わけ
もう、かなり前の事になりますが、当て字について、文章を書いた事がありました。 確か、「筈」と「出来る」を、それぞれ、「はず」、「できる」に当てるのは、本来の漢字の意味とは無関係な当て字になるので、今後、使わないようにする、といった内容でした。 詳しくは、過去記事の、≪はず≫と、≪できる≫を参照願います。
こういうのは、他にもあるのであって、たとえば、「訳」という漢字を、「わけ」という言葉に当てるのは、本来の漢字の意味とは違い、日本でだけ行なわれている習慣です。 元の意味は、「翻訳」や「通訳」の「訳」で、「やく」と音読みする場合だけ、正しい使い方をしている事になります。
たとえ、日本語内限定の用法であっても、言語の機能としては、意味が通じれば、それで問題ないわけですが、それを承知していながらも、当て字だという事を一旦知ってしまうと、俄かに心理的抵抗が発生し、二度と使えなくなります。 他人が使っているのを見ると、「ふふふ、無知な奴め・・・」と、いやらしくも、薄笑いを浮かべてしまう始末。
「訳」と書けば、一文字で済むところを、「わけ」と書くと、二文字になるわけで、字面に締まりがなくなるというか、子供っぽくなるのですが、それ以上に、当て字と分かっていて、当て字を使うのは、無知無教養な行為に感じられてしまって、非常に心苦しい。 気付かなきゃ、幸せでいられたのにねえ。 知らぬが仏とはこのこってすな。
私の場合、2006年の4月頃、この事に気づき、以来、「訳」は、「やく」と読む場合にのみ用い、「わけ」は、ひらがなで書くようになりました。 「というわけで」とか、「そんなわけがないのであって」とか、人並み以上に、「わけ」という言葉をよく使う方なので、切り替え以前の文章を読むと、「訳」という字ばかり目について、引っ掛かって仕方ないです。
ただ、例外もあり、「申し訳」とか、「言い訳」とか、単語化している場合には、未だに、使い続けています。 「申しわけ」や、「言いわけ」では、何となく、通じが悪いような気がして・・・。 いや、これは、感覚の問題なので、当て字を徹底的に排除する方針で行くなら、これらも、改めるべきだと思いますがね。
それにしても、「翻訳・通訳」と「わけ」なんて、まるっきり、意味が違うと思うのですが、どうしてまた、こんな当て字をしたのか、昔の人の考える事は、理解の限度を超えます。 「わけ」の意味を、漢字で表すなら、「理由」や、「道理」になると思いますが、一文字では表現できません。 二文字の漢字熟語に、一つの和語を当てるという習慣は、無いではないですが、一般的ではないので、空席になっていたところへ、「訳」という、全くの他人が入り込んできてしまったんでしょうか?
「わけ」の語源を探るなら、たぶん、「分け」になると思いますが、「という分けで」とか、「そんな分けがない」とか書くと、何だか、落ち着きが悪いですなあ。 「言い分け」では、他の意味になってしまいますし、「申し分け」に至っては、そんな言葉は存在しません。 あー、駄目駄目、この書き換えは。
ちなみに、二文字の漢字熟語に、一つの和語を当てる例には、古いところでは、「良人」と書いて、「おっと」と読んだり、新しい所では、「都会」と書いて、「まち」と読んだりするものがあります。 共通するのは、ルビを振らないと、そう読んでもらえないという事でして、「都会」は、普通に、「とかい」と読まれてしまいますし、「良人」も、「りょうじん」と読まれてしまいます。 「りょうじん」なんて言葉は存在しないと思いますが。
生物名になると、「海豚」を「いるか」、「蜻蛉」を「とんぼ」、「躑躅」を「つつじ」と読んだりする例が、うじゃうじゃ出て来て、漢字検定に於ける難問の一角を成しています。 しかし、現代では、基本的に、動植物名は、カタカナで書くという取り決めがあるので、個人的にも、そちらを採用してしまった方が、ずっと楽です。 「海豹・海象・海驢」なんて、分からんでしょう? 一度覚えても、しばらくすると、どれがどれだったか、忘れてしまいます。
漢検問題に命がけで取り組んでいる人達には気の毒ですが、この種の動植物名の漢字をいくら覚えても、実生活には何の役にも立ちません。 だって、書く方は分かっていても、読む方が読めないのでは、文字通り、話にならないものね。 知ったかぶりの鼻抓み者になりたくなかったら、不粋承知で、カタカナで書くこってすな。
何が馬鹿馬鹿しいと言って、この種の難読単語の語源が、意外な程に、いい加減だという事です。 現代中国語と比較してみると、異同があまりにも多くて、びっくりすると思いますが、日本で伝わっている書き方の多くが、日本国内でしか通用しないと言うのでは、何だか、白けてしまうではありませんか。 漢字熟語の持つ権威は、中華文明圏共通なればこそ発生するものであって、日本国内限定では、ありがたみが、どーんと落ちてしまうんですな。
三文字の漢字に、一つの和語となると、「三和土」を「たたき」と読むなど、更に、アクロバティックになって行きます。 なに? 「たたきって、何?」ですと? ほれ、あの、玄関の中の、靴を脱ぐ所の事ですよ。 なぜ、「たたき」というのかは、不明。 もしかしたら、靴を叩いて、土を落とす所だからかも知れません。 問題は、「三和土」の方で、どこから、こんな字の並びが発生したのか、さっぱり解からぬ。
「紫陽花」を「あじさい」、「向日葵」を「ひまわり」と読むのは、割と市民権が確立している方でしょうか。 しかし、店名やブログ名ならともかく、文章の中で使うのなら、やはり、動植物名は、カタカナで書いてしまった方が、読む方には、親切でしょうな。
ここで、ふと、疑問が・・・。
「ヒマワリが、向日葵なのは知っているけど、アサガオを、朝顔と書くのは、正しいのか?」
日本語的には、正しいです。 中国語では、アサガオの事を、「牽牛」という、全く違う単語で表すので、「朝顔」と書いてあっても、何の事か通じません。 もし、アサガオを「朝顔」と書く方式で、他の植物の名前も表現するなら、ヒマワリは、「日回り」と書くべきでしょうな。 しかし、ヒマワリは例外的で、和語の植物名は、ほとんどが、語源不明であり、漢字を意味から当てる事はできません。
何だか、えらい、話が逸れてしまいましたが、「わけ」という言葉に、思いの外、ツッコミどころが少なかったために、こんな文章になってしまった次第。
こういうのは、他にもあるのであって、たとえば、「訳」という漢字を、「わけ」という言葉に当てるのは、本来の漢字の意味とは違い、日本でだけ行なわれている習慣です。 元の意味は、「翻訳」や「通訳」の「訳」で、「やく」と音読みする場合だけ、正しい使い方をしている事になります。
たとえ、日本語内限定の用法であっても、言語の機能としては、意味が通じれば、それで問題ないわけですが、それを承知していながらも、当て字だという事を一旦知ってしまうと、俄かに心理的抵抗が発生し、二度と使えなくなります。 他人が使っているのを見ると、「ふふふ、無知な奴め・・・」と、いやらしくも、薄笑いを浮かべてしまう始末。
「訳」と書けば、一文字で済むところを、「わけ」と書くと、二文字になるわけで、字面に締まりがなくなるというか、子供っぽくなるのですが、それ以上に、当て字と分かっていて、当て字を使うのは、無知無教養な行為に感じられてしまって、非常に心苦しい。 気付かなきゃ、幸せでいられたのにねえ。 知らぬが仏とはこのこってすな。
私の場合、2006年の4月頃、この事に気づき、以来、「訳」は、「やく」と読む場合にのみ用い、「わけ」は、ひらがなで書くようになりました。 「というわけで」とか、「そんなわけがないのであって」とか、人並み以上に、「わけ」という言葉をよく使う方なので、切り替え以前の文章を読むと、「訳」という字ばかり目について、引っ掛かって仕方ないです。
ただ、例外もあり、「申し訳」とか、「言い訳」とか、単語化している場合には、未だに、使い続けています。 「申しわけ」や、「言いわけ」では、何となく、通じが悪いような気がして・・・。 いや、これは、感覚の問題なので、当て字を徹底的に排除する方針で行くなら、これらも、改めるべきだと思いますがね。
それにしても、「翻訳・通訳」と「わけ」なんて、まるっきり、意味が違うと思うのですが、どうしてまた、こんな当て字をしたのか、昔の人の考える事は、理解の限度を超えます。 「わけ」の意味を、漢字で表すなら、「理由」や、「道理」になると思いますが、一文字では表現できません。 二文字の漢字熟語に、一つの和語を当てるという習慣は、無いではないですが、一般的ではないので、空席になっていたところへ、「訳」という、全くの他人が入り込んできてしまったんでしょうか?
「わけ」の語源を探るなら、たぶん、「分け」になると思いますが、「という分けで」とか、「そんな分けがない」とか書くと、何だか、落ち着きが悪いですなあ。 「言い分け」では、他の意味になってしまいますし、「申し分け」に至っては、そんな言葉は存在しません。 あー、駄目駄目、この書き換えは。
ちなみに、二文字の漢字熟語に、一つの和語を当てる例には、古いところでは、「良人」と書いて、「おっと」と読んだり、新しい所では、「都会」と書いて、「まち」と読んだりするものがあります。 共通するのは、ルビを振らないと、そう読んでもらえないという事でして、「都会」は、普通に、「とかい」と読まれてしまいますし、「良人」も、「りょうじん」と読まれてしまいます。 「りょうじん」なんて言葉は存在しないと思いますが。
生物名になると、「海豚」を「いるか」、「蜻蛉」を「とんぼ」、「躑躅」を「つつじ」と読んだりする例が、うじゃうじゃ出て来て、漢字検定に於ける難問の一角を成しています。 しかし、現代では、基本的に、動植物名は、カタカナで書くという取り決めがあるので、個人的にも、そちらを採用してしまった方が、ずっと楽です。 「海豹・海象・海驢」なんて、分からんでしょう? 一度覚えても、しばらくすると、どれがどれだったか、忘れてしまいます。
漢検問題に命がけで取り組んでいる人達には気の毒ですが、この種の動植物名の漢字をいくら覚えても、実生活には何の役にも立ちません。 だって、書く方は分かっていても、読む方が読めないのでは、文字通り、話にならないものね。 知ったかぶりの鼻抓み者になりたくなかったら、不粋承知で、カタカナで書くこってすな。
何が馬鹿馬鹿しいと言って、この種の難読単語の語源が、意外な程に、いい加減だという事です。 現代中国語と比較してみると、異同があまりにも多くて、びっくりすると思いますが、日本で伝わっている書き方の多くが、日本国内でしか通用しないと言うのでは、何だか、白けてしまうではありませんか。 漢字熟語の持つ権威は、中華文明圏共通なればこそ発生するものであって、日本国内限定では、ありがたみが、どーんと落ちてしまうんですな。
三文字の漢字に、一つの和語となると、「三和土」を「たたき」と読むなど、更に、アクロバティックになって行きます。 なに? 「たたきって、何?」ですと? ほれ、あの、玄関の中の、靴を脱ぐ所の事ですよ。 なぜ、「たたき」というのかは、不明。 もしかしたら、靴を叩いて、土を落とす所だからかも知れません。 問題は、「三和土」の方で、どこから、こんな字の並びが発生したのか、さっぱり解からぬ。
「紫陽花」を「あじさい」、「向日葵」を「ひまわり」と読むのは、割と市民権が確立している方でしょうか。 しかし、店名やブログ名ならともかく、文章の中で使うのなら、やはり、動植物名は、カタカナで書いてしまった方が、読む方には、親切でしょうな。
ここで、ふと、疑問が・・・。
「ヒマワリが、向日葵なのは知っているけど、アサガオを、朝顔と書くのは、正しいのか?」
日本語的には、正しいです。 中国語では、アサガオの事を、「牽牛」という、全く違う単語で表すので、「朝顔」と書いてあっても、何の事か通じません。 もし、アサガオを「朝顔」と書く方式で、他の植物の名前も表現するなら、ヒマワリは、「日回り」と書くべきでしょうな。 しかし、ヒマワリは例外的で、和語の植物名は、ほとんどが、語源不明であり、漢字を意味から当てる事はできません。
何だか、えらい、話が逸れてしまいましたが、「わけ」という言葉に、思いの外、ツッコミどころが少なかったために、こんな文章になってしまった次第。
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