2015/07/19

さよなら、シュン

  2015年7月11日の、午後10時56分頃、我が家の柴犬、シュンが、身罷りました。 1999年1月24日に、生後二ヵ月くらいで、うちに来て、16歳と7ヵ月、生きました。 


  昨年の終わり頃から、もう長い事、寝たきりだったのですが、食べる方と出す方は、割と健康で、家族内では、「この調子だと、まだ、一年以上、生きそうだ」と話し合っていました。 それが、一週間くらい前から、長雨が続き、気温が下がって、鼻水が出たり、吠える声が細くなったり、風邪のような症状が出始めました。 細っていた食が、更に細くなって、二日ほど前からは、自力では何も食べなくなり、好物だった茹で卵の黄身を水に溶いたり、牛乳をやったり、無理に口を開いて、半生フードを食べさせたりしていました。

  金曜日には、雨が上がって、暑くなり、「これで、風邪が治るのでは?」と期待したのですが、外見的には、むしろ暑さに参っているように見えました。 エアコンを、点けたり消したり、室温を按配して、様子を見ます。 その夜には、便が出て、消化器系が正常に動いていると分かり、ほっとしました。 「よし。 これで、持ち直せるぞ」と思いました。 だけど、それは、私の思い違いでした。


  7月11日、土曜日の、夜の事です。 私は、いつもだと、夕飯の後、居間で新聞を読んで、すぐに、二階の自室に上がってしまうのですが、この日は、珍しく、テレビを見て、遅くまで居間にいました。 テレ東の土曜スペシャル「南関東~富士山・初夏の花めぐり絶景旅」、ブラタモリ「仙台・前編」、たけしの日本芸能史「コント」、NHKスペシャル「老後危機」と、ぶつ切りに見て、10時に、自室に上がる事にしました。

  シュンは、その日の朝から、ぐったりしていて、半生フードを口に入れても、呑み込む事ができず、水も自力では飲めない状態で、夕飯の前に、母が、その日買って来た哺乳瓶で、少し飲ませただけでした。 私は、自室に上がる前に、シュンに水をやってみましたが、飲みません。 冷たい牛乳を試してみましたが、それも飲みません。 シュンの体を横にして、器を片付けて戻って来たら、左前足が痙攣して、苦しそうに口を動かしています。 声は出ていません。 しばらく、痙攣する左前足に、私の手を当てていましたが、落ち着かないので、母を呼びに行きました。 先日、同じような症状になった時に、抱き上げたら、治ったと言っていたからです。

  寝ていた母が下りて来て、シュンをしばらく抱いた後、右側を上にして寝かせ直したら、痙攣が収まりました。 風邪のような症状が、もう何日も続いていて、鼻の右側の穴が詰まっているのですが、通っている左側が下になってしまって、口で息をしていたので、私が、下に敷いてあるタオルを按配して、鼻先を持ち上げました。 それで、少し呼吸が楽になったようでした。

  母が、もう一度抱き上げ、哺乳瓶で、水を飲ませました。 ごくり、しばらくおいて、また、ごくりと、水が喉を通る音がします。 しかし、どうも、全て食道へ行っているとは思えません。 母が、今度は、左側を上にして横にすると、シュンの喉で水が噎せるような音がして、表情が変わったので、腹を見たら、動きが止まっていました。 慌てて、私が、シュンの胸を叩こうとしたのですが、母が「いいから、逝かせてやれ」と言うので、その通りだと思って、やめました。 ほぼ、10時56分に、絶命しました。

  父を呼びに行ったら、ちょっとしてから下りて来たので、死んだ時の状況の説明をしました。 父は、死んだばかりのシュンを見ていたものの、何も言いませんでした。 父は、シュンが元気な頃には、毎日、午後に、散歩に連れて行っていて、家族の中で、一番最後まで、シュンを散歩させていた人ですが、シュンの目と足が衰えて、散歩に出なくなってからは、シュンの世話に、ほとんど、タッチしていませんでした。 最近、めっきり怪しくなった、父のおぼろげな記憶だと、最後に散歩に出たのは、2年くらい前だそうですが、私の日記でも、父とシュンの散歩に触れているのは、2013年の8月が最後なので、実際、そうだったのかも知れません。

  一方、母は、食事も、尿や便の始末も、中心になって世話をしていたので、一番、悲しんでいる反面、世話が終わって、ほっとしているような事も口にしていました。 人間ほどではないですが、犬の介護も、大変なので、そういう気持ちには、共感できるところがありました。 一番手間がかかったのは、目が見えないけど、歩けていた期間でして、水を探して、うろつき回り、狭い所に嵌まり込んで、動けなくなっては、鳴くので、外で夜を過ごさせられなくなり、台所に寝かせていましたが、そこでも、やる事は同じで、助けに行かないと、夜通し鳴いている有様。

  その上、尿や便をしますから、台所の床に敷きつめた新聞紙を取り替えたり、濡れた床を雑巾で拭いたり、毎晩、眠る暇がありませんでした。 去年(2014年)の6月下旬、私が退職して、岩手から帰って来た時、母が、私を歓迎したのは、私がいれば、シュンの世話を任せて、夜、眠れるからでした。 私は、引退して、夜通し起きていても良い身になっていたのですが、それでも、夏の間中、シュンの面倒を見る為に、午前2時くらいまで寝られないのには、参りました。

  秋が深まって来ると、シュンは、自力で立ち上がれなくなり、立たせてやれば歩けるものの、もうヨタヨタ。 その内、何かに寄りかからねば立っていられなくなって、そこから、寝たきりになるまで、すぐでした。 動かないので、後ろ半身が痩せて、オムツができるようになって、介護の世話的には、ずっと楽になりました。 それでも、「飲む、食べる、出す」は、人間が全部、助けてやらなけばならなかったのですが・・・。 シュンが死んで、母が、心の一部で、ほっとしたというのは、そういう経緯があったからです。


  シュンの亡骸を腐敗させないように、夜通し、エアコンをつけておく事にしました。 父が自室に戻った後、私が母に、亡骸の処置について訊くと、母は、別に何も考えていなかったようでした。 「庭に埋めるのは、嫌だ」と言うのですが、では、火葬するとして、骨壺をどうするのか訊くと、答えられないという有様。 たぶん、今まで、そういう、シュンが死んだ後の事を考えるのを、避けて来たのでしょう。

  私は先に自室に戻り、ネットで、火葬について調べ始めました。 近くに、火葬をしてくれるお寺があり、供養塔への納骨までがセットになっているのですが、料金が少し高い。 他に、火葬車で焼きに来てくれる会社があって、そちらは、半額です。 骨壺に入れてもらえるし、散骨のオプションもあるらしいので、一応、そちらに目星をつけておきました。

  遅れて、居間から引き揚げてきた母が、私の部屋の戸を叩き、「夜中に見に行って」と言ったので、 眠る前に、一度行ったら、居間は、よく冷えていて、シュンの体と頭には、タオルが被せてありました。 シュンの為にかけたというより、母は、死体が嫌いなので、自分が見なくて済むように、かけたのではないかと思います。 正直なところ、私も、死体は怖いです。 どんなに小さな動物でも、死んだ途端に、「死」という、生き物が本能的に恐れる雰囲気を漂わせ始めるのです。

  自室に戻って、横になりましたが、全く、眠れません。 4時18分から、4時48分くらいまで、ほんの30分眠っただけで、朝になってしまいました。 後で聞いたところでは、母も、一睡もしなかったとの事。


  7月12日、日曜日です。 5時過ぎには起き出して、居間へ様子を見に行きました。 シュンの鼻からは、血が出て、枕代わりに敷いてある水色のタオルの上に、赤っぽいシミが広がっていました。 死ぬ前の丸一日、ほとんど飲み食いしていなかったからか、下の方は、綺麗でした。 父が仏壇に線香を上げに来たので、私はシュンの為に、二本上げました。

  メジャーを持って来て、シュンの体の大きさを計ったら、70×50センチでした。 火葬を頼む時には、ダンボール箱に入れるのですが、その為の計測です。 死んだばかりで、こんな事をするのは嫌なのですが、誰かがしなければなりません。 家族を失った直後というのは、いろいろと、つらい状況になるものです。

  父母と朝食。 梅干おにぎり2個、豆腐の味噌汁。

  母に、火葬の事を話し、火葬車を勧めたら、あろう事か、「骨壺の置き場所に困るから、近所の寺に納骨する方がいい」と言い出しました。 私としては、今までに飼った動物が死んだ時に、そうして来たように、庭に埋めてやりたかったのですが、母は、それは、断固、拒否。 庭の掃除をする時に、その下にシュンが埋まっていると思うと、ぞっとするのだそうです。 まったく、家族であっても、人の考え方は理解し難い。 しかし、母が主に面倒を見ていたのだから、母に従う事にしました。 私も飼い主の一人ですが、シュンの為に割いた時間は、母はもちろん、父にも及びません。 黒衣に徹するのが、良いと考えました。

  火葬をしてくれるお寺のホームページを調べ直します。 読み直してみたら、そちらでも、やはり、ダンボールに入れるとの事。 亡骸は、車で迎えに来てくれるけれど、人間は同乗できないらしいです。 ただし、その、お迎えは、無料です。 ダンボールは、ホーム・センターが開き次第、買って来る事になります。

  料金は、犬の体重によって変わるので、電話をする前に、量らねばなりません。 久しぶりに、体重計を引っ張り出しました。 まず自分の体重を量ったら、なんと、81.4キロでした。 太り過ぎです。 20代前半には、63キロだったのに。  次に、シュンの足を持って、体重計に載ると、88.4キロ。 つまり、シュンは、7キロなわけです。 こちらは、痩せ過ぎ。 元気な頃には、15キロ近くあったのに、半分以下になってしまいました。 腰から後ろ足までは、歩けなくなってから、一番最初に痩せ始め、筋肉がなくなって、毛がなければ、骨と皮ばかりだったでしょう。

  お寺のホームページの指示に従い、氷をビニール袋に入れ、シュンの腹の所に当てました。 お寺の電話の受付は、9時からです。 電話で質問する内容を、メモ用紙に書き出しておきます。 母から、ダンボール代を渡されました。 高い物ではないから、私が出すと言ったのですが、「1万円札を崩して来て」と言うので、受け取っておきました。 なんだか、子供のお使いのようです。 ここで、7時前頃です。 睡眠不足で、頭が重いので、少し眠り、目覚ましで、9時に起きました。

  お寺に電話したのですが、出ないまま、留守電案内になってしまったので、一度切ったら、すぐに、向こうからかけて来ました。 リダイヤル機能を使ったのでしょう。 どうも、住職の奥さんらしいです。 犬が死んだ事を伝えると、お悔やみを言われました。 個別供養を希望で、7キロの柴犬と伝えます。 「2時に持って来れますか」と言われたので、「車がないので、迎えに来てもらいたいのですが」と頼みました。 住所を教えたのですが、どうも、地図で探し出せない様子。 近所の学校を目安に説明し直したのですが、結局、伝わらなかったようです。 来る前に、また電話するとの事。 他に言われたのは、「犬の体をタオルでくるんでもいいし、そのままでもいいから、ダンボールの箱に入れ、一緒に燃やしたい物は入れてもいい」という事。

  9時15分頃、自転車で、ホームセンターへ。 9時半の開店前に着いてしまい、少し待ちました。 他にも、開店を待っている客が、うろうろしています。 やがて、店が開いたので、ダンボール・コーナーへ。 引越し用の最大サイズのダンボール、700×400ミリを買いました。 295円くらい。 これでも小さいですが、これ以上のがないから、仕方ありません。 大き過ぎて、持ったままでは、自転車に乗れず、片手でダンボールを持ち、片手で自転車を押して帰って来ました。 腕が疲れた。 最初から、歩いていけば良かったです。

  帰って、すぐに組み立てます。 底を、クラフト・テープで貼り、母の指示で、底が抜けないように、内側も貼りました。 箱が明らかに小さいので、シュンには、脚を曲げてもらわなければなりません。 すぐに入れようと思ったら、母が、「午後からでいい」と言うので、それに従いました。 鼻から血が出ていると教えても、見れないほど、死体を恐れているくせに、棺桶に納めるのは、少しでも遅らせようというのですから、変な人です。

  午前中に、部屋掃除。 亀の水換え。 昼飯は、お茶漬け、昆布入り。

  さて、いよいよ、納棺です。 その前に、氷袋をもう一つ作っておきました。

  濡らしたタオルで、シュンの口の周りを拭きます。 ついでに、オムツの中で、いつも汚れていた、チンチンの周りの毛も拭いてやろうと、体を引っ繰り返したら、舌ベロが外に出たまま、潰れていました。 無残です。 こうなっていては、もう、生き返る事は、ありえません。 ざっと拭いて、終わりにし、脚を持って、棺桶に入れました。 まだ体が曲がったので、窮屈ながらも、何とか入りました。

  シュンの体の下には、ミッフィーの茶色のマット。 上には、水色の格子模様のバスタオルをかけます。 どちらも、ずっと、シュンの為に使っていた物です。 氷袋は、新しく作った方を、腹に抱かせ、朝作ったのを、頭の上に半分かかるように載せました。 タオルの上から、母が、今朝買って来た、菊の花を載せました。 シュンの顔には、犬模様の手拭いをかけました。 布類は、みな、母が用意したもの。

  ビスケットをひと箱、母が用意していました。 中に入れると言うのです。 私は、余計な物を入れて、後で出さなければならなくなるのを恐れて、反対し、蓋を閉じて、両脇だけクラフト・テープで留めてしまいました。 ところが、その後で聞いたら、ビスケットの箱からは、プラスチック類を抜いてあるというので、「それなら、入れてやった方が、シュンが喜ぶだろう」と思って、クラフト・テープを剥がして、もう一度、蓋を開き、尻の方に載せてやりました。

  母は、花を載せただけで、あとは、全部、私任せでした。 シュンが生きている間は、ろくに風呂にも入っていない、尿の臭いがする体を、平気で抱きかかえていたのに、死ぬと、触ろうともしないのですから、変な価値観です。 私も、死体を持ったりするのは嫌ですけど、母の場合、それとは、また違うところに、「不可触」の基準があるように思います。

  撮影し、再び、クラフト・テープで両端を留めて、納棺は完了しました。 写真は、作業の要所要所で、何枚か撮りましたが、遺体の写真を、後で見返す事は、たぶん、ないと思います。 しかし、もう見納めなので、見ないと分かっていても、撮っておかなければならないと思ったのです。

  私が、「名前を書いておこうか」と言うと、母がメモ用紙に、「シュンちゃん 16才7ヵ月」と書き、私が、それをセロテープで、棺桶の蓋の上に貼り付けました。 このメモが、後に、和尚さんと私の会話のネタになります。

  私は普段、夏場は半ズボンで過ごしているのですが、さすがに、葬儀に、半ズボンはまずいだろうと思い、長いのに穿き替えました。 春より、更に、腹が太っていて、きつくて、敵いませんでしたが、まあ、数時間の辛抱です。 ズボンは茶色のチノパンで、上は、水色の縦縞の半袖シャツ。 母も、上だけ黒の服ですが、普段着です。 だけど、中には、喪服で行く人もいるんでしょうなあ。 準備を整えて、居間で、待ちます。


  約束の2時が近づき、母と私が、ちょこちょこと外に出てみますが、迎えが来ません。 母が、早々と、居間のエアコンを切ってしまったのですが、このエアコンは、前夜、シュンが死んでから、腐敗を遅らせる為に、ずっと点けていたのを、この時、ようやく切ったのでした。 15時間くらいですか。 今までで、最大の長時間運転だったのではないでしょうか。 ご苦労だった。 それはさておき、車が来ません。

  やむなく、2時を過ぎるのを待って、こちらから電話したら、「すいません。 2時40分にしてくれますか?」と言うので、承諾しました。 急かしても、やってもらえなければ、仕方がないですから。 また、エアコンを点け、居間で、転寝しつつ、2時40分を待ったのですが、時間になっても、またまた、来ない。 外に出て道路を見ますが、気配もありません。

  家の中で電話が鳴り、話を聞くと、迷っている最中らしいです。 近所の学校を目安にした説明を繰り返しましたが、まだ分からないようで、3分くらいしたら、また、電話して来ました。 やむなく、学校の正門の前で待ってもらい、私が自転車で迎えに行く事にしました。 もう、来る事は確実なので、先に、居間のエアコンを切り、シュンの棺桶を玄関まで出しておきました。

  自転車で学校前まで行くと、道路の向こう側に、それらしい車が停まっていました。 ハッチ・バックの外車で、和尚さんが運転し、奥さんが外に立っていました。 お二人とも、60代後半から、70代前半くらいの年配でしょうか。 礼を交わし、「ついて来て下さい」と言って、家まで誘導しました。

  早速、奥さんに、棺桶を見てもらいます。 蓋にテープは要らないというので、両脇の短いクラフト・テープを取ってしまいました。 氷袋を取り出すべきか訊いたら、出すようにとの事でしたが、袋の大きさを見ると、「そのくらいなら、大丈夫です」と言うので、戻しました。 シュンの横顔を見て、「頑張ったねえ」というような事を言ってくれました。 もしかしたら、この奥さんが、動物霊園を始めたのかもしれません。

  私が棺桶を持ち、車のトランクに入れました。 ぎりぎりという感じ。 車は、先に出発し、私と母が、自転車で行きます。 凄い暑さ。 心臓がバクバクして、母よりも、私が倒れそうでした。 海の近くの小山の裾にあるお寺で、私の家から、自転車で、20分くらいです。 お寺の正門の内側に、隙間を見つけ、私の自転車と、ちょっと遅れて到着した母の自転車と、二台を停めました。

  本堂や庫裡の方には、ひと気がないので、奥へ向かいます。 一番奥の山の麓に、動物の供養塔と、火葬場があり、和尚さんがいました。 供養塔の前の作業台の上に、やけに平たい箱があるので、何かと思ったら、私が、今朝買って来て、しつらえた、シュンの棺桶が、側面の真ん中で折り込まれて、高さが半分にされていたのでした。 焼却炉のサイズに合わせて、小さくしたようです。 ただし、中身は、そのままでした。 和尚さんが、「もう一度、お別れしますか」と言うので、犬の手拭を捲り、シュンの左頬から首筋にかけて、毛を撫でました。 さよならだ、シュン。 遅れて歩いて来た母を呼んで、もう一度見ろと言うと、「いい、いい」と、手を振って嫌がりました。 変な人です。

  奥さんが来て、線香立ての台の上に、大きな蝋燭を立てて、火を点け、私と母に、線香をあげるように言いました。 風があって、火が吹き消されそうでしたが、なかなか消えず、結局、最後まで点いていたと思います。 母は眼鏡を持って来ていなくて、火から離れた所にかざしているので、私が取って、点けて渡してやりました。 私も続いて、線香を立てます。 この後、母は、会計をしに、奥さんと、一段下にある、小屋に入って行きました。 「43000円」と言う言葉が聞こえて来ます。 ホームページの料金表通りです。 ちなみに、10キロを超えると、15キロまでが、48000円になります。

  その間に、和尚さんは、細いガムテープで箱の蓋を貼り直し、私に向かって、「犬も猫も、死ぬと寂しいでしょう」と話しかけてきました。 私は、曖昧に笑って、「はい」と言い、「8ヵ月くらい、寝たきりだったので」と付け加えました。 和尚さんが、母が書いて、私が、棺桶の蓋の上に貼り付けたメモ用紙を読んで、「16才と7ヵ月ですか。 (人間なら)70歳くらいか。 少し早かったですかね」と言います。 計算が違うと思ったものの、話を合わせて、「はあ」と応えると、それきり、会話が途切れました。 犬の歳は、人間の7倍だから、16年7ヵ月は、116歳くらいです。 どうも、和尚さんは、動物にあまり、興味がないようです。

  母と奥さんが戻り、私が和尚さんに言われて、半分の高さになった棺桶を、焼却炉の建物の入口まで運んで、和尚さんに手渡しました。 幾分、儀式っぽいですが、読経のようなものはありません。 その後、和尚さんが、焼却炉の中に棺桶を入れ、重い蓋を、滑車にかかったチェーンを引いて下ろし、隙間が出来ないように、楔を打ち込みました。 奥さんの指示で、私と母が、焼却炉の建物から離れ、「ここまで下がってください」という所まで下がると同時に、焼却炉に火が入れられ、バーナーの、「ゴーーッ!」という音が響きました。 嫌な音です。 シュンよ、お前の体も、これまでだ。 私は、土葬にしたかったのだが・・・。

  奥さんが、煙突の上を指し、「そろそろ、上がって来たようですね。 お送りしてください」と言ったので、手を合わせて、薄い灰色の煙を拝みました。 ところが、横にいる母は何もしません。 自分で火葬にしろと言っておいて、ペットの葬式など、馬鹿にしきっているのは、明らかです。 つくづく、変な人です。

  奥さんが、和尚さんに、「納骨もするが、5時半でいいか」と訊くと、二人で、ちょっと話し合った後、6時にまた来るという事になりました。 和尚さんが骨を拾うから、急がされるのが嫌だったのかも知れません。 母が、「その時は、一人でもいい?」などと奥さんに訊き、了解を得ていましたが、自分が納骨しようと言い出したくせに、私一人に来させようとしているのに呆れ、その後、母と二人になってから、すぐに拒否しました。 とりあえず、これで、一旦、引き揚げる事になります。

  帰ろうとしたら、母が、「公園で、ジュースを飲んで行こう」というので、どうせ、閑だからつきあう事にしたのですが、公園というのは、「牛臥山公園」の事だと分かり、中には自販機などないので、入り口の向かいにある自販機の所で待っていました。 ところが、追いついて来た母が、「公園の中には、ジュース、売ってない?」と訊くから、「ないない」と答えたら、「それじゃあ、いいわ」という話になり、結局、帰る事になりました。 母は、帰りに、スーパーに寄って、買い物をして行き、私は、まっすぐ帰りました。


  家に帰り、自室にいる父に、火葬の様子を報告に行きます。 火葬の時刻を訊かれ、その時、3時半だったので、「20分くらい前だから、たぶん、3時10分くらいだったろう」と答えました。 この時、父が、時間の事を訊いてくれて助かりました。 お寺にいる間、時間の確認をすっかり忘れていたのです。 ちなみに、して行った腕時計の、「シチズン・クリスタル7」は、元々、葬儀用に買った物なのですが、まさか、シュンの葬儀が最初の出番になるとは思いませんでした。 葬儀と言っても、人間のそれとは比較にならないくらい簡単で、腕時計をして行くような、改まったものではなかったのですが・・・。

  居間のエアコンを点けて、涼んでいると、その内、母が帰って来ました。 夕飯用に、惣菜の稲荷・海苔巻きパックを買って来た様子。 私が、犬の登録抹消手続きの話をし、鑑札があるか訊いたら、首輪に着けた物を出して来ました。 そういえば、昔、「鑑札は、犬に着けていなければならない」とか、テレビの番組で聞いて、こんな事をやっていました。 いつの事だか思い出せなくて、懐かしくなってしまうくらい、昔の事です。

  ついでに、他のプレートも見せられましたが、番号が全部バラバラです。 よく見ると、そちらは、狂犬病の予防注射の証明プレートでした。 「愛犬手帳」というのがあり、それには、登録番号が書かれていて、鑑札の番号と同じでした。 市役所に電話して、鑑札番号を言えば、登録抹消できるはずです。 

  一緒に出て来た写真冊子に、シュンの若い頃の写真が、たくさん入っていました。 家に来たばかりの、子犬の頃のもありました。 まだ、デジカメを買う前、フィルム・カメラで撮ったものです。 16年7ヵ月という歳月の長さが、私の記憶を曖昧にしています。 シュンは、とても、大切な家族だったのですが、私とは、ものすごく仲がいいという関係ではなかったから、仕方ないのでしょうか。 もっとも、シュンは、誰に対しても、べたべた甘えるという事はなかったです。 そういうのが、苦手だったのかも知れません。

  母が、夕飯のおかずを並べ始め、「早めに食べちゃうか」と言って、4時5分頃なのに、勝手に食べ始めました。 私は、上に上がり、最初に自転車で出かけるところまで、日記を書きました。 4時40分に下りて、父と夕食。 惣菜の稲荷・海苔巻きと、同じく、惣菜の鶏の唐揚げ。 他に、焼きプリン。 父が、稲荷を二個残し、私が、夜に食べるという事にしました。 父の食も細っています。

  夕飯は、私が茶碗を洗います。 昨夜から、ほとんど寝ていない上に、朝から、火葬手続き、棺桶ダンボール購入、納棺、部屋掃除、亀の水換え、迎えの車の誘導、お寺まで往復、火葬に立ち会いをした上に、昼飯・夕飯と茶碗を洗ったのでは、疲労困憊してしまいます。 5時10分頃、出かける仕度をして、居間の母に声をかけましたが、「まだ、早いだろう」と言われました。 自分は早々と夕飯を食べてしまったくせに、変な人です。 で、時間まで、居間で新聞を読んで過ごしました。

  いつの間にか、5時半になってしまい、少々慌てて、出かけました。 まだ明るかったです。 お寺には、6時前には着いたと思いますが、この時は、腕時計を外して行ったので、時間が分かりません。 供養塔の前に行くと、「愛犬シュン君」と書いた骨壺が供えられていました。 大きさは、トイレット・ぺーパーを僅かに大きくしたくらいでした。 ああ、シュンよ。 昨夜までは、息をしていて、ついさっきまでは、そこそこ大きな体があったのに、今は、こんな小さな壺に納まってしまったのか・・・。

  再び、奥さんが大きな蝋燭を持って来たので、線香に火を点け、立てました。 昼間と同じように、母の分も点けてやりました。 その間に、奥さんが、異様に長い卒塔婆を持ってやって来て、それにも、「愛犬シュン君」と書いてありました。 奥さんの指示で、供養塔の後ろに回り、骨壺の蓋をとめてある、細いガムテープの片側を剥がし、骨壺の中の骨を改めました。 細かい破片がたくさん詰まっていました。 横で見ていた母が、「よく焼けてるね」と言うと、奥さんも、「そうですね。 いいワンちゃんだったんでしょうね」と、あまり、関係ないけれど、聞いて気分が悪くならない事を言いました。 私には、骨の焼け具合は、分かりません。 見た目、カリカリという感じはしましたが。 それにしても、シュンよ・・・、変わり果てたのう。 ついさっきまでは、数え切れないほどの毛に覆われていたのに。

  蓋をして、テープを貼り戻すと、奥さんの指示で、私が、骨壺を、納骨堂の奥に押し込みました。 奥さんが、「これでもう、出せません」と言います。 ホームページでは、「3年間、保存する」とあったので、「3年経ったら、どうなるんですか?」と訊いたら、「3年という事はなく、後ろから詰めて行って、一杯になったら、前から出します」との事。 つまり、火葬される動物が多ければ、早く押出されて、合葬されてしまうわけです。

  なんとなく、嫌な感じがしましたが、これは、もう、シュンそのものではなく、骨に過ぎません。 切った爪の先や、抜けた毛と同じなのです。 骨を保存しようとする考え方自体が、習慣に過ぎないのだと思って、気にしない事にしました。 もし、母の意向に逆らって、骨壺を持って帰ったとしても、庭に埋めれば、母が嫌がるし、私の部屋に保存しても、いずれは、私も死にます。 結局は、同じ事なのです。 私の死後、ゴミとして処分されるより、他の動物の骨と合葬された方がいいでしょう。

  供養塔の前に回り、もう一度、線香に火を点け、今度は、供養塔の上にある線香置きの方に置きます。 これで、全て終わりました。 卒塔婆は、供養塔の横に立てられて、しばらく保存されるようです。 拝みに来るのは、いつ来てもいいという説明を受けました。 ただし、あげるのは、お花と線香だけにしてくれとの事。 供養塔や、線香台の上に、缶詰が置いてあったのですが、お供え物か、もしくは、火葬の時に、棺桶の中に入れられていたのを、取り出したものなのでしょう。

  まだ、明るかったですが、用心して、二人一緒に帰りました。 今度は、母が先頭で、私がついていきました。 母は、しょっちゅう下りるので、遅いのですが、これだけ慎重なら、違反や事故は起こり難いと思います。 家の近くまで来て、母が、車を避ける為に、必要もないのに下りてしまったので、そこからは、私が先に行く事にしました。 帰って、6時10分くらいだったでしょうか。 家に着いて、居間に入っても、話しかけるシュンはもういません。 私は、つい3時頃まで、シュンの「兄ちゃん」だったのですが、もう、兄ちゃんではなくなってしまいました。

  居間にエアコンを点けて、寛ぎます。 テレビで、伊豆半島の内陸の秘湯を巡る番組をやっていました。 その後、母と一緒に、スーパーカップのアイスを食べ、母がいなくなった後、チャンネルを変えたら、NHKの「これでわかった世界のいま」を、まだやっていたから、時間は、6時半まで行っていなかったと思います。

  遅れ馳せながら、シュンの毛を二本確保し、メモ用紙に挟んで、隅を折り返し、机の引き出しに入れました。 位牌がないので、その代わりです。 内一本は、母の黒い服の背中に付いていた物。 昼間、お寺で、背中に、シュンの毛が付いているのを見ていたのです。 シュンの毛は、我が家の洗濯物にくっついて、それを取るのに、毎日、苦労していたのですが、これからは、減って行き、いずれ、全く見られなくなるでしょう。

  先に風呂に入り、出て来て、上に行こうとする母に、「あんた、今日を限りに、ボケるで」と言ったら、「シュンがいなくなったから?」と、笑っていましたが、冗談ではなく、マジな話です。 「半年もしない内に、じいさんと同じくらいになる」と言い添えておきました。 父は、シュンと散歩に行かなくなってから、徐々に元気がなくなり、今では、話しかけても、返事が戻って来るまでに、衛星中継くらい、間が開くようになってしまいました。 

  続いて、私も、風呂に入ります。 昨日から、かなり動いたので、汗臭くていけません。 でも体を洗う時、「これで、もう、シュンの匂いが消えてしまうのだな」と思って、少し、惜しいような気になりました。 私は、外出中、犬に寄って来られる事が多いのですが、それは、たぶん、シュンの匂いがついているからだと思うのです。 シュンが家に来るまでは、そういう事はなかったですから。 今後は、犬が近寄って来る事は、減るでしょう。

  風呂から出て、自室に上がろうとした時、もう、居間の灯りを小玉にする必要がなくなった事に気づき、ショックを受けました。 シュンが、庭で夜を過ごせなくなって、台所や居間で眠るようになってから、一年以上になりますが、その間、夜は、ずっと点けて来た、居間の小玉電球は、もう、要らないのです。 シュンはもう、ほとんどが煙になり、一部が骨と灰になってしまいました。 シュンは、もう、いないのです。

  一日前には、まだ、シュンが生きていて、私は、その横で、紅茶を飲み、菓子パンや、カップ麺、おにぎりを食べていました。 シュンは、苦しんでいたのに、それを分かってやれなかったのです。 シュンよ、済まなかった。 兄ちゃんは、駄目な飼い主だった。 もう、兄ちゃんでさえ、なくなってしまった。 最初から、兄ちゃんなんかじゃなかったのかも知れない。

  でも、シュンよ、ありがとう。 お前が来てくれたお陰で、うちの家族は、16年と7ヵ月もの長い間、壊れずに済んだのだ。 お前は、勝手放題、生きていただけだろうけど、それでも、充分だったのだ。 お前が、うちの家族に齎してくれた恩恵は計り知れない。 ありがとう。 本当に良く、頑張ってくれた。 ありがとう。 何度感謝しても足りない。 ありがとう。

  前日の夜から、この日の宵の口まで、怒涛のような一日でした。 脳には刺激になりますが、身体的には、健康に悪いです。 10時半頃、ベットに横になったら、スーッと、眠ってしまいました。


  7月13日、月曜日です。 午前9時頃、目覚めました。 久しぶりに、よく眠った事になります。

  台所に行くと、母によって、シュンの陰膳が据えてありました。 半生フードが残っている間は、やるつもりだと言います。 居間に座り、「犬とは、鬱陶しく、面倒臭いものだが、それが良かったのだ」と、今朝起きてから、思いついた意見を述べました。 母は、シュンに愚痴を聞かせていたそうです。 やはり、新しい犬は必要なのかも。 このままでは、母がボケ始めるのは、時間の問題です。 私としては、両親の死後、その犬を最後まで面倒見なければならないので、気が重いのですが、「家族が壊れるのを、少しでも遅らせられるのなら」と、思うのです。

  カメラを持ってきて、陰膳と、家の中の、シュン関係の場所を撮影。 外に出て、犬小屋も撮りました。 シュンが外に出なくなってから、半年くらい経っているので、もう、外にあるシュンの痕跡は、犬小屋くらいになっています。

  役所に、死亡届の電話をしなければなりません。 母に言って、愛犬手帳を借りると、電話の子機を持って自室に戻りました。 電話の本体は居間にありますが、そういう手続きの様子を、母は聞きたくないだろうと思ったのです。 ネットで番号を調べ、市役所の「生活環境部・環境政策課」に電話しました。

  「犬の登録抹消をしたい」と言うと、「亡くなられたんですか?」と訊き返されました。 死亡の他に、盗まれたり、いなくなってしまうケースもあるからでしょう。 登録番号を訊かれたので、念の為、「鑑札に書いてある番号ですか?」と訊くと、そうだとの事。 4桁の番号を答えると、続いて、飼い主の名前、住所、犬の名前を訊かれ、答えましたが、向こうは、パソコンのデータを見て、間違いがないか確認しているのだと思います。 それで、手続きは完了。 その後、会話が途切れて、「もしもし」と聞き返されたので、「はい、分かりました」と、相槌を打たねばなりませんでした。 ペット・ロス状態と思われたでしょうなあ。 実際、そうなんですけど。 最後に、「お願いします」と言って、切りました。

  愛犬手帳を撮影。 死亡届が済んだ事を母に報告し、手帳を返しました。 手帳には、狂犬病予防注射のスタンプ欄が3ページもあるのですが、シュンは、16年分で、1ページしか埋まっていません。 「48年も生きる犬がいるのだろうか?」と話し合いました。


  昼食の時、両親に向かって、「こんな事を言うと、反対されるとは思うけど」と、前置きした上で、「10月頃になったら、新しい犬を買って来ようと思う。 理由は、ボケるのを防止する為だ。 シュンがいなくなれば、あんたらがボケるのは、目に見えている。 犬の力は、それだけ大きいんだ」と言ったところ、意外な事に、賛成も反対もされませんでした。 説得力がある理由だったからでしょう。

  なぜ、10月からなのかというと、暑い時期を避けたいからです。 まだ、先なので、それまでに、反対意見が出るかも知れませんが、とりあえず、そのつもりで行く事にします。 もう、うちの家族は、終わりが近づいており、これから先、10年が見通せません。 犬で、もたせられるものなら、藁にも縋りたい気分なのです。 「これから、犬を飼う」と思うだけで、また、家の中に、生気が戻って来ます。

  シュンが死んで、二日目で、こんな事を考えているのは、罪な事ですが、希望を繋いでおかないと、人の心の崩壊など、瞬く間に進んでしまうのです。 許せよ、シュン。 もし、新しい犬を飼う事になっても、最初に飼ったお前の事を、忘れるなんて事は、絶対にないからな。