2013/08/04

筒井康隆作品の古本状況

  例の小松左京・文庫買い揃え計画ですが、その後、妙な方向へ、ズレが発生しました。 ネットで、一週間に一冊ずつ、価格1円、送料250円の本を購入するパターンを、地味に続ける一方、実店舗で、105円で手に入れられる機会を逃さないために、「とりあえず、近隣のブックオフを全てチェックして回る必要があるな」と思い、東は三島、西は富士、南は大仁、北は御殿場と、バイクを出して、買い入れツーリングに出かけました。 全部で9店舗。

  ところが、これだけ回って、手に入った小松左京作品は、たった4冊だけでした。 ちょっと驚くような、遭遇率の低さ。 同じブックオフでも、大都市の店に行けば、品揃えが豊富になって来ると思うのですが、静岡方面にせよ、小田原方面にせよ、これ以上、遠くへ足を延ばすとなると、ガソリン代が嵩んで、ネットで251円で買った方が安くなってしまうので、そういうわけにも行きません。

  で、ここからが、計画のズレなのですが、在庫僅少な小松作品を尻目に、同時に見て回った筒井康隆作品の方が、なんと、37冊も手に入ってしまいました。 筒井作品は、小松作品を揃え終わった後に集めようと思っていたのですが、「どうせ、古本屋を巡るのなら、一緒にチェックしてしまおう」と思ったところが、この結果・・・。 

  最初の内は、「どうして、こんなにあるのか…?」と、首を傾げていましたが、ちょっと考えて、すぐ納得しました。 小松作品の方は、ブームが去り、新作が出なくなってから、20年以上も経っているのに対し、筒井作品の方は、かれこれ40年間も、途切れる事なく、新作が供給され続けているわけで、世の中に出回っている本の数が、全然違うんですな。 当然、古本市場に出て来る本の数も多くなるというわけです。

  小松作品が、二度のブームの時に、集中的に売れたのに対し、筒井さんの方は、社会的ブームと言えるほどの盛り上がりは無かったものの、≪時をかける少女≫や≪七瀬三部作≫など、時代を超えて読み継がれる作品がある上、≪文学部唯野教授≫のように、ベスト・セラーになるものもあり、持続的・安定的に売れ続けて来たという事でしょう。 台風の豪雨と、長雨による増水の違いのようなものですか。

  ちなみに、どの店でも見かけたのが、≪七瀬三部作≫で、静岡県東部の古書店だけで、これだけあるという事は、日本中だと、どれだけ出回っているのか、想像もつきません。 新刊書店でも、この三冊だけは、必ず置いてある様子。 相当には暗い話なのに、40年も読み継がれているというのは、驚嘆に値します。 もはや、古典名作の域に入ったか。


  私の場合、筒井作品の文庫は、もともと持っていたのが、29冊だったので、ここ半月ばかりの間に、2倍以上に増えてしまった事になります。 今まで、本は、図書館で借りる方針を取り、極力、買うのを控えて来たので、いざ、揃えるとなると、並べる場所が無くて、大急ぎで、本棚の段を増設している次第。

  筒井作品は、新潮文庫だけでも、50冊以上あって、私が持っているのは、まだ半分以下です。 古本だけで、全部、揃えられるかどうか、大いに不安。 新刊で買ってしまえば、一遍に9割くらいは、集まると思いますが、えらい金額になってしまうので、そちらは、没。 筒井さん本人や、筒井ファンが聞いたら、「この慮外者めがっ!」と、一喝されそうですが、私は、それほど、猛烈に熱心なファンというわけではないんですよ。 筒井作品だけでなく、小松作品も含めて、小説全体に・・・。

  筒井作品の文庫は、小松作品と違って、ダブりが少ないのは、大変ありがたいです。 小松作品だと、ハヤカワ文庫、角川文庫、ケイブンシャ文庫、ハルキ文庫の、大半がダブっているという、かなり迷惑な状態になっているのですが、筒井作品では、新潮文庫が全作網羅を目論んでいる疑いがある以外は、目立ったダブりはありません。

  ただ、角川文庫が、しょっちゅう、装丁を変えているのには、閉口します。 困るんですよ、こういう事をされると。 タイトルも中身も同じなのに、背表紙のデザインが違うとか、表紙の絵が違うとか、そういう、「下らない異本」が出来てしまうため、コレクターとしては、「全部揃えるか、中身が同じなら、一冊だけでいいか」が、大問題になってしまうのです。

  そういや、私が20歳前後の頃、筒井作品を買うのを中止してしまった最大の理由は、角川文庫の筒井作品のデザインが総変更されたのが、気に喰わなかったからでした。 それまで、背表紙がオレンジ色で、杉村篤さんの絵だったのが、全体に地が白で、山藤章二さんのモノクロの絵に変わり、一気に統一感が崩れてしまったのです。 出す側は、発行順に出すからいいですが、買う側は、前後する場合があるのであって、どうしても、両者が混ざります。 本棚に並べた時、背表紙が、オレンジと白の斑になるのが、どれだけ不快か、想像がつきますか?

  また、山藤さんが、普通に自分のタッチで描いてくれればいいものを、簡略化して、和田誠さんみたいなタッチで描いたもんだから、安っぽくなってしまって、どーしょもない。 悪戯描きと言われてもしょうがないような絵です。 ≪農協月へ行く≫の、オッサンの絵なんか、見ていると、ムカムカするばかりで、ニヤリともできません。 全く以て、この時の装丁変更は、意図が解しかねます。 一体、この変更で、誰が得をしたというのでしょう?

  角川文庫は、それ以後も、装丁変更を繰り返し、背表紙のデザイン・レイアウトだけでも、微妙に違うものが、うじゃうじゃあります。 だーからよー、こんな事したって、迷惑なだけで、誰も喜ばないって言うのよ。 背表紙のデザインをちょこっと変えるだけで、売れ行きが伸びるわーけがありますまい。 なぜ、変える? ただただ、迷惑なだけなのよ。


  他で面白いのは、≪文学部唯野教授≫でして、この本、岩波書店から単行本と文庫本が出たのですが、そのせいか、他の出版社での文庫化ができず、関連本である、≪文学部唯野教授のサブ・テキスト≫が文春文庫から、≪文学部唯野教授の女性問答≫が中公文庫から出ているという、出版社の対立関係を反映した複雑な様相となっています。

  そういう事情があるからか、≪文学部唯野教授≫は、ベスト・セラーになって、一世を風靡したにも拘らず、その後パッタリ、新刊書店で見かけなくなりました。 大都市の巨大な書店ならともかく、今時の地方の本屋では、岩波文庫は、数えるほどしか置いていませんから、その中に、≪文学部唯野教授≫が入っている確率は、限りなくゼロに近く、存在を忘れられてしまったんでしょう。 話は面白いし、現代文学批評の勉強にもなる、価値が高い本なのに、勿体無い事です。


  買い揃えるついでに、記憶が薄れている作品については、読み返しも実行しているのですが、これが、あまり、楽しい時間になっていません。 長編は、ギンガリ覚えているので、パス。 短編の内、面白いものは、やはり、しっかり覚えているから、パスし、忘れたものだけ読んでいるわけですが、忘れるくらいだから、あまり面白くないのであって、読み返しても、さしたる感動はありません。

  ショートショートは、作風が今と異なる初期の作品に集中しているせいもありますが、どうしても、星新一作品と比較してしまうため、イマイチという感じがします。 この点は、小松さんのショートショートと同じでして、星新一という越えられない大山の前で、さんざん苦労した挙句、「こっちへ行っても、駄目だ」と見切りをつけて、自分の道を探しに向かった形跡が見て取れます。

  それでも、小説は、まだいいのですが、筒井さんの文庫には、随筆や評論、日記などが、かなり含まれていて、そちらが、どうもいけません。 書かれた当時は、面白かったに違いないのですが、歳月が経ってしまうと、時事ネタが多いだけに、内容がピンと来なくなってしまうんですな。 私の場合、80年代以降に起こった事件なら、大体分かるわけですが、もっと若い人達だと、≪玄笑地帯≫はもちろん、≪笑犬樓よりの眺望≫辺りでも、何の話をしているのか分からないというケースが多いのでは? いやあ、時間が経つのは速いなあ。

  結局の所、こういう、小説以外の作品は、文庫化しても、消えて行く運命にあるのでしょう。 今や、本屋の文庫本コーナーは、漫画の単行本に侵食されて、棚が、最盛期の半分くらいに減ってしまった上、その3分の1を、ライト・ノベルに占拠されて、一般小説のスペースは、縮小する一方です。 とても、一人の作家の、随筆集や評論集まで並べておくゆとりはないのです。


  今、ふと思ったんですが、もし、筒井さん本人が、この文章を読んだら、心がゾワゾワ、頭がイライラして、「こやつ、ファンなのか、敵なのか、どっちなのだ!」と、マウスを握り潰して怒る事でしょうなあ。 もっとも、ネット上には、この手の、無責任、且つ、不遜な意見がうようよ出ているから、いちいち、気にしていられないかもしれませんが。

  不遜な雰囲気になった勢いに乗り、思い切って書いてしまいましょう。 ラノベは、≪ビアンカ・オーバースタディ≫だけに留める意向だそうですが、ラノベ路線は、案外、真剣な検討に値する選択かも知れませんぞ。 薄っぺらい本でもいいから、年に一冊くらい、ラノベを出しておけば、無知識無教養で、オタクか腐女子のひきこもりで、紛う方なく人間の出来損ないで、猫の糞ほども世の中の役に立たないけれど、本だけは熱心に買ってくれるラノベ・ファン達が、名前を覚えてくれるので、連鎖反応で、他の本も売れるでしょう。

  そうでもしないと、≪聖痕≫のような作品を読んで楽しめるレベルの読者は、凄まじい勢いで減っているので、この先、執筆をやめて、新刊が出なくなった途端、一気に忘れられてしまう恐れがあります。 第二次・小松左京ブームの後の小松作品のように、本屋の棚から、一掃されてしまう危険性が濃厚。 ああ・・・、ああいう、足元の地面が崩れ落ちるような思いは、もう、したくないなあ。


  それらはさておき・・・。 筒井さんの作品を読んでいると、必ずと言っていいほど、自分でも小説を書いてみたくなるのは、なぜでしょう? 小松作品を読んでいる時には、そんな事は、微塵も感じないというのに・・・。

  筒井ファンで、自分も小説を書いた事がある人なら、誰でも経験があるように、「筒井作品のような小説が書きたい」と思って、案を練り始めても、陳腐この下無い模倣になるか、そもそも、手も足も出ないかのどちらかに終わるのが関の山。 この人ほど、同類を寄せ付けない作風の作家も珍しいのですが、なぜか、「寄り付きたい」という衝動だけは掻き立てるのです。

  筒井さんと同じような作風の作家が出て来たとしても、「なんだ、こりゃ。 筒井康隆のパクリじゃないか」と見做されて、オリジナリティーを認めてもらえないのは、容易に想像できる事。 特徴が際立ち過ぎていて、模倣が利かないんですな。 才能が突出している上に、異様に器用で、どんなジャンルでも手を出していない方面がなく、加えて、忍耐力まであって、≪虚航船団≫のような、とても余人では書き果せないような特異な長編まで物にしているわけで、よく考えてみれば、「筒井作品のような小説」なんぞ、簡単に書けるはずがないのです。 いや、四苦八苦しても、書けますまい。

  もっとも、その特異性のせいで、文壇に仲間が出来ず、デビューから現在に至るまで、孤立無援の戦いを続けざるを得なかったという、壮絶な経歴を持つわけですが、むしろ、そんな逆境が幸いしたのか、いつのまにか、≪文豪≫としか言えないような高みに上ってしまいました。 もはや、筒井さんの作品を安直に批判すると、世間から、「こいつ、バカだろ」と思われてしまうので、批評で喰っている人達は、素直に絶賛するか、九割九分九厘誉めて、一厘貶すに留めるかのどちらかしか、態度の取りようがないという有様。


  文豪で思い出しましたが、最近の筒井さんの外見は、文豪と言うより、なんだか、≪剣豪≫みたいですな。 陣羽織に袴姿で、木刀片手に道場に立っていたら、よく似合いそうな風貌です。 武蔵? 卜伝?  俳優活動は休止中と言いながら、密かに、時代劇を狙っているとか?

  そういや、筒井さんの俳優活動が、なぜ、パッとしなかったかですが、当人の資質の問題というより、起用する側に抜き難い先入観があって、キャラクターに嵌まる役が得られなかった事が原因だったと思います。 書いている作品に、笑えるものが多いから、そのイメージで、コミカルな役を当てられるケースが多かったのですが、風貌や声の質を考えば、渋い役の方が似合うのは、アホでも分かりそうなもの。

  暴力団幹部という設定で、バーでふんぞり返って飲んでいる役というのがありましたが、あまりにも迫力があるので、背筋がぞっとした記憶があります。 声が渋いですから、悪役も似合うと思うんですが、なぜ、そういう役が来なかったかなあ? 最後まで反省しない悪役なんてやった日には、最高だと思うんですが。

  おっと、こんな事を書いていると、またぞろ、俳優活動に気が向いてしまい、小説が読めなくなる危険性があるので、このくらいにしておきましょう。 危ない危ない・・・。