2018/07/08

読書感想文・蔵出し (39)

   読書感想文です。 前回から、2ヵ月くらい経っていますな。 前回以降、どっぷり、コリン・デクスターの世界に浸っているので、クイーンやセイヤーズを読んでいたのが、遥か昔のように感じられます。

  なぜ、デクスター作品に向かったかというと、BSプレミアムで、2月10日から、4月7日まで、イギリス製のドラマ、≪刑事モース ~オックスフォード事件簿~≫を放送したのを見て、昔何冊か読んだのを懐かしく感じたから。 ただし、このドラマは、モース警部の若い頃を、ドラマ製作サイドで創造して描いたもので、原作とは、内容が全く違います。

  ワープロ日記を調べたら、1994年の7月頃に読んでいました。 すでに、大人になっていて、最も長く勤めた会社に入ってから、5年が過ぎ、バイクにも乗り始めていた頃ですが、それでも、充分に大昔ですな。 道理で、懐かしく感じるわけだわ。

  確か、3・4冊は、読んだと思います。 面白いものもあれば、ややこし過ぎて、よく分からないものもありました。 デクスターの名前を知ったのは、当時、新聞で、赤川次郎さんがエッセイ書いていて、その中に出て来たから。 夕刊のエッセイだったと思いますが、当時の夕刊は、文化の香りが高く、読み応えがありました。 それも、懐かしい。




≪ウッドストック行最終バス≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1976年11月初版
コリン・デクスター 著
大庭忠男 訳

  沼津市立図書館にあった本。 実は私、この本を、1994年の夏に、一度借りて、読んでいます。 同じ図書館ですから、全く同じ本なのですが、昔は、もっと綺麗でした。 24年も経っているのだから、無理もないか。 沼津図書館には、デクスターの作品が、かなり揃っていそうなので、一通り読んでみようと思っています。 読めればの話ですが。 難しかった記憶あり。

  発表は、1975年。 イギリスの推理作家、コリン・デクスターの処女作で、モース主任警部が探偵役を務めるシリーズの、第一作でもあります。 この作者は、作家デビュー前は、オックスフォード大学で働いていたそうですが、教授・講師など、教える側だったのか、職員だったのかは分かりません。 それ以前は、中学の教師をやっていたとの事。


  ウッドストック行きのバスに乗ろうとしていた、若い女性二人の内、一人が、酒場の駐車場で殺される事件が起こる。 テムズ・バレイ警察のモース主任警部と、ルイス巡査部長は、女性二人が、バスに乗らず、ヒッチ・ハイクで目的地へ向かったと見て捜査するが、もう一人の女性に該当する人物が複数いた上に、嘘つきが混じっており、事件関係者の背後にある複雑な相関を解きほぐすのに、手間を喰う話。

  24年前に借りた時より、ずっと、気軽に読めました。 してみると、その頃と比べて、私の読書能力が上がったんでしょうなあ。 複雑は複雑ですが、難しいという感じは、全然しませんでした。 なぜ、昔は、この程度の小説に手こずっていたのだろう? この間に、古典推理小説を、100冊以上は読んでいるので、推理小説の作法に慣れたという事なのかも知れません。

  ちなみに、前回読んだのが、24年前であったにも関わらず、私は、犯人が誰か、覚えていました。 記憶力がいいのではなく、犯人指名の仕方が急転直下で、印象に残っていたのです。 処女作であるせいか、犯人指名の場面で意外性を強める為に、工夫した跡が見られます。 三人称なのですが、後に犯人と分かる人物の心理を、読者にそれと知らせずに描いている部分があって、些か、アンフェアな嫌いもありますが、1975年頃となると、もはや、フェアだアンフェアだと目くじら立てる人もいなくなり、面白ければ、何でもアリになっていたのだと思います。

  この作者の特徴ですが、描写が細かくて、推理小説というより、一般小説のような文体です。 一般小説の文体で、推理小説の平均を遥かに上回るパズル性を盛り込んだのだから、緻密な内容になったのも不思議はないです。 この作品に限って言えば、ラストに、謎解きの重心が寄り過ぎていて、それが始まる前の時点では、誰が犯人で、どういう動機で、どういう経過で事件が起こったのか、さっぱり分かりません。 分からないように、書いてあるんですな。

  謎はあるけれど、トリックはなくて、「成り行き上、そうなってしまった」という事件なのですが、ちと、偶然が過ぎるような気がしないでもなし。 バスがなかなか来なくて、困っている時に、知り合いの車が通りかかる確率って、どのくらいなんですかね? その点は譲って、事件が起こるところまでは、アリだとしても、これだけ複雑な人物相関があるのを、警察が全て見抜いてしまうというのも、現実には、ありそうにないです。



≪キドリントンから消えた娘≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1977年12月初版
コリン・デクスター 著
大庭忠男 訳

  沼津市立図書館にあった本。 デクスターの本は、1994年の夏に、何冊借りて、読んでいるのですが、この作品は、初見だったようで、一ヵ所たりとも、覚えている部分がありませんでした。 いくらテキトーに読んだとしても、完全に記憶から消えてしまうというのは稀で、何かしら、どこかしら、覚えているものです。 それがないという事は、つまり、読んでいなかったわけだ。

  発表は、1976年。 イギリスの推理作家、コリン・デクスターの第2作。 一年に一作のペースで、発表していたようです。 1976年か・・・、アメリカ建国200周年の年ですなあ。 市川崑監督の映画、≪犬神家の一族≫が公開された年でもあります。 私は、小学5年生から、6年生になる年でした。 その頃、地球の裏側で、この小説が書かれていたわけだ。


  キドリントンに住んでいた女子学生が失踪してから2年後、その行方を追っていたエインリー警部が事故死し、娘の手紙が親元に届いた事で、モース警部とルイス巡査部長に、継続捜査の命が下る。 娘は殺されていると考えたモースは、関係者に聞き込んで、様々な推理を逞しくするが、なかなか、真相に辿り着かない話。

  これは、ひどい。 いや、ひどいという事はないのですが、こういう話とは、思っていませんでした。 掟破りではないものの、推理物の中では、悪いパターンです。 モース警部が、推理を幾つも組み立てるのに、それらが、ことごとく外れて、空振りしまくるのです。 失敗失敗の連続。 これでは、有能な探偵役とは、とても言えません。

  幾つもの推理を並べれば、ページ数は稼げますし、複雑な話になりますが、それは、作者側の都合です。 読者側が知りたいのは、最後の一つの、正しい推理だけでして、探偵の間違いにつきあって、あれでもない、これでもないと振り回されるのは、疲れるだけです。 また、中途放棄された推理の断片が、読者の頭に残ってしまうので、最終的に正しい推理が説明されても、すっきりせず、気持ちの悪い読後感になってしまいます。

  2年前に消えた娘が、生きているのか、死んでいるのか、それさえも、ラスト近くまで分からないのですから、読者側で、推理しながら読むのは、全く不可能。 しかし、デクスター作品は、そもそも、そんな読み方を許していないという見方もできます。 推理小説というより、一般小説に近く、モースやルイスが捜査を進める様子を見て楽しむのが、本来の読み方なのかも知れません。

  モースは、理詰めで謎を解くのではなく、インスピレーションで推理して、それを、捜査で裏付けるという手法を取ります。 インスピレーションですから、何でもアリでして、モースが探偵役として優れているという印象は、全くありません。 推理物に必須の、ゾクゾク感もないです。 ただ、一般小説として読むのなら、決して、つまらないという事はないです。


  どうでもいいような事ですが、モースが乗っている車が、第1作では、「ランシア」と書かれていたのが、この第2作では、「ランチア」に変わっています。 「LANCIA」は、イタリアの自動車メーカーでして、日本では、「ランチア」と言われています。 第1作が訳された1976年の時点で、訳者が、それを知らなかったのか、それとも、日本で、「ランチア」という読み方が一般化していなかったのかのどちらかでしょう。 スーパー・カー・ブームは、1975年からですが、翻訳家が、≪サーキットの狼≫を読んでいなくても、別に不思議ではないですな。

  で、ランチアの、何という車種だったかは、書いてありません。 1975年に売っていたというと、「フルヴィア」か、「ベータ」か・・・。 「モンテカルロ」は、スポーツ・カーだから、違うと思うんですが。 モースのイメージに合うというと、「ベータ」ですかね。 「デルタ」なら、もっと合いますが、75年では、まだ出ていません。



≪ニコラス・クインの静かな世界≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1979年1月初版
コリン・デクスター 著
大庭忠男 訳

  沼津市立図書館にあった本。 1994年の夏に、何冊か借りて読んだ内の一冊。 話の内容は、ほとんど忘れていましたが、作中に出てくる小謎、「横書きの文章を、右端の単語だけ、縦に読む」というのだけ、覚えていました。 それだけしか覚えていないというのは、我ながら、見事な忘却力と言うべきか・・・。

  発表は、1977年。 コリン・デクスターの第3作。 原作の方は、一年一作のペースが守られていたようですが、日本語訳の発行は、間に合わなかったようで、年を越えて、前作から、2年目に入ってしまっています。 1977年は、私が小学校を卒業して、中学生になった年。 まだ、読書は始めたばかりで、友人が読んでいたものを、真似して読むという程度でした。 推理小説は、ホームズ物の文庫を買い始めたのが、この年か、翌年です。


  外国の学校に、英語の試験問題を提供し、採点もする委員会で、ニコラス・クインという若い男が、難聴のハンディーがありながら、新しく審議委員になるが、その3ヵ月後に、自宅で死体で発見される。 モース警部が捜査を続ける内に、被害者が読唇術ができたばかりに、たまたま、試験問題の漏洩を知ってしまったのが、事の発端である事が分かる。 モース警部が、関係者の嘘に振り回されながら、辛うじて、真犯人の逮捕に至る話。

  以下、ネタバレあり。 この話も、誤推理が繰り返されます。 真犯人ではない人物を、一人逮捕して、釈放。 また一人逮捕して、釈放し、ようやく、真犯人に辿り着くという、切れ味の鈍さ。 先の二人が、真犯人ではないという事は、残りのページ数から推して、読者にも、見当がつきます。 厳密に言うと、間違えて逮捕した内の一人は、共犯だったわけですが、主犯ではないです。

  誤認逮捕があるという事は、それらに至る推理は、間違っているわけで、読んでいる方は、頭がこんがらがります。 作者は、たぶん、表を作って、辻褄合わせをしながら書いていると思うので、混乱しないのでしょうが、読者は、そんな面倒臭い事はしないのであって、大変、分かり難いです。 表やメモを書き出しながら読まないと、意味が取れないような小説は、読み物として、失格と言ってもいいです。

  あるパーティーの席で、ある人達が、試験の不正について話してあっているのを、被害者が、たまたま、読唇術で読み取ってしまうという、そこだけ、ゾクゾク感があります。 コリン・デクスター作品は、「本格派」の中に入れられているのですが、トリックらしいトリックが使われず、専ら、謎だけで、話を構成しています。 それはそれでいいんですが、偶然や、嘘が重なって来るので、読者の推理を許さず、ただ、作者の説明を受け入れるしかないという点が、ゾクゾク感が不足する原因になっているように感じられます。

  モース警部が、誤認逮捕をやらかしているくせに、その都度、自信満々な態度を取る様子には、違和感があります。 この警部は、決して、超人的な名探偵ではなくて、ひらめきで、事件の大体の流れが掴めると、すぐに、犯人指名に及んでしまうタイプ。 ただ、間違っていたと分かったら、素直に引くので、嫌な感じはしません。 些か綱渡り的に、好感度を保っているキャラです。



≪死者たちの礼拝≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1992年7月 初版 1996年9月 6版
コリン・デクスター 著
大庭忠男 訳

  相互貸借で取り寄せてもらった、掛川市立図書館の蔵書。 「新書版でも、文庫でもいい」と言ったら、文庫の方が来ました。 デクスターの作品は、日本では、早川書房が版権をもっているそうで、1976年から、まず、新書版のハヤカワ・ポケット・ミステリで発行され始め、最終作が出たのは、2000年。 文庫版は、1988年から追いかけ始めて、最終作は、2002年だそうです。 

  発表は、1979年。 コリン・デクスターの第4作。 前作から、一年以上開いていますな。 一年一作のペースが、きつくなって来たんでしょうか。 ちなみに、日本語訳の、新書版ハヤカワ・ポケット・ミステリの方は、発行年が、1980年で、原作発表の一年後です。 1979年というと、私は、中2から中3になった年です。 市川崑監督の横溝正史シリーズが、≪病院坂の首縊りの家≫で、終わった年。 デクスターとは、全く関係ないですけど。


  ある教会で、平日ミサの最中に、教区委員をしている男が、奥の部屋で刺し殺され、翌月には、牧師が塔の上から転落死する。 休暇中だったモース警部は、ギリシャ旅行に出かけ損ねたせいで、この事件に、たまたま、首を突っ込んでしまう。 その後、更に、その教会に関わっていた人物が殺され続けるに至って、モース警部が捜査を任される事になり、ルイス部長刑事と共に、複雑な背景を持つ犯罪の謎を解き明かして行く話。

  以下、ネタバレ含みます。

  そんなに、面白いという小説ではないですな。 さりとて、目を吊り上げて扱き下ろすほど、つまらなくもないという、中途半端な読後感です。 ゾクゾク感は、全くなし。 という事は、推理小説としては、一級作品とは言えないわけですな。 しかし、腐っても鯛という奴で、ヴァン・ダイン作品と比べたら、プロが書いた小説という感じがしますし、クイーン作品と比べても、鼻につく登場人物が出て来ないお陰で、随分と読み易いです。

  休暇中の探偵役が、たまたま知った事件に首を突っ込んで、解決まで関わってしまうというパターンは、他の作家の作品でも、よくあります。 職業病で、休暇を楽しめない様子を見ると、滑稽さを感じるよりも、気の毒に思えてしまうのは、私だけかな? とはいえ、この作品では、事件が新展開を見せた後は、正式に、モース警部が担当する事になるから、後半は、遠慮なく、読む事ができます。

  問題は、起こる事件が、アホ臭く感じられるスレスレ手前程度に、複雑過ぎる事でして、その点、他のデクスター作品と同様に、読者に、「ついていけない」意識を強く抱かせます。 終わり近くになって、容疑者の一人の偽供述による、誤誘導が出て来るのが、また、厳しい。 てっきり、それが真相だと思って、読書の締め括りに入っていたら、その後で、モースに引っ繰り返されるわけですが、ドンデン返し的な驚きはなく、ただただ、「紛らわしい書き方だな」としか思いません。

  モースは、第一作の≪ウッドストック行最終バス≫で、恋愛をしていましたが、この作品でも、容疑者の一人と、恋愛関係になります。 恋愛関係と言うより、恋愛をすっとばかして、肉体関係まで行ってしまうのですが・・・。 探偵役の恋愛は、「ヴァン・ダインの二十則」では、禁じ手なのですが、デクスター作品だと、ストーリーの邪魔になっているような感じがしません。 モースのキャラ設定が、リアルに人間臭いお陰で、謎解きのパズル的要素と、恋愛要素が、反発しあう事がないからだと思います。

  クライマックスに、アクション場面が入っていますが、何とも、モース警部シリーズらしくない、浮いた描写になっています。 刑事物ドラマのクライマックスを、そのまま、文章で書いたような、安っぽさ。 これは、どういうつもりだったんでしょうねえ? モース警部シリーズがテレビ・ドラマ化されるのは、1986年からでして、この作品が書かれた時点では、映像化を意識した場面を入れる必要はなかったと思うのですが。




  以上、四作です。 読んだ期間は、今年、つまり、2018年の、

≪ウッドストック行最終バス≫が、4月14日から、18日にかけて。
≪キドリントンから消えた娘≫が、4月20日から、25日。
≪ニコラス・クインの静かな世界≫が、4月27日から、5月1日。
≪死者たちの礼拝≫が、5月14日から、18日にかけて。

  こうして見ると、デクスター作品に関しては、どれも、大体、4・5日で、読み終わっているようですな。 貸し出し期間は、最長で、2週間だから、一度に、2・3冊借りて来ても、読めない事はないのですが、昨今は、読書意欲が減退しているのか、そんなにガシャガシャ、先を急ぐ気にはなれません。 一回に、1冊借りて来て、読み終わっても、すぐには返さず、閑な日や、図書館がある街なかに行く用事がある日を選んで、返しに行き、次を借りて来る、というパターンになっています。