武士道ストーカー
逗子のストーカー殺人・自殺事件。 まだ、新しい事実が、ポツポツ出続けているのですが、事件そのものは、これ以上の展開は無いので、この辺りで、感想を書いてしまおうと思います。 あまり時間が経つと、世間は、すぐに忘れてしまいますから。
元教員の男が、以前、付き合っていた女性が他の男と結婚したのを恨み、ストーカー行為を続けた挙句、女性を刺し殺し、その直後、自分も首を吊って自殺したというもの。 逗子は、被害者の女性が夫とともに住んでいた場所です。
元教員かどうかは、どうでもいいです。 教員であった事が、この事件に全く関係していなかったとも思わないのですが、「元教員だから、ストーカー行為は許せない」とか、「元教員だから、殺人は以ての外」という責め方は筋違いだと思うので、その点は、どうでもいいという意味です。 ちなみに、私は、筋金入りの教師嫌いですが、それも、この際、考慮に入れない事にします。
ストーカー殺人というと、1999年の≪桶川ストーカー殺人事件≫が真っ先に頭に浮かぶのですが、あの事件の時に胸に湧いて来た強烈な嫌悪感は、今度の事件では、なぜか感じません。 桶川事件の時には、犯行グループの事を、人間でもなければ、ケダモノですらなく、何やら、形容しがたい汚らわしい妖怪のように思えたものですが、今度の事件の犯人は、人間に見えるのです。 ストーカー行為は、もちろん、犯罪ですし、殺人は最大の重罪であって、両事件の罪の大きさは変わらないにも拘らずです。
両事件に違いを感じる理由は二つ考えられます。 一つ目は、犯人と被害者が交際していた時、「結婚の約束をしていた」という証言がある点。 もう一つは、犯人が、被害者の殺害後、自殺しているという点です。
まず、「結婚の約束」の方。
これは、犯人の男がそう言っていただけで、被害者側は、「結婚の話は出たが、婚約はしていなかった」と、ストーカー被害者の相談に乗っているグループの人に話していたとの事。 二人とも死んでしまった今となっては、事実がどうだったのか、もはや確かめようがありません。
≪婚約≫というのは、法律上の手続きではないので、どの段階を指して、婚約と言うかは、人によって、取り方が異なります。 求婚して、承諾を貰ったら、それで、婚約したと取る人もいますし、婚約指輪を贈ったり、双方の両親に承諾を得たりしなければ、婚約とは言えないと考える人もいるでしょう。
この事件の場合、「結婚の話が出た」ところまでは、確実だと思われますが、その話が、犯人の求婚だけで終わったのか、被害者が承諾まで与えていたのか、そこがはっきりしません。 ただ、被害者が承諾を与えていなかった場合、犯人は、「結婚の約束をした」とは、言わないのではないかと思うのです。
求婚して断られるケース、もしくは、「考えさせて」と言われたけれど、返事をもらえないまま、時間が経ち、別れてしまうケースは、いくらでもあると思いますが、その場合、求婚された方はもちろん、求婚した方も、「結婚の約束をした」とは、言わないと思うのですよ。 プライドが非常に高いと思われる、この犯人なら、尚の事。
一方、被害者が、結婚の約束をしたにも拘らず、「口約束は、婚約とは言えない」と考えていたために、相談相手に、「婚約はしていなかった」と告げていた可能性は、考えられる事です。 ただし、所詮、これは推測であって、事実がどうだったかは分かりません。
以下、もし・・・、あくまで、もし、の話ですが、本当に結婚の約束をしていたのだとしたら、この犯人が、被害者を許せなかった気持ちが、幾分は理解できるような気がするのです。 結婚の約束をした相手が、別れ話を持ち出して来て、程なく他の男と結婚したら、普通は、腹が立ちます。
別れてから、被害者が他の男と結婚するまでに、二年あるわけですが、この間も、犯人からのストーカー的な接触は続いていて、客観的且つ厳密に見れば、「別れた」というよりも、「別れようとしていた」時期なのであり、その間に、他の男と結婚してしまったのですから、それは、犯人は怒るでしょう。
たぶん、被害者は、犯人のストーカー行為をやめさせるため、「他の男と結婚してしまえば、諦めるだろう」と考えたのだと思いますが、完全な逆効果になってしまいました。 被害者は犯人と二年間、交際していたようですが、犯人の性格の激しさを全然見抜けていなかったんですな。 怒りの炎に油を注いだだけ。
結婚を約束した相手に逃げられただけでも、大変な屈辱なのに、その上、「寝取られ男」になってしまったわけで、犯人は、恐らく、目も眩むような怒りを覚えたと思います。 ≪武士道≫の世界だったら、「復讐しないで、死ねるものか」と、考えるでしょう。 こういう性格類型は、≪葉隠れ≫を読むと、よく分かります。
「武士道気質の人間は、ストーカー行為などしないだろう」と思うかもしれませんが、そんな事はないのであって、武士道に於いては、何よりも、≪一途≫である事が尊ばれます。 「一押し二押し三に押し」なのです。 「男は諦めが肝心」などという考え方は、武士道とは、全く相反します。 一度決めたら、間違っていようが、周囲が全員反対しようが、命を捨ててでも完遂するのが、武士道の精神なのです。
昔の自然結婚では、「相手が嫌がっているのに、略取や監禁、強姦も辞さず、ごり押しで結婚した」などという例は、いくらでもあったのであって、それに比べたら、現代のストーカー行為が、特段、悪質化しているとは言えません。 もちろん、それらの行為を正当化する気は、毛頭ありませんが。
被害者だけでなく、被害者の夫も、被害者の親も、ストーカーと言ったら、≪桶川事件≫の犯人グループの印象が強かったでしょうから、ストーカーを、≪純然たる卑劣漢≫のイメージだけで捉えていて、武士道気質の犯人に対して、被害者の結婚が、どんな影響を及ぼすか、想像が及ばなかったのかもしれません。
女性の立場から見ると、「結婚を約束していたとしても、別れた時点で、それは白紙に戻っているのだから、他の男と結婚しても、文句を言われる筋合いは無い」と思うと思いますが、立場を逆転させて、犯人が女で、被害者が男だったとしたら、どうでしょう。 自分と結婚の約束をしていたのに、他の女と結婚した男を、許せるでしょうか。
言うまでもなく、結婚の約束を反故にしただけでは、なんら罪には問われないわけで、この被害者には、法的に全く落ち度は無いのですが、倫理面で考えると、「どうしてまた、すぐに別れる事になるような男と、結婚の約束をしたのか?」と、その点が訝しく思えてしまうのです。 結婚の約束って、そんなに軽いものなんですかね?
ただし。以上の見解は、あくまで、「結婚の約束をしていた」という犯人の証言が事実だった場合の話です。 もし、被害者が承諾を与えておらず、犯人が勝手な思い込みで、そう言っていただけだとしたら、ただの陳腐な「勘違い野郎」なのであって、同情する余地はありません。
次に、犯人が、被害者の殺害後、自殺している件について。
この事件では、殺害から自殺までが、一連の行動になっており、犯人が自殺を覚悟した上で、殺害行為に及んだのは、疑いの無いところです。 つまり、「無理心中」なのです。 「心中」と「無理心中」は、相手の同意があるかないかで、大違いですが、たとえ、「無理心中」であっても、「心中」と名が付くだけで、ただの「殺人・自殺」とは、随分とイメージが違って来ます。
≪桶川事件≫でも、被害者の交際相手だった男は、最終的に、屈斜路湖まで逃げ、そこで自殺しているのですが、それは、共犯者達が逮捕され、自分も指名手配されて、それ以上、逃げられないと悟り、精神的に追い詰められて自殺したものであり、覚悟の自殺とは、全く違っています。
被害者が離れて行った後、犯人は、「生きる目的を見失った」と言っていたそうですが、自分だけが死ぬのではなく、被害者を道連れにしたのは、やはり、武士道気質から湧き起こる復讐心を抑え切れなかったのではないでしょうか。
交際中、犯人は、被害者の事を、「赤い糸で結ばれた、人生の伴侶となる人」と見做していた形跡がありますが、そう思っていればこそ、裏切られた時の怒りはいかばかりか。 相手を殺さずに、自分だけ死ぬなど、武士道的には、ありえない選択です。
また、相手だけ殺して、自分は生き残るというつもりもなかったわけで、そこが、≪桶川事件≫の犯人達と、根本的に違うところです。 もし、いやがらせや、脅迫メールの大量送りつけなど、ストーカー行為が無く、いきなり、殺害・自殺に及んでいたら、この犯人に対して、あからさまに同情を寄せる人間が、たくさん出て来たのではないでしょうか。
特に、過去に、「赤い糸で結ばれている」と信じた女性にふられた経験がある男性は、全員、被害者を蔑み憎み、犯人の味方に回ったと思います。 「よくぞ、自分自身の仇を討った」と。 いやしくも、殺人行為に手を染めた人間なのにね。
もっとも、ストーカー行為が無く、いきなり、殺人と自殺が行われた場合、普通、大きなニュースにはならず、「痴情の縺れによる犯行」で片付けられてしまいます。 そういう事件では、世間は、犯人は勿論の事、被害者にさえも、同情を寄せません。 犬も喰わない話なので、無視され、記憶すらされないのです。
この事件、≪桶川事件≫と同様に、警察の対応がまずかった事が、大きな問題になっています。 確かに、犯人に対して、被害者の結婚後の姓や、住所を教えてしまうなど、「馬鹿か?」と思うような、幼稚極まりないミスをやらしていて、呆れ返ります。 ただ、警官なんて、所詮、そんなもんだという気がせんでもなし。 刑事ドラマなんて、嘘ばっかよ。 アホの占有率は、学校や会社など、他の組織と、全く変わらないと思いますぜ。
ストーカー被害の訴えに対して、警察の反応が鈍いのには、それなりの理由があります。 まず、≪痴話喧嘩≫レベルの争いを、警察に持ち込む人間が多いため、「犬も喰わない」意識が働いて、真剣に取り合う気にならない。 また、≪痴情の縺れ≫による事件を、日常的に嫌になるほど見ているので、ストーカーだからと言って、特別扱いする気にならない。
また、警察という組織は、基本的に、事件が起こってからでないと動けないので、ストーカーによる迷惑行為だけだと、普通の嫌がらせ行為などと同列の対応しか取れないのです。 この事件でも、手紙は法律で禁止されていたけれど、メールには規制がなかったために、「取締りの対象にならない」といって、取り合わなかったそうですが、法律がそうなっているのでは、どうにもしようがありませんな。
世間やマスコミが、警察を吊るし上げるのは、別に、私の知った事ではないですが、もし、「警察さえしっかり対応していたら、この事件は起きずに済んだ」と思っているのなら、それは間違いです。 警察が、結婚後の姓や住所を教えなかったとしても、犯人が被害者の居所を突き止めるのは、時間の問題だったと思うからです。
被害者が、ストーカーに狙われているにも拘らず、フェイス・ブックをやっていたとか、居所を知られたにも拘らず、すぐに引っ越そうとしなかったとか、「あの時、ああしていれば、事件を防げたのに」と思うような要素は、いろいろとあるのですが、結局は、時間の問題なのであって、最終的に殺された事に変わりはなかったと思います。
こういう一途な人間の恨みを買ったら、とても、逃げられますまい。 どこまでも追いかけて来ます。 犯人にとって、被害者は、自分の人間存在を否定した、≪仇敵≫になってしまっているのであって、息の根を止めない限り、復讐は終わらないのです。
もし、「あの時、ああしていれば・・・」式の対策が考えられるとしたら、交際している段階で、早めに相手の為人を見抜き、「この人では駄目だ」と思ったら、相手が結婚の話など持ち出す前に、さっさと別れてしまうのが、唯一の回避方法だったと思います。 そうしていれば、犯人の方も、心の傷が浅く、深い恨みも抱かなかったに違いない。
だけど、なかなか、それは、難しいでしょう。 付き合い始めた頃に、相手がどんな人間か見抜くのは、至難の業です。 恋は盲目、痘痕も笑窪、悪い面ですら、良く見てしまうのですから、本性を見抜くなど、無理無理。 だーから、結婚した後で、親の仇よりも更に深く憎みあい、離婚に至る夫婦が後を絶たないのですよ。
たぶん、武士道が絡んでいる事が、この事件の犯人に対し、私が嫌悪感を抱けない最大の理由でしょう。 時代劇はもちろん、多くのドラマ・映画や、少年漫画などで、自然と武士道的な考え方や価値観を植えつけられている日本人男性は、大変多いです。
武士道に対する、日本社会での評価が、マイナス面を無視して、プラス面ばかり見ているのは、重大な問題だと思います。 実態は、野蛮で、攻撃的で、好戦的で、本能丸出しで、文明社会に適用できる要素など、およそ含まれていない、思想もどきの屁理屈に過ぎないのに、まるで、≪民族独自の美学≫のように持ち上げられています。
ちなみに、≪葉隠れ≫に描かれている武士道を、現代社会で、忠実に実行したら、ものの三日で、死刑判決間違い無しの、凶悪殺人犯になってしまいます。 ただ、自分の名声を上げたいだけのために、何の落ち度も無い同僚に因縁をつけて、斬り合いを始めるのですよ。 そんなの、まともな人間の発想ではありますまい。
法律上も、倫理上も、絶対許されないような重罪を犯しても、その行為が、一途な思いから行なわれた事であると見做されば、それで、許されてしまいます。 ≪忠臣蔵≫が、その典型例。 吉良上野介が、浅野内匠頭にした嫌がらせは、いじめレベルの事だったのに対し、浅野の殿中刃傷は、傷害、もしくは、殺人未遂であり、世界中どの国の法律でも認定される、れっきとした犯罪です。
当時の法律に照らして、切腹は当然の事であるにも拘らず、逆恨みした藩士が、吉良の屋敷を襲撃し、上野介を殺害すると、世間はやんやの喝采を浴びせ、以来、現代に至るまで、この殺害グループを、「赤穂義士」と持て囃し、純然たる犯罪被害者である吉良上野介を、稀代の悪党に仕立て上げたまま、おかしいとも思っていません。
吉良側の立場で考えてみれば、「こんな理不尽な仕打ちは、許されない」と、誰でも思うと思うのですが、日本人全般が、≪忠義≫という言葉に酔いしれる傾向があるために、吉良側の立場どころか、客観的視点すら持つ事ができず、いつまで経っても、「浅野=善、吉良=悪」のレッテルを貼り直せないのです。
かくの如く、日本人の行動には、様々な面で、未だに、武士道の亡霊がつきまとっているのです。 これは、私もなかなか、全てを克服できず、常日頃、「合理的な人間であろう」と心がけてはいるのですが、時に、武士道的な見方で、物事を判断している自分を発見して、戦慄する事があります。 三つ子の魂、百までか。
もし、この事件の犯人が、殺人だけで止めて、自分は生き延びようとしていたら、遥かに簡単に、嫌悪・憎悪できて、気が楽だったんですがねえ。 人が死んでいるというのに、それも、おかしな望みか・・・。
ふと、思ったのですが、もし、この事件の経緯を、犯人の男側の視点で細密に描けば、近松の心中物などよりも、遥かに切ない物語になるのではありますまいか。 親兄弟に反対されたり、身分立場の違いを乗り越えられなかったりという、合意型の≪心中物≫よりも、この事件のような、≪無理心中物≫の方が、「この世で夫婦になれぬなら、せめてあの世で・・・・」という台詞にも、より深み・凄みが出ようというもの。
もっとも、この犯人の場合、あの世で被害者に逢ったら、ためらわずに、もう一度、殺すような気がしますが・・・。
ところで、くれぐれも断っておきますが、たとえ、動機に同情の余地があったとしても、ストーカーや殺人は、やはり、犯罪です。 相手の女性が、どれほど自分にひどい仕打ちをしたとしても、殺されそうになったのでもない限り、殺人による報復は、正当化されません。 報復の方が、元の罪を遥かに上回ってしまうからです。
この犯人の不幸は、別れた時点で、「人生の重大事である結婚の約束を反故にするような女には、結婚する価値がない」という風に、考え方をスイッチできなかった事にあります。 さっさと切り替えて、他の女性を探せば、殺人も自殺もせずに済んだばかりか、もっと幸福な人生になったかもしれないのに。
「赤い糸」なんて、ありゃしないのですよ。 「運命」も信じるに足りません。 すべて、ただの偶然なのですよ。 それに気付かずに、つまらん事で、罪を犯したり、死んだりする人間が、いかに多い事か・・・。
以下、無責任な呟き。 以下の文章に書かれている事について、私は、一切、責任を負いません。
・・・・こういう武士道型発想の人間から逃れる唯一の方法は、≪返り討ち≫にする事です。 普通に殺したら、殺人罪に問われますが、武器などを準備した上で待ち構え、家に押し込んで来たところを、殺せば、うまくすれば、正当防衛になりますし、そうならなくても、情状酌量されて、執行猶予付きの判決を勝ち取れる可能性は高いです。
たとえ、何年か服役する事になっても、出所後、脅迫者の影に怯えずに、残りの人生を暮らせると思えば、不利益よりも利益の方が、ずっと大きいです。 まして、殺されるのに比べたら、比較にならないほどの、大得。
「そんな恐ろしい事ができるか!」と思うでしょうが、そんな恐ろしい事をしなかった結果、この事件の被害者は殺されてしまったんですよ。 恐ろしさを回避したために、もっと恐ろしい結末になってしまったわけで、これは、一考の余地がある事でしょう。
「殺人を唆している!」と、反発を抱いた、良識ある方々や、警察・法曹関係者の御歴々には、「んーじゃあ、あんたらが、守ってくれんのかい?」と訊き返したいです。 武士道には武士道、他に対策など無いではありませんか。 別に、自分から殺しに行けと勧めているわけではありません。 向こうが襲って来たら、正当防衛で身を守れと言っているのです。
「殺さなくても、押し入って来たところを取り押さえて、警察に突き出せばいいのでは?」
いやいやいや、たとえ、実刑判決を受けて、服役しても、出所してくれば、また、殺しに来ますよ。 何度、逮捕されても、必ず、また出て来ますから、いずれ、本懐を遂げるでしょう。 そんなのを相手に、一生、怯えて暮らしますか? それとも・・・・
元教員の男が、以前、付き合っていた女性が他の男と結婚したのを恨み、ストーカー行為を続けた挙句、女性を刺し殺し、その直後、自分も首を吊って自殺したというもの。 逗子は、被害者の女性が夫とともに住んでいた場所です。
元教員かどうかは、どうでもいいです。 教員であった事が、この事件に全く関係していなかったとも思わないのですが、「元教員だから、ストーカー行為は許せない」とか、「元教員だから、殺人は以ての外」という責め方は筋違いだと思うので、その点は、どうでもいいという意味です。 ちなみに、私は、筋金入りの教師嫌いですが、それも、この際、考慮に入れない事にします。
ストーカー殺人というと、1999年の≪桶川ストーカー殺人事件≫が真っ先に頭に浮かぶのですが、あの事件の時に胸に湧いて来た強烈な嫌悪感は、今度の事件では、なぜか感じません。 桶川事件の時には、犯行グループの事を、人間でもなければ、ケダモノですらなく、何やら、形容しがたい汚らわしい妖怪のように思えたものですが、今度の事件の犯人は、人間に見えるのです。 ストーカー行為は、もちろん、犯罪ですし、殺人は最大の重罪であって、両事件の罪の大きさは変わらないにも拘らずです。
両事件に違いを感じる理由は二つ考えられます。 一つ目は、犯人と被害者が交際していた時、「結婚の約束をしていた」という証言がある点。 もう一つは、犯人が、被害者の殺害後、自殺しているという点です。
まず、「結婚の約束」の方。
これは、犯人の男がそう言っていただけで、被害者側は、「結婚の話は出たが、婚約はしていなかった」と、ストーカー被害者の相談に乗っているグループの人に話していたとの事。 二人とも死んでしまった今となっては、事実がどうだったのか、もはや確かめようがありません。
≪婚約≫というのは、法律上の手続きではないので、どの段階を指して、婚約と言うかは、人によって、取り方が異なります。 求婚して、承諾を貰ったら、それで、婚約したと取る人もいますし、婚約指輪を贈ったり、双方の両親に承諾を得たりしなければ、婚約とは言えないと考える人もいるでしょう。
この事件の場合、「結婚の話が出た」ところまでは、確実だと思われますが、その話が、犯人の求婚だけで終わったのか、被害者が承諾まで与えていたのか、そこがはっきりしません。 ただ、被害者が承諾を与えていなかった場合、犯人は、「結婚の約束をした」とは、言わないのではないかと思うのです。
求婚して断られるケース、もしくは、「考えさせて」と言われたけれど、返事をもらえないまま、時間が経ち、別れてしまうケースは、いくらでもあると思いますが、その場合、求婚された方はもちろん、求婚した方も、「結婚の約束をした」とは、言わないと思うのですよ。 プライドが非常に高いと思われる、この犯人なら、尚の事。
一方、被害者が、結婚の約束をしたにも拘らず、「口約束は、婚約とは言えない」と考えていたために、相談相手に、「婚約はしていなかった」と告げていた可能性は、考えられる事です。 ただし、所詮、これは推測であって、事実がどうだったかは分かりません。
以下、もし・・・、あくまで、もし、の話ですが、本当に結婚の約束をしていたのだとしたら、この犯人が、被害者を許せなかった気持ちが、幾分は理解できるような気がするのです。 結婚の約束をした相手が、別れ話を持ち出して来て、程なく他の男と結婚したら、普通は、腹が立ちます。
別れてから、被害者が他の男と結婚するまでに、二年あるわけですが、この間も、犯人からのストーカー的な接触は続いていて、客観的且つ厳密に見れば、「別れた」というよりも、「別れようとしていた」時期なのであり、その間に、他の男と結婚してしまったのですから、それは、犯人は怒るでしょう。
たぶん、被害者は、犯人のストーカー行為をやめさせるため、「他の男と結婚してしまえば、諦めるだろう」と考えたのだと思いますが、完全な逆効果になってしまいました。 被害者は犯人と二年間、交際していたようですが、犯人の性格の激しさを全然見抜けていなかったんですな。 怒りの炎に油を注いだだけ。
結婚を約束した相手に逃げられただけでも、大変な屈辱なのに、その上、「寝取られ男」になってしまったわけで、犯人は、恐らく、目も眩むような怒りを覚えたと思います。 ≪武士道≫の世界だったら、「復讐しないで、死ねるものか」と、考えるでしょう。 こういう性格類型は、≪葉隠れ≫を読むと、よく分かります。
「武士道気質の人間は、ストーカー行為などしないだろう」と思うかもしれませんが、そんな事はないのであって、武士道に於いては、何よりも、≪一途≫である事が尊ばれます。 「一押し二押し三に押し」なのです。 「男は諦めが肝心」などという考え方は、武士道とは、全く相反します。 一度決めたら、間違っていようが、周囲が全員反対しようが、命を捨ててでも完遂するのが、武士道の精神なのです。
昔の自然結婚では、「相手が嫌がっているのに、略取や監禁、強姦も辞さず、ごり押しで結婚した」などという例は、いくらでもあったのであって、それに比べたら、現代のストーカー行為が、特段、悪質化しているとは言えません。 もちろん、それらの行為を正当化する気は、毛頭ありませんが。
被害者だけでなく、被害者の夫も、被害者の親も、ストーカーと言ったら、≪桶川事件≫の犯人グループの印象が強かったでしょうから、ストーカーを、≪純然たる卑劣漢≫のイメージだけで捉えていて、武士道気質の犯人に対して、被害者の結婚が、どんな影響を及ぼすか、想像が及ばなかったのかもしれません。
女性の立場から見ると、「結婚を約束していたとしても、別れた時点で、それは白紙に戻っているのだから、他の男と結婚しても、文句を言われる筋合いは無い」と思うと思いますが、立場を逆転させて、犯人が女で、被害者が男だったとしたら、どうでしょう。 自分と結婚の約束をしていたのに、他の女と結婚した男を、許せるでしょうか。
言うまでもなく、結婚の約束を反故にしただけでは、なんら罪には問われないわけで、この被害者には、法的に全く落ち度は無いのですが、倫理面で考えると、「どうしてまた、すぐに別れる事になるような男と、結婚の約束をしたのか?」と、その点が訝しく思えてしまうのです。 結婚の約束って、そんなに軽いものなんですかね?
ただし。以上の見解は、あくまで、「結婚の約束をしていた」という犯人の証言が事実だった場合の話です。 もし、被害者が承諾を与えておらず、犯人が勝手な思い込みで、そう言っていただけだとしたら、ただの陳腐な「勘違い野郎」なのであって、同情する余地はありません。
次に、犯人が、被害者の殺害後、自殺している件について。
この事件では、殺害から自殺までが、一連の行動になっており、犯人が自殺を覚悟した上で、殺害行為に及んだのは、疑いの無いところです。 つまり、「無理心中」なのです。 「心中」と「無理心中」は、相手の同意があるかないかで、大違いですが、たとえ、「無理心中」であっても、「心中」と名が付くだけで、ただの「殺人・自殺」とは、随分とイメージが違って来ます。
≪桶川事件≫でも、被害者の交際相手だった男は、最終的に、屈斜路湖まで逃げ、そこで自殺しているのですが、それは、共犯者達が逮捕され、自分も指名手配されて、それ以上、逃げられないと悟り、精神的に追い詰められて自殺したものであり、覚悟の自殺とは、全く違っています。
被害者が離れて行った後、犯人は、「生きる目的を見失った」と言っていたそうですが、自分だけが死ぬのではなく、被害者を道連れにしたのは、やはり、武士道気質から湧き起こる復讐心を抑え切れなかったのではないでしょうか。
交際中、犯人は、被害者の事を、「赤い糸で結ばれた、人生の伴侶となる人」と見做していた形跡がありますが、そう思っていればこそ、裏切られた時の怒りはいかばかりか。 相手を殺さずに、自分だけ死ぬなど、武士道的には、ありえない選択です。
また、相手だけ殺して、自分は生き残るというつもりもなかったわけで、そこが、≪桶川事件≫の犯人達と、根本的に違うところです。 もし、いやがらせや、脅迫メールの大量送りつけなど、ストーカー行為が無く、いきなり、殺害・自殺に及んでいたら、この犯人に対して、あからさまに同情を寄せる人間が、たくさん出て来たのではないでしょうか。
特に、過去に、「赤い糸で結ばれている」と信じた女性にふられた経験がある男性は、全員、被害者を蔑み憎み、犯人の味方に回ったと思います。 「よくぞ、自分自身の仇を討った」と。 いやしくも、殺人行為に手を染めた人間なのにね。
もっとも、ストーカー行為が無く、いきなり、殺人と自殺が行われた場合、普通、大きなニュースにはならず、「痴情の縺れによる犯行」で片付けられてしまいます。 そういう事件では、世間は、犯人は勿論の事、被害者にさえも、同情を寄せません。 犬も喰わない話なので、無視され、記憶すらされないのです。
この事件、≪桶川事件≫と同様に、警察の対応がまずかった事が、大きな問題になっています。 確かに、犯人に対して、被害者の結婚後の姓や、住所を教えてしまうなど、「馬鹿か?」と思うような、幼稚極まりないミスをやらしていて、呆れ返ります。 ただ、警官なんて、所詮、そんなもんだという気がせんでもなし。 刑事ドラマなんて、嘘ばっかよ。 アホの占有率は、学校や会社など、他の組織と、全く変わらないと思いますぜ。
ストーカー被害の訴えに対して、警察の反応が鈍いのには、それなりの理由があります。 まず、≪痴話喧嘩≫レベルの争いを、警察に持ち込む人間が多いため、「犬も喰わない」意識が働いて、真剣に取り合う気にならない。 また、≪痴情の縺れ≫による事件を、日常的に嫌になるほど見ているので、ストーカーだからと言って、特別扱いする気にならない。
また、警察という組織は、基本的に、事件が起こってからでないと動けないので、ストーカーによる迷惑行為だけだと、普通の嫌がらせ行為などと同列の対応しか取れないのです。 この事件でも、手紙は法律で禁止されていたけれど、メールには規制がなかったために、「取締りの対象にならない」といって、取り合わなかったそうですが、法律がそうなっているのでは、どうにもしようがありませんな。
世間やマスコミが、警察を吊るし上げるのは、別に、私の知った事ではないですが、もし、「警察さえしっかり対応していたら、この事件は起きずに済んだ」と思っているのなら、それは間違いです。 警察が、結婚後の姓や住所を教えなかったとしても、犯人が被害者の居所を突き止めるのは、時間の問題だったと思うからです。
被害者が、ストーカーに狙われているにも拘らず、フェイス・ブックをやっていたとか、居所を知られたにも拘らず、すぐに引っ越そうとしなかったとか、「あの時、ああしていれば、事件を防げたのに」と思うような要素は、いろいろとあるのですが、結局は、時間の問題なのであって、最終的に殺された事に変わりはなかったと思います。
こういう一途な人間の恨みを買ったら、とても、逃げられますまい。 どこまでも追いかけて来ます。 犯人にとって、被害者は、自分の人間存在を否定した、≪仇敵≫になってしまっているのであって、息の根を止めない限り、復讐は終わらないのです。
もし、「あの時、ああしていれば・・・」式の対策が考えられるとしたら、交際している段階で、早めに相手の為人を見抜き、「この人では駄目だ」と思ったら、相手が結婚の話など持ち出す前に、さっさと別れてしまうのが、唯一の回避方法だったと思います。 そうしていれば、犯人の方も、心の傷が浅く、深い恨みも抱かなかったに違いない。
だけど、なかなか、それは、難しいでしょう。 付き合い始めた頃に、相手がどんな人間か見抜くのは、至難の業です。 恋は盲目、痘痕も笑窪、悪い面ですら、良く見てしまうのですから、本性を見抜くなど、無理無理。 だーから、結婚した後で、親の仇よりも更に深く憎みあい、離婚に至る夫婦が後を絶たないのですよ。
たぶん、武士道が絡んでいる事が、この事件の犯人に対し、私が嫌悪感を抱けない最大の理由でしょう。 時代劇はもちろん、多くのドラマ・映画や、少年漫画などで、自然と武士道的な考え方や価値観を植えつけられている日本人男性は、大変多いです。
武士道に対する、日本社会での評価が、マイナス面を無視して、プラス面ばかり見ているのは、重大な問題だと思います。 実態は、野蛮で、攻撃的で、好戦的で、本能丸出しで、文明社会に適用できる要素など、およそ含まれていない、思想もどきの屁理屈に過ぎないのに、まるで、≪民族独自の美学≫のように持ち上げられています。
ちなみに、≪葉隠れ≫に描かれている武士道を、現代社会で、忠実に実行したら、ものの三日で、死刑判決間違い無しの、凶悪殺人犯になってしまいます。 ただ、自分の名声を上げたいだけのために、何の落ち度も無い同僚に因縁をつけて、斬り合いを始めるのですよ。 そんなの、まともな人間の発想ではありますまい。
法律上も、倫理上も、絶対許されないような重罪を犯しても、その行為が、一途な思いから行なわれた事であると見做されば、それで、許されてしまいます。 ≪忠臣蔵≫が、その典型例。 吉良上野介が、浅野内匠頭にした嫌がらせは、いじめレベルの事だったのに対し、浅野の殿中刃傷は、傷害、もしくは、殺人未遂であり、世界中どの国の法律でも認定される、れっきとした犯罪です。
当時の法律に照らして、切腹は当然の事であるにも拘らず、逆恨みした藩士が、吉良の屋敷を襲撃し、上野介を殺害すると、世間はやんやの喝采を浴びせ、以来、現代に至るまで、この殺害グループを、「赤穂義士」と持て囃し、純然たる犯罪被害者である吉良上野介を、稀代の悪党に仕立て上げたまま、おかしいとも思っていません。
吉良側の立場で考えてみれば、「こんな理不尽な仕打ちは、許されない」と、誰でも思うと思うのですが、日本人全般が、≪忠義≫という言葉に酔いしれる傾向があるために、吉良側の立場どころか、客観的視点すら持つ事ができず、いつまで経っても、「浅野=善、吉良=悪」のレッテルを貼り直せないのです。
かくの如く、日本人の行動には、様々な面で、未だに、武士道の亡霊がつきまとっているのです。 これは、私もなかなか、全てを克服できず、常日頃、「合理的な人間であろう」と心がけてはいるのですが、時に、武士道的な見方で、物事を判断している自分を発見して、戦慄する事があります。 三つ子の魂、百までか。
もし、この事件の犯人が、殺人だけで止めて、自分は生き延びようとしていたら、遥かに簡単に、嫌悪・憎悪できて、気が楽だったんですがねえ。 人が死んでいるというのに、それも、おかしな望みか・・・。
ふと、思ったのですが、もし、この事件の経緯を、犯人の男側の視点で細密に描けば、近松の心中物などよりも、遥かに切ない物語になるのではありますまいか。 親兄弟に反対されたり、身分立場の違いを乗り越えられなかったりという、合意型の≪心中物≫よりも、この事件のような、≪無理心中物≫の方が、「この世で夫婦になれぬなら、せめてあの世で・・・・」という台詞にも、より深み・凄みが出ようというもの。
もっとも、この犯人の場合、あの世で被害者に逢ったら、ためらわずに、もう一度、殺すような気がしますが・・・。
ところで、くれぐれも断っておきますが、たとえ、動機に同情の余地があったとしても、ストーカーや殺人は、やはり、犯罪です。 相手の女性が、どれほど自分にひどい仕打ちをしたとしても、殺されそうになったのでもない限り、殺人による報復は、正当化されません。 報復の方が、元の罪を遥かに上回ってしまうからです。
この犯人の不幸は、別れた時点で、「人生の重大事である結婚の約束を反故にするような女には、結婚する価値がない」という風に、考え方をスイッチできなかった事にあります。 さっさと切り替えて、他の女性を探せば、殺人も自殺もせずに済んだばかりか、もっと幸福な人生になったかもしれないのに。
「赤い糸」なんて、ありゃしないのですよ。 「運命」も信じるに足りません。 すべて、ただの偶然なのですよ。 それに気付かずに、つまらん事で、罪を犯したり、死んだりする人間が、いかに多い事か・・・。
以下、無責任な呟き。 以下の文章に書かれている事について、私は、一切、責任を負いません。
・・・・こういう武士道型発想の人間から逃れる唯一の方法は、≪返り討ち≫にする事です。 普通に殺したら、殺人罪に問われますが、武器などを準備した上で待ち構え、家に押し込んで来たところを、殺せば、うまくすれば、正当防衛になりますし、そうならなくても、情状酌量されて、執行猶予付きの判決を勝ち取れる可能性は高いです。
たとえ、何年か服役する事になっても、出所後、脅迫者の影に怯えずに、残りの人生を暮らせると思えば、不利益よりも利益の方が、ずっと大きいです。 まして、殺されるのに比べたら、比較にならないほどの、大得。
「そんな恐ろしい事ができるか!」と思うでしょうが、そんな恐ろしい事をしなかった結果、この事件の被害者は殺されてしまったんですよ。 恐ろしさを回避したために、もっと恐ろしい結末になってしまったわけで、これは、一考の余地がある事でしょう。
「殺人を唆している!」と、反発を抱いた、良識ある方々や、警察・法曹関係者の御歴々には、「んーじゃあ、あんたらが、守ってくれんのかい?」と訊き返したいです。 武士道には武士道、他に対策など無いではありませんか。 別に、自分から殺しに行けと勧めているわけではありません。 向こうが襲って来たら、正当防衛で身を守れと言っているのです。
「殺さなくても、押し入って来たところを取り押さえて、警察に突き出せばいいのでは?」
いやいやいや、たとえ、実刑判決を受けて、服役しても、出所してくれば、また、殺しに来ますよ。 何度、逮捕されても、必ず、また出て来ますから、いずれ、本懐を遂げるでしょう。 そんなのを相手に、一生、怯えて暮らしますか? それとも・・・・
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