2018/04/22

香貫山今昔

   私の家から、徒歩10分くらいで麓に至る、標高193メートルの山、香貫山(かぬきやま)。 子供の頃に撮った写真と同じ場所が、今どうなっているか、比較写真を撮って来たので、紹介します。




【五重の塔 / 遊具】

  左側は、1967年(昭和42年)1月15日の撮影。 これは、アルバムに日付が書き込んであるから、確実です。 ちなみに、この頃のカメラは、日付の焼き込み機能が付いていませんでした。

≪写真上≫
  香陵台の、五重の塔の前で撮った写真です。 着物姿の女性は、母。 子供二人の内、小さい方が、私で、2歳ちょっとです。 60年代はもちろん、50年代からすでに、普通の女性の服装は、洋服になっていて、冠婚葬祭か、正月くらいしか、着物を着なかったのですが、小正月にも着ていたんですな。 母が着物ですし、私も、まだ小さくて、登山は無理ですから、車で行ったのだと思います。

  右側は、今の五重の塔。 塗り直しているので、外観は、ほとんど変わっていないと思います。 横に、旗竿が追加されていますな。 旗が上がっているのを見た事はありませんが。  

≪写真下≫
  同じ時に、香陵台の遊具をバックに撮った、父と私です。 私も父も、半世紀も経つと、もはや、肖像から知れる個人情報を気にする事もありません。 私は、まるで、別人になっていますし、父の若い頃を知っている人も、もう、ほんの僅かしかいません。 その中で、インターネットを見ている人は、皆無でしょう。

  右は、今の写真。 この遊具、51年経っても、健在です。 なんて、もちがいいんでしょう! ペンキは、何度も塗り直していると思います。


  この頃の私は、まだ、物心がつく前で、独立した人格を持った人間というより、両親や兄のオモチャみたいな存在だったと思います。 連れて行かれる所へ、連れて行かれていただけ。

  ああ、51年前、私は、ここにいましたよ。 確かに、ここにいましたよ。 誰か、昭和42年1月15日に、香貫山の香陵台で、こんな親子を見かけた人はいませんか? 小さい方の子供が私です。 その後、どうにかこうにか、51年間生きて、まだ元気です。 こんなに長く生きて来たのが、奇跡のようです。



【猿ケージ / 正面階段】

  この写真は、前の2枚より、2年近くあとの撮影になります。 後なのに、カラーから、白黒に戻ってしまっていますが、おそらく、カラーの方が、フィルムや現プリ代が高くて、白黒に戻したのだと思います。 カラーが当たり前になるのは、70年代に入ってからです。

  アルバムの前後の写真に添えられた書き込みから考えると、1968年(昭和43年)11月16日から、12月24日までの間という事になるのですが、着ている服が、どう見ても、晩秋以降のものとは思えず、もしかしたら、アルバムに貼られている順番が前後していて、10月くらいなのかもしれません。 いずれにせよ、私の年齢は、4歳になる直前という事になります。

  この時は、歩いて登ったと書いてあります。 同じ時に撮った他の写真を見ると、父が写っておらず、母と私のツー・ショットの時には、兄が写っていないので、たぶん、母一人で、兄と私を連れて来たのだと思います。 兄は、6歳でしたが、すでに、カメラを操作できたわけですな。 私には、とても無理で、母と兄のツー・ショットはありません。

≪写真上≫
  左側の写真は、香貫山展望台の正面階段の横にあった、ニホンザルのケージです。 私の記憶では、もっと小さな檻だったのですが、記憶ほど当てにならないものはない。 こうして見ると、結構、大きかったんですねえ。 かぶりついているのが、私。 残念ながら、猿は写っていません。 

  右側の写真は、現在の、ほぼ同じ場所。 ケージは、撤去されてから、もう、40年も経っていますが、石垣の石は、一つ一つ、見比べて行くと、全く変わっていません。 当然といえば、当然ですけど。 撤去後に植えられた桜が、こんなに大きくなっているのだから、歳月の経過の荒々しさに、呆然とするほかありません。

≪写真下≫
  これは、展望台の正面階段です。 駆け上がる兄を、必死で追いかけているのが、私です。 展望台の上に、瓦屋根を載せた建物が写っていますが、ある宗教団体が建てた、天文台の一部です。 天文台の他に、売店や、飲食ができる露天席などがありました。

  右側は、現在の同じ場所。 石段も、手すりも、ほとんど、変わっていません。 建物は撤去されて、今は、展望櫓と、あずまやが建っています。 変わった所を見ても、変わらない所を見ても、泣けてしまいます。


  ああ、その石段を駆け上がっている子供は、私です。 誰か、昭和43年の秋、香貫山の展望台で、母親に連れられた二人の男の子を見た人はいませんか? 小さい方が、私です。 その後、50年、生きて来て、まだ、元気です。 この時から、今までに起きた出来事が、忘れかけた夢のように、霞んでいます。


  これは、オマケです。 場所も、香貫山ではなく、南箱根にある、「十国峠」。 撮影日は、最初に出した写真のすぐ後で、正確な日付は分からないのですが、アルバムの前後の写真から考えて、1967年(昭和42年)1月16日から、2月10日までの間だと思われます。

  立っているのは、もちろん、私。 しかし、この写真から、現在の私は言うに及ばず、小学生以降の私ですら、想像する事はできないでしょう。 私本人ですら、知らずに見せられたら、誰だか分かりません。 前髪が整っていないのは、お出かけ用のベレー帽のせいで、すでに、散髪は経験していた事が、前後の写真から分かります。

  イノセントなオーラを発散しまくっていますが、欲望がなかったわけではないのは、手にしっかり持った、お菓子の缶を見ると分かります。 たぶん、ドロップなのでは? 甘い物が少ない時代だったので、ドロップは、最高においしい食べ物で、その缶が宝物だったのでしょう。

  ちなみに、左側に、ちょこっと写っているのは、当時のうちの車で、「初代ファミリア 800 デラックス」です。 この車に関しては、全く、記憶なし。




  古い写真を撮られた時の事は、どれも、全く記憶にありません。 私の場合、アルバムの写真と、頭の中の記憶が重なって来るのは、幼稚園に入った頃からです。 写真と関係ない記憶なら、もっと昔のがありますけど。 なまじ、写真に撮ってしまうと、実際の記憶と、後で写真を見た記憶が、ゴッチャになってしまう傾向があるようです。 それでも、写真は、ないよりは、あった方が、幼少時代の事を知るのに、断然、頼りになりますけど。

  惜しむらく、私は生涯独身ですし、兄にも子供がおらず、アルバムを託す者がいません。 私と兄が死んだら、誰も、これらの写真を見る者がいなくなり、何の意味もない、ただのゴミになってしまいます。 私が、この日、生きていた事に、何の意味があったのでしょう?