2015/07/12

読書感想文・蔵出し⑭

  どうも、一週間おきに、感想文の蔵出しになっていますな。 いちいち、言い訳するのにも疲れましたが、そこを敢えて、言い訳しますと、うちで飼っている、もう、8・9ヵ月というもの、寝たきりの老犬が、いよいよ、物を食べなくなってしまいまして、鼻水が出ているところを見ると、どうやら、風邪を引いたようなのですが、奥歯が抜けてから、食べなくなったという母の診立てもあり、原因がよく分かりません。

  好物だった茹で卵の黄身を水に溶いてやったり、牛乳を飲ませたり、歯が抜けた隙間から指を突っ込んで、口を開けさせ、半生フードを食べさせたり、いろいろと、工夫しているのですが、なかなか、自力で食べる状態に戻ってくれません。 もう、寿命ならば、嫌がる事を、無理にやるのも、飼い主のエゴなので、その辺の按配が難しいです。

  というわけで、目下の私は、そちらに神経が行っていて、ブログの記事どころではないのです。 まあ、読書感想文ではあるものの、私自身が書いた文章である事に変わりはないわけで、出す事に引け目を感じる事もないのですがね。 もともと、このブログで出す為に、書いたものですし。



≪いなかミューズ≫

バルザック全集 22
東京創元社 1973年
オノレ・ド・バルザック 著
西岡範明 訳

  北海道応援の時に読んだ、≪シャベール大佐≫という文庫本に、【アデュー】という中編が入っていて、その感想文は、以前、出したのですが、それを書く時に、忘れている部分を確認する為に、沼津の図書館で、同作を探したら、全集の中にしかありませんでした。 やむなく、本ごと借りて来たのですが、その、「バルザック全集22」の中に入っていた一編が、この中編小説です。 どうせ、借りたのだから、返す前に、読んでみたという次第。

  1843年~44年に、パリの日刊紙に連載。 これも、小説群、≪人間喜劇≫の中に含まれています。 バルザックは、1830年から、42年まで、猛烈な創作活動を行なったのですが、42年が絶頂で、その後、失速し、この作品を書いていた頃には、下降線だったとの事。 ただし、それは、量的な事で、内容は、むしろ、失速後の方が、充実しているようです。

  地方の葡萄農園経営者に嫁ぎ、自分の屋敷に崇拝者達を集めて、サロンを構成していた美しい夫人が、田舎暮らしで、容姿の衰えが進む事を嘆いた詩を発表したところ、話題になってしまい、パリからやって来たジャーナリストの青年に誘惑されて、不倫に走り、子供まで出来て、パリへ出奔するものの、いざ、同棲し始めた青年は、身持ちが悪い上に、才能も今一つで、次第に、窮乏して行く話。

  ストーリーだけ見ると、フローベールの、≪ボバリー夫人≫に、よく似ています。 というか、こちらの方が、10年以上、先に出ているので、≪ボバリー夫人≫の方が、似ているわけですな。 バルザックの知名度からして、フローベールが、この作品を読んでいないはずはないので、当然、当人も、批評家も、似ている事は承知していたと思うのですが、≪ボバリー夫人≫には、現実に起こった事件がモデルとして存在していたせいか、パクリとは見做されなかったようです。 こういう不倫話は、当時、実話でも小説でも、よくあったのかも知れません。

  ≪ボバリー夫人≫と違うのは、夫のキャラクターでして、ボバリー氏が、外見は悪くないものの、これといった才能のない、平凡な人間だったのに対し、ラ・ボドレー氏は、背が低く、虚弱で、老け込んでいるものの、事業運営の才能はあり、損得勘定に長けているが故に、ケチな性格で、文学的な知識や教養を尊ぶ、妻や、その崇拝者達に、軽蔑されています。 同じ寝取られ亭主でも、ボバリー氏は、ただ、馬鹿正直なだけの、哀れな男に過ぎないのに、ラ・ボードレー氏は、妻の価値観を、逆に軽蔑し返しており、「羊は、逃げ出しても、餌がなくなれば、自分で帰って来る」という態度で、泰然と構えています。

  前半は、田舎での、サロンの様子が描かれますが、「なんで、こんなに、もたつくのか?」と、腹が立つほど、話の進みが遅いです。 取り巻きの男達が、お得意の物語を語って聞かせる場面など、≪千一夜物語≫かと思われるのですが、≪千一夜物語≫ほど、ファンタジックなら、まだしも、冒険小説やピカレスクの断片みたいな、古臭い話が続き、うんざりしてしまいます。

  こういうところには、バルザックの古さが出ますねえ。 近代小説になりきれていないのですよ。 ディケンズと同じで、「物語」から、「小説」に変化する、過渡期の作家だったんでしょうなあ。 バルザックは、≪ボバリー夫人≫が出る前に、世を去って、幸いだったと思います。 ≪赤と黒≫だけでも、ギクリとしていたと思いますが、≪ボバリー夫人≫を読んだら、自分の考える話が、完全に時代遅れになってしまった事に衝撃を受け、≪人間喜劇≫などという大構想を打ち上げたのが恥ずかしくて、人前に出られなくなってしまったでしょう。

  そういや、≪人間喜劇≫という命名自体が、バルザック作品の限界を表しているようにも思えます。 彼にとって、小説とは、前世紀以前の、風刺小説や、ピカレスクのように、人間の滑稽さを笑う為の表現手段だったわけだ。 どれほど鋭く、心理を掘り下げても、どんなに深刻な状況を作り出しても、作者が、それを笑う視点で書いている限りは、リアリズム小説にはなりえません。

  ≪ボバリー夫人≫の作者は、完全に黒衣に徹していて、読者は、作者の存在を感じる事はありませんが、バルザックの小説では、バルザックが、そこに、いるのです。 登場人物として出て来るわけではないですが、語り手として、「どうだい、こんな話は?」と、得意満面、語りかけて来るのです。 この違いは、もう、どうしようもないですな。

  ≪いなかミューズ≫に戻りますが、ラ・ボードレー夫人は、ボバリー夫人ほど、病的ではなく、散財するどころか、パリに出て来てからは、青年の為に、献身的に働きます。 不倫して、夫の元から逃げてしまった点だけが、問題なのであって、それ以外は、至って、常識的な人物なんですな。 青年の方も、悪党というわけではなく、パリの文芸界で、華やかに生きて行くには、ちと、才能が足りなかったという程度の小物。 登場人物の性格付けを、極端にしていない分、話が大人しくなっています。

  よく分からないのは、ラストでして、ハッピー・エンドではないものの、不倫も、出奔も、他の男の子供を産んだ事も、不問に付されており、なんだか、大山鳴動鼠一匹という感じ。 こういう纏め方をしてしまうと、何が言いたかったのか、分かり難くなってしまいます。 「女とは、文学的素養があろうが、都会的センスがあろうが、結局、男の価値も見抜けない、愚かな生き物である」とでも、言いたいんでしょうかね?

  まあ、愚かかどうかは別として、当たっている点もないではないですが。 地味な亭主と一緒に歳を取って行くのが怖くなって、他の男を作って逃げたけれど、その男が、生活能力がない、ろくでなしで、逃げる前より、もっと、ひどい生活に落ち込んでしまう女性というのは、少なからず、存在します。 不完全ながらも、こういう普遍的テーマを扱っているだけ、≪シャベール大佐≫や、≪アデュー≫よりは、先に進んでいるんですな。



≪人生の門出≫

バルザック全集 22
東京創元社 1973年
オノレ・ド・バルザック 著
島田実 訳

  これも、「バルザック全集22」に収録されていた中編です。 もっとも、中編と言っても、二段組で、150ページくらいあるので、文庫本にしたら、そこそこ厚い本が、まるまる一冊、この作品だけで埋まると思われ、長編と考えてもいいと思います。 ≪いなかミューズ≫も、同じくらいの長さ。 しかし、どちらも、≪従姉ベット≫に比べると、3分の1くらいしかないです。

  1842年、新聞連載で発表。 ≪いなかミューズ≫の、一年前ですな。 ただし、バルザックは、一年に作品を何作も書いていたので、直前というわけでもないようです。 晩期の作品なので、当然、≪人間喜劇≫の中に入っています。 元は、バルザックの妹が書いた、短編小説で、それを貰い、バルザックが話を継ぎ足して、この長さにしたのだとか。 あまり聞きませんが、そういうケースもあるんですねえ。 貰い物という事情もあり、発表したり、発行したりするたびに、ころころと題名が変わったらしいです。

  パリから、近郊のプレールという町へ向かう乗合馬車に乗った、学校出たての、世間知らずの青年が、虚栄心の強さから、同乗した法螺吹きどもに対抗したいばかりに、自分が世話になっている人物の主人に当たる伯爵について、恥になるような秘密を口にしてしまったところ、たまたま、その馬車に、正体を隠して乗っていた、その伯爵を激怒させて、世話になっていた人物もろとも、伯爵の屋敷から追い出されてしまうが、その後、別の伝手で、ようやく、法律事務所に就職できたと思ったら、またぞろ、虚栄心から、賭け事に興じて、仕事で預かった金をすってしまい、結局、兵隊になるしか道がなくなって・・・、という話。

  妹が書いた短編というのは、この内の、乗合馬車の中の会話場面から、青年が伯爵の屋敷から追い出される所までで、法律事務所に世話になる部分と、兵隊に行く部分、そして、ラストで、また、乗合馬車に乗る部分は、バルザックが追加したもの。 だけど、一番面白いのは、妹が考えた部分で、追加部分は、蛇足とまでは言わないものの、盛り上がりに欠けます。

  とにかく、この小説の最大の見せ場は、激怒した伯爵が、プレールにある自分の屋敷に入るなり、青年、及び、青年の後援者で、プレールの領地を任せている管理人の先手を打って、ビシバシと処罰を下して行く件りでして、あまりの手際の良さに、読んでいて、ゾクゾクして来ます。 貴族というと、自分では何もしないようなイメージがありますが、怒ると、持てる力を遺憾なく発揮するわけですな。

  この場面の面白さは、サディズム的な要素が大きいと思います。 作者としては、青年に、わざと許しがたいような侮辱をさせておいて、伯爵の激怒を、もっともなものとし、思う様、復讐させる事によって、落差を作り出そうしたのでしょう。 このパターンは、法律事務所での失敗の場面でも、繰り返されますが、そちらでは、話の流れが、わざとらしくなり、金をすらせる為に、賭け事をするように追い込んでいるように見えます。 一口で言えば、不自然。

  主人公の青年は、ただ、愚かだっただけですが、もう一人、馬車の中で、大佐を騙って法螺話を繰り広げる男の方は、より低劣で、悪辣です。 「邪悪」という形容が、最も、ぴったり来る。 こういう人物は、程度の差はあれ、現実に、どの集団にも、一人くらいは存在するので、より忌まわしく感じられ、青年よりも、こやつがひどい目に遭うべきだと思う読者も多い事でしょう。 

  作者も、その辺のところは承知していて、この男には、それなりの末路を用意していますが、少し、甘いような感じがします。 どうせ、サディズムを見せ場にするのなら、後半は、この男の、致命的な失敗を描けば良かったのに。 なまじ、「人生の門出」などという、無理やり、こじつけたテーマに近づけようとしたのがいけないのであって、サドで押し切れば、その方が、ずっと面白くなったと思います。

  ラストの纏め方には、どうにも生煮えな感が否めません。 中途半端に、ハッピー・エンドになるのですが、こんなラストなら、書かない方が、マシだったのではないでしょうか。 そもそも、妹の書いた小説が、話として完成していたと思われるのを、無理に書き足したから、バランスが崩れたんですな。 元の小説の方を、読んでみたいです。



≪追放者≫

バルザック全集 3
東京創元社 1973年
オノレ・ド・バルザック 著
河盛好蔵 訳

  これは、【シャベール大佐】の内容を確認する為に借りて来た、「バルザック全集3」に収録されていた短編小説。 2段組みで、30ページくらいしかありません。 1831年に発表。 13世紀後半のパリで、警官が副業で営んでいる貸し部屋に住み始めた、外国人の老人と若者が、二人の素性を怪しむ警官の心配をよそに、パリ市内にある教会を訪ねて、高名な宗教学者の話を聞いた後、若者が天に召されようと、自殺を図る話。

  一応、梗概は書きましたが、ストーリーで読ませる小説ではないです。 ≪人間喜劇≫の中では、「哲学的研究」に分類される小説だそうで、キリスト教哲学について語るのが目的。 アウグスティヌスの著作に近い感じで、トマス・アキナスのように、論理で説得するつもりはないようです。 この外国人の老人の方が、とある、文学史上の有名人でして、それが明らかになるのが、ラストの仕掛けになっています。

  短いので、一応、全部読みましたが、キリスト教徒でない身には、こういう話に興味を持てと言われても、無理な相談です。 欧米の小説には、たまに、そういうものがありますが、特定宗教の価値観を基盤にして、初めて成り立つ話なので、異教徒や無神論者には、窺い知れない部分が多く、小説の価値も分かりかねます。 言葉を換えれば、普遍性に欠けるわけです。

  ただ、この13世紀後半のパリの様子を描いた雰囲気には、なんとも言えぬ味わいがあります。 せっかく、警官の貸し部屋とか、故国から追われる身とか、若者の自殺とか、ミステリーっぽい道具立てが揃っているのですから、加筆して、≪薔薇の名前≫のような話にしてしまえばよかったのに。 いや、1831年といえば、まだ、ポーの、≪モルグ街の殺人≫も出ていない頃ですから、バルザックに、ミステリーに仕立てろというのは、無理な相談なんですがね。



≪あら皮≫

バルザック全集 3
東京創元社 1973年
オノレ・ド・バルザック 著
山内義雄・鈴木建郎 訳

  これも、「バルザック全集3」に収録されていた作品。 2段組みで、220ページくらいあり、長めの中編か、短めの長編といった長さです。 発表は、1830~31年とありますから、雑誌か新聞に連載されていたんでしょうか。 これも、≪人間喜劇≫の中の、「哲学的研究」の一作品。

  身を持ち崩して、自殺するつもりでいた青年が、最後に入った骨董屋で、特殊な驢馬の皮を東洋で加工したと思われる、「あら皮」を見つけ、手に入れるが、その皮には、持ち主の欲望を叶えてくれるのと引き換えに、小さくなり、小さくなればなるほど、持ち主の寿命が短くなるという性質があり、青年は、突然、遺産が転がり込んで裕福になるものの、寿命を食い潰す事を恐れて、それ以降、ひきこもった生活を続けざるを得なくなる話。

  ストーリーだけ見ると、よくある、「悪魔と、三つの願い」のバリエーションみたいな話なんですが、なにせ、哲学小説なので、ストーリーは、枠として用いているに過ぎず、ファンタジックな面白さとは無縁です。 こういうのも、御伽話を換骨奪胎したアイデアとして、評価できるのかもしれませんが、何度も書いているように、バルザックの小説には、古い時代を引きずっているところがあり、換骨脱胎なのか、そもそも、御伽噺と小説の区別がついていないのか、判然としません。

  たとえば、桃太郎や浦島太郎を元にして、哲学的なテーマを盛り込む事も可能なわけですが、「時代を代表する作家のやるような事じゃない」という気もするのです。 バルザックが、生涯を通じて、パロディーを得意にしていたというなら、話は別ですがね。 御伽噺の枠を借りた小説の場合、読者の方も、御伽噺的な、分かり易い展開と、洒落た結末を、期待してしまうわけですが、この作品は、曲がりなりにも、近代小説ですから、正反対でして、遠回りに遠回りを重ねた展開の挙句、なんとも救われない終わり方をします。

  特に、あら皮を手に入れた直後の、パーティーの場面で、主人公が、自殺を思い立つに至った、それまでの経緯を語る件りがあるのですが、2段組みで、70~80ページくらい、延々と喋り続けるのには、仰天します。 時間にすると、よほど、早口で喋っても、2時間はかかると思うのですが、そんなに長時間、他人の話を聞いてくれる友人なんて、いるんでしょうか? セリフが長過ぎるにも程があろうというもの。 ドストエフスキーどころではないのであって、もし、これを舞台劇にしたら、2時間、一人で喋り続けるんですかね? 

  こういう、変な所があるから、バルザックを、リアリズム作家扱いしている評価には、賛成できないんですよ。 あんたら、2時間喋れるかい? しかも、酒の席だよ。 一人で、2分喋り続けるのも、難しいでしょうが。 その間、聞かされている方は、何してるんですか? 間が持たないではないですか。 だからねー、描写が細かければ、リアリズムってわけじゃないんですよ。 良心的に見るならば、まだ、初期の頃の作品ですから、作風を確立する為に、いろんな事を試していたという事なんでしょうかねえ。

  ちょっと面白いと思ったのは、あら皮の正体を知る為に、学者を訪ねて行くところです。 博物学者に材質を訊いたり、科学者に、強力なプレス機で、引き延ばしてもらおうとするのですが、そこだけ、妙に近代的。 そっちの方向へ進めれば、SFになったかもしれません。 いや、1830年と言ったら、まだ、ジュール・ベルヌが、2歳の時でして、バルザックに、SFを書けというのは、無理な相談なんですがね。



  以上、4作品でした。 バルザックは、これくらい読めば、もう充分という感じです。 長短取り混ぜて、全部で、7作品読んだのですが、その中で、一番面白かったといえば、やはり、≪従姉ベット≫ですかねえ。 最も長かったですが、近代小説への脱皮が最も進んでいて、型に嵌まったところがない点が、良かったです。 もっとも、それも、バルザック作品の中では、という、相対的な評価ですが。

  バルザックと言えば、ブリジッド・バルドーさん主演の、1956年の映画、≪裸で御免なさい≫に、パリにあるバルザックの家が登場します。 地方から出て来た主人公が、画家志望の兄の住所を訪ねたら、凄い豪邸で、ビックリ! てっきり、兄が大成功したと思い込み、留守中、勝手に入り込んで、本棚に並んでいた高そうな本を持ち出して、売ってしまったところ、それは、バルザックの初版本で、結構なお金になります。 ところが、その屋敷は、バルザックの家をそのまま保存している、「バルザック博物館」で、兄は、そこの住み込み管理人だったと分かり、また、ビックリ! 本を買い戻そうと、賞金目当てに、ストリップ・コンテストに出場するというストーリー。

  この映画には、バルザックへの敬意など、微塵も感じられず、単に、コメディーのダシにしているのですが、フランスでの、バルザックの評価は、こんなものなんですかねえ。 親しみを感じているとも取れますが、からかっても構わない人物と思われている可能性も否定しきれません。 もし、バルザック本人が、この映画を見たら、確実に、怒ると思います。 ダシに使われるくらいなら、忘れられている方が、まだ、マシでしょう。