絡が取れたからって、なんだってーのよ? 何十年ぶりかであったら、相手が借金魔になっていて、しつこく付き纏われた、なんてのは、大いにありそうなケースですが、それでも、フェイス・ブックを、素晴らしいシステムだと思いますかね?

  これは、ほいほい無警戒に、オフ会に出掛けていって、ストーカーに取り付かれてしまったケースと、全く同じです。 現実世界と、ネット世界の違いが分かっていません。 一方に、もう一方の流儀を持ち込んではいけないんですよ。 ネット交友は、ネット上で行なっている限りに於いて成立する、≪夢≫のようなもので、現実世界で、続きを見る事はできないのです。

  「現実世界の友人を通じて、他人と友人になる」という機能もあるらしいですが、そんなの、個人サイトの掲示板での付き合いと同じではありませんか。 結局、他人なんだから。 もし、何かトラブルが起きた時に、間に入った友人が、責任を取ってくれるわけじゃないんでしょう? 別に目新しいものではないのに、画期的なアイデアのように持ち上げるのは、やめた方がいいですな。

  個人サイトやブログの辿った経過を見れば、いずれ、ツイッターやフェイス・ブックも、同じように見捨てられていくのは、疑いの無いところです。 フェイス・ブックの創業者は、今こそ絶頂ですが、末路は悲惨なんじゃないでしょうか。 その頃には、誰も、見向きもしなくなっていると思いますが。 フェイス・ブックの株で儲けている人は、売り時の見極めが肝心ですな。


  こうして、見てくると、インターネットに無限の可能性があるとは、思えなくなって来ませんか? これからも、いろんなシステムが登場すると思いますが、どれも、問題を抱えているに違いないのであって、そのつど、一喜一憂させられるのは、疲れます。

「いっそ、やめてしまったら?」

  ここ、二・三年というもの、この囁きが、脳裏に浮かぶ頻度が高くなって来ました。 やめれば、すっきり清々するのは、間違いなし。 通信費の支払いから解放されるのが、何よりも嬉しい。 しかし・・・、ネットをやめるとなると、家にいる時に、やる事が無くなってしまうのも事実でして、それが、悩ましいところなのです。