2018/07/01

良性発作性頭位めまい症


  母自(電動アシスト車)のサドルを、ヤグラを引っ繰り返して、より低くした、という記事を、先日書きましたが、その後どうなったかと言うと、母が、全く、自転車に乗らなくなってしまいました。 「乗れなくなった」と言った方が、正確でしょうか。 サドルを低くしてから、乗ったのは、ものの一回か二回だと思います。


  理由は、サドルが低くなったから、ではなく、目眩がするようになったから。 時折、くらくらっと来るので、怖くて、自転車に乗れなくなったのだそうです。 半月くらい、そんな事を言っていて、その後、耳鼻咽喉科へ行って、検査を受けたら、「良性発作性頭位めまい症」と診断されました。

「りょうせい・ほっさせい・とうい・めまいしょう」

  長い名前だな。 私が、これを、淀みなく言えるようになるまでに、半日かかりました。 耳の半規管の中に、耳石のかけらが入って、一時的・発作的に、平衡感覚が失われる病気なのだそうです。 薬と、体操で治すのですが、最初に病院に行ってから、もう、一ヵ月くらい経つのに、まだ、治っていません。 治ったかどうかは、本人の自覚以外に、検査でも分かるらしいです。   

  「良性」が付いているという事は、そんなに深刻な病気ではないわけですが、私の母は、歳が歳ですから、完治するかどうか、怪しいところ。 自転車に乗らなくなってから、ますます、体力が衰えてしまって、たとえ、目眩が治っても、「もう、自転車は、無理だ」と言い出すかも知れません。

  なまじ、私が車を持っていて、通院や、食料品の買い出しくらいなら、乗せて行けば済んでしまうから、良くないのかも。 これが、一人暮らしで、否が応でも、自力で出かけなければならないとなったら、当人の意欲が、全然、違って来ると思うのですよ。 生活扶助者と一緒に暮らしているというのは、良し悪しなんですな。

  一昨年、他界した父も、もしも私が、岩手異動から戻って来ずに、家で唯一の男手の立場にあったら、衰えるのが、もっと遅れたかもしれません。 人間、末期が近づくと、体よりも頭よりも、まず、生きる意欲から衰えて行くのですが、意欲が衰える原因は、「やらなければならない事」がなくなってしまうのが、最大のものだと思います。 その点、やらなければならない事を代わりにやってしまう、扶助者の存在は、有害と言えます。

  ちなみに、「やりたい事」というのは、それより、遥かに先行して、消滅します。 引退後、4年しか経っていない私ですら、もう、やりたい事なんて、ないですからねえ。 「引退したら、趣味や旅行で、悠々自適の生活を送るぞ」と、楽しみにしている人は多かろうと思いますが、あまり、大きな期待はしない方がいいと思います。 お金を制限なく使えるのなら、話は別ですが、老後破産の恐怖を考えると、普通は、「ただ、生きているだけで、充分」と、そちらを選びますねえ。


  で、母は、もう、自転車に乗らない可能性が、極めて高くなったわけです。 父自は、主を失い、プレハブ離屋の隅で、片隅自転車化していますが、このままでは、母自も、同じ運命を辿るでしょう。 電動アシスト車は、長い間乗らないと、バッテリーが死んでしまうから、尚更、厄介です。 えっ? 私がたまに乗って、バッテリーを維持するの? 冗談じゃないですよ。 自分の自転車だけでも、旧母自、折自と、2台もあるのに、この上、電アシの面倒まで見きれるもんじゃありません。


  他にも問題が・・・。 自転車保険を更新したのですが、最初、私と父と母、三人で割り勘していた保険料が、父が死んで、私と母の二人になり、今度、母が自転車に乗らなくなって、とうとう、私一人で、払う事になりました。 4730円。 車の任意保険の方で、人身傷害を外してあるから、その代わりに、自転車保険に入っていると考えれば、別に、無駄金を払っているわけではないのですが、実際に、2000円以上、余分に払う事に代わりはなく、貯金を取り崩して生きている身としては、結構、痛いです。


  つくづく思うに、うちの家族は、消滅への坂を転げ落ちているんでしょうなあ。 何事も、無限に続くわけではないんだわ。 結局、みんな、死んでしまうんだわ。 理屈では、以前から分かっていた事だけれど、実際に、自分や家族の健康レベルが、一段一段、下がっていくと、何とも、寂しい感じがします。


  発作性の目眩というのは、確かに、自転車に乗っている途中で起こったら、危険極まりないですが、車の運転だったら、どうなんですかね? 運動量が、ずっと少ないから、目眩発作が起こる率も低いんでしょうか。 前々から、「車の運転ができなくなったら、自転車に乗るのも、無理」、もしくは、「自転車に乗れなくなったら、車の運転も、無理」と思って来ましたが、病気によっては、差が出る可能性も考えられますねえ。