2017/05/14

後ろ向きな片付け

  父の遺品の片づけが、大体終わった後、余勢を駆って、自分の物の片付けに取りかかり、自室天井裏を空にするなど、結構、多くの物を捨てたのですが、その作業を進めるに連れて、次第に、精神的な苦痛を感じるようになりました。 父の遺品は、作業そのものは大変だったものの、気分的には、遠慮なく、ザクザクと処分できたのですが、自分の物を捨てるとなると、過去の思い出が纏わっているからか、自分でお金を出して買った物だからか、理由ははっきりしませんが、何となく、身を切られるような思いがするのです。

  「では、捨てなければいいではないか」とは、自分でも考えるのですが、私の場合、終活の一環として、取り組んでいるので、先延ばしにするわけにも行きません。 突然死の恐れを宣告されている身では、尚の事。 「余命、何年」とか言われてしまうよりは、気楽ですが、こと片付けに関しては、いつ死ぬか分からないというのは、予定が立てられなくて困ります。

  私が、昨今流行の、「ミニマリスト」の方々と、決定的に違うのは、「余分な物を処分して、身軽になり、物欲に囚われない人生観に転換して、伸び伸びと自由に生きていこう」という前向きな考えではなく、「いつ死ぬか分からないから、後々、迷惑がかからないように、体が動く内に物を減らしておこう」という、追い詰められた草食動物のような気分で、片付けに当たっている点です。

  将来に備えているという点では、私のやっている事も、必ずしも、前向きでないとは言えませんが、気分的には、敗残撤退ムードでして、ノリノリでやれる事ではないです。

  今まであった物がなくなったから、喪失感に苛まれているのかというと、そうでもなくて、捨てた物は、何十年間も、見えない所に押し込んであった物ばかりですから、見えなかったものが、実際に、なくなっただけで、表面的には変化がなく、大きなショックはないです。

  やはり、片付けを進めた先に待っているのが、「死」だというのが、問題なんでしょうなあ。 死ぬ準備が整ってしまうというのが、宜しくない。 むしろ、準備などせずに、いきなり訪れる感じで、死を迎える方が、自然なのかもしれません。 遺品がごちゃまんとあって、片付ける人達に迷惑をかける事になったとしても、生きる活力を損なわない事の方が、重要なのかも。

  いやいや、これは、白黒はっきりつけられるような事ではなく、程度の問題なんでしょうなあ。 私の父のように、何も片付けずに死なれるのは、やはり、迷惑です。 生きる活力を損なわない程度に、ボチボチと、片付けを進める分には、悪いという事はありますまい。 「○○ゴミの日が近いから、捨てられる物は、全て捨ててしまえ」といった、性急な取り組み方が、良くないのです。


  それとは、また、別の問題ですが、私が今捨てつつある、過去の遺物とは、一体、私にとって、何なんでしょう? 私の自我の一部なのか、それとも、ただの残骸なのか。 使わないから、不用品である事は確かですが、もし私の自我の一部になっているのであれば、それを捨てるという事は、自我を少しずつ切り捨てて行く事になります。

  たとえば、小説本。 その作品は、私の自我の形成に関わっていて、その意味では、自我の一部です。 しかし、すでに、吸収は終わっていて、その本そのものは、もはや、用済みになっているとも考えられます。 食品の容器のようなもので、中身を食べてしまえば、器を捨てるのは当たり前というわけだ。

  それを言い出せば、私は、大人になって以降、買って読んだ本より、図書館で借りて読んだ本の方が、圧倒的に多いのですが、それらの本も、自我形成に関わっている点は、買った本と変わりがありません。 そして、それらの本は、元から、私の物ではないのです。 その気になれば、また借りて来る事は可能ですが、とにかく、手元にはない状態が当たり前で、それに不満があるわけではありません。

  持っている本の中には、何度も読み返しているものもあり、そういうのは、もとより、死ぬまで捨てる気はないです。 一方で、「これは、もう、読まないだろう」と、思ってしまうような本もあって、そんなのを、後生大事にとっておいても、意味はないと思うのです。


  ビデオ・テープも、ダンボール箱に、二箱分、残っているのですが、まーあ、もう、見ないでしょう。 内訳としては、3分の2が、アニメ、残りが、黒澤明作品や、ドラマです。 私は、アニメが、もう、全然、見れなくなってしまいまして、最後に見たシリーズが、≪進撃の巨人≫で、それ以降、ほとんど、見ていないです。

  なんで、アニメが見れなくなってしまったのかというと、アニメで表現できる映像の、限界を見切ってしまったからだと思います。 見る価値がある作品と思えなくなったのです。 これは、実写映画でも同じでして、10年くらい前から、アメリカ製のアクション映画を、まるで面白いと感じなくなってしまったのですが、飽きたんでしょうなあ、ああいうキリキリと尖った、殺伐とした映像に。

  また、アニメ製作者が思いつく世界観も見切ってしまった感があります。 作り手が何を考えているか、見当がついてしまうと、その作品世界に入って行くのが、大変、馬鹿馬鹿しい徒労のように思えて来るのです。 これは、やりたくもないのに、子供に付き合って、ゲームをやってる大人の気分に似ています。

  新作はもちろん、昔、録画したアニメを見返したいという気持ちにもなりません。 たとえば、ガンダム・シリーズは、第一作と、Z、ZZ、ウイングスなどが、残っているのですが、BSで再放送をしているのを、たまに目にしても、全く、面白いと感じないのです。 そんな人間が、わざわざ、押入れからビデオ・テープを発掘してまで、見るわけがない。

  黒澤明作品も、わざわざ、見直したいとは思いませんなあ。 いつでも、見れると思うと、却って、見ないものでして、名作映画というのは、たまに、テレビで放送した時に、ちょこっと見て、「ああ、やっぱり、面白いなあ」と思う程度が、ちょうどいいのでしょう。 つい、こないだ、≪用心棒≫をやっていたので、見たんですが、やはり、いいですなあ。 オープニングが何とも言えぬ。 まあ、それはいいとして。

  ビデオ・テープに録画してあったものを、DVDやブルーレイにコピーした人もいると思いますが、大変だったでしょう。 その努力は、賞賛に値すると思います。 私が、そういう作業ができない人間だから、羨ましいとさえ思います。 だけど、せっかく、膨大なエネルギーを費やしてコピーしたものであっても、見る機会は、ほとんどないんじゃありませんか? だって、テレビを点ければ、新しい作品が、次々に放送されているわけですから、どうしても、昔のものを見返さなければならない理由がないですものねえ。

  そういう事情ですから、恐らく、ビデオ・テープや、デッキを、捨ててしまっても、大きな後悔はしないと思うのです。 むしろ、押入れがすいて、清々するに違いない。 しかし、昔の私と、今の私の、考え方・感じ方が違うように、未来の私の、考え方・感じ方が、今と変わって来る事も起こり得るのであって、別に邪魔になっていないのなら、万一の事を考えて、とっておく方が無難、という考え方もあります。

  2015年秋の大整理の時、「死んだ後、人に見られて恥ずかしい物」は、全て、処分しているので、今残っているものは、そういう心配がない物ばかり。 だったら、そのままにしておいてもいいかなあ、とも思うのです。 どーせ、私が死んだら、遺品が多かろうが少なかろうが、片付ける奴(恐らく、兄)は、ブツクサ文句を毒づくに決まっているんだから、そんな奴の為に、苦労してやる事はないわさ。


  なんだか、考えが、堂々巡りして、結論が出ませんな。 駄目だ、こりゃ。 この葛藤は、死ぬまで続くんでしょうか。 つらいなあ、それは・・・。


  それにしても、どうして、現代人というのは、こうと、いろいなものを、買い込み、溜め込むんでしょうねえ。 昔の人は、一般人の場合、個人の持ち物なんて、箪笥一つ分も、持っていなかったのに。 そもそも、使う物しか手に入れないから、使わない物が溜まってしまうなんて事がなかったんでしょう。