2013/06/16

世界文学

  ドストエフスキーの≪未成年≫ですが、何とかかんとか、貸し出し期間の2週間以内に読み終わって、無事に返す事ができました。 今週の月曜が有休だったので、どこへも行かず、一日読書に集中できたのが、幸いでした。

  長編小説は、一日のノルマを決めて、ぶつ切りに読んでいると、そのつど、話の流れが途切れてしまって、翌日に、ノリを取り戻すのが大変になるのですが、一度、100ページくらい、どーんと進めてしまうと、作品の世界に馴染みが出来て、その後、読み易くなるのです。

  これで、ドストエフスキーの長編は、一通り読んだ事になるわけですが、読んでいて、つくづく思ったのは、ドストエフスキーの小説は、ストーリーを楽しむというより、盛り込まれている思想を読み取る事に価値があるのだという事です。 図書館で借り来て、一回だけ読んで、「これこれ、こういうストーリーだ」と知るだけで済ませるのでは、無意味・・・、というか、せっかくの価値を充分に味わい尽くせないんですな。

  本当に、ドストエフスキーを読み解きたかったら、本は、借りるのではなく、買うべきなのでしょう。 全集のセットでなくても、文庫本でも、全集のバラでも、とにかく、読めるものなら良し。 ちなみに、古本屋へ行くと、全集のバラが、一冊100円くらいで売っている事があります。 全集というのは、揃っていてこそ価値が保てるのであって、バラになってしまった途端、文庫より安くなって、ゴミと大差無くなるんですな。

  ちなみに、文学全集ですが、「家を新築して、書斎を作ったから、本棚の飾りに、文学全集でも買ってみるか」などと、体裁ぶった事を考えている貴兄よ。 たとえ、飾りであっても、いつか読む事がないとも限らないわけですから、どうせ買うなら、読む価値があるものをお薦めします。

  そして、その際、絶対にしてはならない事があります。 「日本文学全集」の類は、決して、決して、買ってはいけません。 出版社がどこだろうと、撰者が誰だろうと、関係なし! 何の価値もありません! 断言します! 何の価値もありません! もう、買う前から、ゴミです! 話にならぬ!

  一方、「世界文学全集」の方なら、出版社、撰者に関係なく、買っておいて、損は無いと思います。 その人の好みによって、面白い本と、そうでない本が混ざるとはいえ、心に響く作品の方が多いはず。 特に、推理小説や、ライトノベルズばかり読んでいるという人は、世界文学全集を買って、波長が合う作家の作品を探し、そこを足がかりに、純文学の世界に分け入って行くというのは、大いに試みてみる価値がある方法だと思います。

  なぜ、日本文学全集が駄目かというと、スカの比率が多過ぎるからです。 我が家には、昔、母が買った集英社の日本文学全集があるのですが、私が片っ端から読んでみた中で、「いやあ、家に日本文学全集があって良かったなあ」と感じたのは、面白かった順に、阿部公房、森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、林芙美子、と、その程度。

  後は、「一応、有名だから」という理由で好都合だったのが、太宰治、小林多喜二、横光利一、三島由紀夫と、それだけ。 残りは、全て、スカでした。 総数で、88冊もあるのですが、読む価値があったのは、たった9冊だけで、79冊が、スカ。 途轍もない、外れ率の高さ! これでは、高い金を出して、全集を買う意味などありません。 有名な作家の本だけ、文庫で買えば、充分です。

  この手の日本文学全集は、決まって、明治以降の作家が対象になりますが、明治から昭和にかけての作家で、作品を読んでおく価値があるというのは、本当に上に挙げた程度の人数しかいないのであって、他は、今現在、すでに忘れられてしまったか、忘れられつつある人達です。 誰も覚えていないのでは、話のネタにも、ブログのテーマにもならんのであって、わざわざ時間を割いて、読む必要などありません。

  この種の日本文学の何が駄目だといって、時間の経過に耐えられない点が、一番まずいです。 古臭いのですよ。 時代背景に、黴が生えているのですよ。 もう、耐えられない陰鬱さなのですよ。 明治から昭和20年までの期間は、日本史上のイメージとしては、暗黒時代でして、映画でも、テレビ・ドラマでも、取り上げられる事が極端に少ないのは、江戸時代とは対照的です。

  「文明開化」などと言い条、華やかな文明性など、微塵も感じられず、独自文化を否定して、滑稽な猿真似に走った惨めな有様が、醜悪で見るに耐えない上に、ただただ、貧乏臭く、後ろ向きで、気が滅入るったら、尋常じゃありません。

  もう、明治の作家なんていうと、決まって、地主の坊ちゃんで、必ず、奉公に来ている娘を手篭めにするのです。 判で押したように、まるで、それが、作法でもあるかのように、臆面も無く。 手篭めというと、ピンと来ない世代も多いか。 強姦ですよ、強姦。 そんな人間のクズどもが、「純文学作家でござい」と、かつて自分が犯した強姦の経緯を小説にして、「人間を描いた」などと、高い評価を受けたりしていたのですから、呆れるやら、恐ろしいやら・・・。 どういう業界やねん? 狂人の巣か?

  ああ、井原西鶴や十返舎一九の、ある明るさは、どこ行ってしまったんですかね?  ほんとに、同じ民族? 明治になって、欧米から、純文学の概念が入って来たものの、日本人は、オツムに論理性が無いので、ストーリーの組み立てが下手だし、ましてや、思想を文学作品に盛り込むなんて高尚な事は、到底、不可能。 その上、そもそも感情の表出が乏しい民族性なので、小説の登場人物も、際立った性格に欠ける人間ばかりで、話が面白くならない。

  だもんで、ドイツ文学の一部の特徴を真似て、主人公がひたすら、個人的な問題に懊悩する、「私小説」に頼って行く事になるのですが、これが、昭和20年までの間、読むだに自殺したくなるほど、暗~い雰囲気の作品を大量に世に撒き散らしてしまう結果になります。 そりゃあ、時代のイメージも暗くなるわなあ。

  戦後になると、反動で、明るい話が出て来ますが、明るいばかりで、内容が無い事に変わりは無く、単に子供っぽい話が増えただけで、今読むと、「私小説」とは別の意味で、赤面してしまいます。 具体的に名を挙げてしまえば、石坂洋次郎なわけですが、いやあ、今じゃ、とても、読めんなあ。 本屋で、表紙の可愛いイラストに吊られて、ライトノベルズを手に取り、1ページだけ読んでしまった時と同じような恥ずかしさがあります。

  一方で、私小説を、「日本文学の伝統」だと勘違いした作家達も生き残り続け、昭和が終わる頃まで、純文学界といえば、こういう、亡霊達の根城と化していたのですが、さすがに、時代の波と寄る年波に抗しかねて、平成になってからは、続々と棺桶行きになり、業火に焼かれて、めでたく、成仏してしまいました。 ああ、清々した。

  ただ、戦後になると、日本だけでなく、欧米でも、後世に名が残るような文学者が出て来なくなります。 ノーベル文学賞は、毎年、誰かが受賞しているわけですが、同国人でもない限り、名前を覚えないでしょう? 美術界同様、文学界でも、主流が無くなってしまったんですな。

  そういや、音楽界も、ここ10年ばかり、世界的に流行する曲の類が、全く聴かれなくなってしまいましたな。 最後が、≪タイタニックのテーマ≫だったかな。 映画界も、世界中で話題になる作品が出なくなったし・・・。 うーむ、芸術の世界は、全分野で、輝きを失いつつあるようですな。 これは、人類文明の後退を示しているのでしょうか。


  話が逸れましたが、かくのごとく、日本文学全集には、わざわざ読まなければならないような作品は、ほとんど含まれていません。 人生は短い。 まして、読書に当てられる時間は、もっと短い。 そんな下らないものを読む暇があったら、世界文学を読みなされ。 幸いな事に、日本は翻訳王国で、有名な海外作品は、大概、日本語で読めるから、言語の壁は無いも同然です。 そうなりゃ、読まない方が損というもの。

  これから、読んでみたいと思っている方々は、そうですな、とりあえず、フランス文学から始めるのが、とっつき易いでしょうか。 「あまりにメジャー過ぎて、今更・・・」と思うかもしれませんが、大デュマの≪モンテ・クリスト伯≫から入るのが、王道だと思います。 絶対、引き込まれるので、「やっぱり、純文学なんて、かったるいわ」と感じないまま、最後まで読み通せるからです。

  そういや、≪モンテ・クリスト伯≫を、少年向けの作品だと思い込んでいる人がいるようですが、そんな勘違い自体が、読んでいない証拠でして、実際には、もろ、大人向けです。 大デュマは、少年向けなんて、一作も書いていませんぜ。 ≪三銃士≫でさえ、原作は、大人向け。 嘘だと思ったら、読んでみなさいな。

  ≪モンテ・クリスト伯≫に少年向けのイメージがあるのは、小中学生向けに装丁された本が多いからだと思いますが、それはつまり、誰が読んでも面白いから、これから読書の世界に踏み込もうとしている少年達に、最高の入門書として薦めようと考える出版関係者が多いからでしょう。

  古いと言えば、イタリア文学の方が古いわけですが、残っているのが、ボッカッチョの≪デカメロン≫と、ダンテの≪神曲≫くらいしか無いですし、古過ぎて、まだ、小説として完成されていないため、どちらも、喰いつき難いです。 ≪神曲≫は、いずれ、読んだ方がいいとは思うものの、最初に読む本ではないですわな。

  英米文学は、日本で出版されている数から言えば、断トツに多いですが、それは、英語の翻訳家の数が多いからであって、特段、中身が優れているからではありません。 しかし、面白い物もあります。 シェークスピアは、そもそも舞台劇の脚本でして、文学作品として読むものではないから、除外するとして、ディケンズやブロンテ三姉妹は、代表作だけでも読んでおいて、損は無いです。

  純文学の範疇から外れますが、海外作品のとっかかかりとしてなら、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズは、うってつけですな。 短編が多いのですが、長さが適度なので、飽きる前に読み終わりますし、興が乗れば、同じレベルの作品が何作でもあるのが、また宜しい。 ただし、推理小説の方面へ行ってしまうと、そちらから出て来れなくなるので、アガサ・クリスティーは、後に取っておいた方がいいです。

  アメリカ文学は、ポーの作品と、あと、≪白鯨≫、≪老人と海≫、そんなところを読んでおけば、当座、充分です。 現代に近付けば近づくほど、つまらなくります。 同じ英語作品でも、イギリスとアメリカでは、質感がまるで違います。 前者は、よく言えば、しっとりしていますが、悪く言えば、じめじめしており、後者は、よく言えば、さっぱりしていますが、悪く言えば、カサカサです。 この傾向、個人差を遥かに超えるものあり。


  おっと、各国文学のお薦め作品なんぞ書き出していたら、無際限に長くなってしまいそうですな。 面倒なので、大雑把に説明しますと、ヨーロッパの文学は、連鎖反応的に発展の中心が移動したため、その順を追って行くと、理解し易く、整理し易いです。 ルネサンスが起こったイタリアから始まり、大航海時代に巨万の富を手にしたスペインで醸されて、産業革命以降、フランスで大発展し、イギリスへ飛び火。 その後、ドイツで人間性を追求する深みを与えられ、ロシアで完成する、といった流れです。

  ちなみに、完成させたのは、個人を特定すれば、トルストイでして、作品を特定するなら、≪アンナ・カレーニナ≫です。 これを読む前に、これ以上の小説は読んだ事がなく、これを読んだ後で、これ以上の小説を読んだ事もありません。 スタンダールの≪赤と黒≫あたりで、「小説は完成された」と、多くの読書人が思っておったわけですが、≪アンナ・カレーニナ≫の登場で、「まだ、こんなに発展の余地があったのか!」と、皆々、吃驚した次第。

  完成された後は、どうなったかというと、もう、壊す以外に方向性が残されていなかったわけで、トルストイと同時代に生きたドストエフスキーが、ほとんど、同時進行で壊し始め、≪実存主義≫の旗の下に、流行の最先端を目指す作家達によって、破壊の限りが尽くされます。 美術界同様、一度、完成してしまうと、その後、主流が破壊され、方向性がバラバラになって、結果的に、全体の価値を落としてしまうのは、芸術の宿命か。


  ヨーロッパ以外だと、アラブ世界では、≪千一夜物語≫、中国では、≪三国志≫、≪水滸伝≫、≪西遊記≫、≪紅楼夢≫を読んでおけば充分。 いや、みな、長いですけど・・・。 南米文学は、割と最近、注目された前衛的な内容のものが多いですが、まだ、後世に残れるかどうか分からないので、様子見といったところ。

  日本の作品も、江戸時代以前なら、読む価値があるものがあります。 ≪蜻蛉日記≫、≪源氏物語≫、≪枕草子≫、≪とはずがたり≫、≪日本永代蔵≫、≪世間胸算用≫、≪東海道中膝栗毛≫などは、日本人が読む分には、面白いです。